「と学会」会長として知られる山本弘。それでも私にとってはグループSNEの山本弘。
確かに彼のシナリオはファンタジーではなく、SFっぽかった。
(シナリオ「砂漠の守護者」の『冒険後の展開』はガメラvsモスラ的なノリだったよ)
そんな山本弘が作家として日本SF大賞の候補作を書いていた。
角川文庫の夏の百冊として陳列されてなければ、今も山本弘が作家になった事さえ知らなかっただろう。
正直言って背表紙の紹介文で「UFO、ポルターガイスト、超能力」などの文字が羅列しているのを見て
読もうか読むまいか悩んだ。結局、超常現象の紹介を交えた部分はサラサラと読み流しつつ読破。
近未来SFは難しいね。どうしても小説の中の“現在”と、現在との間のギャップがさ。
オリジナリティに溢れた想像力が無ければ面白くも無いのだけど、
奇抜すぎて読み手が想像できなくてはエンターテインメントとして成立しない。
本作では特に未来時点でのノンフィクション小説と言う形態で書かれていて、
それなりにオリジナルの未来部分の説明を語ってくれてはいるのだけど、
やっぱりちょっと読み取りづらい部分もある。
この世の中が、実は作られた世界であった、と言うテーマは鈴木光司の「ループ」に通ずる。
(「ループ」がどんな話しだったかは忘れてしまったけど)
ここで私がなるほどと思うのは、山本弘がグループSNEでゲームデザイナーをしていたと言う過去なのである。
かつてTRPGの指南書にこんな一文があった。
「ゲームマスターは何でも出来るが、好きな様にはできない。
プレイヤーは好きな様に出来るが、何でも出来るわけではない」
ゲームマスターとて、プレイヤーがあってゲームが成立する以上、無茶は出来ないと示唆している。
ところが、本作の神は全知全能であり、更に何でも好きな様にしちゃう。
何故ならゲームマスターとプレイヤーが対等な立場でゲームを成立させようとしているのとは異なり、
神は、人と対等な立場で世界を成立させようとなど思っていないから。
全知全能の創造主は存在するものの、創造物としての出来栄えに期待するのは「人間」如きでは無く、更に神に近い存在であり
人間が神への理解や対話を求める事が一方的な思慕でしか無い事に気付いた良輔は絶望のあまり失踪する。
加古沢はその一歩手前で、「人間」としてユニークな出来栄えになる事が創造主の期待に沿う事なのだと解釈し、
民衆を扇動する事で神へアピールする。
優歌は「ヨブ記」の解釈を通じて、神は創造主かもしれないが崇拝するには足らぬ存在であり“好きな様にする”事を選択する。
葉月なんかはもっとシンプルに神を忘れる事で目の前を生きていく事を選ぶ。
大和田氏は神の存在は肯定も否定もせず、事実だけを追う。妻の死に際しても、己の死に臨んでも。
その彼が幽霊となって優歌の目の前に現れるのは、どう言う意味だったのか分からないのだが。
分からないのは、優歌の目の前に現れたひよめちゃんやMIBも同じ。
神がいようと、いまいと、与えられた世界の中で、誰のためでもなく自分のために生きよう。
と言うのは短絡的なまとめかな、やっぱり。