|
百聞は一見に如かずって言葉は、半分ほんとで半分嘘だと思ってる。 百聞が一見に勝るのは、対象そのものを正確に伝える・理解させるって意味では確かにそうだ。対象の色・明るさ・形・動き・・・。正確に伝えたいなら、百どころか千や万の言葉を尽くすよりも、一目見せた方が良いに決まってる。
でも、正確に伝える・理解させるのばっかりが価値かあ、って私はこの言葉を聞くと感じるのだ。正確ってヤツは、ときにたくさんの想像を奪うから。 どうも、百聞は一見に如かずって言葉は、そんな百聞の素敵さを不当に無視してるような気がしてしまうのだ。 勿論、リアルな映像の表現で素敵なものはたくさんあるし、実際にできあがった表現のよさと、さっき言ったポテンシャルの問題とは別問題だ。それに、どんなに言葉を尽くしても、かなわない映像的なすばらしさってのは勿論ある。例えば、風景。風景そのものを見た人の視覚による感動は、言葉で尽くしたいと思っても尽くせないだろう。だけど、風景の描写って事で言えば、そこからの新たな表現って事で言えば、一見より素敵な百聞はいくらでもあると思う。 私は風景を言葉で描くのには、絵や写真で同じことをするのと全然違う楽しみを感じる。言葉で風景を描くのは、現実と想像の微妙にブレンドされた風景が自分の中に自然にできる。あえて風景に出会ったその時その場で直ぐ描写しないで、時間と場所を置いて心の中の絵を描くと、自然に想像のブレンドが入ってると思う。現実の風景でもない、意図的に作ったのでもない、現実と想像の微妙なブレンドの風景。こういうときに、どんなんだっけ、って思い出して描写したりするのは野暮。描写するうちに、自分の中の絵が変わってくるなら、それこそが味。ある部分はおぼろげになったり、ある部分はくっきりとクローズアップされたり、視覚的に見たものそのものとは微妙にずれていく内に、確かにどこかにあったけれどどこにもない風景ができるのだ。そんな風景には、私が描いた言葉を絵にしたらどんなかなとか、私の描いた言葉を読んでくれた誰かは、どんな絵が生まれるのかなとかいろいろ思い浮かべて楽しむおまけがある。だから私は風景を描く。紙も絵の具もなくたって。 ・・・ここにある私の言葉の中では、「のこりゆき」や「春の絵」なんかは、そんな余韻を味わいながら描いたaikoの風景画。こいつはこんな事思いながら描いてるんだな、なんて思いながら、一読いただけると幸いです(^-^)。
|