ダンジョンのエレベータ−ボーイ
(1)





 暗黒のダンジョンの底目がけ、エレベーターの籠は恐ろしい落下を続けた。いよいよ暗さはその深みを増し、大地の奥底でうめきを発する地獄へと到達するかと思われる寸前、エレベーターの鋼鉄の箱は減速した。
 金属がこすれ、火花が飛び交う。その甲高い音にエレベーターの籠の中の人間の腸がよじれた。籠は骨格を大きくふるわせ、完全に停止する。エレベーターの籠は疲労したかのように、鋼鉄の皮膚に空いた体腔から熱い蒸気を吹き出した。だが、エレベーターの操り手はその白いもやもやしたものに一切かまわず、腕を伸ばしてがらりとエレベーターの籠の格子扉を開けた。
 ここが街の地下にある類のただの暗がりなら、突然の闖入者に驚いて灰色のネズミが駆け回るか、あるいは天井の一角にて蝙蝠の一団が赤く目を光らすことだろう。
 だが、ここはダンジョン。
 ここにわだかまる闇は、現世に知られる全ての闇と比してなお、真の闇と呼ぶにふさわしい。
 空気は生暖かく、血の味がする。ダンジョンに住まうは黒の客。その気配はやすりのように肌に痛かった。いかなる魯鈍な生き物とて、ここを宿にはすまい。近づこうとはしまいて。
 だが、呪われているかのような好奇心を持ち合わせたただ一つの種族、人間だけは違った。
「92階層だ」
 エレベーターの操り手は、しわがれた声を出した。
 エレベーターの籠のたどり着いた広間は古く、およそ滅多に人の訪れるべき場所ではないことを示している。それゆえか、時の摩耗さえもこの階層は寄せ付けていなかった。
 油のつきぬランプが様々な場所で赤々と輝いていたが、炎の色も地上とは違う。血よりも暗い赤だ。その雰囲気は聖堂のように静かだが、それはダンジョン自らによって装われた見せかけに過ぎない。
 エレベ−ターの操り手は眼窩の影の奥、用心深い目を光らせ、広間の果ての壁を見やる。床から天井まで届く二十人長ほどの巨大な92という文字が、エレベーターの籠が正しい場所に着いたことを示している。
「ここまで冒険者が着たのは久方ぶりだ」
 エレベーターの籠の中から乗客がゆっくりと出てきた。いかにも冒険者風の二人組だ。
 一方の男は古い赤銅色の具足に、眉までを覆う円形兜。その下の顔は、古兵というほど老けてはいないが、眼はあまりにものを斬りすぎて、ひどく疲れた憂鬱な紫だった。
 左手には大盾を担ぎ、そして、右手には大業ものの姿があった。その刃は主人同様疲れた感じの曇った色だ。十人の男が十分に乗り込める広さのエレベーターの籠は、この大剣のおかげでひどく狭いものに思えていた。
 その剣士の相棒は鎖帷子の上に青の戦衣を羽織った女だった。樺色の羽飾りの着いた兜をかぶり、猫のような黄色い眼は喜びに光っている。二本の曲刀が両腰にあった。
 二人の冒険者はぶらぶらと広間に進み出た。手練特有の優雅な身のこなしで、ダンジョン制覇に備えた重武装にも関わらず不気味なほど物音は立てない。
 男はギール、女はシャルナといった。
「ここが92階層?」
「……なんか大したことのなさそうな階層だな」
 二人はそう言い、直後、ダンジョンが反発するかのようにごろごろ音をたてた。
 だが、二人はそんなことではびくともしない。
「本当にそんなに高レベルな階層なのかい?」
 シャルナはエレベーターの操り手にそう尋ねたが、びくともしていないのはこの操り手も同様だった。
「安心しろ。ここのモンスターには賢いのが揃っておる。少なくとも、前回ここに冒険者どもを運んで時には揃っておった」
「前回ってのはいつなんだい、エレベーターボーイ?」
 エレベーターボーイと呼ばれたエレベーターの操り手は骨張った力強い手で頭をがりがり掻いた。
「三年前だな。90より下の階層となると、そんなものだ。どいつもこいつもびびりおうて、およそ誰も近寄りはせぬ。俺の生きてる間に100階層に挑もうとするのが出てきてくれりゃ、エレベーターも動かしがいがあるのだがな。三年前の挑戦者の骨とか見つけて持って帰ってくれれば、企業組合ダンジョン管理部は喜ぶはずだ」
 エレベーターボーイの言葉に、シャルナは嬉しそうな笑い声を漏らした。危険なダンジョンがお好みらしい。
 世間ではダンジョンは深い階層、つまり数字の大きいものほど難易度が高いとされているが、実際には生息するモンスターどもの傾向やダンジョン内の環境、構造などによって誤差が生まれた。
「ま……帰りの荷物が少なければそうするよ」
 ギールが言って、大剣を気だるそうに肩に乗っけた。
「この階層を制覇したら、呼ぶがよい。数分で来てやる。エレベーター呼び出しボタンはあそこだ」
 エレベーターボーイは広間の一角にぽつんとたたずむ石碑を指した。
 ダンジョンの全ての階層にあれと同じものがあった。
「こんな深い階層にもちゃんとあるんだね」
「その通り。俺自身も行って見たことがあるわけではないが、ダンジョンの最下層、100階層にもこれは設置されているという。これはダンジョンにエレベーターを設置した者の偉大さを表す事柄の一つだ」
 エレベーターボーイの口調には誇らしげな響きが混じっていて、それを上手く隠せていないようだったが、女剣士はふうんと相づちを打っただけだった。冒険者にとってダンジョンのエレベーター設備は大した興味の対象ではない。
「それでは行ってくる。ああ……」
 ギールはエレベーターの籠に置かれた宝箱に目をやった。二人の冒険者がつい先ほど、準備運動代わりに55階層を制覇した際の戦利品で、階層のボスのモンスターを殺して奪ってきたものだった。長い時をダンジョンの暗黒の下で過ごしてきたはずなのに、この宝箱には劣化や腐食といったものが見当たらなかった。
「持ち歩くのもしんどい……預かっといてくれないか?」
「俺のエレベーターを貸し倉庫代わりに使うか。よかろう」
「金貨一枚ほど払おうか?」
「金が欲しくてこの仕事やってるわけではないぞ」
 冒険者二人は宝箱に関して、不必要にエレベーターボーイを疑ったり、脅したりしなかった。
 エレベーターボーイが冒険者の中で特に一流の二人に敬意を表しているのと同様、二人もエレベーターの主に敬意を表しているのだ。この男なしで冒険者がこうも地底の奥底に下りてくることなどできはしない。
 二人の冒険者はモンスター待ち受けるダンジョンの奥底へと消えていった。
 ダンジョンのもやがたちまち生命の痕跡すら隠してしまった。
 エレベーターボーイはエレベーターの籠を地上へ上げる準備にかかる。こんなダンジョンの深みでぐずぐずしているのは、危険だった。クランクを回し、操作舵を上下する。エレベーターの籠が、空気を求める肺のように震え、その中は製鉄所のように騒がしくなる。
 エレベーターの出発準備が済んだことを告げるベルが短く鳴った。
 ダンジョンの奥から剣の金属音、何かがぶつかったり、叩き付けられたりする音に混じって、人の怒鳴り声と、モンスターの鳴き声が響いてきた。
 二人の冒険者の声は切羽詰まっているように聞こえるのは気のせいか? これほど深いダンジョンの闇の中では音もねじ曲げられてしまってうまく伝わらないのかもしれない。
 誰かが魔法を使ったのか、どすんとくぐもった爆音がして、壁のランプの炎が一斉に揺れた。
 だが、それでも、モンスターはひるまないのか、それとも新手が来たのか、モンスターたちの声が大きくなる。
 爆音に対抗するかのように、放電の音が聞こえた。モンスターたちの方にも魔法を使う奴がいるのだろう。92階層なら十分に考えられることだった。
 エレベーターボーイは右手を舵棒に置き、左手で格子扉を掴んだ。
「地表に上がるとするか……」
 ダンジョンの奥は魔法と白刃ひらめく場となり、それはどのような戦場と比べてもひけをとらない、恐ろしいものだろう。だが、いつまでも続くわけではない。やがては、ダンジョンに巣食うモンスターの陣営か、武装して少人数で侵攻していく冒険者たちのどちらかに底が見えてくるはずだった。
 エレベーターボーイは耳をすませる。
 耳に親しんだ、もっと上の階層にて、初心者冒険者が階層の入り口付近で、実力以上の階層に入ってしまい、しかももう万事は手遅れだということに気付いた時にあげる、絶望の悲鳴を無意識のうちに聞き取ろうとする。
 一流の冒険者であるギールとシャルナも断末魔というのを上げるのだろうか? それとも、そんなことをしてわざわざモンスターを喜ばせはしないのか?
 だが、爆発音と金属音はまだ続いた。
 エレベーターボーイは計器類の中の、刻時器の文字盤を指で叩いた。
「五分経過。三年前の挑戦者はもう死んでいた頃だろう。あの二人なかなかやるではないか」
 二人が途中で力つきれば、また90階層以上に挑戦するほどの腕利きが現れるのを三年待たねばならないのだろうか。だとしたら、つまらない。
 92階層の、想像を絶するボスを倒して、階層を制覇するのは無理だとしても、せめて生きて脱出してくれれば、エレベーターで急行して拾い上げてやることが可能なのだ。
 だが、エレベーターボーイの期待通りに事が運ぶのは難しそうだった。
 この深みにあるダンジョンはあまりに難易度が高い。まるで人間が立ち入ることを禁じる法則でも働いているのではないか、と信じたくなるほどだ。
 ダンジョンの奥では戦いの音が高まり、誰かの雄叫びのあと、爆音が起きた。
「退避だ」
 エレベーターボーイは舵棒をがこんと倒し、地表からエレベーターの籠を吊るしている途轍もない長さのケーブルが火花を散らして巻き上げられた。
 爆風がダンジョンの回廊を吹き抜けてきて、エレベーターの籠の外壁をびりびりと震わせた。
 エレベーターボーイは熱風に顔をしかめながら、ダンジョンの奥を見やる。だが、意味あるものは何も見えない。
 いまの爆発は戦いのけりを付けたのか、戦闘の音が無くなっていた。
「ゲームオーバー……か?」
 エレベーターボーイはつぶやき、格子扉をどしんと閉めた。
 エレベーターの籠がシャフトを上昇し始めても、しばらくは92階層の照らされた広間の床が見えていた。だが、それも上昇が急上昇に変わると、オレンジ色の点へと変わり、すぐに見えなくなった。




 これはエレベーターの操作に、まだ専門的な技術が必要だった時代の物語。


 拡張の時代であった。
 世界の未知の場所は次々と探られていく。地図も盛んに書き足されていった。
 数多くの冒険者が困難な、実現不可能と思われた探索を達成し、誰もがそれを賞賛した。
 探索は横だけでなく、縦の方向にも行われた。
 遺跡の地下や、大洞穴のさらなる奥、あるいは人の生活する活気にあふれた街の地下にさえもそれは存在していた。
 ダンジョンと呼ばれる暗黒の間である。
 ダンジョンはモンスターが巣食い、この世の理の通じぬ、地獄への門というべき闇の世界だった。
 昔から、ダンジョンに眠る秘宝を求めて、あるいはそこの邪悪な住人を退治するため、武装した冒険者一団が攻め入ることは時たまあったことで、生還した者はその経験を後の世に伝えた。
 やがて、拡張の時代が訪れると、ダンジョンの闇でさえも、人の作り出した光で照らされるべきだという考えが一般的になった。
 いまや国中の攻略困難なダンジョンへ毎日、冒険者達が入っていく。それはビジネスにまで発展するほどだった。
 冒険者をダンジョンまで送る足として、新たな乗り物が脚光を浴びた。
 力強い熱水機関エンジンをシャフト上部に備え、頑丈な箱に冒険者を収めて、地下深くへ駆け下りていく。
 他のいかなる乗り物とも似つかぬそれはエレベーターと名付けられ、高度な操縦技術を身につけたエレベーターの馭者である男女はエレベーターボーイと呼ばれた。




 朝。二人の男がダンジョンへの入り口、エレベーター乗り場で茶を飲んでいた。
 街は騒々しく動き出そうとしている。ダンジョンへの道を開いた企業組合の露天のロビーは、早くも人でごった返している。ダンジョンに冒険者が集まることは同時に色々なものを呼び寄せていた。
 物々しく武装し、少人数ごとに固まっているのは冒険者だ。彼らは手に持つ槍の石突きで敷石を叩き、あるいは火筒の弾や、矢尻を削っていた。ローブを着た謎めいた雰囲気の男女は魔術を専門にした冒険者で、属性が何であれ、魔力の続く限り、彼らの攻撃魔法は砲兵一分隊の戦力を提供する。また、治癒魔法を習得した僧侶も、パーティーにいると心強い存在だろう。
 一人で行動する冒険者は希だった。そういうのはど素人か凄腕かのどちらかだ。そして、多くはダンジョン探索の才能以外なんら取り柄を持ち合わせていない風吹鳥の雰囲気をまとっていた。
 床の上では商人が兜を並べ、研ぎ師や整備士が客を待っている。他にも、伝道者、勧誘商人、あるいはそれ以外の冒険者にメッセージを送りたがる連中。腕のいい冒険者ならダンジョンの外でも職にありつける。
 企業組合の運送用重エレベーターの扉が開き、疲れ果てた労働者の大群が休憩のために出てきた。夜明けから企業組合所属の施設の隅々までエネルギーを送るための過酷な労苦にさらされるにもかかわらず、彼らの賃金は雀の涙ほどもない。
 熱水機関の発展は信じがたいほど大きな機械を動かすことを容易にし、そのため田舎にて、手で物を作っていた人々は職を失った。一つの巨大機械が都市の工場で産声を上げるごとに、村単位で失業者が生まれていく。
 多くの人々が、餓死か、それとも都市内でひどい仕事を見つけるかの二択を迫られた。
 そして、都市の生活は光に満ちている。光にひきつけられる羽虫のように、今日も大勢の人間が雪崩こんで来ては、都市を形作るピースを増すのだ。
 ダンジョンの冒険者にして、小柄なシーフ、ホロンは上を見上げた。
 頭上五十メートルの高架をけたたましい音と共に、石炭と魔法の炎から生み出されるパワーをまとった汽車が走っていく。客車の中のみならず、客車の横や上にも客が鈴なりになっている。
 都市は人間を取り込んで成長する巨大な生物に思えた。産み出されるエネルギーはさながら都市の血管を走る熱い血液だ。汽車の高架の横では新たな高架を増設するためのクレーンがゆっくりと鉄骨を吊り上げていた。
 架橋だけではない。ホロンの頭上ではいたるところでものが作られ、煙霧に汚れた危なっかしい足場を金槌を持った大工が走り回っていた。
 急激な人口増に対処するために都市は横のみならず、上の方向へも広がっていかねばならないのだ。
 先日は街のために新たな川が作られた。百棟もの家々が川に押し流されたが、かわりに一万人のための水が手に入り、実行者の企業組合に賞賛が寄せられた。
 なるほど、企業組合は強引な統治者かもしれない。だが、統治者とはそういうものだろう。商人たちが統治を始める以前の、悪名しか残さなかった王たちの治世と比べれば、企業組合の統治は実に単純で理にかなっている。都市住民はそう思うことだろう。企業組合は気まぐれを起こしたりしない。その目的は彼らの利益にのみで、それゆえ分かりやすい。
 この急激な、そして無秩序な都市の成長が止まる時、街はどのような姿になっていることだろう、とホロンはすでに多くの人によってなされたに違いない事柄について想像を巡らした。
「なんてやかましい機械だ。無粋で、下品で、怠惰にまみれておる。まったく反吐が出よう」
 ホロンの想像を、口汚い罵りが打ち破った。
 ホロンの向かいに座る男が、忌々しげに頭上を睨んでいる。
「汽車も、あんたのエレベーターも似たようなもんだろ、エレベーターボーイ?」
 ホロンは言った。
 男はエレベーターボーイの名で知られていた。
「所詮は動く方向の違いだ。いや、あんたのエレベーターは横方向にも動けたな。じゃあ、あんたのエレベーターは汽車だよ。そういうことだ、汽車ボーイ」
「黙れ。俺のは、かように煙を吐いたりはせぬ」
 エレベーターボーイはぶっきらぼうに言った。無論、ダンジョンの中でエレベーターが煙なんか吐いたら、それはひどいことになるだろう。
 世の中にエレベーターボーイは数多けれども、ホロンの前にいるのはエレベーターボーイの中のエレベーターボーイと呼ぶべき男だった。エレベーターボーイという仕事は、汽車を進める操作よりも技術が必要とされ、そしてダンジョンに設けられたエレベーターはそれ以外のエレベーターよりも遥かに危険な職場だった。血に飢えたモンスターは冒険者だろうと、エレベーターボーイだろうと、区別はしないのだ。ダンジョンのエレベーターを長く操っているものは、大胆さや、職業の知恵を兼ね備えているはずだ。
 ホロンの眼前のエレベーターボーイは企業組合13号ダンジョンのエレベーターの主。
 彼が受け持つ階層、その数は百。
 ホロンの知る限り、それはあらゆるエレベーターボーイの中でも最高の数字だった。
 エレベーターボーイは細面の男で、長年暗黒の地下で過ごしすぎたのだろうことをうかがわせる風貌だ。顔には刻まれたような傷にまみれ、手足は蜘蛛の脚のようにひょろ長いが、軟弱な感じは全くなく、むしろ余分なものを削ぎ落とした感じだ。
 汚れたつなぎを着て、さして強くもない陽光に目を細めているこの男の名は、本人でさえ知らないのかもしれず、誰もが職業名で彼を呼ばざるをえなかったが、本人もエレベーターボーイと呼ばれることにやぶさかでない様子だった。
 ホロンとエレベーターボーイは、夜通し続いたギールとシャルナの92階層制覇を祝うパーティーから出たあと、ここで日の出を待った。
 ホロンは新聞を一枚手に取り、新聞紙のまだ乾いていないインクが手を汚すのを見て、口をへの字に曲げた。
「まったく、インクってのは嫌なものだね。私はもうインクなんか使ってないよ。最近発見された瀝青炭から抽出されたパラフィンという蝋で手紙を書いているんだ」
「蝋で? 正気か」
「文字を溶かせば、何度でも紙を再利用できるからね。ものを作るには原材料が必要だし、その量は有限だ。近いうちに世界もそれに気付いて、私を見習うかもしれない」
「ありそうもない話に聞こえるがな」
「ああ、そうそう、今朝の新聞は読んだか、エレベーターボーイ?」
「あとで読む。一種類だけを」
「少な過ぎる」
「エレベーターボーイは素朴な職業で、それで事足りるのだ、こそ泥殿」
 ホロンの前には新聞の束があった。シーフは情報を武器に生きる職業だ。複雑化された社会では様々な点から物事を観察して、そこから策略を立てて生きのびねばならない。そして、時の流れもホロンの味方だった。印刷技術は発達し、情報はかつてなく早く伝わる時代となりつつあるのだ。
 ホロンは確かにシーフだし、企業組合のダンジョン管理部にもそう登録していたが、自分はただの世間一般に認識されている、いわゆる二枚舌のこそ泥よりも大物だろうと考えていた。
 相手がモンスターだろうが、冒険者だろうと、あるいはそれ以外の一般人であってさえ、策と、腕前さえあれば盗めないものなどないのだ。そこには独特の定理があった。そのために、ホロンには敵が多いが、それもまた生活に勢いをつける事柄だ。
 ホロンは最近、自分をプランナーと呼んでいる。だが、残念ながらそんな名のジョブは登録することができなかった。
 ホロンは一枚の新聞を広げた。
「見ろ、これを。西方の都市で新式の熱水機関が開発されて、特許を取ったようだった。いま街で使われているものの二倍の効率だとよ」
「悪いが、大して興味をそそられぬ。エレベーターの籠をひっぱるケーブルは確かに熱水機関で巻き上げられるが、俺のエレベーターの籠がやるのはそのケーブルにしがみついたり離れたりするだけでな。俺と熱水機関に直接の関わりはない」
 ホロンは興をそがれる。
「毎度のことながら、私がどんな話題を持ってきても反応薄いな」
「俺がエレベーター以外愛せないことを知らなんだか、こそ泥殿?」
「こそ泥じゃない。プランナーだ。とにかくなにか仕事以外にも趣味を持とうよ。奇抜なアイディアって奴はまったく異質のジャンルが融合して生まれるものなんだ」
「なぜに俺のエレベーターに奇抜なアイディアが必要なのだ?」
 ホロンは嘆息してその話題を切り上げることにした。だが、すぐに顔を上げ、げっ歯類のように悪戯っぽく目を光らせて言った。
「エレベーターボーイ、エレベーターを失った後、どうやって生きていくか考えてみたらどうだい?」
「馬鹿を言うな」
 エレベーターの声はモンスターのうなり声のようだった。
「俺がエレベーターを失うなんてことがあってたまるか」




 ダンジョン。
 エレベーター抜きだと、冒険者たちは途方もない長さの階段を上り下りせねばならず、移動だけで彼らは疲れ果ててしまい、もうダンジョン制覇の余力など残りはしない。
 一方、エレベーターは一日三交代制の大勢の労働者と熱水機関抜きでは、ものすごいパワーをまとってダンジョンを縦横に駆け下りることなどできない。一昔前は人力や、水力のエレベーターが使われていたが、それも今は昔。今日ではそんなのろのろと動く代物は顧みられることはない。
 時代は加速しているのだ。
 遅いエレベーターというのは、利用客のみならず、エレベーターボーイにとっても我慢ならぬ、ストレスの源にしかなりえなかった。




 ダンジョンの法律的な所有者で、開発主任でもあるダンジョン・マスターの激励の声が、頭上の建物から伝声管を伝わって下りてきた。
 建物中のエレベーターが動き始める。
 冒険者たちーー彼らはさらにダンジョンに潜る目的によって、モンスターハンター、マップメイカー、トレジャーハンター、コレクターなどに分類され、そしてレンジャー、アーチャー、ウォーリアー、シーフなどに、得物、戦法、ライフスタイルによっても分類された。
 彼らはエレベーターに乗って暗黒の世界へと下りていき、不運で未熟な者はそのまま帰ってこない。
 エレベーターボーイは、ここ数日、毎朝姿を見せる、熱心な冒険者を20階層へと下ろし、そして新品の鎧に身を包んだ五人組を9階層に下ろした。蛮族風な趣深い鎧の二人組は16階層へと行き、プロ拳闘士のような出で立ちの男たちはトレーニングと称して、ほとんど手ぶらで4階層へ行った。
 昼前には見知った顔がやって来た。三年ほど前からこのダンジョンに集中しているボンダーという頬髭を生やした大男で、嵩張る丸い盾と彼の身長ほどもある長斧を使った。
 今日はさらに網や火鉢、食器といったものまで装備している。
「新しい戦闘スタイルを思いつきでもしおったか?」
 エレベーターボーイがエレベーターの入り口に置かれた使用済み切符入れの樽を磨きながら尋ねると、
「ノー」
 ボンダーは首を振った。
「食事のためだ。と言っても、モンスターを食べるのではない。以前、7階層の回廊にタマネギを植えておいた。そろそろ大きくなっているはずだ」
「なるほど。ダンジョンの中でモンスターを成長させているなんらかの作用が、タマネギにも働いておるかもしれんな。それにモンスターはタマネギを食わんから、案山子を立てる必要もないとのことか」
「そして、その後には奥の水路で魚を捕る。あの水路にはダンジョンの奥のどこからか、魚がまぎれ込むんだ、知ってたか? 魚はダンジョンの中では弱り、すぐに死んじまうが、おかげで捕るのは造作もない」
 ボンダーは調理用ナイフで宙になにか描きながら言った。
「魚は近所の地底湖から来ておるのだ。同様の水路はいくつかの階層にあるぞ」
「なに!? そんなの知らんぞ! それはどこだ! 教えてくれ! 頼む!」
 ボンダーは懇願した。この男はダンジョン内の魚釣りスポットのハンターも自称しているようだった。
「あとで俺の部屋まで来るがよい。適当な値段で売ってやろう」
 エレベーターボーイは言った。冒険者よりも長くダンジョンで過ごすエレベーターボーイは、ダンジョンの側面に関して冒険者よりも知識を多く持つということが多々あり、こういった情報はいい収入となる。
「だが、しかし、ダンジョン内の魚やタマネギで生きていかねばならぬほど、おぬしは貧乏でないはずだぞ」
「ああ。だが、最近の急激な人口増のおかげでなじみの定食屋もタベルナ屋台も大行列。どこも三時間待ちよ」
「気の滅入る話よな」
 エレベーターの籠の中の鐘が鳴った。エレベーターシャフト上部のケーブル制御機構内で、労働者たちが交代を終えたのだ。
「出発だ」
 細身のエレベーターの操り手と、大男の冒険者はエレベーターの籠へと歩んでいった。
「タマネギの収穫が済んだら、次は豆でも植えてみることにしよう。二刻ほどしたら迎えに来てくれ。そのまま腹ごなしに50階層に向かう」
「よかろう」
 ボンターはエレベータの籠の敷居をまたぎ、切符をエレベーターボーイに渡した。
「一日エレベーター乗り放題のエレネットを買わぬか? 数多くの階層を行き来する場合はいちいち切符を買うよりか、お得ぞ」
「おいおいエレベーターボーイ! 商人みたいな口ぶりだぞ!」
 ボンダーが大声で大げさに嘆いた。
「このダンジョンの中に商業の害悪を持ち込むとは! ダンジョンとは冒険者にとって職場で、生き甲斐である以上に、聖域であるともいうのに! エレネットだ?」
「少し金を稼いで、エレベーターの発達に貢献せぬかと、投資を始めようと思うただけのことよ。西方都市で新たな熱水機関が開発されたというし、それが実用化され、導入されれば俺のエレベーターはより優れたものとなる。おぬしのダンジョンにタマネギ埋めるよりかはましな試みに思えるぞ」
「誰の入れ知恵だ?」
「ホロンだ。シーフの」
「シーフか! まったく堪え難い連中だ! まったく堪え難い! ウオオオオオ!」
 ボンダーはウォーリアーで、つまりは戦士なのだが、彼は自分を特に怒れる狂戦士バーサーカーと称している。冒険者には自分を大仰な称号で呼び、呼ばれたがる者が多い。
 彼は自分の称号の正しさを証明するかのようにその場で怒り狂い、武器を振り回しはじめた。エレベータボーイは別に驚きを顔に表しはしない。これはこの大男の準備運動のようなもので、多くの腕のいい冒険者がこういったものを必要としていた。エレベーターボーイ自身がエレベーター操作の前に行う入念なチェックと似たようなもので、精神統一を目的としているのだ。
「ウオオオオオオオオ!」
 だとしても、そう広くもないエレベーターの籠の中をびゅうびゅうと長斧の刃が飛び交うのはエレベーターボーイを落ち着かない気分にさせる。職場であるエレベーターの中で、こういった邪魔が入ることは、エレベーター操作の妨害になりえた。
 エレベーターボーイは自身のエレベーター操作に常に完璧な物を求めるのだ。
 彼は籠を急降下させて、ボンダーの体を宙に浮かせて彼の怒りに水をさすと、7階層に着いた途端、大男を籠から蹴りだしてしまった。
 それからしばらくの間、主シャフトを人間の怒声がこだました。




 冒険者たちの質問にこういうものがある。
 エレベーターボーイよ、エレベーターの操作ばかりで退屈ではないのか、冒険者と一緒にダンジョン攻略をしようとは思わないのか、と。
 エレベーターボーイは全くそうは思わなかった。
 剣を振るう。呪文を唱える。化け物を切り刻み、焼き滅ぼす。そういった行為になんの興味も見いだせない。
 彼のエレベーターが万全に作動しているときこそエレベーターボーイは幸せなのだ。
 変な男だ。冒険者たちは彼を評価する。
 そしてエレベーターボーイもまた彼らを同様に評価している。
 だが、エレベーターボーイはダンジョンという危険な職場に魅了されていたし、その点のみで冒険者たちと共通点をもっていた。




 エレベーターボーイはエレベーターの籠を走らせ、シャフト壁面に敷かれているレールの具合を確かめていた。レールはダンジョン内を高速で駆け回るのに不可欠なもので、レールが考案される前の高機動エレベーターはたびたびシャフト壁面にぶち当たり被害を出した上に、横方向へ移動するために大変な労力を要した。
 ジーッと音がしてブザーが鳴った。籠の中の円形表示板には0から100までの数字がびっしりと描かれているが、今、針は0を指している。
 次の冒険者が地上でエレベーターを待っているのだ。
 エレベーターボーイの指示に従い、籠はがたごと上昇を始めた。
 高度計の針がぐるぐる回転する。
 いささかスピードがつきすぎたことをエレベーターボーイは認めた。籠の、レールを掴む力を強め、ブレーキをかけた。
 火花がやたらめったらと散り、騒音は百人の狂った僧が金切り声でなにかを詠唱しているようにひどいものになった。だが、エレベーターボーイにとっては慣れたもので、毫も動じない。
 衝撃とともに、エレベーターの籠は0階層、つまり地表へとたどり着いた。
 ダンジョンの中の作られた光ではない、白い陽光がもやの向こうからエレベーターボーイの目を貫きにやって来た。冷却水が灼熱したブレーキに吹き付けられ、もうもうと湯気が上がる。
 エレベーターボーイは計器の上、エレベーターの停止とともに動きを止めた刻時機を指で叩いた。
「三分八秒。ふっ、そう悪くないタイムよ」
 格子扉を開けて外に出ると、客たちが唖然としながら立っていた。
 金属の閃光とともにともに地底の底から雷のように出現した籠。スピーディーな現代であってさえ、これほどの速さで上下する乗り物はそうは存在しない。
「で、何階へ?」
 エレベーターシャフト内に立ち入るべからず、と書かれた床板を踏みながらエレベーターボーイは尋ねた。
 客は二人組で、新顔だった。
「64階層で」
「……まあ、構わぬが」
 この二人はお世辞にも64階層ほどの深みで通用する腕利きには見えなかった。だが、こういう時代だ。エレベーターボーイは客の行きたい階層へと運んでやることにしている。
「切符を」
 二人がさっとエレネットを見せたので、今度はエレベーターボーイの方が驚いてのけぞる。
「俺以外にも、まったく偶然に似たようなお得な切符システムを始めたエレベーターボーイが他にもいるわけか?」
「エレネットは先日、技術関連の雑誌にあるプランナーが投稿した案で、それが色々なエレベーターで採用され始めているのですよね」
 女の方の客が言った。
 ホロンはエレネットのアイディアを街中にばらまいたわけか。
 奴がエレベーターボーイへ直々に導入を勧めに来た理由も明白だ。エレベーターボーイもそれを始めたのなら、それはエレネットにとってこの上ない宣伝となることだろう。
 利用されたことを知ったが、自身にとってもそれなりの利益をあげるだろうことから、エレベーターボーイは怒りをおさえた。
 客の、男の方はケラルムでウォーリアー。女の方はシフィエラでプリーストと名乗った。二人とも異人種のようだった。おそらくは、海の向こうの東洋のなんとかという大帝国からの移民か、旅人だろう。
 エレベーターの籠が降下を始めると、シフィエラは種らしきものをざっと床にまいて、それを手にとった。
「噂できいたけど、ダンジョンの中で植物栽培の実験が始まったんですってね?」
「実験? あれがか?」
 エレベーターボーイは顔をしかめた。ボンダーのタマネギ栽培のことを指しているのか?
「……まあ、そういう噂も聞くな」
「で、私たちは今日、ダンジョンにトマト、キュウリ、セロリ、その他食用の野菜を数種類植えてみるんですよね」
 エレベーターボーイがよろめいた。
 このダンジョンで作物を育てようと考えること自体、驚きで、常軌を逸していると思えた。たしかに、ボンダーの件以外にも、ダンジョン内でタマネギや食べれる地衣類などが育つことがあることを、エレベーターボーイは知っていたが、そういったタフな植物でさえ、この闇の中では虚無に取り込まれてしまいがちだ。
 虚無に堕ちた存在は動物であれ、植物であれ、我々光の生物とは異なる場所に属するものへと変化を遂げる。ダンジョンに済むモンスターも、その祖先が虚無に堕ちるまでは人間の家畜だったとしても、あるいは人間そのものだったとしても不思議ではない、とダンジョン関係者の間で考えられていた。
 そのため、冒険者はあまり長くダンジョンに浸るのを避けたし、エレベーターボーイもまた然りだった。
「……せいぜい頑張ることだ」
「我々の種はチェンホー大学の農学部から借りて来たもので、長年の交雑の結果、驚くべき品種改良がなされているそうだ」
 ケラルムが低い声で言った。
「きっとダンジョンの中でも十分に育っていってくれるはずですね」
 シフィエラが東洋人特有のさえずるような物言いをした。
 肝心な点は、ダンジョンがただ薄暗い小部屋などではなく、歴史の始まる以前の大昔になんらかの禁じられた主題のために掘られた、なかばこの世と異なった世界であることにある。
 タマネギやニンニクは古来より魔を遠ざける作用があることを知られているが、トマトやキュウリにはそれがない。そういった野菜を手に狼男や吸血鬼と戦う英雄の物語は聞かない。トマトやキュウリはダンジョンの闇の影響をもろに受けるのだろう。
 そう遠くなく、落胆が二人を襲うことを予想できた。
 だが、エレベーターボーイはいちいち説得してまで、二人を止めようとはしなかった。
 エレベーターボーイのことをよく知らない人は、彼を無口で不親切な人間だという評価を下しがちだ。実際には、それに加えてエレベーターボーイには無意識のうちに、酔狂な試みから生まれる、ある種の芸術を賛美する傾向があった。
 よかろう、ダンジョンにトマトやキュウリを植えるがよい。
「データのためにはなるだけ多くの階層に植えなければいけないわね。とりあえず、手始めに64階層にお願いしますね、えーっとーー」
 シフィエラはエレベーターボーイの胸の名札を見ようとした。エレベーターボーイは名札なんかつけていなかった。
「俺のことはエレベーターボーイと呼ぶがよい」
「でも、エレベーターボーイってのは職業名ですね」
「うむ。だが、俺以外のエレベーターボーイは皆、名を名乗るゆえ、俺がエレベーターボーイと名乗ることにはいかほどの問題もない」
 エレベーターボーイは断言した。
「でも、おまえ、ボーイって年齢にゃ見えないぜ」
 ケラルムが薄く笑って言う。
「エレベーターアダルトってところか?」
「エレベーターミドルエイジマンの方が的を射ていませんかね、ケラルム先輩?」
「おお、うるさい」
 エレベーターボーイは普段より大きな音をたててエレベーターを操作して、客の声を耳から閉め出した。
 60階層を過ぎたところで、エレベーターボーイは籠の落下のスピードを落とした。ここでエレベーターの籠のつかむレールを変え、地上からつながるケーブルを切り離した。
 そこからは横穴の、緩やかに傾斜したレールを滑っていくのだ。
 ダンジョンは非常に複雑な形状で、主シャフトの他にこういった横穴はいくらでもあった。
「落下の角度が変わってるぜ」
「横穴にはいった。俺のダンジョンのシャフトは蜘蛛の巣のごとき複雑さで、俺はいつも最短の道を選ぶ。一本道のシャフトしか持たぬエレベーターなんて物はエレベーターと呼ぶに値せぬな」
「すごいな……単にエレベートするだけじゃないのか」
 ケラルムは表情を変えなかったが、その声は驚きを表していた。
「ああ、エレベートってのはエレベーターの語源の言葉ってのを知ってるか? エレベーターはエレベートの第二文型所有依存格でな。二世紀ほど前に共通言語が伝わってくるまでは、この大陸の誰もがそういった雅な言葉を話していたのさ」
 ケラルムが知識の一端を披露したが、エレベーターボーイの反応は冷たい。
「そんな事を知っていてなんの足しになる」
「ケラルム先輩は言語学科で学内有数の成績を収めたんですよね」
「くだらぬな。ダンジョン内にてそういう知識は無意味だ。モンスターの爪と牙を防ぐのに必要なのは、勘に運や判断力、素早さであろうよ」 
 ケラルムは挑戦的にくっくと笑った。
「我々は知識で常識を覆さんというわけだ。まあ、見てな。我々はモンスターを分析して、弱点を見つけ出す」
「そして、階層にトマトやキュウリを沢山植えて、そこからさらに大量のデータを手に入れますね」
 妙に自信にあふれた二人組は64階層に下り立った。全ての階層同様、ここにも壁に巨大な64という数字がある。
「トマトやキュウリを植え終えて満足したら、そこのエレベーター呼び出しボタンを押しな。数分で来てやる」
 シフィエラが、過去に64階層を制覇したマッパーが作ったに違いない地図を取り出した。
「それから、地図をあまり信用し過ぎぬことだ」
 エレベーターボーイが忠告した。
「マッパーだってプロだろう? いい加減な仕事はしないはずだ」
「だが、ダンジョンは成長しておる。少しずつだが、常にその形は変わっていく」
「馬鹿言え」
「信じる信じないは勝手だ。だが、俺もプロだからいい加減なことは言わぬぞ」
 二人は半信半疑の表情だが、すぐに気付くはずだ。
 エレベーターは冒険者たちを置き去りにして、新たな横穴をおりて、主シャフトを目指した。


 実際ダンジョンは成長している。
 人の見ていないところで、音もなく、少しずつ、広がっていく。古くなり劣化した区画は、これまた静かに壁に吸い込まれて消えていくという。
 ダンジョンは冒険者を食べて新陳代謝を行う獣で、都市の地下に潜む病魔であった。
 とは言え、都市はダンジョンから直接の被害を受けたことがなかった。ダンジョンはあまりに深い場所に位置し、水道管敷設工事の障害にはなりえなかったし、モンスターがダンジョンから這い登ってくるというのは、街の住民のあらゆる年齢層の潜在的な恐怖ではあったが、闇の生物が心地よいダンジョンを離れて、わざわざ騒がしい都市へ上って来たという証拠は一つとして存在しなかった。


 エレベーター乗り場周辺の一角は企業組合からエレベーターボーイに任されていて、彼の家もそこにあった。
 ビルの影となって乗り場は薄暗いが、ダンジョンから上がってきたばかりのエレベーターボーイにとってはそれでも十分すぎるほどの光度だ。
 駄馬同様、いくら優秀なエレベーターであれ、ぶっ続けで走らせ続けるとつぶれてしまう。加えてエレベーターボーイの健康に対する闇の問題もあった。
 そういうわけで、エレベーターボーイは自身を完璧にリラックスの状態へと持っていき、陽の光の差し込むスポットにおいた観葉植物にブリキのじょうろで水をやっている。鼻歌なども歌ってみるが、これは自身のエレベーターの籠が移動の際にたてる音を真似ているのだから、音楽の形にはなっていない。
 ダンジョンの闇は刺激的だし、エレベーターには中毒しているエレベーターボーイだが、こういう息抜きは必須だ。
 だが、急にその顔はダンジョンの深みにいる時のように、険しいものとなった。
 植物に異常があった。葉はしおれ、花は黒ずんでいる。毒をくらった冒険者のように病的な気配があった。
 そして、少しずつだが、植物の具合は日々悪くなっているのに気付いている。
 原因は?
 エレベーターボーイはじろりと首をめぐらし、上方へと目をやった。
 高架路線を、都市が消費するための石炭を満載した汽車が走っていく。その向こうでは、大型熱水紡績機を装備した工場から煙突が伸びていて、もうもうと粉塵や黒煙を吐いている。
 自分の庭先でこの有様だ。
 工場で働く労働者の肺の底には、植物を弱らせている空気中の塵がずっしりとたまっているという。治癒魔法さえ効果のない公害だ。
 モンスターに満ちた、地獄への入り口、ダンジョンでの冒険者としての生と、有害な空気の中、単調な作業に従事しながらゆっくり都市へ近づくのと、どちらがまともな生き方と言えるのだろうか。
 エレベーターボーイは庭の植物に目を戻した。
「……そのうちダンジョン産の植物を植えねばならなくなるかもしれんな」


 ジーッと呼び出しブザーが鳴って、表示板の針が64を指した。あの二人だ。トマト、キュウリ関連の仕事を終えたらしい。
 さらに何度もブザーは鳴る。
「何度も押さんでも聞こえているぞ」
 エレベーターボーイはクランクを回しながら言った。だが、ブザーは止まない。あの二人は忍耐を知らないのか、さもなければ切羽詰まった状況にいるのだろう。
 エレベーターが遅れたために冒険者が死ぬようなことがあってはならない。断じて、あってはならない。エレベーターボーイのプライドがかかっている。
 エレベーターボーイは急いで手順を進め、エレベーターはそれに応えた。
 エレベーターの籠はクロスボウから放たれた太矢のごときスピードでシャフトを駆け下りた。熱水機関から副産物として産まれた圧縮された空気を、エレベーターのすぐ上で解き放ったのだ。
 落下の障害となるケーブルはすでに切り離してあった。足下からの恐ろしい突風にエレベーターボーイはもみくちゃにされる。体が浮き上がるのを防ぐために脚の指で床の突起を掴んでいる。
 努力して目蓋をこじ開け、速力計を睨んだ。速力と時間さえ把握していれば、エレベーターの現在位置を割り出すのは造作もない。
 エレベーターボーイは最小限のブレーキをかけた。人間の可聴域を超越した金属の絶叫が脳を貫く。常人ならそれに苦しみ、のたうち回ることだろう。だが、エレベーターボーイにとっては心地よい音色だ。狂気の流星のように時たま火花が散った。
 エレベーターの籠は先ほどの横穴の地点に、先ほどの五倍のスピードでやって来た。
 エレベーターの落下の方向が変わる。エレベーターボーイはよろめき、籠の壁の鋼材に頭をかち割られそうになる。だが、エレベーターボーイの太ももの筋肉が壷貝のように張り出し、彼は落ち着き払って姿勢を直した。
 暗黒を切り裂いて、エレベーターの籠は64階層に飛び込んだ。
 状況が見て取れた。きらめく刀、モンスターのぬめつく表皮。
 すでにエレベーターの籠の格子扉は開いている。
「乗るがよい!」
 冒険者二人は、籠の中に駆け込み、モンスターも押し掛けて来た。
 ケラルムが振り向きざま、鋭剣を突いて、モンスターの皮から血がぶーっと吹き出し、床ではねた。
「エレネットを見せよ!」
 エレベーターボーイが格子扉をどしんと閉めて、モンスターの首を挟んだ。ウツボと狼の合の子のようなモンスターが吠え、その頭は籠の外へと消えた。
「そんなもん、荷物の大半と一緒に奥に置いて来た!」
 ケラルムが格子扉の隙間から刃を突き出しながら怒鳴る。
「無いのなら降りよ!」
「なんだって!?」
「こっちも商売でな! ただ乗りを許す余裕は無い!」
 新手のモンスターが籠にずしんと頭突きをかまし、三人の足下が揺れた。
 格子扉に穴が空いて、モンスターの顔がその向こうから押し寄せてくる。
「なんて野郎だ! ぶん殴ってやるから、そこで待ってろ!」
「こういう国で、こういうダンジョンなのだ!」
 ケラルムが忙しくモンスターを斬りながらいきり立った。その背後でシフィエラが財布を開けると、エレベーターボーイに金貨を放った。
「地上行きの切符を二枚ね!」
「毎度あり。車内乗車券は普通の切符より高価だから、釣りは出ぬぞ」
 エレベーターの籠が動き出すと、モンスターは一層激しく籠を攻撃して、今にも格子扉は破られそうになった。
「シフィエラ、『インフェルノ』を使うんだ!」
 ケラルムがモンスターを食い止めながら怒鳴った。シフィエラが腰から、なにか小さな陶器のようなものを掴んだ。ポーション回復薬かと思いきや、彼女はその先端の紐を引っ張り、格子扉の隙間から放り投げた。
 直後、大爆発がダンジョンを揺さぶる。
 地下深き64階層に新たな太陽が生まれでもしたかのような光と熱が広まった。モンスターの一団はその場で焼け死んだ。
 エレベーターの籠は巨人に投げられでもしたかのように、めちゃくちゃに跳ね回り、中の人間を多分に痛い目に遭わせる。だが、脱線だけはしなかったらしい。
 エレベーターボーイが格子扉越しに外を睨むと、エレベーターの籠は追ってくる炎の壁を引き離しつつあった。
「いまのは魔法か?」
「いや、インフェルノは技術学部が作った爆薬の試験体だ。おまえ達が火筒に混めている黒い火薬よりも遥かに高性能で、点火するまで安定している。坑道の爆破を模して、ダンジョン内での使用を頼まれた。危うく焼き殺されるところだったがな」
 ケラルムが答えた。
「でも、密閉空間での効果でしょうけど、あのサイズにしてはすごい爆発でしたよね。時計の機構を応用して、なんらかの時限点火装置を考案できるかもしれませんし、それなら爆発は離れた場所での安全なものとなりましょうね」
 シフィエラが目を輝かせて言う。
 二人はモンスターから逃げ延びて来た冒険者らしく、ぼろぼろの身なりで装備の大半を失っていた。それでも、トマトやキュウリをダンジョン奥深くに残してきたのだから、ダンジョン探索はある程度成功したのだろう。
 この二人が再び64階層に潜れば、トマトとキュウリ関連のなんらかのデータを手に入れ、それ相応の利益を得るはずだ。
 だが、この二人にその度胸はあるか? エレベーターボーイの経験は、野菜は64階層に放っておかれそうだと告げて来る。まあ、それはこの二人の問題だ。関わる必要もない。
 その時、どすんと音がエレベーターの籠の天井でした。エレベーターボーイはダンジョンの天井の一角がはがれ落ちて来たことを頭に思い浮かべたが、さらに鍛冶職人が金属を叩く音が続いた。
 籠の天井が火花を散らす。
「モンスターだ! 天井の上におる!」
 エレベーターボーイの警告が飛び、籠の天井の鋼鉄の板を、白いものが貫いた。ケラルムが血をまき散らして床に転がる。
 天井から突き込まれたのは新月刀のように光る、ぎょっとするほど長いモンスターの爪だった。死を免れたモンスターの一匹が、エレベーターの籠の上にくっついて同族の復讐に燃えているのだ。
「ケレルム先輩! あああ、どうしよう!」
 シフィエラが頭を抱えた。彼女の先輩は肩を貫かれていた。すごい出血量だ。
「おぬし、プリーストだろう? 回復の魔法はどうした?」
「魔法を発動するためのマジックポイントが足りなくてーーああ、先輩!」
 彼女の声は悲鳴になりつつあった。
 まったく、素人というのは嫌なもんだ。一流の冒険者は、弓使いなら矢を、魔術師なら魔力をきらすといったことを決してしないものだ。
「回復ポーション一瓶を金貨一枚で販売しておるが、いかが?」
 エレベーターボーイは相場の十倍の値段を口にしたが、金貨はすぐに飛んで来た。冒険者がこんなのばかりなら、エレベーターボーイの生活もずいぶん豊かになろうものだ。
 エレベーターボーイは籠の片隅におかれた箱を開く。この箱はクーラーボックスと呼ばれていて、最近の熱力学の発達の賜物だ。箱の内部は人工的に安定な環境を保たれているので、エレベーターがダンジョンの過酷な環境を上り下りするにもかかわらず、質のいい様々なポーション薬が並んでいる。
 シフィエラは購入したポーションの、赤いどろりとした液体をケラルムの傷口に注いだ。薬が折れた骨をつなぎ、裂けた肌を塞ぐ際の激痛で、ケラルムは歯を食いしばり、床に爪を食い込ませる。だが、ポーションの仕事は確実だ。数秒後には、冒険者は怪我をしたことなど、さっぱり忘れたかのように起き上がった。
 さて、エレベーターボーイは頭上の脅威に対処せねばならない。モンスターは爪を何度も突き入れ、振り回していたが、しゃがんでさえいれば問題なかった。
 だが、モンスターは籠の天井に大きな穴をあけて、籠の中に侵入しようとしてくる。モンスターの怪力で、天井の鋼鉄の板を留めるボルトがきしみはじめた。エレベーターボーイは速度計と刻時器を睨み、
「なにかに掴まれ!」
 二人の客に怒鳴って、制御舵を握った。
 エレベーターの籠は鋭く傾斜したレールを高速で駆け下りていたが、次の瞬間、唐突に垂直の落下に切り替わった。64階層からの横穴は終わり、地上へ通じる主シャフトにたどり着いたのだ。
 普段ならスピードを徐々に落として、主シャフトのレールへと乗り換えるのだが、今はその暇も無かった。
 二人の客が悲鳴を上げて籠の壁に叩き付けられる。そして、二人だけではなく、天井の上のモンスターも急激な進路の変化についていけず、慣性に従って直進し、主シャフトの岩の壁にぶつかった。さらに跳ね返り、反対側の壁にぶつかり、跳ね返ってその反対側の壁にぶつかった。そのことをエレベーターボーイは音で知った。
 エレベーターボーイはレールが削れるほど、強力なブレーキをかける。その直後、突如停止したエレベーターの籠の天井に、回転しながらモンスターは激突してきた。
 エレベーターの各所が苦しむような音をたて、煙を吐いていた。
「いまのは、流石のモンスターにもこたえたであろうよ」
 エレベーターボーイは言った。
「なんて乗り物だ……」
 ケラルムが弱々しく評価を口にした。
 怒りの嵐をも圧しただろう途轍もない騒音は、エレベーターの籠が停止するとともに失せ、今ではダンジョンのたてる低い音のみが辺りを支配していた。
 エレベーターボーイは刻時器を指で叩く。かなり無茶な機動だったが、このエレベーターの籠はエレベーターボーイの芸術作品だ。この程度なら、まだ大きな不都合は起こりえない。
 穴だらけになった籠の天井板からモンスターの血がぽたぽたと滴った。
「モンスターは死んだのか?」
「あるいはな」
 エレベーターボーイは天井を睨んで言った。
 エレベーターのケーブルは地表で切り離して来たが、今の振動でケーブル操作員たちはエレベーターボーイに気付いたはずだ。
 エレベーターボーイのケーブル操作員たちは企業組合のなかでも最も訓練された連中で、レールやケーブルを伝わる振動や音でエレベーターボーイの意図を読み取ることができたし、逆にそれほどの腕前を持たないものはエレベーターボーイの役には立たなかった。
 エレベーターボーイはケーブルが来るまでこの地点で待っているだけでいいはずだ。
 シフィエラが立ち上がろうとしたが、エレベーターボーイが素早く手で制した。
「どうやらまだ安全にはなっておらぬようだな」
 三人の客は天井の上で、人間のものとは根源の異なる殺意のうねりを感じた。モンスターが咆哮をあげた。なんと恐ろしき咆哮。それは籠の梁や壁を伝わって、エレベーターの乗客の骨と内蔵を揺さぶった。
 モンスターが先ほどよりも怒り狂っているのは間違いなかった。天井からやたらと爪が突き込まれ、モンスターは頭突きを繰り返す。
「64階層の連中の獰猛さには、げに特記すべきところがあるな。主シャフトに来てなお、攻撃衝動をおさめぬとは」
「何とかならないか?」
 ケラルムが剣を探りながら尋ねた。
「天井はもうもたないぞ」
「俺のエレベータの籠だぞ。まだもとうよ。それにーー」
 ゴツンっと三人の頭上で太い音がした。
「モンスターも大人しくなった」
 籠の天井の穴からぼとぼとと、モンスターの血が滴ったが、今回はそれに肉片が混じっていた。
「……何が起こった?」
「このエレベーターを地上まで引き上げてくれるケーブルが地表から下りて来たのだが、モンスターが立っていたところはケーブル接続機構の真上だったということだ。奴はそれに頭を砕かれおったようだな」
 エレベーターボーイは大して興味も表さずに言い、数あるレバーの一つをのしかかるようにして引き下ろした。籠の天井部から四本の金属腕がケーブルをがっちりと掴んだはずだ。
 エレベーターボーイは籠の壁面をまさぐり、小窓を開いた。金槌を握った手をそこから出して、シャフトの壁面を走るレールを打った。特異なパターンの金属音が主シャフトを上がっていった。
「エレベーター動力室の連中に合図を送った」
 エレベーターボーイは言った。音は遥か頭上の動力室までレールを伝わり、今頃労働者たちが走り回っていることだろう。
 巨大な炉の高熱水蒸気が急激に冷却され、その負圧が車輪を回転させるのだ。エレベーターの籠は引きずられるように上昇を始めた。エレベーターボーイは計器のチェックを怠らないが、なんの異常も無いようだった。
「すぐに地表に着く。くつろいどれ」
 エレベーターボーイは座り込む二人にそう言い、それから天井へと目をやった。天井はひどく傷ついていた。これは板そのものを交換しなければならないだろう。
 しかも、エレベーターボーイの見ている前でぎしっと音をたてて天井の亀裂はさらに広がっていく。
「ん?」
 天井板がめくれあがり、モンスターの顔がのぞいた。
 つぶれて半分ほどの大きさになった顔で、残った一つの目が赤く燃えている。ノコギリの刃の形の歯を向いて、そいつは鋭い声を発した。
「なんという生命力。不死身か、こいつ? おぬしら64階層のボスをあそこまで連れて来たのか?」
 籠の天井部の重要機器がおさめられた梁はモンスターでも壊せはしないが、天井の板はもう駄目だ。
 エレベーターボーイの傍らの冒険者は異国風の鞘からすらりと剣を抜いた。ケラルムは丁とモンスターのかぎ爪を切り払い、刃を天井に差し込んだ。血が雨のように降ってくる。
 直後にエレベーターボーイの脚払いが彼を床に倒した。モンスターの両腕が寸前までケラルムのいた場所を薙ぐ。
「立ち上がるでない。ちょっと斬っただけで殺せる奴ではないぞ!」
「どうしろってんだ!」
「奴を食い止めるのに専念しろ。俺に手がある」
 何本ものビスが外れる甲高い音がして、モンスターが奇怪な木の根にも見える上半身を籠の中に入れようとしてくる。ダンジョンの闇を見慣れたエレベーターボーイにさえ、それは途轍もないものに見えた。ぎょっとするほど大きい手から伸びた、攻撃の本性、かぎ爪が襲いかかってくる。
 ケラルムはうおっと叫んで、責め苦から逃れようとする子供がやるように、床を転がった。その横を床を削りながら爪がかすめる。
 シフィエラの錫杖がうなりを上げてモンスターを打つが、折れたのは彼女の得物の方だ。
 エレベーターボーイはかがんで高度計と速度計を睨む。彼は戦闘に参加しない。彼にとって自分の体を使っての戦闘など専門外の上、興味も無い。彼にとってはエレベーターがなによりも大切で、エレベーターもそれに応えてくれるのだ。
 籠は上昇を続ける。いいスピードだ。エレベーターはこの上昇がここ数日で最高のスピードになっていることを肌で感じていた。
 ケラルムが肩で転がりながら、剣を振るったが、もともと籠は中で戦闘をすることを想定した広さが無かった。彼はモンスターの攻撃をかわしきれずに、隅の方に積まれた緊急物資の山に突っ込んだ。
 シフィエラが投げナイフを放つが、モンスターの腕が翻って、分厚い手のひらが金属の飛翔物を受け止める。モンスターの赤い目が嘲笑を浮かべるように光り、シフィエラが息を詰まらせるような声を上げた。
 エレベーターボーイの見ている前で、計器の針は恐ろしい回転を続けた。籠の上昇のスピードはおよそ経験したことの無いほどのものになりつつあった。階層を通過するごとに異なった空気の層を突き破り、その際の音はどんどん鋭くなっていく。そして、階層ごとの異なった色の光が、壊れた格子扉ごしに籠の中に差し込んだ。その間隔は短くなっていった。
 モンスターの腕が、多くの頭をもったヘビを想像させる滑らかな動きで、床の上で目を回すケラルムに狙いを定める。
 階層通過の音が、ついには連続した一つのものとなった。
 そして、突如として、壊れた格子扉の向こうから、光が瀑流となって籠の中になだれ込む。全てがはっきりと浮かび上がり、人間の目はその光に焼かれるようで、目を開けていることすらできなくなる。
 エレベーターボーイの手が、制御盤の硝子に包まれた部位を貫き、その向こうのボタンを叩いた。
 冒険者たちの命を狙っていたモンスターの腕はとどめを刺しにやってくることはなく、代わりに籠の天井の上で、まぎれもない悲鳴が上がった。


 エレベーターシャフトの上でエレベーターに動力を与えている動力室。巨大な胃袋に見える熱水機関エンジンが、広大な部屋に熱と湿気をふりまいていた。この巨大機械の機嫌を損なわないように、劣悪な環境の中を労働者たちは走り回っていた。
 そのとき、足下の床が破城槌で一撃でもされたかのように揺れて、誰もが尻餅をついた。
 その上の階では、片眼鏡をかけて、書類を睨んでいた企業組合の会計士たちが椅子から転げ落ちた。
 さらにその上の階で、お茶を飲みかわしながら異国の使者と商談を進めていた企業組合の専務たちが、茶器を振り回しながらぎゃっと叫んだ。
 そういった具合にダンジョンの上に立っていた建物を大きな振動が襲った。


 エレベーターの籠の、壊れた格子扉をどうにか開いてエレベーターボーイは地表のエレベーターの乗り場に下り立った。陽の光がいつものように、暗黒に慣れきったエレベーターボーイの目を貫いた。
 籠の中、天井からぶら下がるモンスターの腕は、光を浴びてしぼんでしまったかのように、力強さを失ってだらりとぶら下がっていた。モンスターの本体はもっと悲惨な状況にあることだろう。モンスターは今、主シャフトの天井と、エレベーターの籠の隙間の、指先から肘ほどもない高さの空間に挟まれ、押し広げられているのだ。
 籠の天井の穴から流れるモンスターの血は止まる気配を見せず、おかげで二人の客はざぶざぶとその粘着質の水たまりを歩いて籠から出なければならなかった。
 二人とも口をきくのも億劫そうだった。