IDEAL STANDARD LIFE-

家族の風景とイリュージョン

飯田高誉(本展企画監修者)

  

「IDEAL STANDARD LIFE」展は、家という多様な室内空間(インテリア)を設定し、47人のアーティストの作品の展示によって、人間の営みにおける日常的な内面性(インテリア)をハイパーリアルな手法で浮かび上がらせることを趣旨としている。
社会体制の揺らぎによって個人の価値観や感覚のざわめきの強度が増大している今、社会のなかでのアートの存在も変化を強いられてきている。最もプライベートで空虚な内面性を表現として噴出させ、アーティスト自らのプライベートな情動を暴きだす。つまり、自身の存在さえも危機に瀕するほどに自らをさらけ出すリスクがなければ、もはや作品に説得力は宿らないという状況だ。ポスト冷戦の歴史観の変容は、『物語性』の完全なる崩壊をもたらした。現代においては、肥大化した『日常性』こそがテーマであり、これは90年代以降の現代美術において最も重要なキーワードとなっている。本展のキュレーションの動機は、現代において家族制度が著しく変容し、そのことが社会的環境に大きな影響を及ぼしている状況に端を発している。「家」のなかでの「存在の孤独と多重人格的な家族の顔貌」を既成概念を超えて描写する試みである。家族の結び付きほど不条理なものはない。生物学的な血縁という絆をほぐし、家族の役割をシャッフルさせたらどうなるのか。人間の内奥に存在している社会的タブーの概念と秘密は、家族という日常性に深く潜んでいる。ちなみに本展で選んだ47作家による作品には、個々にきわめてリアルな形で日常性や家の問題に関する空洞化した叫びが意味性を伴わずに意識化されいる。もはやアートセラピーや癒しという要素も、社会の中でのアートの存在感を考える上で切実な問題となってきている。

アーティストの選択において、ポップアート、コンセプチュアルアート、シミュレーションアート、アプロプリエーションといったジャンルに分けた選び方は敢えてしない。草間彌生の本邦初公開の50年代の作品からアートクラブ2000の最新作、映画監督のデビッド・リンチとジョン・ウォータースの作品まで含め、ジャンルも時代も横断的に滑走することで、現代の解体したコンテキストの鏡像を断片化したままリアルに見せることを目的としているからである。会場は、実際のツーバイフォー方式によるスタンダードな家の骨組みだけで構成されている。「家」の内と外とが相互に浸透し合う流動的なトポスに、書斎、子供部屋、仏間、寝室、クローゼット、浴室、キッチン、リビングルーム、庭園といった空間を想定した。それぞれの空間に47人のアーティストの作品がまるで見慣れた家具や日常品のようにインスタレートされている展覧会会場は、すなわち、日常的意識を裸形化させたメタフィジカルな家の光景そのものなのだ。我々の「家」の記憶による精神的外傷(トラウマ)は、もはや自らの隠蔽された無意識にダイビングすることの危険を冒さなければ癒されることはないだろう。このときアートは、ダイビングポートという重要な役割を果たすのである。


書斎:イデオロギーの終焉
この書斎にはつい最近まで有用であった書物(イデオロギー)が古色蒼然とし、屍のように大量に散乱している。モーリン・ギャラスの内面も外面ももたない「家」の不在を描写した作品。リチャード・アーシュワーガーの時を刻まない家具としての時計。スタン・ダグラスの全く意味のない日常的情景を写したモノクロ写真。畠山直哉の徹底したモダニズム的手法に基づいて撮った人工的な風景。 ジェニー・ホルツァーの電光掲示板からは危機的メッセージが明滅している。マット・マリカンの人気のないヴァーチャルな家の風景。このような作品に囲まれた書斎のマスターは、いつしかローリー・シモンズの写真の中の人形と化している。


子供部屋:精神的外傷と暴力的無意識
あどけない子供部屋の光景は心を和ませる。しかしカメラをクローズアップさせると、別の情景が浮かび上がってくる。子供の無邪気さの背後にある残酷さ。抑圧された子供の無意識、感情、親の支配的意識や社会の道徳的規範から離反しようとする意志。生の過剰さに充ちた子供と死の関係。ポール・マッカーシーとマイク・ケリーのビデオ作品「Heidi」は、「アルプスの少女ハイジ」のなかに隠蔽された子供の世界の不条理な性と暴力を暴きだしている。キャディ・ノーランドの作品に封印されたサディスティックな暴力性と死。ゾーイ・レオナルドの郊外における日常的と思わせる「首吊り」の写真作品。カレン・キリムニックのありふれたペットの肖像。いつまでも交わることのない不毛なゲーム感覚をプラグマティックに表象するマシュー・バーニーの「CRAEMASTER4」の写真作品。太郎千恵蔵の血塗られた絵画(死)の前にたたずむ子供服のロボット。乗ることも遊ぶこともできない、全ての機能を剥奪された車を石膏で象ったフィッシュリ&ヴァイスの作品。


仏間:バナルな死とイリュージョン
仏間とは仏像や位牌を安置する部屋だが、現代日本の都市生活者の家屋にはほとんど消え去り、死という観念さえも家から拭い去られようとしている。そこで敢えて宗教性を帯びない仏間を設定してみた。杉本博司の凍てついた温度のない写真作品は、現代における「死」の尊厳とメディアによって大量消費される「死」の観念を宙吊りにしていく。イリュージョンとしての「死」に満たされた部屋。


ベッドルーム:均質化したエロスとタナトスの反復
性的な欲望と夢の構造が露になる空間である。また「眠り」と「死」を単純に錯覚できる場でもある。ロバート・ヤーバーの寝室の人物は肉体が麻痺し肥大化しながら闇のなかに意識が溶け込んでいく絵画。コリア・ショアのモノクロ写真は自分の甥に女装させて倒錯的な性を描写している。吉原悠博の病院のベッド(死のメタファー)を用いたインスタレーションは、そのマットレスの上でミニチュア化された家族の日常を描写する。デビッド・リンチは落下しながら上昇する浮遊感のある「夢の記憶」としての作品。


クローゼット:倒錯した性と壊乱したジェンダー
シルヴィー・フルーリーのW.&L.T.のSM的なファッションショーのビデオと男根的オブジェの組み合わせによるインスタレーションは、肉体の過剰性と空虚性が同居するクローゼットのメタファー。ゾーイ・レオナルドのカツラと男装した人形とを撮った写真作品は倒錯したセクシュアリティの悦楽と無残さを併せ持つ。ジョン・ケスラーの子供服を用いた彫刻は、形骸化した肉体と魂の存在を問い、ローズマリー・トロッケルの毛糸によって編み出された絵画は、「ふたつの性の融合する場所としての衣服」を彷彿させる。


バスルーム:剥製化された身体と欲望
ヒッチコックの「サイコ」とブライアン・デパーマの「殺しのドレス」の冒頭のシャワーシーンに捧げられた部屋である。杉本博司のフェイクであってフェイクでない浴室殺人の写真(ワックス.ミュージアムシリーズ)。スー・ウィリアムズの日常化され、漂白された猥褻な絵。ウィリアム・ウエッグマンの人間より人間らしいバスローブを着た犬。ロバート・メイプルソープの血の滴った西瓜。浴室の中で身体感覚は希薄になり欲動だけが残存している。


キッチン:消費社会の飽和とサバービア・ライフ
草間彌生の食物とセックスの強迫観念から解きはなたれるための「自己消滅」というキッチンテーブルのインスタレーション。その作品の背後には平川典俊の朝食のように陳腐化した日常的セックスをモノクロ写真にしたもの。アメリカのサバービアの退屈で凡庸な生活に隠蔽された情動を描いたビル・オウェンスの写真作品。アートクラブ2000の逆説的なリアルライフをテーマにした写真作品。サバービアにおけるリアルライフとは?


リビングルーム:意味を剥奪された映像の氾濫とイメージの消費
リビングルームのテレビからは、スタン・ダグラスの根拠と意味を取り除いた「テレビジョンスポット」と「モノドラマ」のビデオ作品が流され、レイモンド・ペティボンの分裂的作品(描かれたコミックにシリアスなトラウマのことや政治的メッセージが吹き出しになっている)や、ジェフ・クーンズ、フランツ・ヴェスト、ルイーズ・ローラーのインテリアの一部と化した作品は、凡庸な日常からわずかにズレながら逆襲を試みている。


庭園:サバイバル・エコロジーは消費構造のリビドーと象徴機能に何をもたらすのか
普通の庭は自然の美しさをシュミレートする。消費されたゴミが捨てられた公園を部分的に再現したトム・バーのインスタレーションは、消費システムにおける記号の飽和を示唆している。森万里子の女性性(化粧品)を封じ込めたガラスの棺桶が庭に埋葬され、それと対でマジックミラーに作家自身のポートレートを写し込んだ墓碑のような作品。このインスタレーションは消費構造に必然的に刷り込まれている窃視症的(見たい欲望と見られたい欲望)性格を濃厚に投影している。

アートはいまだ、死滅していない。むしろ人間の無意識に光を照射するというアートの役割は21世紀に向けて加速度を増す。これが「IDEAL STANDARD LIFE」展において最も明らかにされた点である。


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