睦月半ばの頃に聞いた、小西先生のメッセージに「思い悩むな」というものがありました。
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(マタイによる福音書 第6章25節)
こんな聖書の言葉(礼拝の時に実際に拝読された箇所はもうちょっと長いですが)をテーマになさって下さったメッセージを聞きながら、自分自身を見つめるうちに出てきたのが上の短歌です。
私は長いこと、女性としての自分の外見、外見の女性らしさ、というものに囚われていました。それは、貧相な体格で、醜いと言われいじめられていた子供時代、いじめのストレスから過食になり、一年半で(身長もかなり伸びたけど)二十数キロ肥ったけれど、第二次性徴が遅く女性らしい体型にならなかった中学時代、痩せながら本格的な第二次性徴を迎え外見が劇的に変化した高校時代と、思春期に人より激しい外見の変化をしたこと、そしてやはりその年齢における外見の変化の効果は、とても大きかったからでした。
子供時代は、女性として評価されるために外見に拘ると言うことを拒んでいました。ほんとはやっぱり、女性として評価されたいって子供の頃から思ってました。否定されていた分だけ強く思っていて、でも同時に、自分は女性として評価されっこない、そうも思って。外見に拘ることを頑なに拒んでいました。
それが、高校以降、まあそれなりには女性らしい外見になってからは、逆に、過剰に拘っちゃうようになりました。他の部分で認めて貰ってても、それを否定されたら自分が全人格否定されちゃうんじゃないかみたいな、自分でも良くわかんない強迫観念がものすごく強かった。友達もたくさんできたし、人並みに恋愛もするようになっても、不可解な強迫観念から自由になれないでいました。
聖書の言葉と先生のメッセージは、そんな自分に対する気づきを私に与えてくれました。
子供の私も高校以降の私も。
「体のことで何を着ようか」思い悩んでいたんだなって。
拘ることを拒むのも、拘りすぎてしまうのも、どっちも結局思い悩んでた。
でも、生まれて育って老いていく私達の、一人一人それぞれ違う「体」は「衣服」より大切で、「衣服」のことで「思い悩む」のは、ほんとに生産性のないことだな、って。
最後にもう少し、「思い悩むな」の聖書の言葉を引用しておきます。
「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイによる福音書 第6章28〜31節)