世界は贈与でできている

近内悠太・ニューズピックス

夏休みの読書感想文の代わりに。
副題である、資本主義の「すきま」を埋める倫理学。これがズバリ内容を表している。

奧さんに毎日の料理を一任している負い目。
作っても作っても、男3人があっという間に食べ尽くしてしまい
仕事で疲れて帰ってきても、寝る間を惜しんで料理してくれる。
当たり前の様に享受してしまいがちだけど、紛れもなく贈与。
だからこそ、私も自分の出来る事は自分でやろうと思い、後工程である皿洗いと洗濯物干しを担う。
これを等価交換に貶めてしまうと、それはもう贈与の対流とはならない。
なるほど、専業主婦の家事を臨家と交替して有償化すると、
途端に資本主義に取り込まれGNPは増大するかもしれない。
でも、それは本来持っていた意味とは異質なものになる。
数字だけで語れない、まさに資本主義の「すきま」にあるもの。それが贈与。

プレゼントされた贈り物が、店頭に陳列されているそれらと違う。
定冠詞「the」に値する、その余剰は自分自身で買う事はできない。
買う、つまり資本主義下で交換できる代物ではないのだ。
贈与の気付きである負い目を金銭で交換してしまうと、そこで精算となって対流がとまってしまう。
交換すべき相手が分からないからこそ、一方的な贈与が成立する。
全てのモノに値段がつく資本主義・市場経済のすきまにアノマリーとして存在する。

贈与にはその前段がある。起点であってはならないし、止めてもいけない。
贈与には、シェアしたくなり自発的に対流を促すもの。
映画「ペイフォワード」を例に挙げて説明されている。見たことないけど、分かり易い例えだった。
また、届いてしまった年賀状を例えに、宣言された贈与が呪いへ転化する説明も分かり易い。
差出人に意図はないものの、受取人が負い目を感じてしまう。
押し付けられた贈与による一方的な負い目から返礼を強いる呪いへ転化すると、それは交換の図式に囚われる。
これは翻って、過去の合コンの不均衡な割り勘を想った。
過剰な傾斜配分は、確かに次回また会いましょうという無言の負い目を与えていたのではないか。
贈与ではなく、邪な呪いをかけていたに等しい。
ただし、この場合そもそも贈与とは差出人が知り得ない、という観点からすると年賀状も合コンの例えも差出人は知り得る。
ここの不整合が解けなかった。

贈与は合理的であってはならない。時間もかかるし、確実に届くかどうか分からない。
贈与は差出人と受取人との間で時制が一致しない。そのギャップに意味がある。
贈与とは差出人にとっては未来の世界であり、受取人から見ると過去完了。あの時の、あれが贈与だったのか!と
気付いた時点で遡って贈与として成立し直す。
ただし、贈与の受取人が気付いていないその時点でも、(受け取れるかどうか定かではないが)受取人の存在そのものが
差出人に対して生命力を与えている。
それは受取人が意図したものではないけれど、という点を鑑みても贈与とは受け取りあいである。
恐らくここが一番の主題であろうし、そこは共感を持った。

贈与の無い社会では、信頼関係が存在しない。つまり信頼は贈与の中からしか生じない。
ここまでの飛躍は分からないけれど、資本主義・市場経済の交換の枠組みの中には
ビジネスの色が濃すぎるというのは肌間隔で分かる。
ただしビジネスというルールの中で、信頼に値する関係を気付くと言う事が皆無なのかどうか
ゼロだと言い切れるものなのかどうか、分からない。

エシカルジャパンを体現するために、永田町にいる人たちにも読ませて感想文を提出させたいね。

(21/08/13)


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