鎖の歌
(2)
■
飛行戦艦ネクサスがどのような理論で宙に浮かんでいるかは、全く知られていなかった。
ネクサスを覆う装甲と武装は数万トンの重さで、にもかかわらず堂々と高度八百メートルを進んでいく様から思うに、ネクサスは周囲の空間の物理法則を曲げているようだ。
クジは目を細め、それからキーボードを叩いてディスプレイを船外カメラから、和歌山県周辺マップに切り替えた。
足下から響いてくるのは、ネクサスの呼吸音。ネクサスに埋め込まれた謎の反応炉は、ネクサスが浮かんでいようが、着地していようがおかまいなく、常に騒々しくうなり続けていた。
ネクサスを造ったのは鎖国期のはるか昔、鎌倉時代か、室町時代のゴールデンエイジに工房にこもっていた天才だろう。日本の現代的な機械テクノロジーの大半が、これらネクサス内からサルベージされた物からもたらされたことは間違いないが、それでもネクサスについて知っていることは実に少なかった。
クジの眼前で幻想的な光と色で和歌山県周辺状況を表しているディスプレイの材質でさえ、なんらかの高次な硅素塩であること以外分からない。クジの指はキーボードの上を目にも止まらない早さで動いているが、彼女自身は自分の打ち込んでいる命令の内容を理解できない。ただ、暗記している意味も知らない文字列をネクサスに与え、ネクサスはそれに無言で従っている。
ネクサスは、自分に乗っているのが偉大な建造者ではなく、こんなちっぽけで愚かな人間だと気付いているのだろうか?
分からなかった。
ネクサスとは、理解のできない、怪物なのだ。
ネクサスに長いこと乗っているクジだが、突然、予測する間もなく恐怖に襲われることが多々あった。
自分たちは巨大な獣の胃袋の中に、無邪気に入っていく虫だ。いつかは、獣はいらだち、自分たちを殺そうと決意するのだろう。いつかは。
そして、自分がやろうとしているのは何だ?
4フレーズ計画。あれはネクサスの怒りを爆発させようとせっせと薪をくべているようなものだった。
いや……だめだ。気弱になっている場合じゃない。
やらねばならないことなのだ。
人類の未来のためだ。
クジは青白い顔で立ち上がり、廊下へ出た。政府軍クルーであふれたブリッジはすぐ隣だった。同僚のハチノヘの姿を探す。だが、いるのはブースでディスプレイを睨む政府軍クルーばかり。
そのとき、指揮官らしき姿をブリッジの真ん中で見つけ、クジは歩み寄った。
だが、それはハチノヘではなかった。
和歌山県軍のリーダー、ジョビ大佐が笑顔でクジに会釈する。黒い肌の切れ目の向こうで白い歯が光った。
「二十四隻のネクサスとともに進軍なんて、まったく夢のようですね!」
ブリッジ前面にある大形スクリーンに、隊列を組む二十四隻のネクサスが映されていた。
これも船外カメラで撮っているものだ。ネクサスには防御力を高めるためか、窓は一つもなかったが、そこらじゅうに埋め込まれたセンサー類が人間の目よりもはるかに役に立った。
「あの半島戦争でさえ、これほどのネクサスがそろったことはなかったはずです。こんな光景を目にできるとは、私も運がいい」
「ジョビ大佐、あなたも半島戦争に出兵を?」
ジョビ大佐は自嘲めいた笑みを作って、首を横に振った。
「私は最前線に立って、部下を指揮するというのは苦手でしてね」
「なるほど」
クジは適当に相づちを打つ。
一応、当事者の県軍リーダーのため、ジョビ大佐は政府軍ネクサスに乗っているが、和歌山県軍なんていうのはみかん泥棒を追い払うことぐらいしかできない、烏合の衆だろう。
ジョビ大佐にはなんの力もなく、PCOのプロジェクトの妨害とはなりえなかった。
「しかし、二十四隻ものネクサスというのは、本当にすごい。この姿には、アメリカやソヴィエテといった、列強大国も感銘を受けるとは思いませんか?」
「かもしれません」
「日本が列強大国の一つに加われる日も近そうです。私は嬉しくなってきましたよ」
ジョビ大佐は言う。
だが、クジはゆっくりと首を横に振った。
「地球上にはアメリカ、イングランド、それらと敵対中のシェル、ソヴィエテ、そして、それ以外にもいくつかの列強と呼ばれる強国がそれぞれの野心を持って、天下統一を狙ってます。しかし、私たち小国にとっては、これは困った状況です。現に、日本はリビルダーの利益のための工場と成り下がっています。また、いつ列強の政治的ゲームの一つの犠牲として滅ぼされてしまうとも分かりません」
「でも、あなたたちのおかげで、日本の経済は成長しているではありませんか」
「それだけでは列強の地位へと上ることはできないのですよ、ジョビ大佐。それに、日本は第二次世界大戦や、半島戦争で不必要に目立ちすぎました。日本各地に作られた、リビルダー駐屯基地の存在する意味をご存知で?」
「あれらは、プロセッサー主義者や、中国人が攻めてきたときに、私たちを守ってくれる物でしょう」
ジョビ大佐は言った。リビルダーが発表した通りの言葉だった。
なるほど。県軍のリーダーでこの有様か。
「列強は、新たなライバルが増えるのを許しはしないのですよ。それに、地球上の資源にも限りはありますからね。天下を狙うゲームのプレイヤーは少なければ少ないほど都合がいい」
クジは言う。
「あまり先人に不敬なことを言いたくはありませんが、リビルダーがやって来て命じなければ、遺伝子強化人間などという邪悪なプロジェクトが彼らの頭をよぎることはなかったでしょう」
「そうかもしれませんね」
ジョビ大佐は言ったが、その日本人離れした顔は、判読できない表情を浮かべていた。
「ですが、私たちPCOは最近、新たな技術を手にしました。近いうちに状況は変化を見せるはずです」
「おお、新技術導入による市場の活性化ですか。それは楽しみです」
クジは微笑み、赤い舌で唇を湿した。
PCOをゆるやかな経済的協議組織と思っているこの男は、来るべきときにはどういう表情でニュースを聞くのだろう?
そのとき、ブリッジにハチノヘが入ってきたのに気付いた。
ハチノヘはサーベルを鞘ごと手に持ち、クジにゆっくりとうなずきかけた。準備ができたという合図だ。
「ジョビ大佐、長野のPCO本部から重要メッセージが届いたようなので、失礼させていただきます」
「どうぞどうぞ」
クジはハチノヘに続いてブリッジをあとにした。
ネクサスは、建造者の一人一人の精神内部を投影したかのように薄暗い内部構造を秘めている。その奥底の内蔵部には、一部の政府軍高官や特別な人間しか入ることの許されない部屋があるのだが、いま、その部屋には実に大勢の人間がいた。
彼らは流行の地方からの集団上京のためにネクサスに便乗した人々ではない。全員が学者風の雰囲気をまとった男女であり、多くはかなりの高齢だった。
そして、全員が椅子に縛り付けられている。まるでそうしていないと、椅子の上で体の形を保っておけない、とでもいうかのように見えた。
「これで全員なのか?」
ハチノヘがサーベルの柄に手を置いて尋ねた。
「意外と少ないものだな、遺伝子強化プロジェクト参加の研究者は」
「当時のリビルダーが豊富にデータをくれたおかげで、この人数でやっていけたのでしょうね。あと、全員を捕らえられたわけじゃないことをお忘れなく」
クジは上向きのメスの刃のような目つきで、書類をめくりながらいった。
この囚人達は第二次世界大戦後から半島戦争に至るまでの期間、遺伝子強化プロジェクトに携わり、和歌山で生まれた人間をどんどん遺伝子強化していった、今回の事件の実行犯にして、黒幕、そして元凶そのものでもあった。
PCOと政府軍は日本中を探しまわって、彼らの行方を探った。ある者はいまだに研究機関に職を持ち、またある者は退職して平安に身を置いていた。それが十年ぶりか、十五年ぶりかに鋼鉄の船の中で再会を果たしたというわけだ。
ハチノヘは囚人たちを威圧的に見下ろした。早くもこの役柄に馴染みはじめている、と自分を分析した。また、そうなっていなければクジにプロ意識を問われる場面だ。
この研究者たちはどこか、PCOや政府の現職の科学者たちとは違う感じがした。なにかおかしな、狂わしい動きを感じる。
人間の遺伝子とやらをいじって、よき兵士にしようとする狂気の、そしてバカらしいプロジェクトを押し進めるうちに彼ら自身もなにか悪いものを吸収してしまったのかもしれない。
「ハチノヘ、一番重要なのが欠けてるわね。遺伝子強化プロジェクト主任が」
「くそ。不手際だ。うちの情報部も抜けてるからな」
「でも……ある程度は仕方ないかも。その男の居場所が居場所だもの」
「どこだ?」
「和歌山県県立アカデミー内。それが遺伝子強化プロジェクト主任のフジーム博士の居場所」
ハチノヘは肩をがさがさふるわせて笑った。
「ははは……ユーモラスな奴だな。自分の作品に囲まれて教鞭を握ってるのか。いいだろう。和歌山県軍にフジーム博士を捕らえさせる」
PCO警備主任は壁面に取り付けられた受話器を取り、ジョビ大佐に電話した。
その間、クジは座らされている囚人がぶつぶつつぶやいているのに気付いた。もちろん、囚人はぶつぶつつぶやくか、ぎゃあぎゃあ騒ぐものに決まっているのだが、その内容がクジの興味をひいた。
「フジームか。……あれは裏切り者じゃった。我らは大きな可能性を手にしようとしていたのを、あやつはつぶしてしもうた」
「どういうこと?」
クジは目線をあわせようと、囚人の前にかがんだ。
「政府は我らの研究は手遅れで、もう必要ないなどと抜かしたが、我らは期限内に完成させていた。あのフジームが研究を隠しておったのだ。あやつが急に弱気になってあのようなことをしなければ、我らはーー」
科学者の有機金属の義眼はクジなんか見ていないようだった。
「でもね、科学者、実際あなたたちの遺伝子強化プロジェクトは不要だったのよ。あんなものなしでも我々リビルダー側は半島戦争で南下してくるシェル軍とソヴィエテ軍を食い止めて、休戦を結ぶことに成功したわ」
「そうだ」
電話を終えたハチノヘがクジの隣に立った。
「そして半島戦争が終わってから、すでに十年が経つ。いまなおリビルダーの桎梏こそ消えぬが、日本は十年間戦争を味わず、かつてないほどの勢いで経済は成長した。いまや時代は戦争よりも平和を愛する時代へと変わりつつあるのだ。人間の遺伝子をいじくって強い兵士を作るなどという馬鹿なプロジェクトはここで葬らねばならん」
ハチノヘは言う。それに対し、囚人の科学者たちははらわたを滅茶苦茶に揺さぶるようにして、一様に嘲りの笑いを上げた。
「馬鹿はおまえ達だ。PCOの者たちよ、おまえ達はなにも知らないのじゃな? 我らの遺伝子強化プロジェクトがそんなつまらないものだと思っているのか?」
「思っているぞ」
ハチノヘが即答した。
「たわけ者め。教えてやろう、半島戦争中、リビルダー首脳はよき兵士たる遺伝子強化を施された兵士を作るように命じてきた。それは実につまらぬ仕事でもあった。だが、同時に我々は日本政府側の極秘機関からも命令を受けておった」
「極秘機関ねえ……それが私たちPCOじゃないことは確かね。その命令とは?」
クジが紙になにか書きながら尋ねた。
「新たなる人間の種の創造だ。この惑星を任された人間はそれに相応する責任を持っておる。だが、我々は地球の上で争い合い、汚染し、他の種の生物を滅ぼしておるのじゃ。我々は変わっていかねばならぬ。遺伝子強化人間プロジェクトを用いれば我々は進化できるのじゃ。より強く、より賢き存在に」
「ふん、話が大きくなるな」
「半島戦争が予想に反して早々と終わってしまわねば、我々は遺伝子強化人間に関してより多くの情報を手に入れ、さらには一代限りの兵器ではなく、我々の種族を置換することが可能な優れたものが産まれたというのに、その機会を潰してしまうとは惜しい話だ」
「狂ってるわね……」
「ここは狂った世界なのだ! 我らの狂った世界なのだ! だが、短命とはいえ、遺伝子強化人間制作には手間をかけた。奴らがどれほどの破壊を引き起こしてくれるか、楽しみなものだ。そして、奴らが怒りに目覚めたときが、おまえ達の最期だ」
老科学者は歯のない口に笑みを浮かべ、口腔の闇をのぞかせた。
「おお、怖い。あなたたちが改変した哀れな子供たちが怒りに目覚めたときに襲われないよう、私たちはこの空中戦艦から出ないことにするわ。さて、政府軍の和歌山県制圧部隊を早く出撃させないと……。暴動を許すわけにはいかない」
クジは囚人たち椅子の間をゆっくり歩きながら言った。
ふと違和感を感じ、彼女の足が止まる。一番端の囚人の年齢が奇妙に若かった。
この部屋の科学者は皆、第二次世界大戦から半島戦争へと至る時期に最盛期だったため、多くの者が高齢だったが、この囚人の年齢はまだ少女と呼べるほど。
十五歳ほどだろうか。
嫌な予感がしてクジは手元の書類をめくった。
囚人の女は白目を向いていた。その体が小刻みにかたかたと震えている。クジは彼女のプロフィールに目を走らせた。
PCOが彼女を捕らえたのは秋田県。そして出身は……和歌山県。
「くそっ」
クジは書類を放り投げる。ボキリと音がして女の椅子を床に留めていたボルトが弾けとんだ。彼女を縛っていたワイヤーが甲高い音をたててあっさりとちぎれた。
クジの手がホルスターへと伸びる。
「我らの成果を見よーっ!」
老科学者が、そびえ立つ山頂に立った人間がやるように声を張り上げた。
クジは凄まじい力に殴打され、壁に叩き付けられた。衝撃で天井のランプが落ちる。
ハチノヘは思わず茫然自失としていた。一瞬前まで捕われた科学者に見えた集団の中に、まったくの異形の姿となって部屋の真ん中に立っている奴がいる。
その体の色は悪性腫瘍の黒だ。なおも、その体の内側から、体を大きくしようとする力があるようで、異形はさらに膨らみ、たくましくなっていく。自己の内側からの膨圧に耐えきれないように、異形がおぞましい叫びをあげた。
いかなる他の存在とも似つかない、その姿をハチノヘは解釈できない。恐怖に似た感情を芽生えてくる。異形が、クジを打ち倒した触手を口から放ったが、それにハチノヘが対応できたのは単に訓練の賜物だった。
ハチノヘのサーベルが一閃して、異形の触手は倒錯したソーセージのように床を跳ねた。ハチノヘはうおっ吠えて、科学者たちを踏みながら遺伝子強化の化け物に斬り掛かる。
しかし、敵は新たに腹や胸から手足を生やす。まるで加速された発芽の映像を見ているようだ。
ひるんだハチノヘを何本もの黒い屈強な腕が掴み、天井に叩き付ける。ハチノヘは訳の分からぬ怒声を発しながらサーベルを振り回し、敵の指が何本も斬り落ちた。だが、敵はびくともしない。むしろ嘲笑を漏らすような音をたて、風車のように腕をふるい、ハチノヘノの体は床に突っ込む。空中戦艦の中につかの間の地震を生んだ。
男の息の根を止めるべく、異形の腕がコブラの頭のようにふり上がる。
床に転がるクジは激痛に顔をしかめながら、ホルスターから手銃を引き抜いた。合成樹脂製の銃床を歯で引き出し、肩にあてる。四角い照星の向こうには黒いごつごつした姿。もうそこにはまったく人間の面影がない。
黒い顔がクジの方をゆっくりと向いた。視覚器らしいものはなにも見当たらないその顔からは、あったとしてもそこから表情を読み取ることなどできはしない。
クジは銃爪を引いた。敵もかわそうと、かすみを残して動く。
だが、動きは直ちに中断された。ハチノヘのサーベルが遺伝子強化人間の足を床に縫い留めていた。血まみれのPCOの男が床で、勝者の笑みを遺伝子強化人間に投げかける。
直後、銃弾がうなりを上げて破壊を開始した。
無薬莢弾特有の刺激臭が立ちこめる中、ハチノヘはゆっくりと立ち上がった。
科学者は全員息絶えていた。クジの銃弾が、彼らを処刑するハチノヘの手間を省いていた。
そして、その真ん中に長々と横たわる横たわる異形の死骸。弾倉一本分の銃弾のために極めて多孔状となったその姿は、ますますかつての人間の姿とかけ離れたものとなっていた。
ハチノヘはクジを助け起こした。
「大丈夫か?」
「どっか折れたみたい。あっちもこっちも痛いし」
「長野に戻れば治療できようよ」
ハチノヘはサーベルを自分の制服の上着で拭いながら、遺伝子強化人間の煙を上げる死体を足でつついた。
「これが何を意味するのか分かるな、クジ?」
「ええ」
「無害な子供に見えたそれは、突然黒くてでかい化け物に化けた。いや、科学者どもの言葉を借りれば進化した、か?」
「戦闘訓練をまったく受けていない子供が、攻性生物並みの戦闘力を得たわ」
「和歌山県には何匹の遺伝子強化人間がいるんだったか?」
「この世代の子供たち全部がそれよ」
「畜生め」
「……やるべきことは一つね」
ハチノヘは壁から受話器をとってクジに渡した。通話先はネクサス全二十四隻の艦橋だ。
「こちらPCOの派遣オブザーバーのクジ」
ひどいことになるだろう、とクジは予測する。だが、躊躇は許されなかった。クジは一息に命じた。
「PCOから付加された権限レッド1を完全に発効する。全ネクサス、離陸して和歌山県県境を封鎖せよ。遺伝子強化人間対策プランをフェーズ2に移行する」
二十四人の艦長から了解の返事が返ってきた。
■
自分がなにか黒くて恐ろしいものに変わってしまう夢に苦しめられていた。
高い悲鳴、低い悲鳴、あらゆる波長のもの。そして、第二次世界大戦のもの、半島戦争のもの、あらゆる場所での悲鳴全てが凝集して自分を作っていく。
自分の中にも、外にも悲鳴から逃げられる場所などない。
同時に、自分を恐れる無数の悲鳴に、打ち倒されようとしていた。
ラミタイは夢から覚め、窓のない寝室で荒く息をついた。夢が終わり、現実が再開した。
しつこく夜毎襲い来る悪夢だ。
いや、だんだんとはっきりしたものになりつつある。
予兆だ。
暗い破滅がまた一歩近づいてきた。
この絶望的な世界とは、所詮一種の長い悪夢のようなものなのか。死によってこれは終わるのだろうか。
そういった疑問が、不安が、心を責めさいなんで止まない。
県内の多くの同世代の人間、そしてラミタイ自身によってなされ続けてきた思考だった。
腕へと手を伸ばせば、ファレリアの爪によってできた傷に指が触れる。昨夜見た光景は幻ではなかった。
眠りが休息でないように、死は安息ではない。
遺伝子強化人間たる自分たちはその姿を強制的に変えられ、その業苦の生を最低のものへと落として、続けなければならないことを定められている。
どこへ向かおうとも苦痛と狂気が待っている、迷宮の中にいるようなものだった。
悲鳴とも怒号ともつかない声を上げ、ラミタイは壁を殴っていた。
なぜだ?
なぜこの狂った世界は自分たちに不当な短い生しか与えなかったのみならず、平安とされていた死さえも奪おうとーー
ジャーンとけたたましく電話が鳴った。
ラミタイは動かなかった。だが、それでも電話がなにかを責めるかのように、けたたましく鳴り続ける。今日は母が家にいない日だということを思い出すと、ラミタイは布団から這って出て行き、ふすまを開けた。
黒いかぶと虫型電話の受話器を取る。
「ラミ?」
ファレリアからだった。今誰よりも声を聞きたくない相手だ。
「……なんだよ」
「私たちの死がああいう醜いものだというのは見ての通りよ。あの遺伝子強化の化け物になってしまえば、もう理性は残らないわ」
「知っていたのか?」
ファレリアは一瞬口をつぐみ、
「フジーム教授から教えられたの。彼は遺伝子強化プロジェクトの元主任」
「……そうか」
「私はこれからアカデミーへ向かって、私が存在したという証拠を残らず消すつもり。それから自分自身も消す。それが実験材料として、兵器として作られた私の最後の偏狭な抵抗。どれほど意味を持つかは疑問だけれども」
ラミタイは言うべき言葉を見つけられなかった。
「ラミも、変異のときは大切な人が近くにいない場所を選びなさい」
ラミタイは受話器を置いた。
今日が人間として最後の日なのだろうか、と気になった。
もともと淡い色だったラミタイの行動計画は空白になった。
蒸し暑く、暗い家の中の息苦しさに耐えかね、発作的にラミタイは外に彷徨い出た。
頭上には今なお黄色い太陽。暑くて乾燥した風が吹いて、ラミタイの頭上で渦を巻いている。
ラミタイは心をかき乱されたまま、道ばたに座り込み、頭を抱えた。幼い頃から知っていたファレリアが自分の終末を決めて去ってしまったのが悲しかった。そして、死の間近に心に抱くべき平安、学校で唱えられていた説法を思い出しても胸が悪くなるだけだった。
終わりの見えていた自分の道筋は、近づくにつれ、目を背けたくなる醜いものでしかなかった。
全ては嘘の上に作り上げられた空虚な言葉に過ぎなかった。
ラミタイはぼうっとしながら、行き交う人々を眺めた。籠や風呂敷を背負う人々や、休憩中の農園作業者に混じって、荷を引くロバや馬が通っていく。自分が死んだとしても、世界は今までと同じように回り続ける。この光景も変わらないだろう。
何も変わりはしないのだ。
だが、人の流れは変わった。
遠くで叫びが上がり、突然方向転換する者、走り出すものが相次いだ。錆びた農業用具が道に置き去りにされる。
ラミタイは顔を上げ、呆然とした。
何かが起こったに違いない。
ラミタイは耳をそばだてたが、意味ある言葉は聞き取れなかった。やむなく立ち上がると、ざわめきながら走る人の波に加わる。人の波は地区中央の広場に流れ込んでいた。
平和な農業の世界であったこの地で、人が突如集まり、叫んだり、わめいたりしているのは異様な光景だった。舗装されていない地面から茶色い土煙が何かを暗示するかのように舞い上がっている。
広場の人々が見ているのは、スピーカーを大量に身につけたテレスクリーンの塔だった。
テレスクリーンの画面は和歌山県のどこかの、煙を吐いている街角を映しているが、別に最近では珍しい光景ではなかった。
この人たちは何に驚いているのか。
予想外の心臓発作のような唐突さで日本の経済が麻痺したとか、第三次世界大戦が勃発したとか、という程度のニュースでは和歌山県の人間をここまで慌てさせるには足らない。
と、画面が乱れて、他の番組へと切り替わった。国営ニュースのキャスターの真面目くさった顔が大映しになった。
『ーー十四日に和歌山県を襲ったテロリストの一団は今なお県を占領しています。テロリストによる化学兵器に対抗すべく、政府軍は和歌山県の封鎖を完了しました。卑劣にして奸悪なテロリストに対して、偉大なる政府軍は非難のコメントをーー』
ニュースキャスターは言葉を続けたが、ラミタイは立ったまま身を凍り付かせていた。
テロリスト?
即座に理解した。
政府は遺伝子強化人間のことを隠している。
和歌山県の外の人間は、ここに残る忌まわしい呪いのことを知らない。
政府は……先達の狂った研究を直視することができなかったのだろうか。それとも自分たちに責が及ぶのを避ける為だろうか。
だが、ラミタイの考えをよそに、ニュースキャスターはなおもテロリストの非行を責め、その不吉な口腔からよどみなく死を語った。
『ーー和歌山県の多くの民は、すでにテロリスト側の虐殺によって命を落としたようですが、偉大なる政府はさらなる被害を防ぐ為、そして、テロリストに対する報復と懲罰の意味合いをこめ、新型爆弾を投入するつもりであると、先ほど正式に発表しました。この新型爆弾は和歌山県にはびこる悪を一掃するであろうことを、政府のスポークスマンは誇りを持ってコメントしていますーー』
衝撃。
それから恐怖がやってきた。
日本の様々なお茶の間で、そのニュースはほんのひと時の関心を引いたかもしれない。だが、和歌山県の人間だけには死刑の宣告のニュースであり、そして、それだけでは済まされないものだった。
遺伝子強化人間の寿命から来る死という、普通の和歌山県民にとっては何年も前から起こることを知っていた、言ってしまえば瑣末なことではない。
政府軍による県に対する、普遍的爆撃の宣言。自分たちを、庇護してくれる、よき親であり、よき指導者、少し大げさに言えば信仰する対象でさえある、政府軍からの一方的な攻撃の布告だった。
ラミタイは、自分がどうやってあの騒乱の場から抜け出してきたのか覚えていなかったが、気がついたらさっきの道ばたに腰を下ろしていた。体の震えを押しとどめることすら頭に上らなかった。
思えば、この県はなんと騒ぎと無縁だったことだろう。
いまや死に際した平安は失われた。それは嘘だったのみならず、完全に粉砕されてしまった。
政府は遺伝子強化人間という汚点を隠す為に、県民を巻き込んで爆撃を行うだろうことをほのめかした。一体、この県の何がそこまで政府の逆鱗に触れたのだろう? それとも彼らは事務的な顔で、日本を構成する県を一つ減らしてしまうつもりなのだろうか。
テレスクリーンのある広場のみならず、郊外の辻々、いや、和歌山の都市全体が騒ぎに包まれようとしていた。それほど遠くない場所から太くて黒い煙が上りはじめた。
変わりつつある故郷の姿から目を背け、ラミタイは立ち上がると、踵を返した。大勢の人間とすれ違う。道ばたの屋台はひっくり返り、馬が主人を見失って所在なげに立っている。
突如、目の前にあった飲食店のガラス戸がぶち割れて、人が道に転がってきた。いや、違う。木片とガラスの中で突っ伏しているのは黒い、異形の姿だった。
背丈はラミタイと同じほどだろうが、肌が黒く粘つく物に覆われた鱗へと変わっている。
だが、夕べ目にしたような、恍惚の身振りもなければ、歓喜の叫びもない。自身におこった変容への苦しみだけを表すように、憂鬱そうに震えている。
その顔が、ラミタイの方を向いて、目と目が合った。
つい先ほどまで、人間だった生物のその目が、その構造を変えていくのをラミタイは見ていた。
瞳孔が急速に大きくなり、白目の部分を飲み込んだ。そして、踊る炎のような光がその中心で生まれた。
見えざる、冷たい手で触れられたかのように、ラミタイは総毛立った。
眼前の生き物は、自分を同類と識別して、なにかメッセージを伝えようとしている。そのことが理解できた。
そして。
同時にはっきりと感知した。
自分の体内の何かも、それに返答しようと、動いている。
そのとき、飲食店の中から、何か長い柄のついた刃物が飛んできた。異形の生き物の後頚部に湿った音をたてて、突き刺さる。その生き物は、失望した人間のように目を閉じ、そして、もう動かなかった。
「やったぞ!」
低い叫び声がして、一団の人間が店から飛び出てきた。
様々な階級の人間だった。みかん農園の労働者の老人もいれば、県の施設の制服を着た中年女もいた。
だが、ただ一つ、共通点があった。
彼らは死すべき子供ではない。
先頭の、県の役人の服の男が、異形の死骸から、武器をねじって、抜いた。
みかんの木の枝の皮を剥ぐのに使う、鋭利な鎌だった。木の皮を剥ぐと、養分が幹にたまるので、みかんの実が大きくなるのだ。
いま、その刃は、ねっとりとした異質な黒い体液に染まっていた。
大人たちは、皆、物事に熱中している人間の顔を浮かべているのがわかった。そして、彼らの顔がこっちを向く。
「もう一人いるぞ!」
先頭の男が怒鳴り、こっちを指差した。
一瞬、ラミタイは彼らが指差しているのが背後の誰かだと思って、振り向きさえした。
直後、鎌がうなりながら、自分の二の腕を切り裂いていったのに気付く。
「化け物を殺せ!」
一団が口々にそういう類いの大声を上げる。
違う。おれはまだ変異していない。いずれ変異するにしても、他の人に迷惑をかけるつもりはない。
そんな言葉が浮かぶが、大人たちの目の狂気、その手の中の包丁や剪定用大型はさみがラミタイへと突進してくると、言葉は口の中で消える。
この場で八つ裂きにされることと、平安なる死との相関について考えるよりも先に、ラミタイは身を翻して逃げ出していた。
「こんなことさえも経験しなければならないのか……」
和歌山市辺縁部から逃げ出した際に浴びた、信じがたい悪意を思い出して、ラミタイはふらついた。
人のいない方、いない方へと走ってきたので、自分が林の中にいることは意外でなかった。だが、それがファレリアお気に入りの停止農園の裏手というのは予想外だった。ファレリアはここにはいないが、彼女の画材一式は先日と同じ場所にまだ置かれていた。
ラミタイは主のいないファレリアの椅子に腰を下ろし、傷を調べた。服は大胆な染め方をした服の様に赤く染まっていたし、痛みはうっとおしい蠅のように、行ったり来たりしていた。
ファレリアの絵にかけてある布をとって、傷の少し上のところで縛ると、歯を使ってこれでもかというぐらい腕を締め付けた。
出血する人間に興味でも覚えたのか、防鳥ネットの所に飛びカニが集まってきているのが見えた。
ひどく疲れていた。
難儀な長い旅からの、帰り道のような疲れだ、と表す他ないものだった。
おかしな話だ。旅なんてやったことはない。和歌山県から出ることはできなかったのだから。
ここに座ると、嫌でも和歌山市の煙は目に入ってくる。
暴徒が死すべき子供たちを殺そうとしているのか。あるいは県軍さえも介入したのかもしれない。変異直前の子供だってみすみす殺されることは避けるだろう。いや、変異した後にもすぐには死なないのならば、全ての生き物よりも穢れて卑しい外見になった後さえも、暴徒に抵抗しようと暴れるのかもしれない。
頭に漠然と描いてきた、最期の時とはほど遠い。
暴徒には、自分たちに怒りを抱くよりかは、哀れんでほしかった。
自分たちは、果たしてこんな苦しみを受けるためだけに作られたのだろうか。
そうなのだろう。呪われた生き物である自分たちが、誇りを持って思い出されることだけは絶対にないはずだ。
もう時間がない。変異は目の前に違いない。
残念でならなかった。
もっと、この問題について考えていたのならば。そして、自分がこの地に存在したことの意味を、気付くだけの時間があれば……。
ファレリアの絵を初めて見た。それはいま、ラミタイの前に広がる和歌山の情景を描いたものだ。だが、そこから人間の作った人工物だけがきれいに除かれている。赤く染まった空と、植物と、遠くに見える海だけ。彼女らしい作品と呼ぼうか。
……いや。
そんなのは馬鹿げている。
自分に時間がいくらあったところで意味なんかない。迫り来る死から目をそらし続けてきたのだ。自分は、スタートラインにさえ立てなかった。
出来損ないの生き物の中の、出来損ない。
それが自分だ。
意識せず、ラミタイの血にまみれた右手の指が、絵の表面の赤い空に触れていた。
能うことなら、その表面から何か意味あるものを、なにか赤い果実のようなものや、心臓のようなものをつまみとろうというかのように、表面を引っ掻いた。
ラミタイの血が、ゆっくりと絵の表面を垂れていく。
それなら、自分以外の遺伝子強化人間ならどうなのだろう?
……ファレリア。
すでに、解答を見つけ出し、結論に至っていた彼女。
彼女は心の平安を我がものにした人間の輝きとともに、その時を迎えることだろう。
それを少しでも近くで、なにがしかを学び、吸収するのは許されないことなのだろうか。
分からない。
ラミタイの血は、風景画に赤い雨を降らせていた。
取り返しのつかないことになるかもしれない。自分はどうでもいいが、彼女にとってそうなるのは耐えられない。
だが、それでも、これは最後のチャンスに違いなかった。
自分には、暴徒を食い止める力も、政府軍の爆撃をなくす力もない。だとしても、彼女のその時を妨害しようとするものを、いくらかでも逸らすことはできるかもしれない。
むしろ、それに全力をあげるべきかもしれない。
いっそのことそれに命さえも……?
分からない。
だが、できることをやるしかなかった。ラミタイは立ち上がった。細かいことはファレリアに会った後に決めることにしよう。
猛然たる煙の下の、和歌山市を目指して歩いていく。
ファレリアの絵の表面を、ラミタイの血のあとがゆっくりと四方に広がっていった。
やがて、それは色を変えた。
空の色は血を吸ったかのように赤くなっていた。
ラミタイは自分の穴の空いた靴から目を上げ、一瞬自分と周囲の畑をおぼろげな影に包んだ無数の飛翔物に目を見張った。それは生物の一群だったが、ラミタイの知るいかなるものよりも異質だった。生き物というよりかは、悪い妄想の産物を思わせる、そんな生き物の一団が頭上を通過していく。
和歌山市中心部に入ると、暴徒の代わりにラミタイを迎えたのは死体だった。
初めは転々と転がっていたものが、だんだんと増えていった。
ラミタイは地面に胃液をぶちまいて、その中に黒くうごめく線虫のような姿があるのにも気付かず、よろめき進んだ。いまや、目で見るもの全てに死しか見いだせない。
空気は、信じがたい熱を帯び、粉塵と熱せられた血の匂いで、息もできないほどだった。
第二次世界大戦中に起きた、純然たる殲滅戦については学んでいたが、それが何を意味する訳でもなかった。
赤く染まった道路の上、ずたずたになったかつての人間の構成部品に触れないように気をつけていたが、やがて無理になった。足の踏み場がない。
政府のビルが、暴力的な幼児に襲われた玩具のように、その骨格の半分をえぐられていた。人間がそれをやるには、建設機械か、武器がいるだろう。
だが、彼らにはーー自分たちには、そんな物必要ない。
その隣には見慣れない丘があった。
瓦礫の山だと思ったがーー骸の山だった。
ラミタイはへたり込みそうになりながらも目をそらした。高さ三十メートルの山に含まれているのは、何千という人間だけではない。市内の、人間と関連する動物は、全て殺されたのだろう。
まるで、虐殺の機械と呼ぶべき、仕事の正確さだ。
ラミタイはよろめきつつ、さらに進んだ。
何よりもおぞましいのは、間もなく自分が変異を始めようとしているのを明瞭に感じることのできることだ。それが近づいてくるのを感じる。まるで、五感で感じることのできる物のように。それを理解することさえできそうだ。
自分は全ての生きる物を、死でもって冒涜する魔怪へと変じてしまい、それを止める手は存在しない。
当然のように、アカデミーの玄関ホールも死の回廊と化していた。
誰かの、だらりとのばされた足に蹴つまずき、内臓に足を取られ、ラミタイは柱に叩き付けられた。
直後にーー気付いた。
体内の何かが震えている。共振だった。
柱の反対側、三メートルと離れていないところに、それが一匹いた。
この殺戮を検分にきた悪夢の化身のような黒い姿がゆっくりとラミタイの目の前を横切っていく。
全身から刺を生やし、さらにその下の肌は飛びカニのようにゴツゴツしている。黒い肌のために遠目には気付きにくいが、全身に浴びた返り血が湯気を立てていた。
それがちらりと自分の方に目をやるのを見て、ラミタイは息を詰まらせた。
間違いない。
体内の異生物は、目の前の化け物に反応している。
ラミタイの視界が歪んだ。
化け物は、ラミタイに興味を失い、そのまま進むと、アカデミーの門から出た。その背中から、破裂するように翼が生える。刺だらけの骨格の合間に、分厚い膜が張られている。
それを大きく一回羽ばたかせ、化け物は消えた。
突如、ラミタイの視界の色彩が反転する。
よりかかっていた壁が脂肪のように柔らかくなり、気味の悪さにラミタイは悲鳴を上げそうになった。
いや、そんなことは起こっていない。
ラミタイの方の感覚がおかしくなっているに違いなかった。
熱を感じた。ここの気温は驚くべき高さだが、それだけではない。熱は体内からも生まれていた。
口を開けば自分の内臓が溶け出てくるのではないか。そんな考えが頭をよぎった。
体の中でも外でもひどく間違ったことばかりが進んでいた。
見慣れているが、全く違う場所と化した校内を歩き、フジーム教授の研究室へと入った。
他の全ての場所同様、ここも荒れ果てている。
入ってすぐに、奥の方に転がるその死体に気付いた。全く原形とどめていないにも関わらず、フジーム教授と確信できたが、それ以上は何の感慨も生まれなかった。
すでに、人間の死が当たり前のものとなっていた。
だが、彼女は?
数歩中に入り、そして、背後にめまいを起こさせるようなプレッシャーを感じた。
化け物がいる。
ラミタイは振り向いた。
そこにいたのはーー見るに耐えない邪悪な生き物ではなかった。
ファレリアだ。
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