aiko's Another World Creation&Expression

ちからあることばたち
 最近掲示板で、大平弁護士のベストセラー「だからあなたも生き抜いて」の話題がでた。いじめをきっかけに自殺未遂を起こし非行に走り、極妻にまでなりながら中学の学力から勉強を初めて司法試験に一度で合格した女性弁護士の、あの本である。

 ここにあるエッセイのいくつかにはその経験の一部が書いてあるけれど、私も、子供の頃、幼稚園から中学に至るまでの、かなり長い期間いじめを受けていた。登校拒否になりかけたり、ストレスで過食になったりもした。内向的で対人恐怖症気味の子供だったと思う。それだから「だからあなたも生き抜いて」を読んだときも、極妻とか司法試験とかの話より何より、著者がいじめにあった後、やっと出来た友達に裏切られるくだり、いたずら電話の犯人であるという根も葉もない噂が立ち、友達はその噂を信じ、裏切られる話が最も身につまされた。

 この部分が、どんなにセンセーショナルに聞こえる、極妻とか司法試験合格とかの話よりずっとずっと心に迫ってくるのは、いじめられた方が、やっと普通に相手をしてくれる人に、普通に相手をしてくれると言うだけのことにどれだけ救われて依存するかが、すごくよくわかるから。自分が相手に依存し自分が相手を大切に思うように、友達の側も自分をそう思ってくれているだろうと期待する気持ちがすごく良く分かるから。でも、いじめられてこなかった方にとっては、別に相手にそんな強い依存をする必要はどこにもない。だから、いじめられっこと普通に生きてこられた子とが友達する時にはどうしてもお互いの感覚や気持ちにかなりのずれが生じてることがあるんじゃないかと思う。。

ものすごく残酷なことだけど。
裏切った友達にとっては些細なことだったんだろう。
噂を無邪気に信じて、表向き友達していた子に掌を返すことは。
それに仮に、もし噂を「ほんとかな?」と疑う気持ちがあったとしたって、
「たまたま遊ぶようになった遊び相手の一人」を「学校中の噂」よりも信じて、噂の側に立たずに同じように接するというのは、かなり難しい事だろうと思う。
噂を完全に信じない想像力のある子供だって、相手を責めないことは出来たとしても、濡れ衣を着せられた相手を避けないでいることは難しいと思う。敢えて突き放した言い方をすれば、リスクがすごく大きくてメリットの殆どないことだから。

人は誰でも自分のことだけでもいろんなものを抱えているから、人の痛みまでなかなか想像できない。まして痛みをお互いに抱えあえる相手の痛みを想像するのならともかく、こちらが痛みを預けたりしていないのに、大きな痛みを預けてくる、自分にとって特別な魅力があるわけでもない相手の痛みなど。、
裏切った友達って言うのはごく普通の子だったんだろう。
やっと居場所を見つけて裏切られた方にとっては、とても受け入れられないほど、些細で、無邪気で、普通のできごとなんだろうなと思う。

 私自身、長い間、いじめというものが、いじめる相手側にとっては、どういうことなのかという発想が持てなかった。発想を持つようになっても、いじめる子もそれぞれの個性もいいところもある普通の子供なのに、ほんの些細なきっかけから、大した葛藤もなく傷を与えられるものだという事実をどうしても受け入れられずにいた(考えてみれば、傷を想像できなければ葛藤の起こりようもないのだけれど)。自分は間違ってない、正しいのはこっちだと言うことにしがみついて、自分の中でまわりをものすごく酷い人達にして、自分を変えることから逃げていたと思う。間違ってはいないことは大切なことではあるけど、私がすがっていた様な絶対的なものではなかった。それは相手に害は与えてない、と言うだけのことだった。

 高校以降、魅力的な友人達に受け入れられた経験や、恋愛の経験を経たりして、ある時、私は、自分がただ間違ってはいないと言うことに過剰な期待を抱いていたことに気がついた。長いいじめで植え付けられたコンプレックスから、自分に相手に与えられるような何かを持っているか、って問題からずっとずっと無意識のうちに逃げていたことに気がついて、初めて自分を相対的に見る事を覚えて、私は自分を変えようとした。小中学時代に社会性身につけてないから随分ちぐはぐなとこもあったし、それは今でもたくさんあるけれど、生まれて初めて、より人に受け入れられるように、自分を変えようとした。。

 ここで絶対誤解されたくないのは、「いじめられる原因が私にもあったから」と思って自分を変えようと思ったのではないってことだ。「いじめられる方にも原因もあるんじゃないか」という言い方は私は大嫌いだ。たとえ善意で言われたとしても、まずは受け入れられないでそうそう変われっこないのに、やんわりと責められる(と、言われた方は思う)のは、もしかしていじめそのものよりいじめられっこを追いつめるのではないかとすら思う。たいていの場合、「きっかけ」(原因と言う言葉は使いたくない)は、それによって受ける傷からすればとんでもなく些細なことだったり、子供本人の力ではどうしようもできないことだからだ。まず、悪くもないのに傷を受けたことを認めて欲しいのに、一番支えにしている、「自分が悪かったんじゃない」「そんなことをされていい人間なんじゃない」ということをいきなり否定されたように思うからだ。

 例えば、私の場合、記憶を辿ると「きっかけ」はおそらく、小さい頃はあんまり丈夫でなく(今でこそ平均よりかなり身長高くて体格いいけど、小学校低学年の頃までは、ちっちゃい方で体格も貧相だった。)こと乗り物には弱かったため幼稚園の送迎バスで吐いてしまったことが何度かあったせいだと思う。一度周りのこども達の口から出た「汚い」とか「ばい菌」とか「触ると移る」といったお定まりの言葉は、あっと言う間に「きっかけ」から一人歩きして、言われた対象を「そういうもの」にしていく。そして、一度「そういうもの」になると、それを変えるのは本当に難しい。

 ただそういういじめられる環境に影響を受けたことで、ますますいじめられやすくなってしまった人格や、鬱屈したものを抱えてしまった人格が、やがてその人の責任になってしまうのもまた事実で、だからこそ、「いじめられる方にも原因もあるんじゃないか」という言葉は一般的に出てくるのだとも思う。本人以外の人にとっては、その人の人格はすなわちその人だから。

 でもやっぱり、出来ればある程度の年齢までに、「あなたが悪かったんじゃない」と受け入れられる経験がないと、なかなか人は変われないんじゃないかなあ、と思うのだ。周りから見てたとえどんなに些細なことに思えても。一見些細なことだからこそ、端からは些細なことに見えるのは本人も分かってて、余計にとらわれてしまっていたりするのだから。受け入れて貰った後、変われるかどうかはその時は本当に本人の責任だと思うけれど、受け入れられる経験がなく変わることは困難だと思う。受け入れられる経験なしには、自分を外から見られないと思うから。自分を外から見られないと、周りも見られないし、自分を変えることもできないと思うから。

 だからいつか自分も。逆に受け入れられる経験を与えられるような人になれたらなあと思う。その後で、「ちょっとだけ変わってみると、あなたにいいことがいっぱいあるんじゃないかな」、って言ってあげられるような人になれたらなあと思う。「あなたにも原因があるんじゃないの」と言うんじゃなくて。認めた上で、ちょっと変わることを薦めるような。やわらかくてちからある言葉を出せる人になりたいと思う。

言葉はどんな方向にでもちからを持ちうるものだから。
どうせなら、やわらかくちからある言葉を持ちたい。そう思う。


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