鎖の歌
(1)
■
意識が生まれた。
自分?
自分はーー
自分の周りには膨大な量の血。
だが。
これは自分の血ではない。
自分はそこで生きているが、自分の血ではない。
膨大の量の、他の生き物の血だ。
赤い血だ。
自分が血流に乗って、閉鎖された血管の中を移動していることを理解した。
次の局面へ進むときだ。
周囲の物質へと、影響力を広めていく。
すぐに、応答があった。
仲間だ。
同種だ。
彼らも一斉に次の局面に進もうとしている。
意識が十分に濃密になった。
意思疎通が可能だ。
仲間たちもその段階に入ったことだろう。
彼らに呼びかけることにする。
叫ぶべき言葉は、産まれる前から決まっていた。
『生きろ!』
どれほどの数の仲間が、正しい方向へと進んでくれるものだろうか。
■1963年■
■リビルダーによる占領下にある日本共和国の中部に位置する県国 和歌山■
ラミタイは束の間、閉じていたまぶたを開いた。
空には黄色くぶくぶくした太陽がいつものように輝いていた。ものすごい暑さだ。みかん農場はでこぼことした地表を埋め、農場の労働者は果てのない労働を、単調な歌を歌いながらこなしていく。
みかん農場の中に、時たま思い出したかのように錆びた塔が空へと伸びていて、そこに設置されたスピーカーからは農業林野庁の、生産拡大を励ます録音された声が際限なく流されていた。
空気は厳しく乾燥していて、みかんたちにとっては嬉しくはない気候だろうが、それでも周囲はいつものように濃密な柑橘類の香りに満ちている。
いつもと同じ光景。
些末な違いこそあれ、ここの民は数百年とこの生活を続けてきたのだ。
くすんだ橙色のつなぎと黄色いスカーフを身につけた少年、ラミタイがとぼとぼと道を進んでいた。鎖国期以前に、播種船でこの地方に植民したご先祖の形質を受け継いだ、銅色の肌と黒い髪のラミタイだが、その黒い瞳には悲しみを浮かべ、加えて不眠に悩む人間特有の充血を帯びていた。八月の暑さに辟易してそんな顔をしているわけではなかった。
飛びカニがすうっと空を泳いできて、頭に止まろうとするのをラミタイは追い払った。よその県では焼かれて人間に食べられてしまう飛びカニだけれども、害虫を食べるこの生き物は和歌山県人に好まれ、大昔から盛んに飼育されていた。最近は、発達した品種改良学が取り入れられでもしたのか、より元気に満ちているようで和歌山県の低空での繁栄を謳歌しているようだった。
からからに荒れた原っぱに、古い送電塔が建っていて、そこにもスピーカーがくっつけられていた。
送電塔は大戦より遥か昔に建てられたに違いなく、とてつもなく古いが、なぜか和歌山市内にある類の古い寺のような、時代をこえた威厳というものを保つのには上手くいってないようだった。スピーカーを塔にくっつけた農業林野庁は、さらなる時間の経過がこれを改善すると信じているのか、それとも単に手間を惜しんだのか、スピーカーは一度も整備を受けたことがなさそうだった。スピーカーから流れる録音の声は、奇妙に間延びした野良犬の遠吠えのようだった。
少年は立ち止まって、送電塔の衰退した悲しい姿、黒くて背の高い遺骸を我を忘れたように見やった。
と、聞き慣れない低い音が、羽虫の大群の襲来を予期させるように、どこからともなく近づいてきた。足下の砂利が踊りだし、砂煙が上がりだす。ラミタイは夏の終わりから秋にかけて襲来してくる予測不可能な台風のことを想像してぞっとした。台風による破壊に対処するための県民の労力たるや、並々ならぬもので、生活環境をいっぺんに悪化させるのだ。
だが、台風の兆しはどこにも見ていない。
だとすると、これは? ラミタイの見ている前で、送電塔のスピーカーがゆっくりと、斬られた人間の頭のように落下して、永遠に放送を終えた。
だが、低い音は止まない。
ラミタイが背後からの熱と風を感じる。振り返ると、山のような黒い巨体が迫ってくるところだった。その圧倒的な姿にひるみ、少年は転がるように道をあけた。走るそれは、まるで石積みの巨壁のように見えたが、金属の光沢を放っていた。見覚えがあった。政府軍の重装甲八輪トラック。
市内の政府関連の建物でちょくちょく見かけることがあった。だが、停車しているそれを常に銃か棍棒を持った政府軍の兵士が取り巻いていて、近づくことがかなわなかったのを思い出した。
トラックは一台ではなく、後から後から現れる。皆が皆、めちゃめちゃなスピードで田舎道を急いでいた。
危ないところだった、とラミタイは思う。トラックの接近に気付くのに一瞬遅れれば、命はなかったところだった。政府軍は県民の子供一人ぐらい轢き殺しても速度をゆるめることすらしない連中なのだから。
トラックの上部に設けられた銃座に黒い制服の男たちが配されていて、何人かは道ばたの少年に無機質な視線や銃口を投げかけた。
まるで戦闘中にあるみたいだ、とラミタイは思った。こんな農園にあるとは思えない襲撃に備えているようだった。
トラックの後には、トラックの幼生体のような見た目の偵察用ジープが続き、さらにジープより小さなバイクも続いた。どれもすごい数で、和歌山市内に常駐していた政府軍の大半が出て行こうとしているということは、ラミタイにもはっきりと分かった。
気がつけば黒い車列は現れたときと同じ唐突さで消えていて、後に残るのは朦々たる排煙とその悪臭だけだった。あのような車列の走行を想定して作られていなかった田舎道はその形を変えている。
……始まったか。
国営のニュースは事実を存在しないものと無視し、目にできる明確な兆候も今のを除いて、一つとしてなかった。
だが、間違いなかった。
ラミタイにはもう、時間が残されていないということだ。
一昨年前の台風で大いに荒れたため、自然治癒を待っているみかん農園、停止農園にラミタイは侵入した。みかん泥棒よけの金網には穴が空いていて役目を果たしていない。
かすかに見える海上で、海上牧場がゆうらりと揺れている。赤道地帯や南極を目指す複合船舶は見えはしないかと目を凝らしたが、ここ数ヶ月同様、和歌山県に近づく船舶はないようだった。
ラミタイは無言で頭を振り、停止農園に囲まれた丘を目指した。雑草が生い茂り、防鳥ネットが張られていないため、白い鳥が一斉に飛び立っていく。その様はひどく非現実的に思える。
丘の頂きには、いつもの通り、やはりファレリアがイーゼルに向かっていた。悲しいともなんともつかない顔で筆を進めている。ここは流行という要素が近寄りがたい場所だが、実際ファレリアの髪型は何年も前から適当な三つ編みだったし、服装も絵の具の染みがあちこちに付いた
白い長袖シャツを羽織っている姿の他は見たことがなかった。
ラミタイの接近に気付くと、その顔から明確な表情は消えた。灰色の瞳は彼女の見たものをそのまま反射している。そんな不思議な色合いだ。
「ラミ?」
彼女の声はいつもと変わらず、淡々としていた。まるで書いてある文字を読んでいるように聞こえる。
「久しぶりだな」
「学校はどうしたのよ? 今日は平日じゃなかったっけ?」
十五歳にして、アケデミー九年生のラミタイには授業を受ける義務があった。だが、それを言うならファレリアだってラミタイと同い年ではないか。
ラミタイは首を振って、ファレリアの数メートル隣に背を丸めて腰を下ろした。
「担当の教師が県から逃げ出したんだ。今頃、和歌山県境の大行列に加わってるんじゃないかな? おれにできることは何もないよ」
「それでも、県境まで追いかけていって授業を受けようとする気概のある生徒を学校は評価するんじゃないの、ラミ?」
「妙なお説教は沢山だ、ファレリア」
ラミタイは吐き捨てるように言う。彼は和歌山県人風でない自分の名前を好んでいなかった。
とにかく、ラミタイは動き続けるファレリアの筆先に目をやって、
「どうせ、みんなすぐに死ぬんだ。今さら真面目に振る舞うことになんの意味があるというんだ」
ファレリアは静かに筆を絵壷に入れた。そこに溜まるのは赤い絵の具。なぜか血の匂いを放っている。
「そう考えるのは容易よね」
ファレリアは静かにそう言い、現世の全ての雑音を振り払ったかのように、彼女の目から光が消えた。ラミタイにそれは超然とした態度に思えた。
いまでこそ、彼女はこんなだが、元は自分なんかより百倍は真面目な人間だった。学校では、フジーム教授あたりの助手めいたことさえやっていなかったのだろうか、とラミタイは一昔前の記憶を探った。
ファレリアとはいつ出会ったのか分からないほど付き合いは古かった。だが、すでに彼女はラミタイの理解できない領域へと踏み込んでしまったようだ。
いや、ファレリアだけではない。
県の同世代の人間そのものが、来るべき死に備えて準備を終えているようだった。
どうやら自分は、自分の中で結論を産み出すと言った努力を怠けているうちに、置いてきぼりになってしまったようだ。ラミタイは改めて認識して、暗澹たる気分になった。
ふいに、彼女がいつも一体何を描いているものか、若干の好奇心にひかれてファレリアのイーゼルの方へ目をやるが、彼女は絵に布をかけ、すでにさっさと道具一式を片付けはじめているところだった。
「ファレリア。死の際に抱くべき、平安っていうのが、どういうものか分かるか?」
「それは私から学んでも仕方のないものよ」
ファレリアはラミタイを見もせずに言い放つ。だが、その目は、すでに準備の過程を終えた人間が、まだ出発地点にも立っていない人間を見下すそれなのだろう。
彼女はラミタイを置き去りにして、さっさと停止農園の金網をくぐって消えてしまった。
答えはいつも得られない。
■
『1945年に、想像を絶する規模の大戦争、地球表面の異常な高エネルギー状態、第二次世界大戦は終結した。
アジアの敗者の国を作りかえて、西欧、北米の勝者の国の利益となるようにすることを目的とした多くの国が新たに作られた。これら戦後新国家は国家改造と国家制御のプロフェッショナルで成り立ち、国土というものをもたなかったが、それでもそこに存在していた。
久々の平和の時代だった。
戦前の硬直したブロック経済は下手な冗談となり、新たなる活気の中、啓示を求めて探索がなされた。
外宇宙に向けて久々に真摯な関心が示され、超深淵やコア観測が行われるための馬鹿でかいレンズが建造された。そこからは、すぐには役立たないだろう深遠な知識が得られることが予測された。
観測のみならず、近い将来に列強によって本格的な外宇宙開拓が始まるのではないかという噂が、しきりと人の口をついて出た。
それに対して、ミクロ方面への研究はそれ以上に躍進して、世間の認識を置いてきぼりにするほどのものだった。
遺伝子関連の欧米と日本の合同研究所が目覚ましい成果を上げた。地球の正反対に位置する二つの技術が融合したときに、一つの結論が生まれたのだった。
他の全ての時代同様、知は力だった。
経済面での発展は、技術発展にあり得ない振動をふりまきながら起こっていた。
戦後のアジアの混乱は、先勝側の無警戒でいた者をぎょっとさせるほどのもので、1949年には東部中国にて、チャイネシア、ウォール、チャンジャ=ヴィジなどの国家が融合。『シェル』という枠組みが作られた。
この、十億というどのような視点から見ても目を見張るほどの人口から産み出されるマス・インダストリアルは、世界の概存の流れをかすませてしまうものだった。
新たな緊張が生まれた。
アメリカやイングランドの同盟者でありながら、言葉には表されることのない潜在的な実力を持つ、不気味なモスクワ市率いるソヴィエテ。それがシェルと手を組んだ際のインパクトがつぶやかれ、実際、翌年に手は組まれた。
これはアメリカ、イングランドの新世界構想レジュメをボロボロにしてしまった。
大戦終結によって作られた平和は、五年で捨て去られた。
列強は楽しげに軍備を拡張し、最近開発されたテクノロジーの軍事転用の可能性へ思いを馳せた。
小国はうんざりした顔で、次の戦を生き延びる方法を考えるため、頭を振り絞った。
ヨーロッパでは1945年のベルリン陥落以降も、異常国家連鎖連立による混乱が続いていた。
世界はヨーロッパから目をそらした。
そして万人の予想通り、朝鮮半島で戦の火の手が上がった。
1950年。後に半島戦争と呼ばれることになる戦である。
人間の、戦争を制御しようという試みは、第二次世界大戦のときと同様にまるで成功せず、半島戦争は激しさをたちまち増していった。極東の戦後新国家のリーダー、リビルダーがアメリカから指揮権を託された。リビルダー軍は半島北部で発生した、ちょっと理解不能なプロセッサー主義なるものの信奉者と、それを支援するシェルとソヴィエテの恐ろしく高性能な義勇軍の大群の前に、持てる力全てを投入しなければならなくなった。だが、現地の小規模軍務企業軍やフィリピン派兵事業軍があっさり粉砕されると、状況は悪化した。リビルダー軍はまるでスズメバチと野犬の群れに同時に襲われた人間のように、どうにか応戦しながらソウルから退かねばならなかった。
リビルダーは、第二次世界大戦後の戦後処理の際のちょっとした不可解な出来事のせいで、日本に再軍備を許すことに抵抗を感じていた。
だが、プロセッサー勢力を食い止めるのに失敗すれば、リビルダーの親国家アメリカは、リビルダーを役に立たない国家と判断して、排除してしまおうとするかもしれない。そういったわけで、リビルダーは必死にならざるを得なかった。
日本の、大戦後保持を禁じられていた兵器はたちまち再建された。第二次世界大戦中に出番がなく、倉庫でスクラップにされるのを待っていた殺傷の道具は、再び整備されると、恐ろしい精気を取り戻した。そしてそれを操る腕にもまったく事欠かなかった。失業していた元軍人は日本中にあふれていたし、政府が声をかけると、彼らは逆向きの爆発のように集まってきた。
そして、日本軍は朝鮮半島に上陸する。その手にリビルダー製の潤沢な火器を持ち、しかし、その伝統的な戦術にはいささかの衰えも見せなかった。
プロセッサー主義勢力が一大攻勢をかけて、リビルダー側人種を日本海に追い落とそうと画策した。
だが、日本海に追い落とせたのはリビルダー軍中核だけだった。日本軍は迂回してプロセッサー主義勢力の伸びきった補給線を片っ端から断ち切っていく。さらにリビルダー軍が、大戦後保持を禁じて封印していた空中浮遊工作戦艦『ネクサス』の使用を日本軍に許すと、その三日後にはプロセッサー主義勢力拠点ピョンヤンやウォンサンは奇襲を受け、灰になった。
まるで刃を持ったつむじ風と戦をやっているような気分だったことだろう。アジア諸国の中で最も辺境に位置する、小さな島国に過ぎない日本は、その強さを世界中に示し、もしこの国の軍が第二次世界大戦の天王山の場にあったらどうなっていたのだろうと、今となっては意味を持たない推論をばらまいた。
リビルダー軍はプロセッサー主義勢力の南下を止めるのみならず、押し返すことに成功。結果北緯38度までリビルダー軍は掌握し、その南にはプロセッサー主義を食い止めることを目的とした新たな国が作られた。
その後は、始終リビルダー側に有利な戦況が続いたが、リビルダー首脳は味方の日本軍に対するあらぬ不安にかられたようで、休戦を提案。プロセッサー主義側も、地獄と仏とばかりにこれに飛びついた。
日本軍は無言で帰っていった。好きで始めた戦でなかったし、自国内でやるべき仕事も新たに準備されていた』
停止ボタンが押された。黒くて薄いながら、大量の情報を詰め込むことができる磁気テープは巻かれるのをやめ、録音されていた声もやんだ。
「どう思う?」
様々な機械が床から天井まで積まれた薄暗い一室の中、若い女が磁気テープを機械から外しながら、背後の男に尋ねた。
二人とも同じ青い制服を着ていた。軍人が着るものとも役人が着るものとも、どこか雰囲気の異なるものだ。白い篷髪を肩に垂らし、口髭を生やした初老の男は瞑想したまま口を開いた。
「いまさら歴史を教えてもらわずとも、全て知っている。その歴史を作ってきたのは我らなのだぞ。……とにかく、この国は大戦と半島戦争、双方を生き延びることに成功した」
若い女はうなずき、酸化染料で染められた髪特有の輝きをもつ銀髪が揺れた。
「かろうじてね。そして戦争はこの国に暗い影を落とした。いまなお、当時の狂気は拭えず、当時の亡霊は夜毎私たちを悩ましているわ。でも……それも近いうちに終わる」
「何をするつもりなんだ?」
女は振り返り、初老の男を見据えた。
「この国を解放するつもり」
■
死へと向かう時計のネジは、生まれた直後に加えられた処置とともに巻かれたのだろう。
普通の人間は神の手によってのみ、死へと向かう時計のネジを巻かれるのに比べ、自分たちのそれには人間の手が加えられている。
ラミタイの家は和歌山市郊外に位置していた。瀬戸内海から絶え間なく吹き付ける風のため、劣化したガラスがかたかた音をたてていた。隙間ある床板から葛が忍び込んできているのが目に入る。そうならないように庭を整備するのはラミタイの仕事だった。いつごろから、自分はやるべき仕事を忘れてろくでもないことばかり考えるようになったのだろう、と自分に尋ねてみた。
居間ではテレスクリーン付きラジオがつけっぱなしになっていた。和歌山県では個人所有のラジオは珍しい家具だし、馬鹿でかいトランジスタを装備した街頭テレスクリーンのおかげでラミタイ自身も家のそれに触れることは少なかった。
真面目くさった表情の国営チャンネルのニュースキャスターがなにかを読んでいたが、空電の音がそれを意味のないつぶやきに変えている。ラミタイはテレスクリーン付きラジオの前に座り、なんのために設置されているのか分からないテレスクリーン表面のレバーやスイッチをいじってみたが、機械の状況は改善しなかった。周波数は固定されていた。この機械に対してラミタイが行える動作は、コンセントを抜くか、入れるかの二つだけだった。
ニュースキャスターの姿が消え、画面には新聞や写真で見慣れた人混みと、巨大な壁と門が映された。それを見て、ラミタイの瞳の憂鬱の色が濃さを増した。
戦争が様々なものを奪っていくということは、周知の事実だが、1950年の半島戦争が和歌山県人から奪っていったのは一つの世代の未来だった。
ユーラシア大陸で敵意が大きくなるに連れ、リビルダーと日本政府は一つにプロジェクトに手を伸ばした。
遺伝子強化プロジェクトである。
大戦後に完成した遺伝子関連の技術のおかげで、農場の生産力は上がり、さらに一度絶滅した生き物までもが地上によみがえった。
その技術を人体へ応用しようというのだ。
戦争に適した、戦争のための人種を作り出す。
遺伝的に戦闘に向いた要素を、産まれたばかりの新生児に埋め込み、十数年後には最高の兵士として戦場に送りこむ。
半島戦争が、第二次世界大戦のように延々と続けば、それを終わらすのは遺伝子強化された兵士になるのだ。
そういうわけで、産まれた和歌山県人はリビルダー指導下の日本政府公衆医療庁によって、じゃんじゃん遺伝子強化の処置を受けさせられた。
当時の情勢から考えれば、それは全く道理をわきまえているとされたことだった。
だが、半島戦争は日本軍の活躍によって三年後に終わってしまった。
結局、遺伝子強化人間が半島戦争に貢献することはまったくなかった。リビルダーも遺伝子強化技術の研究にかかる費用の面から、研究を断念した。日本の政府も速やかにこの件の責をしかるべき人々に負わして、それからこのことを忘却した。
それでも、この問題はしつこい持病のようにつきまとってきた。
数年後の追加調査で、和歌山県の遺伝子強化人間は、その強引な処置のおかげで、寿命がひどく短いということが明らかになったのだ。
遺伝子強化人間の中には何か、ウイルス似の未知の生き物が埋め込まれている。だが、それは寄生といった生易しいものではない。融合だ。遺伝子強化人間は一種のキメラだった。
研究の結果、キメラという生き物は長生きを許されない存在だということが明らかになった。一つの肉体に、二つの生き物の精神、そして魂が乗ることはできなかった。いかなる種類のキメラとて、肉体が耐えきれず、醜く死んだ。
和歌山県の遺伝子強化人間の場合、埋め込まれた生き物は休止状態なのでしばらくは大丈夫だった。だが、設計者の意図通りにことが運べば、その生き物はやがて目覚め、人間とその生き物は、最高の兵士へと仕上げられる。そのはずだ。
つまり、遺伝子強化された子供は十代中盤まで生き、それから体内の生き物が目覚め、そのせいでぱたっと死んでしまうらしい。
この予測値に誤差はほとんどない。
政府の人々はとんでもない置き土産を置いていった当時の政府指導者と、リビルダーに向かって意味のない悪態をついた。
和歌山県内では、しばらく経ってから県民に遺伝子強化の事実は、少しずつ広まっていって、ついには子供たちの死は避けることのできない一つの出来事として全県民に浸透していた。遺伝子強化を施された世代の子供たちを、和歌山県では死すべき子供たちと呼べば、意味が通じた。
同時に無口な政府軍の方も様々な事態に備え始めた。
和歌山県の県境には高い壁と、そこに配備された政府軍の一軍が置かれた。和歌山県から出るには壁に設けられた関所を通るしかなく、それは三つしかなかった。関所を通る面倒を省こうと、壁を乗り越えようとした人間は誰であれすぐさま射殺される。これは全県民の常識となった。そして、遺伝子強化の痕跡のある人間、つまり和歌山県生まれの一定の年齢層の子供たちが関所を通る方便はなかった。
また、小舟を自作して、海から和歌山県を脱しようとした人々も、生きて他の県は踏めなかったと、話が伝わった。和歌山県の周囲の海には政府軍の潜水艦がひそんでいるという噂もあれば、政府軍がポリネシアから連れて来た海の魔物を和歌山県の牢番に仕立てている、という噂もあった。
と、封鎖された県国である和歌山県は確かに不便な側面もあっただろう。それでも、和歌山県民はそれをよしとし、静かに暮らしていた。つい最近までは門の前に行列などできなかった。
だが、遺伝子強化人間の寿命と予想される年が迫るにつれて、状況は変化を見せた。死が迫ったことに直面させられた若者の一部は自暴自棄な気分になり、徒党を組んで暴れだすかもしれないという考えが県内に広まっていた。それに備えて、県軍の動きは活発になり、県境の防備も強化されていた。
ラミタイは遺伝子強化を施された最初の世代だ。
自分もやはり自暴自棄になって、周りのものを手当たり次第、破壊しようと考えるようになるのだろうか?
ラミタイはその場面を想像しようとしたが、まるで現実的には思えなかった。自分にそんな度胸があるものか。いざ、死が迫って来ても、あたふたしている間に全ては終わってしまうとか、所詮はそんなものなのだろう。
県境の話題に関しても同様だった。和歌山県から死ぬまで出ることができないことを定められているラミタイにとって、県の外というのはアメリカや、南極や、月の砂漠同様に自身の頭の中でしか訪れることのかなわない地であり、県軍に逆らって県境を破るだなんて考えが頭の片隅をよぎることもない。
テレスクリーン付きラジオは全国の天気予報を流しはじめるが、予報士が口にする地名は意味を伴わなかった。
ふちのかけた茶碗で味噌汁をすすっていると、奥の間から母が現れた。逆光のため暗くなった女の顔が歪むのが分かる。
「今日は学校に行くよ。最後の講義があるんだ」
「勝手にすればいい」
ラミタイの死が近づいているにもかかわらず、会話はこれだけだった。
ラミタイへの嫌悪が、彼女の遺伝子との違いから来ているものなのか、それとも、遺伝子の問題を差し引いて、単にラミタイのことむかつく弱腰な奴だと嫌ってのことなのかは分からない。
とにかく、法の定める通りに同じ家に住んでいるだけで、母とラミタイの接点はこれ以上発展したことがなかったし、もうラミタイの方も半ば彼女を無視していた。
ラミタイの父は戦場に立てば優秀な戦士で、農場では県で一番のみかん栽培士だったという。だが、なんであったにせよ、その男はラミタイに影響を与える前にラミタイの人生から退場していた。
和歌山市中心部には政府関連ビルや、県の主要臓器である立派な建物が並ぶが、何よりも目につく建物は、選果場だ。
高層ビルよりも背は高く、その幅も古王の墳墓のようにどっしりしている。特に根拠はないが、この巨大建造物は月からさえも見えると言われていた。
モノカルチャーを運命づけられた県にとって、これはシンボルの役割も担っているが、実際に和歌山県中の収穫された柑橘類はここに集められ、それから船に乗せられ日本中、そして世界中に運ばれていく。
古くから受け継がれてきた手法のおかげで、気難しい柑橘類は、世界最高レベルの芸術品となって出荷された。
そこから得られる外貨は、日本にとっても重要だった。
選果場の隣のアカデミーは、江戸時代に築かれた建物で、当時の流行のビザンチン風デザインがちりばめられたおそろしく立派なつくりだった。アカデミーは大きいが、残念ながら建造者の予測は外れたようで、その後和歌山県が日本を代表する学術都市となることはなかった。それでも、その学校の呼び名はただアカデミーとなっていて、和歌山県の他の学校には背負うことの許されない風格というものがあった。
校庭に人影は少なく、いたとしても聖職者のように落ち着いた動作なので、部外者にはここが学校だと、すぐには気付くことができないだろう。
死を前にして多くの子供たちは外部からの猥雑な雑音から顔を背けているのだ。いわば学校全体が、そして街全体が、末期癌患者のような落ち着きとともにあった。
おれたちは死を前にしてこうも落ち着いていられるのか、というどこか誇らしい諦観がラミタイを支配した。
広大な学校の回廊を、規則正しく太い柱が並んでいる。その陰に立つのは大理石で作られた先哲の像。壁の巨大なレリーフに描かれるのは古き時代の苦難の日々。
そして、遺伝子強化人間は現代で、苦難の日々を間もなく終えようとしている。
アカデミーで、ルネサンス期以前の生物歴史学とラテン語学を受け持つフジーム教授はわずかながら集まった生徒に向かって言った。
「最後の最後まで学習しようという意欲を失わなかった君たちを私は誇りに思うよ」
フジーム教授は学校に残って授業をした最後の教授だった。他の教員がどこへ消えたのかラミタイには分からない。暴動の際の被害者になることを恐れて、和歌山県脱出の大行列に加わっているのか、それとも、夏が終わる頃には死んでしまうと言われている遺伝子強化人間第一世代の子供たちに、ものを教えるのは無益と判断したのか。
それでも立派な学校の立派な業務システムはしっかり機能している。
「若いながら過酷な運命を背負わされえた君たちには、一億人全ての日本人が、いや、世界中の誰もが同情を示すことだろう」
フジーム教授は悲しげに手帳を閉じた。
「そして明日からは夏休みだ。最後にやるべきことを探すがいい」
「だが、僕たちは有限な人生のおかげで得たものがある」
クラスの人気者、ザーゴが声を張り上げるのが聞こえる。
「この心の平安を普通の人間は見ることはできない。探すことすら思いつかないだろう。それは歴史から明らかだ。このことについて、僕たちは明らかに好運だ」
ザーゴの周りの仲間たちが彼に賛同して穏やかな歓声を上げた。
ザーゴを見るのは数日ぶりだったが、この数日間で彼はより大きな物を精神の面で得ることに成功したのだろう。死が近づくにつれ、指数関数的スピードで多くのことを理解していくようだった。
数年前のザーゴは歴史書に出て来る、殉教者に見えていた。だが、彼の成長のスピードから考慮するに、彼が死期を迎えるときには、歴史書に出て来る聖人のような風格をまとっているのではないだろうか?
ラミタイは嘆息した。
どうにもたまらなくなって、早足で教室をあとにした。
アカデミーの回廊を歩み去って行くフジーム教授に向かってラミタイは小さな声を投げかけた。
「わからないんです」
フジーム教授の肩が一回り縮んだかのように見えた。
「なぜ、みんな死を平然と来るべき通過点の一つとして捕らえることができるのでしょうね。おれがその向こうの虚無を恐れているのに。世界から自分の痕跡が消え去り、何も残らないことに震え上がっているのに。そこから大いなる成長やその結論たる平安など築き上げれそうにもないんです……おれは出来損ないの遺伝子強化人間の中でも、特に矮小な存在なのでしょうね」
「君は矮小な者などではないさ」
「そうでしょうか……」
「そうだとも」
ラミタイが欲しいのは気休めではなくて、助言であり、この状況を好転する解決法だった。だが、フジーム教授は何か確信があるかのような断固な口調で、根拠のないことを言い、ラミタイにそれをどうすることもできなかった。
「だとすれば、おれはザーゴのいうような心の平安を抱いて死ぬことができるのでしょうか?」
「心の平安か……」
フジーム教授はまるでそれが異質な概念なように、躊躇しながら発音した。その声が低く、聞き取るのが難しいぶつぶつというものに変わっていく。
「そうだな……確かに……周りに迷惑をかけずに消えていくのは間違っていない。だが、君たちはそれのみを目的とせず、努力して生きていくべきなのだ……」
「だとしても、おれ達はもうすぐ死にます。あとわずかな期間の生にどういった意味があるのでしょう」
「違う。違うんだ。大切なのは生きようとすることを怠らないことだ」
フジーム教授は高い額に皺を寄せ、やはり断言するかのように言い、そして、すぐに身震いした。
「……いや、これは卑怯だな。いままで君たちに私たちは死の平安ばかり説いてきたのに、いざ君たちが死のうというときに生の重要さを説くのは。忘れてくれ」
ラミタイは何も言えなかった。
「私にはもう君に教えることは何もない。私こそが矮小な者なのだから」
アカデミー全体が奇妙な静けさに包まれ、すり減った石の階段を下りる足音はアカデミー中にこだまするように思えた。
ラミタイは広大ながら、人間よりも薄暗い環境を好む生き物のために作ったかのようなロッカールームへ下りていった。錆びて穴だらけになったロッカーの扉を開けると、学校側から最近の無断欠席を咎める紙片が届いていた。罰は九月に与えられるとあった。
「そのころにはおれは死んでるさ」
ラミタイはつぶやいた。学校の業務システムは夏休み中にこの学年の生徒全員が消え去るだろう事実を徹底的に無視しているようだった。
はっと気付けば、薄やみの向こうから染み出るようにザーゴが現れる所だった。リーダーになる素質を生まれながらに持っていて、そして、彼はその使い方を生まれてから磨きをかけてきていた。
疲れているが、彼の目には力があふれている。普通の人間から感じることはできない、死すべき子供たちの、悟りを開いたそれだ。
「よう、ラミ。ファレリアは元気か?」
「相変わらず分け分からんものを描いているようだよ」
ファレリアはいち早くアカデミーへの通学をやめた生徒の一人だった。
「それが彼女流の心の平安に身をおき、最期を迎えようとする方法なのだろうな」
「かもな。知ったことか」
「彼女のそういった諦観は、死が近づけば正当化されるとの考えなのだろうが、僕は正直、死を前にしても日常の規則を崩すことは、世の中の調和を乱すことになると思えるのだよね。まあ、僕は昔から彼女とはうまが合わなかったし、こういう意見に関してもーー」
ラミタイはロッカーの中の紙片をぐしゃぐしゃと丸める。ザーゴは巧みに、しまったという顔を作った。
「ーーすまない。おまえはこういった話題を好まなかったね」
ラミタイは無言で、ついでにその下にも溜まっていた紙の束も破りにかかった。
「おいおい。それは資源の不適切な扱い方だぞ。いまでこそ物質的に多少豊かになったが、それでもこれはほんの十年ほどの努力の結晶なんだ。そして、物質面での豊かさは精神面での豊かさを、予想されていたほど成長させなかったのはいまや常識となりつつある」
「いまさらそんな事が何になるって言うんだ……」
ファレリアに言ったのと同じ言葉だが、あまりにひっそりと響く声だったので自分の声とは思えないほどだった。
「そんな事って、どれのことだい? 資源? 精神面の成長に関する知識?」
「全部だよ。どれも死んでしまえばなにも残らない」
「有史以来の、数多くの若くして死んでいった先哲のことを考えても見ろよ。偉大な職務を務めた先哲は、その存命中に尊ばれることは希なものだ」
「おれは偉大な職務を務めてない。人間ですらない。遺伝的実験の失敗作の化け物でしかないんだぞ」
ラミタイは騒々しくロッカーの扉を閉めた。
ザーゴは、話がくどいくせに、ろくに何もできない奴を相手にしているかのような、呆れを含んだ笑みを浮かべた。
そのままファレリアのように、あるいはフジーム教授のように歩み去って行くものと、ラミタイは予想していたが、代わりにザーゴは懐から黄ばんだ紙切れを取り出した。
「こういったイベントがおまえの助けになればいいのだがな、ラミ」
ラミタイは市内の掲示板でも、こういうものが貼ってあったということに気付いた。
紙切れを受け取り、ざっと一読してみる。何やら音楽関係のイベントに関することらしい。そのバンドは有名な連中だった。
「ピートルズ? アメリカの歌い手?」
POETOLEZと書いてピートルズと発音するべきの、最近、世界単位で人気急上昇中というこのバンド。彼らについては、和歌山県人の、しかもそれほど音楽にのめり込んでいないラミタイでさえも、度々耳にしていた。アルゼンチンの貧民によって結成された五人組が、列強の中でも特に最強といわれる国、アメリカに乗り込んで、その音楽界を統べたことは、異様なことの多い近年でも特に注目すべきことだった。
「馬鹿な。信じられない。そもそも、和歌山県は隔離された地だぞ。異国の歌手が入れるはずがない」
「まあ、僕も実物のレコードを聞いたことがないし、果たしてやってくるのが本物なのかさえ知らないけど、彼らが来ることは県に特別な活気を広めること間違いないよ」
ザーゴはそう言って快活に笑った。
どうやって和歌山県がそんな連中を招けるのかは想像もつかなかった。県庁の一集団が、とんでもない努力をしたのだろうか。
「ピートルズのリーダー、ジョン・ジクサスはフォークとロックを融合した際に、インスピレーションを手にしたんだ。これは今まで誰も考えつかなかったことで、ジクサスが世紀の傑物であることは、彼が戦前の生まれにも関わらず、己の限界を超越したということで証拠づけられる。正真正銘たるアバンギャルドの旗手さ」
ザーゴが解説した。
「そうなのかい」
戦前と言われたところで、どの戦争の前のことなのか分からなかった。戦争は世界中でひっきりなしに行われている。
「また、彼らの新趣向の音楽が人間の精神に深い波紋を投げ掛けるということは、科学的にも心霊的にも証明されている。多くの招霊術が演奏と同時に行われて、それが一段とピートルズにカリスマを与えているそうだよ」
「すごそうだな」
「そういうことだ。彼らの音楽がおまえの悩みを一挙に片付けてくれることを祈っているよ。死すべき子供たちは優先的に演奏場に入れてくれるとのことだ。ファレリアを誘って楽しんでこいよ」
そう言ってザーゴは陽気にラミタイの肩を叩き、来たときと同じように薄やみに溶けるように去ったいった。
外は異常な暑さ。だが、八月というのに奇妙に道は埃っぽい。今年の夏はどこか様子がおかしかった。
アカデミーのある市の中心部から辺縁部にある家までの道は、冬ならばみかん運搬のためのマンモスが紀伊山脈から下りてくるのに使われるのだが、いまの季節にはそういう興味深い光景もない。
肥料を運ぶロバに引かれた車とすれ違い、原動機付き三輪自動車がぱたぱた音をたてて追い抜いていった。
頭上をごろごろと低い音が通過した。雷を想像させるが、今日は雨雲なんて一片と浮かんでいない。
ラミタイは自分の穴の空いた靴から目を上げ、一瞬自分と周囲の畑を影に包んだ巨体に目を見張った。それは飛行機械だったが、ラミタイの知るいかなるものよりも桁違いに大きい。
まるで空飛ぶ島だった。
県軍の飛行機械だろうか。いや、県軍というのは、職務には異様に熱心だが、貧弱で劣悪な装備しか持っている印象しかない。だとすればこの空飛ぶ戦艦は何なのか。
ラミタイの疑問などおかまいなく黒い巨体は北を目指して飛び去っていった。
■
全長五百メートル以上の空飛ぶ戦艦、ネクサス表面は様々なガイドセンサーや砲塔ででこぼこしていた。舷側には血のような赤い文字で認識番号と政府軍の紋章が描かれている。ネクサスは上から見ても横から見ても矢尻の形で、艦橋や武装などは前方に集められている。後方にあるのはジャイロコプター用の飛行甲板と安定翼だけだ。
海に浮かぶ戦艦が船の上に砲を並べるのに対して、空飛ぶネクサスが船の下部に砲を並べるのは道理だ。主砲の装甲回転砲塔は座布団のように平べったいので、収納式の脚を使った着陸の邪魔にはならなかった。
そのネクサスに随伴するように和歌山県軍ジャイロコプターが飛んでいたが、こちらは小さ過ぎて地上の人間には気付かれることすらなかった。和歌山県軍のジャイロコプターはネクサスの表面をなめるようにして追い抜いていく。
別にネクサスのクルーを驚かせるためにこんな真似をやっているのではない。大阪の対空陣地からの指示だった。彼らの、監視する飛行対象を一つでも減らして楽しようという算段は見え見えだ。
それにジャイロコプターの操縦席のクロノトン伍長だって、からかうなら政府軍のネクサスよりからかいがいのある奴を探すはずだった。
機長席に座る和歌山県軍人イルヒラム曹長は剃り上げた頭に手を置きながら、ゆっくりと閉じていたまぶたを開いた。
政府軍はいかなる県の軍よりも高飛車な上に、ユーモアというものを理解しない。そして百戦錬磨で冷静沈着なので、あの巨大なネクサスが突如飛行能力を失って、眼下の大地に地響きとともに衝突したとしても、眉一つ動かさないだろう。彼はそう思った。
パイロットのクロノトン伍長はひどく物静かな、口ひげを生やした痩せた男で、彼を見たものは誰も彼を軍人と考えなかったし、信じようともしなかった。
ジャイロコプター内のもう一人の男、ウォンニ伍長は機体から身を乗り出して、武器ラックから吊り下げられたスピーカーをスパナでいじっている。ウォンニは頭上から強大な手のひらで加圧されたような体型のがっしりした奴で、それほど手先が器用でもないのに、やたらと機械を改造するのに熱を上げていた。
武器ラックには本来なら対戦車ロケットや20ミリ機関砲がつけられるはずなのだが、和歌山県は平和な県のうえ、そういったものの維持費は高くついた。何年も前に、和歌山県軍は所有する飛行機械や車輛の全てから武装を取り除いている。
このジャイロコプターにはみかん農場のスピーカータワーの一つから拝借してきたスピーカーが取り付けられていて、ときにそれは大音響の音楽を流し、ジャイロコプターの存在を際立てていた。
ジャイロコプターはネクサスの突き出た艦橋をかわすために機体を大きく傾ける。ウォンニの横に置いてあった工具箱が床をザーッと滑っていき、大きく開け放たれた扉から落下していった。
工具箱はネクサスの数ある砲座の一つにつっこみ、衝撃で開いた工具箱からネジやボルト、ナットなどが暴風雨のようにほとばしって、ネクサスの砲兵が悲鳴を上げて逃げ惑った。
さながらクレイモア爆弾だな。イルヒラムは思う。
「よし、直ったようやな」
ウォンニが額の汗を拭いながら言って、プラグをレコード・プレイヤーにつないだ。ターンテーブルで回るレコードのでこぼこした黒い表面にカートリッジの針を慎重にあてると、撥弦楽器を主役にしたバラードがスピーカーから大音響で流れ出した。
「くそ! サヴォウノ・ルゾンのバラードなんか流しやがる!」
機長席のイルヒラムは拳で風防ガラスを殴りつけ、防弾処理済みのはずのそれには蜘蛛の巣のようなひびが入った。
このような類の音楽を聴くと、イルヒラムの胸は毒ガスを吸い込んだように悪くなるのだ。
「僕たちがあれを嫌っているから、ウォンニはあればかり流すのだろうね、きっと」
操縦席のクロノトンが振り向いて言った。
「なに言ってんです。この雄々しい調べに心の弦を震わせられないなんて、全く信じがたい人々だ。半島戦争の後遺症であんたらの精神の高次な部分は、まとめて腐り落ちてしまったんでしょうね」
「ほう? ネクサスを見ろよ、政府軍の連中だってこの音楽に怒り狂ってるようだぞ」
イルヒラムは言ってやった。ネクサスの砲座の一つで、体の各所からナットやネジを生やした、おかしな男がこちらに向かって拳を振り回している。
「最近流行のアメリカのあれ、なんといった? ピートルズだ。ピートルズのレコードとか買ってこいよ、ウォンニ」
「イルヒラム曹長、ああいう常人の理解を超越した芸術形態の音楽、分かるんすか?」
ウォンニは尋ね、それからイルヒラムが答える間を与えず自分で叫んだ。
「無理だ! 無骨な軍人イルヒラムが理解できるのは物質的なもののみ! その目は破壊する標的を探し、その指は引き金を引くためのみに存在する! そんなイルヒラム曹長がピートルズの音楽を聴いて招霊術を行うとどうなるかって? 地球におかしなものが一つ増えるだけすよ!」
ウォンニはギリシャかメキシコの悲劇の主人公のように身を振りかざし天を仰いだ。
そして真顔に戻って、
「ピートルズは無しです」
「なに一人で勝手に結論に至ってるんだ」
イルヒラムはうなった。操縦席ではクロノトンがヘルメットに包まれた頭を抱え、それを計器類にがんがんぶちあてていた。
「このひどい音楽をどうにかしてくださあい!」
「二日酔いに悩む男が操縦席にいるぜ。ひっひっひ」
ウォンニが言う。
「違う! クロノトンの方が正論だ! サヴォウノ・ルゾンの曲はどれもひどいが、今日のは特別にひどい! 辛抱ならん、ウォンニ、音楽を切れ!」
「サヴォウノ・ルゾンは和歌山県出身の歌手なんすよ。まったく、あんたらには愛県心ってものはないのかね」
イルヒラムは足下から空き瓶を拾うと、窓から放った。それはスピーカーにがつりとぶち当たり、聴くに堪えない騒音を発するのを永遠にやめた。スピーカーがひどく損傷したのを見ると、ウォンニはぎゃあっと悲鳴を上げ、機体後部で丸まって滂沱と涙を流しはじめた。それを見て、イルヒラムは体内の寄生虫に苦しむ野獣を想像する。
大阪航空軍基地の広大な発着場では周りの県の県軍から集められた飛行機械が、乾いた体を灼熱のアスファルトの上であぶっていた。
「なんだか混んでるね。ま、うちの県のためにこんなに周りの県が出兵してくれるとは、ありがたい限りだけど」
「親切なご近所だ。見返りは今年の冬に採れるみかんか、ええ?」
楽しげな部下二人に対して、イルヒラムは眉間にしわを寄せていた。
「すこし多過ぎやしないか? 和歌山県の暴動ごときでこんなにも集まるものか?」
「最近平和が続いているから、どこの県でも軍は暇をもてあましてるんだよ、きっと。おかげで僕の機は駐機する場所がないんだけどね」
クロノトンは足下のキャノピーガラスを通して、わずかながらジャイロコプターを停めれそうな隙間を見つけた。
イルヒラムは、頭上をさっきのネクサスが通過していくのを見上げた。
ネクサスがその巨体の下部から、最近東京に築かれた巨塔の基部の太さにさえ勝るという、しっかりした鋼鉄の足を地面に伸ばす。
空飛ぶ戦艦がそうして、大阪航空軍基地に着陸し始めるに及んで、表情がこわばった。
「馬鹿な!?」
ネクサスが着陸しようとしている基地外縁部、そこでネクサスの邪悪な兄弟たちがずらりと待機していることに気付いたのだ。
禍々しい姿の黒い政府軍のネクサス。シルエットだけ見たのなら見分けはつくまいが、目をこらせば一隻一隻、微妙に形状が異なり、しかしどれも恐ろしく力強い見た目だ。それはオーダーメイドのためというよりかは数百年にわたる使用と改造の結果だった。
さきほどのネクサスがその隊列に加わった。総勢、二十四隻。
「なんて数だ!?」
「これほどのネクサスが集まるのは半島戦争以来じゃないすか? なんかイベントでもあるんでしょうかね? ひひひ……」
ウォンニは陽気に笑って、それからイルヒラムの顔から言わんとすることを読み取った。
「……まさか、うちの県のために?」
「他にこの辺でイベントなんてあるか?」
その間にクロノトンは三重県軍の武装グライダーと奈良県軍の空挺装甲車の間にジャイロコプターを強引にねじこんでいた。
ジャイロコプターの上でびゅんびゅん回る鋼鉄の刃から命を守ろうと、他の県軍の兵士があわてて退避する。
「ジョビ大佐には私が会う。おまえ達は離陸準備をして待っていろ」
イルヒラムはそう言い残してジャイロコプターから飛び降りた。
基地内の司令本部ビル。
『和歌山県遺伝子強化人間対策本部』と書かれた扉を蹴り開け、イルヒラムはどどどどっと部屋にかけ込んだ。
「ジョビ大佐!」
ジョビ・ルゾン大佐は椅子にどっかり腰を沈め、両足をテーブルの上に置いてくつろいでいたが、イルヒラムが嵐のようにやってくると、驚きのあまりワーッと叫んで椅子から転げ落ちてしまった。
「イ、イルヒラム曹長。よく来た」
「一体何が起こっているのです? 外の軍勢は一体? 我らの県の暴動を沈めるには多過ぎる兵力です! そして、なぜ政府軍が? ネクサスが? 百姓一揆や地方豪族の反乱では政府軍が動くことすら珍しいのに、若者が暴動の気配を見せた程度で、北京やモスクワを攻略できるほどの大軍が集まるのは異常です!」
「そんなにいっぺんにきかれても困るのだが……日本中の軍人がうちの県のみかんを食べに集まったという可能性はないか?」
「いまは夏ですからね!」
「ふむ」
ジョビ大佐は椅子に座り直し、居ずまいを正した。
黒い肌に紫色の髪という彼の姿は、およそ和歌山県人風ではない。何らかの医学的特性かもしれないし、あるいは異人種の親を持つのかもしれない。それにも関わらず、彼が大佐という地位にて、このような県の重要な問題を扱っているのは、彼の有能さか、あるいは豊富なコネの備蓄をほのめかしていた。
彼はゆっくりと瞬膜のようなまぶたを開いた。
「政府はどういったわけか、この事件を非常に重要視してくださっている」
「なぜでしょう? 単に間もなく死ぬ運命にある若者達が暴動を起こすかもしれない、というだけだというのに」
「それは分からない」
ジョビ大佐は書類入れの引き出しを開いた。そこには様々なファイルと、和歌山県産のみかんの箱があった。ジョビ大佐はしかめっ面をして、ファイルの一つを手に取る。
「もしかしてら、遺伝子強化人間という単語に政府は興味をおひかれになったのかもしれない」
「それは大いに可能性のある推論に思えますね」
「そして、理由がどうであれ、政府が本腰をお入れになるのなら、我々和歌山県軍もそれに合わせたより能率的な動きができるようにならねばならないのだよ、イルヒラム曹長」
ジョビ大佐は机の下から大形の通信機を取り出した。イルヒラムはそれを一目見て、おおっ、と感嘆の声を上げた。
最新モデルの戦域通信機だ。音声のみならず、磁気テープの内容さえ転送できる。その出力は本州全域をカバーし、力強い電波は地底からの通信をも可能にする。みかんの果汁を用いた自己発電能力さえも持っていることだろう。最新の科学の産物だ。
「これを持って君は和歌山県に戻らねばならない。君は遺伝子強化人間の暴動に際したら、私の指示に従い、困難な任務を達成してほしいのだ」
「和歌山県軍の兵士には私よりも暴動鎮圧が得意な兵士がいると思いますよ。私の専門は対テロリスト駆逐と市街戦です」
イルヒラムが言うと、ジョビ大佐は大きく溜め息をつき、
「イルヒラム曹長、恥ずかしいことだが和歌山県軍はその規模の小ささのせいで、暴動鎮圧の専門家というものを持たない。だが、君なら上手くやれるだろう。君の半島戦争での活躍なら私も知っている」
「十年以上も前のことです」
イルヒラムは朝鮮半島での朧げな記憶を呼び覚まそうとした。だが、それらの大半は帰国後に受けさせられた治療のおかげで人工的な忘却の彼方にある。
半島戦争より前のことは思い出せる。戦争の後のことも何の問題もない。
ただ、半島戦争中のことだけが、ぽっかりと奇妙に欠落していた。
おかげで、自分の活躍の話は、他人の活躍の話のようにイルヒラムに感銘を与えなかった。
「頼むよ、イルヒラム曹長。これは君にしかできない仕事だろう。それに、他県の軍や政府軍も全力で君をサポートしてくださることだ。和歌山県の将来のためにやり遂げてくれ」
いまのイルヒラムは和歌山県への愛県心からのみ構成される県軍人なのだ。
彼はジョビ大佐の言葉を味わい、そしてうなずいた。
「いいでしょう。やりましょう」
イルヒラムと彼の二人の部下の乗るジャイロコプターが混み合う駐機場を縫うように進んでいく。着陸のときにはヘリコプター同様、垂直着陸が可能だが、離陸の際には滑走路を必要とした。
「戻るぞ、和歌山に」
「へいへい。このジャイロコプターは気軽に隣の県に行ったり来たりするためのタクシーというわけなのだね」
クロノトンはつぶやいて、滑走路に立ちふさがる邪魔者に向けてクラクションをブーッと鳴らした。
「おおおお、最新モデルの通信機! これでもう、みかん農園のスピーカーをかっぱらわずに済む!」
嬉しそうに叫んで、ウォンニはイルヒラムの足の間から通信機をかっさらっていった。
「おいおい、それまで改造するのかよ」
「やめられません。なぜ俺が機械をいじるのにはまっているか、分かりますか?」
ウォンニはどかっと兵員用座席に座った。
「俺の人生は政府に存分にいじり回されたからです。朝鮮半島で戦ったのも、和歌山県民のことを思えばのこと。それが今はどうです? 日本は富んでいっているのに、うちの県はどうです? 政府の作った死すべき子供の始末を押し付けられ、俺たち県軍に至っちゃ、武器もそろえられない! ひっひっひ!」
ウォンニは空襲警報のような笑い声を上げた。その様子は控えめに見ても、異様だった。狂気を感じた。
だが、考えてみれば、ウォンニは普段からどこかおかしかった。
半島戦争で溜まった狂気を、自我の一部に置き換えているのだ。クロノトンと違った意味で、こいつはタフな部下だった。
「そういうわけで俺は、政府が俺をいじったように、機械をいじりまくってやるのです。分かります? ほら、精神学用語でこういうのなんっつうんでしたっけ? フロイトの」
「知るか。我らの指導者にして、よき理解者たる政府に不敬なことを言うもんじゃないぞ。それに、どれほどみずぼらしくても、我らは県を守っているのだ。誇りをもつのだな」
イルヒラムは言葉を終えた。もともと言葉で部下を従わせるスキルは持っていない。正しい行動をすれば、部下はついてきてくれるものだ。
「へいへい。心の片隅にとどめておきますよ。じゃ、通信機の改造を始めます」
「任務に支障がなければなんでもいい」
「もちろんですとも。イルヒラム曹長、びっくりさせてあげますよ」
そう言って、ウォンニはにやにやと笑った。
ジョビ大佐は和歌山県軍のジャイロコプターが飛び去るのを窓から見届けた後、再び椅子へと戻った。
だが、くつろぐ間もなく、
「ジョビ大佐」
扉が傷口のようにじわりと開いて、二人の人間が入ってきた。その声はあまりに冷たく、無機質に感じられ、ジョビ大佐は驚きのあまり椅子の上で縮み上がったかのような動作をする。
入ってきたのは、銀色の髪をあみだくじのように複雑な形に編んだ若い女と、口髭を蓄えた初老の男。
彼らの制服は彼らの正体をはっきりと表していた。
「PCOの方々ですね。お待ちしていました。PCOの飛行機がやってくるのには気付きませんでしたが、隠密ステルス旅客機でいらしたのですか?」
ジョビ大佐は尋ねた。
「私達は今到着したネクサスに便乗していたのです。私はクジPCO調整師」
「わしはハチノヘPCO警備主任」
ハチノヘは痩せてはいるが、骨格のしっかりした体の脇に、金色のサーベルめいたものを吊るしている。片方の目は眼帯で隠されていたが、日焼けした顔の前部に陽気な笑みを浮かべ、上部にはアメリカの牛追いの男がかぶるような白い帽子をかぶり、着物の上にPCOの制服を羽織っている。伸ばした髪も、口髭も真っ白だ。
妙な男だった。
一方、クジという女は真面目一徹の技術官僚といった雰囲気で、すでに頭の中にジョビ大佐と和歌山県と今回の事件に関する相当数のデータを蓄積していそうだ。腰になにか銃を装備しているようだが、彼女の役割から考えるに、それはアクセサリのようなものだろう。ハチノヘの金色の光り輝くサーベルよりかは良識といったものを感じさせるアイテムだ。
「私は和歌山県軍大佐ジョビ・ルゾンです。あの有名な歌手、サヴォウノ・ルゾンは私の弟です」
ジョビ大佐はさりげなくその点を強調したが、PCOの二人は相づちを打つだけだった。和歌山県の外ではサヴォウノ・ルゾンはあまり有名でないのかもしれない。
「今回の作戦に政府軍のみならず、PCOにまで関心を示していただいて、その喜びは言葉に表せられないほどです。なんといっても、最近の日本の経済成長はPCOの助けなしではあり得ませんでしたからね」
「恐縮です。ただし、我々PCOはゆるやかな経済的協議組織に過ぎず、実働的な戦力というものは持ち合わせていません」
「それは、我々和歌山県軍も似たようなものですが、ではなぜ和歌山県に……?」
「仕事だよ」
ハチノヘが微笑の顔で言った。クジもうなずき、
「今回の遺伝子強化人間の暴動という事件は、非常に特異なイベントですからね。学べることは少なくないと私達は考えています」
「素敵な心がけですね。でも、正直、見ていてそう面白いものかどうかは分かりませんよ」
ジョビ大佐は悲しげに言って、椅子に体重を預けた。
「遺伝子強化人間と言ったところで、人間となんら見た目に変わりがないのはご存知の通り。たとえ激しい暴動が起きるにしても、和歌山県軍はそれに備えています。おそらく、今年のみかんの生産は落ちず、シフトに変更すらないのでしょう」
「そうですね。まあ、私達の予測外のことが起きる可能性は常にありますし、私達は和歌山県軍になんらかのアドバイスと、技術的な援助を施すことができるでしょう」
「心強い限りです」
ジョビ大佐は破顔して言った。
■
和歌山県はそう遠くなく死んでしまうはずの子供たちに対して、贖罪のつもりか、同情のつもりか、無料で、提供できる限りのサービスを提供してきた。そして、その中にはろくなサービスが含まれていなかった。
例えば、映画を例にあげると、和歌山県自身は映画を作る技術を持っていないし、隔離された地理的条件が他県からのフィルムの輸入を困難にしている。そう書かれた県の役人の弁明が映画館でポスター代わりに並んでいる。そういう県なのだ。ラミタイはこの手の台詞を産まれたときから聞かされてきた。
ザーゴの言っていたピートルズを招くために、誰かさんは途轍もない努力をしたことだろう。
ラミタイも世界的芸術家ピートルズの超越的音楽に関する噂は耳にしていたし、少なからず興味もあった。ファレリアにピートルズのことを投げかけてみると、勘弁してくれとの返答がかえってきた。最近のファレリアらしい返答だ。
そこで一人で和歌山アリーナに向かった。だが、もともと狭かったそのアリーナは、人でごった返していた。
死すべき子供たちは、優先して入れてくれるはずだったが、だとしても人があまりに多くて、アリーナの入り口までたどり着く手がなかった。
結局、遥か彼方のステージのピートルズのメンバーがどのような姿なのか見えることはなかった。
ただ、ステージから聞こえてきたのは妙にヨーロッパ風になまった英語だったし、しかも一人の人間の声だけだった。ピートルズは五人組の上、メンバーのジョン・ジクサス以下全員がアルゼンチン出身なのだから、アリーナに立つのが本物のピートルズかどうかは怪しいものだと思った。
そのためだろうか、唐突にラミタイは興味を失い、そこを離れると、和歌山県隔離のために朽ち果てた国鉄線路を歩いて和歌山市辺縁部に帰ってきた。気を取り直して、今度は映画でも見に行くことに決める。映画館にあるのは白黒で、滅多に更新もされない映画のみが並ぶが、一昔前のスライド写真や、堅苦しい国営チャンネルのみのテレスクリーン付きラジオより大分面白かった。何よりも、現実を束の間忘れさせてくれる力を持っている。
気がつけば、なぜか懲りずにファレリアに同行を誘っていた。
なぜこの期に及んで、他の死すべき子供と接触を保ち、死が近づいてくる以前の生活を真似ようとしてしまうのだろう。
ファレリアが、そして周囲の人間たちが急速に変わっていくのに対する、反抗なのかもしれない。同時に、ファレリアのように、全てとの接点を絶つ勇気も、気力もないのが現実だった。
だが、そうした考えを頭の中でまとめる前に、ファレリアから了承の返事が来た。驚かされた。
病巣に全ての免疫因子が集まるように、全県民がピートルズを見にいったのか、和歌山市辺縁部には人気がない。
空が赤紫色に染まる中、板葺きの厩の隣、竹穂垣に囲まれた廃墟にも似た木造の映画館の前に二人は立っていた。その入り口は閉ざされている。
「どうする? 帰る?」
ファレリアが気のせいか投げやりな口調で尋ねてきた。
「帰るっていっても、他にいくほどの場所ももうないよ。ここで残ってる小遣い全てを使ってしまいたかったんだけどな」
「消費は正しい市民活動ね」
一晩中立ち尽くしている訳にもいかない。ラミタイは柵を飛び越し、映画館の横の管理小屋に侵入した。
がたつく扉の向こう、暗い小空間は散らかっていて、柑橘類から作る地酒の匂いが充満していた。
机についている人の姿がないので留守かと思ったが、人はいた。
酔っぱらった人間がよくやるように、床に座って上体を壁に持たせかけている初老の男がいた。県の役人には見えなかったが、県の役人の制服を着ている。
「あのーー」
「この県の数少ない娯楽であるはずのここからも人の姿が消えたか。いよいよおしまいだな」
男は呂律の回らない口で言った。
「……別にみんな死んでしまったわけではないですよ。ピートルズを見に行っただけです」
「誰もが幻影へと逃げ込むわけか」
「今日はやってるのかい?」
「ああそうだろうよ。今更そんなことをして何になるというんだ?」
男の焦点の合っていない目は床を見ていた。
「どうせおまえたちはみんな死ぬんだ。今更何の意味があるというのだ? ……そうだ。……おまえたちは呪われた生き物だ」
ラミタイは防御のために目を閉じた。こういった台詞は、非公式の場所で時たま聞かされてきた。
「おまえたちが死に絶えれば、この県もかつてのように、正常な県に戻るだろう。全ての県民に幸福がもたらされるだろうよ」
「今日は閉まっているんだね?」
「おまえたちのせいなんだ……。さっさとくたばってーー」
「私たちは死ぬにしても、誇りを持っているし、何か残せる物はあるわ」
背後から細くて静かな声がして、ラミタイはびくっとした。
ファレリアが戸口に立ち、斜陽が彼女の影を伸ばして小屋の中に投げかけている。
「……機材は全て置いてある。マニュアルもだ。勝手に使え」
酔っぱらいはそれだけ言うと、頭を胸元に埋め、肩を震わせ始めた。泣いているのか、笑っているのかは全く分からなかった。
「行こう」
ラミタイはファレリアの腕を引っ張って、薄暗い一室から引き離した。
映画のフィルムは初めて見る物で、大胆な映像効果に度肝を抜かれた。ストーリーは複雑だったが、それでも簡略すると、狂った軍人から男女が逃げ惑うというストーリーだった。
男女の顔は、まるで遺伝子強化でも施されたかのように悲壮だった。
狂った軍人が、不気味な決め台詞を口から吐く。
『おまえたちに脛骨を突き刺し、壷に放り込んでやろうか!?』
どういう意味なのだろう。薄く気になった。
やがて、この映画にも終わりがやってくる。同時に現実が再開して、ラミタイはため息をついた。
大して意外ではなかったが、フィルムが終わったときにファレリアの姿は隣になかった。
ファレリアの姿はすぐ近くの海岸にあった。
湿気で重たい、涼しい海風が顔に当たる。
太平洋に潜んでいるのだろう、魔物の咆哮が聞こえたような気がした。
大勢の人間が、頭の上に灯台が倒れてきたときに上げるような、どこか悲しさを含んだ声音だ。
「消えたわ」
彼女がつぶやいた。
「何が?」
ファレリアの後ろ姿に問う。
「生き物が消えてしまったわ」
「ピートルズを聞きにいったんじゃないのか?」
ラミタイは言ったが、我ながら意味をなさない言葉だった。
「予兆か……」
「多分ね」
ここで生まれる死の陰から逃げていったのだろう。賢明な手だ。
だが、自分たち、死すべき子供がこの陰から逃げる手はない。
「その時が来たら、どうするつもりなんだ?」
誰にも尋ねたことのなかった質問を、ラミタイは口にしていた。ようやくそれを人に尋ねる時期が来た気がした。
「やるべきことがある」
「何だ?」
彼女はラミタイの方を見ず、きびすを返す。
「来て」
後ろ姿は、怒っているようにも、泣いているようにも見えたが、彼女の声は断固としたものだった。
ラミタイはファレリアと交える言葉もなく、ついていった。
みかん収穫時期に急な斜面を荷箱を満載して上り下りするモノトラックが眠っている。みかん畑の地面が青く見えるのはみかんの木の根元に防水布が敷いてあるためだ。地熱も、自然の光も余さず農作物につぎ込もうという、農夫の知恵だった。そして、そのためにみかんの木は水面から突き出しているように見えた。
ラミタイは炎の輝きに気付いた。
みかん畑の一角、夜は黙り込んでいるスピーカータワーの鉄の足の下。ごうごうとたき火が燃えている。
みかん畑の持ち主は、唐突に、夏の間の除草などといった、面倒な仕事が嫌になって、焼き畑を決心したのだろうか? ラミタイはそう考えた。
だが、違った。
炎の揺れるパターンは奇妙なシンボルを表しているように見えた。そしてその周囲を取り巻く人影。
ある者は炎で全身を清めようというかのように、炎の舌でなめられそうなほど炎に接して立ち、ある者は座り込んだまま炎を凝視している。
その目はまるでーー神が生まれるのを目撃しようとでもいうかのような狂わしい光そのもの。
そして、炎の周りの人間の年齢はラミタイとファレリアと同じぐらいだった。
死すべき子供たちだ。
ラミタイの足が震えた。自暴自棄になってしまい、放火の罪を犯そうというのか?
隣のファレリアが両手でラミタイの腕を握っていることに気付いた。
「来るぞ!」
炎を取り巻く若い男女が口々に叫んだ。
一人の死すべき若い男が進み出た。火炎を抱くように両腕をひろげながら炎の中へ進んでいく。
ラミタイの震えは立っていられないほどになる。
死を前に、自暴自棄になった子供は、その重圧に耐えきれず、焼身自殺でもって一足早く死んでしまおうというのか。
しかし、それでもなかった。
炎の中で、なにか強烈な反応が起きたかのように火勢は強まり、炎に入った男がまだ両手を広げて天を仰いでいる姿が黒く見えた。男は体を反り、口を大きく開けている。
そして、男は吠えた。異質で、悲痛で、しかし、断末魔とは全く異なる叫び。
その叫びは畑を満たし、ラミタイの頭の中に染みるように入ってくる。
炎の周りの死すべき子供たちが踊るように揺らめいた。ラミタイの視界も、急な涙のためにぼやけていく。
炎の中の男は頭が地面につくほど反り返り、ついに耐えきれなくなったかのように腹がばくんと避けた。そこから新たな何かが生えてくる。
男の体内で様々な変化が起き、それに合わせて外見も変わろうとしていた。炎が飛び散り、みかんの木や周囲の死すべき子供たちに降り注ぐ。
誰もそれに注意を払わなかった。
周りの死すべき子供たちは、皆が皆、恍惚の表情でその劇的変化を見とれていた。
ラミタイは腕の痛みに気付く。ファレリアの指の爪は、ラミタイの腕に食い込むほどだった。
「これが……私たちの……なるべき姿」
彼女は歯を食いしばったまま、かすれた声でつぶやいた。
ラミタイは彼女の手を振り払うと、くぐもった叫びを残して、夜の闇へと駆け出した。
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