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まだ私が幼い頃のある日。本当に怖い、「狂気」のひとかけらを垣間見ました。 「教室」という小さな、でも確かに社会である場所で、私はそれを垣間見ました。 それは、「個」の輪郭を音もなく静かに溶かす、「集団」の「狂気」です。 「個」の集合によって構成されるもの。それが「集団」。そのはずですよね。
だけど、そんな「個」の輪郭をどろどろに溶かしちゃう、不思議な「狂気」が。
どうして、私はそんなもの見ちゃったんだって、そりゃあ怯えました。 「集団」の「狂気」の母は、なんだと思います?
それは、異質な「個」じゃないかって、私は思うんです。 一度、「集団」が静かな「狂気」に襲われてしまうと。
「集団」の中の「個」の輪郭なんて、すぐにどろどろに溶けちゃうんです。
アメーバだから疑問なんて、思想なんてないんですよね。
アメーバは確かに「個」が集まってできたはずなんだけど。 なにもかもみーんな、アメーバのやったことになるんですよねえ。
アメーバになるっていうのは、ある意味、麻薬のように心地よいんです。
だって、もしもまともに気がついていたなら。 まあ、アメーバの時間は永遠に続くものではないんですが。 アメーバから元に戻った「個」には、なーんにも、残らないこともあるんです。
自分がアメーバの、どの部分とも言えない一部だったことなんて覚えてない。 全ては。・・・全ては、そう、忘却の彼方なんでしょうね。
いや。忘却を認識できるほどの意識すら、ないのかもしれませんね。
アメーバの静かな「狂気」を「狂気」だって分かるのは。
何かが噛み合って生じた、静かなアメーバの時が過ぎ去った後でも。
「国」であり。「ムラ」であり。「教室」であり。あるいは、「家」であるような。 いつの時代のアメーバも、決して「狂気」を「狂気」として、知り得ないようです。
「個」の輪郭をどろどろに溶かした、アメーバになってしまった「集団」があって。 もう、「集団」に溶ける麻薬のような甘美を、味わえなくなっているんです。
だからといって。
たとえ、「狂気」のアメーバが今はもうとっくに息絶えていても。 そして、「狂気」を躯で知っている、本来的に異質な「個」は。
自分の他の異質な「個」に気づくことも多いんです。
でも、そんな自分の他の異質な「個」に手をさしのべるには。 私の場合、本当は手をさしのべたいと思っている自分の心すら、隠してました。
でも、手をさしのべられないことは、罪悪感を産むんです。 自分という「個」として進めなくて。かといって「集団」に溶け出せなくて。
一度でも異質な「個」であった者は、そんな風に、葛藤という閉塞の中で呻くものです。 けれど、最近。
異質な「個」の救いは。
異質な「個」である「私」が「私」を「私」として、受け入れるのが、救いなんだと。
そんな風に、異質な「個」として造られた「私」を受け入れてみたら。
生物の進化が、一見、errorとも思えるような突然変異から生じるみたいに。
アメーバからは、errorみたいに言われてしまうものの中に。
逆説的かもしれませんが、のっぺりと同じ顔をしたアメーバの甘美より。
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