HIDDEN DESIRES & IMAGES

隠された欲望とイメージ

飯田高誉(本展企画監修者)

 

『興奮ゾーンの境界部分に、興奮を抑制し、興奮の拡散を段階的に抑止する領域が存在する。このように、神経構造の空間的な総体は、互いに結びつくと同時に対立した興奮ゾーンと抑制ゾーンの錯綜した集まりなのである。』(註1)

これは、パブロフの生理学における葛藤のメカニズムをミシェル・フーコーが著した論文の一説である。ロンドンという都市を中心にした現代の英国は、今や伝統的な規範に根差した「人間学」を内破し、都市や人間が潜在的にもっている不条理をぶちまけたもっとも実験的で未来的な空間を形成している。そして『興奮ゾーン』が『抑制ゾーン』と拮抗し、もはや凌駕しようとする勢いである。

このことは、人間を支えるものは神であり理性だという道徳律を粉々に解体した、砂漠のような不毛な現実が拡がっていく近未来を予感させる。すでに王室の人間ではなくなっていながらスキャンダラスな個人的存在となっていたダイアナの不意の死によって、期せずして噴出したイギリス国民の「熱狂」と「興奮」は、彼女の葬儀の様子を一部始終映し出したCNN やBBCを通じて世界中を巻き込んだ一大ページェントとなって展開されたことが記憶に新しい。『興奮』と『抑制』のバランスが崩れ、思考の中にオーガナイズされえぬ空間(狂気=不毛)が現前化され、超越性の無い状態をいかに生き抜くのかという新たな問題を、ダイアナの死は一見深遠な意味性を伴わないような装いで象徴的な記号イメージとして大衆に提示した。ダイアナの鏡像はいつしかそれを見ていた大衆の個々人の姿を写していたのだ。

現象学やマルクス主義の分析と切り離して、「狂気の歴史」を中心に据えた視点で「人間学」をとらえ、超越性の無い場所での人間存在を探究していたフーコーが、もし今に生きて現代の英国を分析したら、自身の研究の実証がことごとく裏付けられていくことに狂喜したに違いない。真夏の炎天下のアスファルトの下に充満した熱エネルギーが沸騰状態になってアスファルトが溶け出すように、今まで錯綜し隠蔽されつづけた欲望やイメージが次から次へと噴き出し姿を現し、階層的な予定調和とは無縁のまさに散乱状態を呈している。それは、人間の「主体」さえも崩壊する兆しを示唆しているのだ。

現代の日本と英国のあらゆる意味での状況の違いは歴然としている。日本はいまだに弛緩した政治経済やマンネリ化したマス・システムが蔓延し、硬直した倫理規定による言論統制、デフレーションの到来、差別問題のタブー視などの課題が山積し、とても先進国とは言えない状況にある。戦後、廃虚と化した日本は、意識を覚醒させないための予防注射を接種され、痴呆症状を帯びながら鉄とコンクリートとアスファルトで近代国家を構築することに邁進した。しかし、皮肉なことに経済のグローバル化によって、日本の戦後以降の近代という概念は揺るがされ、期を同じくして少年少女の反乱が多発し、集団的無意識から多少とも個人の意識のざわめきが聞こえはじめてきている。痴呆症状が長年続いたためアスファルトを溶かすほどにまでは至っていないにしても、人々は自らの欲望とイメージが潜在していることに目覚め、個々人の意識の覚醒がようやくはじまろうとしている。「隠された欲望とイメージ」展は、このような日本の状況を踏まえた上で、個人と社会、意識と無意識、主体と客体との関係性を個人的アプローチによって映像表現している英国のアーティストをフューチャーしていくものである。

本展出品作家は、ギャリー・ヒュームのようなゴールドスミス世代のアーティストから、次世代のトレーシー・エミン、ギャビン・ターク、サム・テイラー=ウッド、ステファニー・スミス&エドワード・ステュワート、そして第三世代として今注目を浴びている新人のダレン・アーモンドを含めた6名のアーティストと、英国のアート・シーン、デミアン・ハーストからダレン・アーモンドまでのポートレートやクラブ・シーンなどを網羅的に撮っているジョニー・シャンド・キッドのフォト・インスタレーションも併せて展覧する。出品作家の作品の特質を次の通り簡潔に紹介してみよう。

社会から隔絶された感情や機能を剥奪された純粋なメカニズムを描写するダレン・アーモンド、自らの人生を作品化するトレーシー・エミン、冷たい表情下のざわめきと「主体」の不在を描くギャリー・ヒューム、男女の性的転倒をパフォーマンスで行うスミス&ステュワート、社会におけるゆるぎない象徴機能の喪失感をホームビデオ映像を通して劇場的に演出するサム・テイラー=ウッド、アートの表現内容の虚実を衝くギャヴィン・タークなど思考の中にオーガナイズされえぬ場所で作品制作しているアーティストを選んで出品依頼した。

英国の現代美術シーンは、デミアン・ハーストの企画した「フリーズ」展(1988年)以降から10年間を経た今日に至るまで、様々な展開と発展を遂げてきた。Y.B.A.(註2)を中心にした美術状況は、ノーマン・ローゼンタールの企画した「センセーション」(註3)で終焉したかにみえる。本展覧会の「隠された欲望とイメージ」展は、デミアン・ハーストとY.B.A.が現代美術のコンテキストに止まらない社会的な状況に影響と衝撃をいかに与えたのかを遡及しながら、ポスト・デミアン・ハーストにおける作家の活動を取り上げ、映像表現によって観客に提示することを趣旨としている。

ここでいう映像表現とは、単にビデオアートというジャンルを指しているものではなく、また、ビデオというメディアを特化して制作されたものでもない。

「作家たちは、作品を展示する場所や環境、彼らの仕事に対してコンテキストを与えてくれる文化や、彼ら自身の個人史にかかわるものなど、パブリックな物語、プライベートな物語いずれをも引用する。観客はこうした諸関係の複雑な網の中に巻き込む以上、作家たちが、もう一つ別のかかわりのレベル、つまり、時間のレベルを付け加えることは必然のように思える」(註4)

現代において我々は、現実の生活よりもイメージや映像の世界の方に、よりリアルな感覚を見い出すことが多い。そのことはつまり、我々の中に潜む欲望や意識下のイメージはもはや支配的な一つの視点で捉えることは困難であるということを意味している。今までのアイデンティティの概念そのものが崩れて変容し、人間不在の視線が夥しく交錯するのだ。現代の映像の未来を予見していた画家の絵画がすでに17世紀に存在していた。ベラスケスの「侍女たち」である。見る主体としての「人間」は、この絵画には不在なのであると指摘したのは、ミシェル・フーコーであった。

「本来なら、王国の中心的権威をあらわす国王夫妻こそ中心のはずである。たが、画面には、その中心が不在である。中心は、鏡像という、あいまいなかたちで提示されているだけである」(註5)

「おそらくこのベラスケスの絵のなかには、古典主義時代における表象関係の表象のようなもの、そしてそうした表象のひらく空間の定義があると言えるだろう。じじつその表象は、そのあらゆる要素において、すなわち、そのイメージ、それが身をさらしている視線、それが目に見えるものとしている顔、それを生みだしている動作とともに、自己をこの絵のなかで表象しようと企てているのだ。たがそこでは、表象がその全体を結集するとともに展覧する、こうした分散状態のなかで、いたるところから厳然としてひとつの本質的な空白が指し示される。その空白こそ、表象を基礎づけるものの消滅−表象がそれに類似する者と、その眼には表象が類似物にすぎぬところの者との、必然的な消滅にほかならない。この主体そのもの−それはおなじひとつのものである−が省かれているのだ。そして自分を鎖でつないでいたあの関係からついに自由となって、表象は純粋な表象関係として示されることができるわけである。」(註6)

「隠された欲望とイメージ」展では、各々の映像作品が現代美術のコンテキストから離脱し、作り手の主体は消え去り、映像という表象そのものだけが人間の権力の及ばない領域へと広がり映し出されている状況が差し示されているのだ。

[NOTE]

(註1)「精神疾患とパーソナリティ」ミシェル・フーコー著,p.171,筑摩書房
(註2) "Young British Artist"の略。サーチコレクションのイギリス若手作家シリーズの展覧会名から由来している。
(註3)スミス&ステュワートを除いたすべての本展出品作家は、1997年9月18日から12月28日まで開催された「センセーション」展(ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ、ロンドン)に出品された。「センセーション」展の入場者は、4ヵ月間で30万人を超え、現代美術展としては異例であった。これは美術界に止まらない今の英国を象徴する社会的現象として各界から注目された。
(註4) 第6回富山現代美術展カタログ,イウォーナ・ブラズウィック女史のテキスト,p.30 富山県立近代美術館
(註5) 「フーコー 知と権力」桜井哲夫著,p.152,講談社
(註6) 「言葉と物」ミシェル・フーコー著,p.40-41,新潮社



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