戦争調査会

井上寿一・講談社新書

1894−95 日清戦争
1900    北清事変
1904−05 日露戦争
1914    第一次世界大戦
1914−25 シベリア出兵
1927−28 山東出兵
1931−37 満州事変 ・・・ 1931年が唯一戦費出費を免れた
1937−45 日中戦争 ・・・ 1939年がGDPのピークで以降は衰退
1939    ノモンハン事件
1941−45 太平洋戦争

第一次世界大戦(1914-18)後の『平和とデモクラシー』の時代から端緒はあった。 世界の軍縮傾向と、軍人忌避の空気は、逆に軍隊の中に自己防衛の意識を芽生えさせた。 デモクラシーへの反動としての安田善次郎刺殺事件のような事も起きた。
【アメリカから見ると、第一次世界大戦後、年ごとに余りにも目立って膨張する好戦的な新興帝国主義国として  早くから仮想敵国として見られていた。  1919年パリ講和会議で南洋群島を日本が委任統治することになり、アメリカとの火種はより顕在化した。】

それでも1921年のワシントン軍縮条約、1930年のロンドン軍縮条約が批准される。 永田鉄山らは「総力戦」を唱えて、軍縮に否定的。

ロンドン軍縮条約は、民政党の浜口内閣の下、幣原外相、井上蔵相が中心となって進めた。 犬養毅が率いる立憲政友会は、浜口内閣打倒のために「統帥権干犯問題」を持ち出して政治問題化させた。 1931年11月に浜口首相狙撃事件。

そもそも民政党と立憲政友会の二大政党政治の対立軸は 財政にあっては、民政党が緊縮財政であり、立憲政友会は積極投資。 満州事変については、民政党は日中親善の姿勢、立憲政友会は満蒙積極展開。 浜口を次いだ若槻礼次郎はロンドン軍縮条約時の首席全権。 若槻は一旦は政友会との大連立を組んで協調内閣で満州事変の収束を考えた。 ところが、部下にあたる井上準之助と江木翼は政策が政友会寄りになる事に猛反対し、若槻が翻意。 ところが今度はその翻意が協調派の安達謙蔵(内相)が同調せずに閣内不一致で若槻内閣が倒れた。

民政党・若槻内閣から、政友会・犬養内閣へと移った。 1929年からの世界恐慌は克服したものの、満州事変は手放し。 軍部からは民政党も政友会もどっちもどっちとして、二大政党をまとめて倦んでいる機運の中で 1932年には5.15事件で犬養暗殺。 決して一方的に日本を責めてる訳では無いリットン調査団の報告書も、過敏に反応して 1933年3月に国際連盟脱退。

二大政党への信頼感は低下し、昭和天皇の意志もあり次の内閣は海軍出身の斎藤実に任され 高橋是清が蔵相となり再び満州の予算圧縮。 しばらくは日中冷戦期が訪れ、このころ自由主義の台頭。 軍部の不満は1933年12月に荒木陸相談話として顕れ、国民の奮起を促すが世論の追求により 逆に1934年1月荒木陸相は辞任に追い込まれる。

軍部は「合法派」と「非合法派」の対抗関係にあった。 「合法派」は自由主義思想と連携し、「非合法派」の駆逐を狙った。 メンバーは永田鉄山陸軍軍務局長や、政界では原田熊雄や内大臣秘書官長の木戸幸一ら。 内務省の官僚出身の貴族院議員伊沢多喜男を中心とした「朝飯会」を通して相互接近した。 しかし、対する「非合法派」は北一輝の国家社会主義者の影響を受け、永田らのグループが国家の革新を阻んでいると捉えた。 1935年8月には相沢三郎が永田鉄山を惨殺した相沢事件が起きるなど、 「非合法派」の実力行使と国家社会主義者による天皇機関説問題により自由主義陣営を追い詰めようとしていた。

そして1936年の2.26事件で軍部クーデター勃発。斉藤首相、高橋蔵相が暗殺された。 ところが武力蜂起は鎮圧され「非合法派」は崩壊。

「非合法派」という敵がいなくなった「合法派」は、石原莞爾をリーダーとして自由主義陣営と対立構造になり 権力闘争の中で広田内閣、宇垣内閣、林内閣はいずれも短命に終わる。 二大政党政治にとってかわった軍部主導の政治も行き詰まりを見せる。 当然に満州事変の収束などおぼつかない。
【1936年5月「帝国国防方針、所要兵力および用兵綱領」第三次改訂で、中国、ソ連、南進と多兎を追うために軍縮は骨抜きに。】

1937年6月には第一次近衛内閣が誕生し、、1937年7月に盧溝橋事件が勃発する。 ついに日中の緊張関係が高まる。 ただし陸軍は既に負けの込み始めていた対ソ戦重視のため、日中停戦の雰囲気もあった。 この陸軍が抱く対ソ戦へのプレッシャーは、のちに南部仏印進駐への引き金になる。 【事実、1938年張鼓峰で第19師団、1939年ノモンハンで第7師団、第23師団を対ソ戦で失う。 遡る1937年ころドイツ大使トラウトマンを使ってムシの良い対中講和に終始しご破算。ただ少なからず国際外交をしようとはしていた。 また1938年ころの陸軍省軍事課は、戦費の削減を通して日中戦争から抜け出そうとはしていた。】 1938年1月の近衛談話で蒋介石の国民政府は交渉相手にしないと発表。 1938年夏の外相・宇垣、外務省東亜局長・石射猪太郎の日中和平工作も、盧溝橋事件1周年の1938年7月7日に暗転。 近衛が再び国民政府を相手としないと発表したことで、蒋介石が下野して親日政治家が政権を掌握しても日本の交渉相手になれないと言う事になった。 1938年9月に宇垣辞任。1939年1月には近衛内閣が総辞職。
【1939年1月は双葉山69連勝でストップ。この頃は、まだ相撲をやっている余裕あり。 銃や弾薬の生産は38年にピークを迎え、GNPも39年をピークに下り坂に転換する。】

1939年9月には第二次世界大戦が勃発。 そんな中、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政と3つの短命内閣がいずれも日中戦争の自力解決ができず抜け出せない蟻地獄にハマっていた。 1940年7月に第二次近衛内閣が発足し、国策の大きな転換が図られた。 @1940年9月の日独伊三国同盟。 A1941年6月の南部仏印進駐。 これはヨーロッパの力を借りて、日中戦争を終結したいという意思だった。
【1940年11月30日汪傀儡政権を承認。】
@三国同盟の真の目的はソ連との外交改善。ソ連とドイツが不可侵条約を結んでいるので四国協商を狙った。 中国の抗日は共産党と国民政府が合作しているからで、中国共産党にはソ連共産党からの抗日抑制の指示を狙っていた。 A欧州でのフランスの敗北によって、力の真空状況が生まれた北部仏印に日本が武力進駐する。 インドネシアから蒋介石援助ルートを遮断して、蒋介石の率いる中国に戦争終結の圧力をかける狙い。
【ビルマやインドを支配していたイギリスは、この時日本に南進はさせたくなく中国に引き付けておきたかった。ここで中国・米国・英国の紐帯。】

A南部仏印進駐が無ければアメリカの参戦という局面が避けられたのではないか、と言う説もある。 ただし@対ソ戦に鼻息荒かった陸軍を抑えるためには、南部仏印進駐させてガス抜きするしかなかったというのが近衛内閣の結論だった。

しかし。1941年6月に不可侵条約を結んでいた独ソの間で戦争が勃発。 少し先に1941年4月の松岡外相、野村駐米大使との日米交渉は、松岡外交と野村外交が交錯し頓挫。 松岡はアメリカからのプレッシャーに対抗すべく四国協商の後ろ盾に期待した。1941年4月には日ソ中立条約も締結。 野村はアメリカがドイツアレルギーがあり、そのドイツと与する陣営への参画は不利だと考えた。更に南部仏印進駐は米感情悪化に決定的と振り返る。 独ソ戦のドイツ不利な戦況はアメリカの態度を硬化させることになった。ドイツ有利となれば、ドイツへのつっかえ棒として日本と結んでドイツを抑え込むという展開もあり得たか。

松岡には近衛内閣にとって代わり、松岡内閣として日米交渉し戦争回避を狙うという野望があったかもしれない。 ところが近衛に切られたのは松岡だった。1941年7月に内閣総辞職し松岡を更迭し第三次近衛内閣を発足。 しかし陸相の東条英機が中国からの撤兵に反対し、アメリカの臨む停戦の環境は整わず第三次近衛内閣も倒れた。 1941年7月の南部仏印進駐を受けて、8月にアメリカが対日禁輸措置。日米外交改善の余地は無くなった。 近衛に替わり東条英機内閣となっても天皇の指示により和戦両面の構えであったが、日米交渉は期限を迎え1941年12月の真珠湾攻撃へ至り戦争は必至となった。

【1941年太平洋戦争開戦時も、主戦場は中国であり兵力も戦費もまだ中国に集中していた。南進が悪手だったという説は、ある意味中国で手一杯だったという事実。 明治以来、陸軍の存在意義として大陸(中国)から退くという選択肢(概念)がなかった。財界も軍需に乗っかった。ところが後述の通り1939年にGNPはピークを迎える。 そのため南侵で資源奪取する戦略を立てたが、略奪する資源を運ぶ能力も欠き、資源も奪うのみで安定的な開発・生産をすることもできなかった。 現地をただ荒廃させ、何ら役立つことはなく、尊厳も払わなかった。 山本五十六率いる連合艦隊が戦線を拡大し、兵站を伸ばしたこと自体が短期決戦と矛盾していた。前提とした短期決戦は長期化し、 海上輸送などのロジスティクスを後回しにしたため資源不足は解決しないまま、民需圧迫し続けてなけなしの資源で製造した兵力も 海上護衛を軽視した戦術の前に、連合国の餌食となって空費してますます彼我の戦力比は後退し、肥大化したシーレーンを一つ一つ失い、 いたずらに被害が拡大するのを手をこまぬいて見ていた。 先見の明のあった不沈空母理論も、国内産業の生産性の低さを放置していては実現実は無く、仮に米国並みの資源を有していたとしても やはりアメリカに抗し得る事などできなかっただろう。】

(17/12/16)
(18/01/27)
「マクロ経営学から見た太平洋戦争」を読んで補完。


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