「三月は深き紅の淵を」「図書室の海」と読んだ順番はなかなか良かったかもな。
回転木馬に散りばめられた理瀬の物語。「睡蓮」で垣間見えた幼き頃の理瀬。
ダイジェストで披露された物語の全容が明らかになる。ところが・・・
やっぱり、完璧に計算されていたわけでは無かったのでしょうね。「三月」も「果実」も雑誌への連載だったみたいだし。
少し手直しが入るのはやむを得ないか。「三月」ではヨハンが登場しないし、何より黎二が真逆だね。
まぁ、この後「黒と茶の幻想」を読む訳だけれど、「三月」と『三月』は連動してそうで、でもパラレルな存在って事か。
「図書室の海」の「春よ、こい」などで時系列パラレルなストーリーもあるから、「三月」の理瀬の物語と、「果実」の理瀬の物語が
パラレルで存在しても構わないけれど、緻密な計算の下で複数の小説をまたがって存在するストーリーが展開されたら感動だったね。
それでもやはり残念なのは2点。
1つ目は降霊。2つ目はヨハンの素性。
「三月」の怖さって、あくまでもリアリズムに裏打ちされた、真実たり得る怖さだったんだけど、
オカルトにしてしまうなら、それは怖さの質が違うんだよね。理瀬が無自覚に触媒として功を体現してしまうのはどうかと思うよ。
ヨハンはいただけなかった。『ユーロマフィアの御曹司』と言う設定。これが軽すぎる。妙にチープなんだ。安っぽいの。
良いじゃない、そこはぼかしとけば。聖はミステリアスなままなんだしさ。ここがかなりガッカリ。
一応、ミステリとして味わおうと、修二や麻里衣たちに死をもたらした者を想像しながら読んだんですがね。
麗子の死については、「三月」を読んでいたからかもしれないけれど、死体のチェックをさせなかった点は気にはなった。
麻里衣の『黒い紅茶』も割かし分かり易かったかな。麻里衣の死も「三月」と違うんだよね。
さ、「黒と茶の幻想」では坊主めくりのゲームの本当の意味が語られるのかな?