八甲田山死の彷徨

新田次郎・新潮文庫

2005年の夏休み。世界遺産白神山地を訪れる際に、十和田湖から奥入瀬渓谷を抜けて八甲田山も回ってきました。
後藤伍長の銅像も、資料展示館(?)も見て回ってきました。どういう訳か、その旅行のガイドブックや資料一式見当たらないのですが
読後に資料と見合わせたかったなぁ。もしくは、読後に当地を訪れていたならばなぁ。もう少し敬虔な態度で写真を撮ってきたものを。

資料が手元にないので、作中の仮名の方で少し感想を。
生還した31連隊の徳島大尉の用意周到ぶりや、行軍中は規律重視でありつつも防雪対策を柔軟に変える判断力など
組織のリーダーシップ論に通じる部分が大いにあるね。中隊長あたりの、現場指揮官が優秀な組織が一番でしょうな。
もちろん、その意見を良しとした大隊長の門間少佐、更には連隊長の児島大佐も有能だった訳で。

一方で31連隊に倣い、準備を整えようと奔走した5連隊の神田大尉。
彼個人は有能であったし、行軍中も結局は彼の頭脳が頼りだった訳だけど、結果は上司の横車に計画は水泡に帰してしまった。
当時のエリートコースからではなく、叩き上げの軍人として中隊長の座まで上り詰めた神田大尉、ひょっとすると
気負いからなのか、すべて自分でやらなくてはと抱えすぎたのかな。事前の調整に懐柔策含め、もう少し強引さがあったなら・・・

ま、当時の軍隊と当世の企業とでは、似て非なるものでしょうから単純比較と言う訳にはいかないけどさ。
徳島大尉もすべてが善行ばかりであったかと言えば、田代までの案内人については途中で放り出したりと、随分と身勝手な一面もあったよ。
兵卒の命(と、5連隊の悲劇と言う皇軍の汚点)を守り通すためならば、一般国民の命を犠牲にする事を厭わない。
兵卒の命と一般国民の命は等価ではないと言うことか。

八甲田山雪中行軍は思慮を欠いた無計画な暴挙であり、その行軍に散らした命は悲劇としか言い様がないのですが、
生還を果たした徳島大尉も次の大戦(日露戦争)で戦死し、兵士としては命数を数年違えただけ。
遺族にしてみれば、戦没者か演習中の事故死扱いかでは、大違いなのかもしれませんがね。
少なくとも八甲田山以外に於いても、無謀な作戦は当時数多く、終戦に至るまでその数は増える一方であった訳ですよね。

合掌

改めて非戦の誓いを立てねばならないと思います。
例え隣国が核開発を進め、ミサイル実験を強行する世でも。
例え特定の思想を持つ者たちが、テロを繰り返す世でも。
力は、結局より強い力によって駆逐される。その力が強くなればなるほど、周囲を巻き込む度合いも酷くなるから。


最後に。
この八甲田山雪中行軍の悲劇の幕引きについて。演習を示唆した第八師団長の立川中将は配下の5連隊の悲劇の責任を取るべく、
陸軍省に出頭した様だが立川中将をはじめ事件関係者は一切の処罰が無かったと言う。
何と無く、これが今回の2006年ドイツW杯後の日本サッカー協会の一連の動きに重なる部分がある様に思えて仕方が無い。

先の戦い(2002年日韓W杯)で規律を課したがベスト16止まりであった。次なる戦い(2006年ドイツW杯)に向けて欠けているのは何か。
それ即ちイマジネーション溢れた攻撃力である。
然るにジーコ監督の下、4年間に及ぶ『雪中行軍』により中盤はより自由を与えられ、より攻撃的なサッカーを模索したはずであった。
時に無策との批判はあったものの、大本営たるサッカー協会はその意見を退け戦いに突入した。
果たして、ピッチ上のリーダーたる、中隊長・ヒデは奮闘したが、いかんせん大隊長(せめて連隊長か?)ジーコの指示は
窮地にあっては意図不明確であり、行き当たりばったりな思いつき采配だった。
終いには体格の違い含めて「準備不足」との言葉を残して大隊長は去った。中隊長も志半ばで果てた。
事前準備の不足は明らかであったのに、その反省は一向に行われず、解決すべきは何なのかを明らかにすることも無く、
大本営・技術委員会は次なる戦いに備え、名の知れた大隊長のクビだけはどうにか強引に確保した。
智将にも『雪中行軍』を命じる事が無いと言えるだろうか。もっとも今度の智将は『雪中行軍』を命ぜられれば、その言に因り
犠牲を生じせしめてから、その結果を持って大本営への叛意とするのだろうか。

(06/07/17)


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