都会の歯車。単調な毎日の生活。私はここにいるよ。誰かに気付いて欲しい。この生に意味が欲しい。
否定でも構わない、リアクションが欲しい。そんな感じか。
全く違う視点の物語が最後に交差する、そんなシナリオを想像した事がある。
もちろん小説を書くつもりも、その覚悟も無いけど、コンセプトとして思いついた事がある。
本作の帯を読んだ時に、そう言う小説なのかなと思ったけど、そうでも無いね。
違う視点の物語がパラレルに進んではいるのだけど、2人の距離感が近すぎるんだな。
「パーク・ライフ」もそうだったけど、固有名詞に拘るのはリアリティを出そうと言う狙いなのかな。
「疲れがとれるってことは、疲れがとれるってことなんじゃない」なんてリフレインは、「そのときは彼によろしく」みたい。
隼人が小倉出身で犬飼も博多出身という近さも皮肉の一つなのかな。
建築現場って、昔バイトしてた頃を思い出す。詰所で休憩とか雰囲気分かるよ。
長テーブルの烏龍茶に手を伸ばした犬飼がそれを飲み干すと急に身悶え…と言うミステリではないんだった。
『グローバル経済と現代奴隷制』も実存するんだね。いずれにせよ物事には互いの立場からの視点があるよと言うことだ。
埼京線から見た玄関灯。決して交わる事のない人々の暮らしがそこにある。
気を引くための貞操帯、そしてイライラするため即ち日常から変化を求めるための貞操帯。
その貞操帯のカギをこっそり基礎工事現場のコンクリに潜ませる。
誰も知らない、自分だけの秘密。そして、その事実が自分が存在する証し。
側で暮らしていてさえ、変化を見落とす。違和感は感じても、変化点を通過してしまい事象として顕在化するまで気が付かない。
私もあんなにも狭い部屋の中で観葉植物の葉が萎れていくのが目に入らなかった訳が無いのに。
葉は萎れるし、恋は費える。
眼前で乱闘が繰り広げられていても、それはブラウン管の中の一コマと変わらない。
決して自分と交わるドラマでは無いのだ。
ましてや通りを挟んで眺めていたコンビニ店員にとっては背伸びをしながら15秒間のCMを見ていた様なものだろう。
むしろテレビのCMの方がよっぽど刺激的かもしれない。
犬飼に、私に、何が出来ると言うのだろう。それが言いたいのか。
だから誰かに気付いて欲しい一方で「シティ・エスケープ」プランが流行る。
放っておいてくれ。何もしたくない。誰か俺に気付いてくれ。でも、そっとしておいてくれ、声はかけないでくれ。
現代の、都会の、矛盾。
紀子の叛逆。トナカイの毛皮で私が想起したのが自由が丘の美容院。
あそこも打ちっぱなしのコンクリを白に染め上げ、立派な角を戴くトナカイの剥製が飾られている。
そこは私が週末に会話を交わす事ができる数限られた空間。
17階。
良治が17階を選んだのは殊更意味がある訳では無く、恐らく完成した下層階用エレベータの最上フロアだったからなのだろう。
そして恐らく娘の学資費用について相談しようと親方の家に行ったのだろう。
最後に気が引けて言い出せなかったのかもしれない。
親方は遺書の内容でそれを知り、「言ってくれれば…」と言うかもしれない。
でも実際に切り出されていたら断ったかもしれない。
ホントの事なんて誰にも、何にも、分からない。
最後の10ページを切って物語は佳境。
スパイラルタワーの構造上に致命的欠陥が浮かび上がる。
リフレインにより恐怖感を煽るレトリック。
17階がいつ弾けるのか、弾けないのか。それも分からない
分からないという絶望。
分かりたいという事こそが思い上がりであったとしたのが「神は沈黙せず」のテーマだった。
次に読む「残虐記」も分かり得ない物語だ。
現代は分からない時代、か。