20世紀の歴史

E.ホブズボーム・ちくま学芸文庫

1914年-1991年を「短い20世紀」として取り上げている。
なぜこの期間なのか。第一次世界大戦が初めての総力戦であり、1つ目の破滅の時代であること。
1945年の第二次世界大戦後から30年ばかりの黄金時代を経て、1975年から再び破滅の時代を迎えてしまった。
この2つの破滅の時代に挟まれた黄金時代、これこそが「短い20世紀」の特徴とされている。

<なぜ第一次世界大戦がゼロサムゲーム(総力戦)になってしまったか>
1)目的が限定されぬままに始まってしまった。
 根底が資本主義経済成長なので、国外フロンティアの奪い合いになった。
 その後、「無条件降伏」を求める誇大妄想ともいえる目的を作ったが、その結果戦勝国も破産する結果に。
2)和平合意の注目すべき点は
 ア:ヨーロッパの多くの政権が崩壊し、そこにボリシェビキ政権を樹立させない。共産主義伸長の阻止。
 イ:戦犯ドイツの管理。地政学的に特に隣国フランスの関心事。
 ウ:民族自決のスローガンによる版図の再分割。 ⇒ ただしこれは失政だった。90年代に崩壊する。特にパレスチナ。
 エ:戦勝国間の内政、摩擦。 ⇒ 戦勝国も破産して財政的余裕がない。
 オ:和平協定が今後の戦争防止策たり得なかった。 ⇒ アメリカの国際連盟不参加。

<第二次世界大戦は宗教戦争である>
0)1930年の大恐慌により資本主義経済が行き詰まり、共産主義への期待が高まった。
 ただしファシズムに対しては、資本主義と共産主義が同盟を組んだ。近代社会の信条や前提は共通していたから。
 ⇒ブロック経済の囲い込みから遅れた日独の経済圏(領土)侵出に対して、英米とソ連が手を結んだ。
  ソ連の軍事力のみがドイツに抗う事ができた。
  また地政学的に戦場を抱える事のなかったアメリカが、戦後に比較優位を得て世界覇者へと台頭した。
1)日独の起こしたイデオロギー対立は、非妥協的で不寛容な徹底した総力戦となった。これは宗教戦争である。
 第二次世界大戦を通して、起こらなかった事の視点で総括すると
 ア:国際連盟は日本への対抗措置を取れなかった。
 イ:国際連盟はイタリアに対しても、1935年に対抗措置を取れなかった。
 ウ:英仏はベルサイユ条約のドイツによる一方的な破棄を、とりわけ1936年のラインラント軍事再占領に対抗できなかった。
 エ:英仏はスペイン内戦への干渉を拒否した。 (⇒その結果・・・)
 オ:英仏は(ドイツの)オーストリア占領にも対応できなかった。
 カ:英仏はチェコスロバキアをめぐるドイツの脅しの前に引き下がった。ミュンヘン協定。
 キ:ソ連はヒトラーに反対し続ける事ができなかった。1939年のヒトラー=スターリン条約。
2)ヨーロッパの戦争の間は、枢軸国が戦争の主導権を掌握していた。しかし・・・
 ア:ドイツがソ連との2正面作戦を起こした。これはソ連を見くびっていた。
 イ:ドイツは更にアメリカにも宣戦布告した。これもアメリカを見くびっていた。
 ウ:日本は多少は様子見を決め込んだが、資源で圧倒されているアメリカを相手にせざるを得ない点で結果は明白だった。
   ⇒何より、実は日本は1931年から続く中国大陸での戦争を維持するだけでも財政が破綻していた。
    兵站も軍略も国家経営も、まったく何もなかった。
3)工業化を迎えた後の近代戦争とは、生産性が高く、労働力の一斉投入を可能とした。
 そのため、組織と運営がカギ。
 政権の課題も財政を通して経済の管理・計画が肝。
 実は第二次世界大戦を通して、もっとも計画経済を遂行できていたのはソ連であり、それに次ぐのはナチスドイツだった。
 でも戦勝国は英米と言った民主主義国だったのは大いなる歴史の皮肉。
 戦争は技術を進歩させた。平時ではあり得ないイノベーションを起こす事ができたから。(⇒大恐慌を脱したのも、戦時経済による圧倒的な軍事費投下)
 技術が進んだ事による近代戦争の非人格化(遠隔地攻撃、制度的な繰り返し作業)はもっとも残酷なことである。

<短い20世紀の後の世界は、何が変わったのか>
1)世界の中心がヨーロッパではなくなった。世界覇者アメリカの台頭。
2)交通、通信手段の発達がグローバリゼーションを不可避にした。
3)社会関係のパターンが変わり、過去との断絶が行われた。 ⇒ つまり過去の知見から未来が見通せない。

<ロシアの10月革命が世界にもたらした影響>
第一次世界大戦以前のブルジョワ政権は当初アナーキズムと対立した。
しかしロシア皇帝を退位に導いた2月革命に続いて興った10月革命が世界に与えた影響はただならぬものがあった。
ロシアの革命家も10月革命は単にロシア一国に自由と社会主義をもたらすものではなく、
全世界にプロレタリア革命をもたらすのだ、と考えていた。

ただし、そのロシアには小作人はいてもプロレタリアが存在しなかった。
社会主義へ変わる条件も状況もなかった。何とならば、ブルジョワ革命の準備すらなかったのだ。
実のところ、ロシアの革命家も10月革命を起爆剤として、西洋諸国でプロレタリア革命が起こる事をこそ願っていた。
だが、結果的に第一次世界大戦への反戦の機運こそ高まれど、プロレタリア革命には至らず。

ロシアでは皇帝を退位させ、一旦は自由主義的な「臨時政府」が建ったものの
レーニンはボリシェビキたちが土地を保有したい事を看破し、社会主義の綱領には反して経済的個人主義だが自営農場の方針を取った。
革命のボリシェビキ化こそがレーニンの功績である。

第一次世界大戦の敗戦国ドイツを裁くパリ講和会議では、10月革命によるロシアの共産主義も警戒されていた。
帝政時代の外貨不払いなどからボリシェビキ政権を容認する訳にいかなかった。
ロシア・ボリシェビキ政権は連合国の懲罰的講和条約に耐えた理由として
1)共産党の組織力。中央集権であった。
2)政治的対立要素がなかった。共産党にのみその意思があった。
3)小作人が土地を守るには旧体制ではなく、ボリシェビキ体制だと信じた。が、これは楽観的であった。

ボリシェビキ政権はロシアの中で生き延びたが、世界革命にはならなかった。 → しかし世界中に広がりはみせた。世界に革命家を生んだ。
第一次世界大戦の旧来政権は打倒し、反戦までは同調したが革命家は民族自決の小さな国民国家建設でボリシェビキにはならなかった。
≪考察≫⇒ボリシェビキとの違いは???
更にドイツなどでは社会主義者は政権を獲れず、共和制をとる事になった古い政治体制が復権。
共産主義陣営は1920年には国際労働運動を分裂させてしまう。
 ⇒これは第2インターナショナルの終焉と、第3インターナショナル(コミンテルン)設立を指しているか?
  スターリンの一国社会主義は1924年。

1930年ころソ連の中ではスターリンによって国益が優先され、世界革命よりもソ連の利益ありきとなった。
1940年ころはなりふり構わず反ファシズムで資本主義とも団結することになり、国際共産主義運動は解体。
共産党ではあるが、共産主義ではない。
ただし共産党という組織は堅牢であり、いわば宗教組織のような一枚岩であった。
反ファシスト、ナチスドイツ伸張へのレジスタンス活動として共産主義運動が残った。
しかしレジスタンス活動のみでナチスドイツには勝てず、ソ連の武力(赤軍)を背景にしたためソ連の影響下に各国の共産主義は集結した。

(小まとめ)何度か繰り返される確認として、ソ連共産党の組織力がナチスドイツに対抗できる唯一の武力であった。
スターリンが資本主義と結んでまで反ファシズムを覚悟したことが結果として西欧民主主義陣営の自由を守った事は歴史の皮肉と言えるのではないか。

<大恐慌がもたらした経済の破壊 そして世界は3つの勢力へ:1部3章>
産業革命以降は加速度的に技術が進歩し、グローバリズムの進展で世界規模の分業が進み経済は拡大傾向だった。
それが第一次世界大戦後に世界経済の統合は停滞あるいは後戻りしていた。
大恐慌によって経済的自由主義は破壊しつくされた。
1)一次産品への需要が一次産品の生産能力のペースに追いつけなかった。一次産品の価格は下落。
  モノカルチャー経済に拠って国際貿易を行っていた農業国が次々に倒れた。
2)生産手段を持たない賃金労働者は未曽有の規模の失業に見舞われた。工業国にも大打撃を与えた。
  再び雇用者が力を持ち、労働運動の力は弱まった。(⇒左派の後退は急進的右派の伸長を招いた)
  失業対策を含む社会保障の公的準備が足りなかった。
3)もはや世界経済は非常に厄介な状態にあり、各国は自国経済の保護に走った。
  国家政策で経済的配慮より社会的配慮を優先せざるを得なかった。左派、右派の急進化の危険があったから。
  多国間貿易システムはひずみを生み、遂にはイギリスが1931年に自由貿易を断念し、金本位制を捨てた。
4)健全な財政を取り戻そうと物価を下げる動きが加速し、通貨供給量の拡大がインフレを生み個人の貯蓄資産が吹っ飛んだ。
  中流階級以下のこの体験はファシズム台頭の素地となった。
5)資本主義経済と袂を分かったソ連の計画経済による大規模な工業化が、欧米の資本主義の失敗の深さと捉えられた。
 「計画」が政治の決まり文句となる。
⇒欧米の資本主義国家は、農業政策としての補助金(⇒国家経済をより脆弱にした)、
 工業対策としては完全雇用が経済政策の要となった。また近代的な福祉制度の普及が進んだ。

債務国の状態で第一次世界大戦に参戦したアメリカは、戦後は国際的に主要な債権国に転じていた。
アメリカ経済は世界を席巻するようになった。そのアメリカですら大恐慌の前には一時的に足踏みした。
パリ講和会議においてドイツだけに戦争責任を負わせ賠償金を課したが、ドイツの旧連合国に対する債務は、そのまま旧連合国のアメリカに対する債務であった。
旧連合国の中からもドイツが弱いままではヨーロッパ全体の復興になり得ぬと次第にドイツ宥和政策へと移行する。
賠償金の支払いが現物(輸出)という形をとるとドイツ経済が強くなってしまうので、アメリカからの借入金で支払う事にした。
この貸付金が大恐慌で価値が吹っ飛んでしまった。

とはいえ、アメリカとその他の地域が不均等に発展したため、国際経済の際立った不均衡が広がった。
アメリカは世界最大規模の輸出国、輸入国ではあったが、資本も労働力も自給できており輸入依存度は低く
イギリスと違って世界経済の安定を買って出ようとはしなかった。(⇒ただしこの時の経験が、第二次世界大戦後の世界経済の安定に一役買おうとさせる背景になる)

世界経済は拡大し続けるだけの必要な需要を生み出す事は出来なかった。過剰生産と投機が崩壊したのである。
自由市場社会が適切に運営されていれば過剰生産もすぐに自己修正されるはずだったが、大恐慌からは脱却できなかった。
経済的自由主義は成り立たなくなり、経済が専制状態へ向かった。
特にドイツと日本という軍事大国では、民族主義を掲げる好戦的な政権が樹立。

ソ連計画経済がもてはやされていたが、コミンテルンの自滅で社会革命家が期待していたものと真逆になり
労働運動が衰退してヨーロッパの社会主義勢力は窮地に立たされていた。
急進的な右派は革命的な左派が後退した大恐慌の時期に強力になった。
ヨーロッパ以外では状況は異なりアルゼンチン、ブラジルでは右傾化。
北米、チリ、ペルー、コロンビア、キューバは左傾化した。

⇒大恐慌により世界的な経済システムは崩壊し、世界は3つの対立軸へと収斂していく。
1)マルクス主義的共産主義 (コミンテルンの失政でヨーロッパでは衰退)
2)資本主義 (ブロック経済から、欧米の帝国主義的経済圏)
3)ファシズム (上記の2つに入れなかった後発組)

<ファシズムの台頭:1部4章>
政治的自由主義は大恐慌後の1930年代に後退。特にヒトラーがドイツ首相に就任する1933年以降、急速に進んだ。
自由主義の諸制度にとっての脅威は専ら政治的右翼だった。自由民主主義の危機はもっぱら右翼がもたらした。
当時の右派は「有機的な国家主権主義」「国家コーポラティズム」論に顕れ、カトリック諸国もどちらかというと靡いた。
カトリックは「神不在の共産主義」をもっとも憎み、自由主義が倒れた事もカトリックは好感していた。

ファシズムはナショナリズム・反共産主義・反自由主義。
右派の非ファシストとも通じるが、ファシストの右派と、非ファシストの右派との大きな違いはファシズムは大衆を下から動員する事で存在した。
ファシズムは世俗的なイデオロギーで教会と王の地位を奪おうとしていた。
ファシズムが権力を握る過程では、頼りない旧政権が残存しており大衆が合法的なプロセスを経てファシズムに権力が集まる。
ファシズムは左派(組織化された労働者階級)の革命を排除し、労働組合に対しても経営者よりだったので企業にとっても忌避するものではなかった。
非自由主義的な資本主義経済でナチスはもっとも効果的に大恐慌の始末をつけた。

また第一次世界大戦を経験した元軍人たちは、戦時下の悲惨さで人間性を失っており急進的右派の素地になっている。
下層・中間層が急進的右派に進むのは、主に民主主義と自由主義が優勢でない国。フランス革命的なものを経験していない国。
英仏米は革命の伝統が一般的に優勢で、ファシズムを支持する大衆運動は起こらなかった。
ただし極右で悪名高いヨーロッパの学生に強く訴えかけていた。
ファシズムを受け付けない国ですら、労働者階級に直面し力と強制というファシズム的なものに頼る傾向にあった。
大恐慌で労働者を雇用し続ける事ができなくなり民主主義、自由資本主義が維持できなくなった。
 ⇒大恐慌という経済のインパクトが、これまでの世の中を支えてた価値観や基盤を吹き飛ばしてしまった。
  失われた数十年という日本経済の没落も、過去からの価値観の断絶を生み格差が拡大し、それが諦念をもって常態化してしまっている。
  政権は主権者が諦めてしまうのを粘り腰で逃げ切るというスタイルに恥も覚えない。

一方の非ファシストの右派は教会に代表されるように伝統的な秩序に基づく。
旧秩序の権威失墜が、非ファシストの右派からファシズムへの移行を煽る。
ファシズムは@革命ではない、A独占資本主義ではない。

ファシズムは世界に影響を与えたが、世界でファシズム台頭の条件がそろっている地域はそれほど多くなかった。
ヨーロッパのファシズム政権は労働運動を壊したが、刺激を与えたラテンアメリカの指導者は労働運動をつくった。
地域のナショナリズムがファシズムに結び付くかどうかは、枢軸国と共産国のどちらにつく方が得るものが多いか。

民主主義を実現可能にする条件
@幅広い同意と正当性を得る事
A国民の多種多様な構成員をどの程度両立させられるか
B民主的な政府が統治をあまりする必要がない
C富と繁栄。成長。

< :1部5章>
第二次世界大戦は資本主義vs共産主義ではなく、親ファシズムvs反ファシズムの戦い。
第一次世界大戦の戦勝国の自由民主主義国家は一貫して脆弱で、ファシズムの独裁政府の論調と勢力伸長を許した。
「ミュンヘン協定」あたりがファシズム隆盛のピーク。
 ⇒結局、民主主義は好景気が前提になっている。大恐慌で日々の生活に窮するようになると
  短期的経済で結果を出せないと選挙に勝てなくなるので、大局観のない自国優位な判断をしてしまう。
  ミュンヘン協定の時は、戦費捻出などあり得ないという経済状況が、ドイツの暴走を静観してしまった。

資本主義陣営の雄であるアメリカと、共産主義下で世界革命を推し進めようというソ連の両国にとっても
第三極として勃興したドイツのファシズムはずっと危険な相手だった。
イデオロギーによって政策と野心を決定する国だから。
従来の国際関係やパワーポリティクスを超え、例外的に短期的に米ソ両国が手を組むことになる。

ドイツと抗しようとするためには枢軸国の進軍への抵抗に共通の利益がある全政治勢力の団結に加え、
そして実際の抵抗政策と、その実行準備ができる政府の樹立が必要だった。
共産主義陣営の基盤である労働者が結集した勢力「統一戦線」は、
民主主義者や自由主義者とのより広い選挙および政治的連帯の「人民戦線」の基盤となり、
イデオロギーや政治信条はさておき反ファシズムの一点で協力できる「国民戦線」へと拡大。
もっとも組織的に政治的中道を超え右派まで取り込む現象が見られるようになった。

しかし、ヨーロッパ各国家間の連帯はそこまで容易では無かった。
ヨーロッパの民主主義国は第一次世界大戦の経済的なダメージのトラウマが大きく、
枢軸国を深刻的な脅威と認識したとしても大恐慌化の疲弊した経済環境下で再軍備を実現させるのは現実的ではなかった。
ソ連を加えた同盟でなければドイツに抗し得ない事は明白だった。
ただしイギリス保守派などの本音としてはドイツとソ連の戦争で敵同士が弱め合い衰退していくことを願っていた。
それゆえに資本主義陣営と共産主義国家との実効的な交渉に遅滞が生じ、その間の宥和政策がどんどんドイツを伸長させてしまった。
政治家は武力戦争によるドイツ撃破が伴う法外な経済的代償を考えると自信喪失。

アメリカすら民主主義下で大衆受けしない政策は採択されず、遠く離れた戦地の反ファシズム政策は有権者受けしなかった。
本音としてはドイツが他のヨーロッパ諸国と共倒れする事を望むソ連も、
1国が取り残されることを忌避したたスターリンは、1939年8月にドイツとの不可侵条約へ転換してしまう。

1930年台に拡大戦略を続ける一方のドイツにも誤算が生じた。
ミュンヘン協定以降の拡大路線が、ついにヨーロッパ諸国の世論を反ファシズムへ導くことになった。
ヨーロッパ諸国の宣戦布告である。
しかしまだ数年間は自信を失った政治家たちが煮え切らない対応に終始する。

<スペイン内戦:1部5章V>
1936-39年のスペイン内戦は世界規模の親ファシズムvs反ファシズムのミニチュア版だった。

前史として、旧秩序のカトリック教権から自由主義・民主主義・社会革命が起こる。【反ファシズム】
そこから回顧主義の教権・カトリック・ファシズムが台頭し1931年に右派が保守派政権を樹立。【親ファシズム】
それを更にフランスの影響を受けた人民戦線・挙国一致の左派体制が転覆、1936年2月に共和国政府の過半数を奪取。【反ファシズム】
ドイツとイタリアの支援を受けてフランコが1936年7月クーデターで実権を掌握。神を信じない自由主義も、共産主義も否定(カトリックは反共)【親ファシズム】。

社会主義+共産主義+無政府主義の挙国一致・反ファシスト vs 共産主義に対する愛国心ファシズム との戦い。

反ファシストの立場をフランスは当初支援。ところが、共産主義の流れを汲んでいることにイギリスはボリシェビキの延長とみなしフランスにも非介入を促す。
ロシアは一貫して共和国を支援した。国際旅団として50か国4万人がスペイン共和国政府を支援したが、勝つための統一戦略も無い烏合の衆だった。
ロシアですら英仏との反目から孤立を恐れ、一時ヒトラーと宥和政策をとり共和国側は劣勢。

ただし世界全体の流れは、独ソ戦の勃発からドイツの対米戦線布告でソ連とアメリカが反ファシストで手を結ぶという超大国連携に。
イタリアはいち早くファシズムからレジスタンスに180度転換。
スターリンは <新しいタイプの民主主義> として人民民素主義を共産主義が呑み込むと予期。しかしナチス崩壊後はソ連とアメリカのパートナーシップも決裂。

ヨーロッパにおける左派は1945年-47年をピークに組織力向上。反ファシズムのレジスタンスとして礎を築いた。
ただしイギリスでも1945年にチャーチルが選挙に負けるほど潮目が変わってきた。

ヨーロッパ以外の左派は、ファシズムの代わりに帝国主義に抗いコミンテルンの支援を受けて植民地解放運動へと顕れた。
帝国主義(≒回顧主義のファシズム)に対する近代化革命の勃興。

⇒この辺り「太陽の門」でも復習しておきたい。

(20/10/05)加筆


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