受験生
そしてついに試験の日がやってきた。
私はがばっと起きて、失望のため息をついた。別に試験が嫌なのではない。ただ、今まで味わっていた快楽と至福の一時がただの夢で、現実とは何ら影響を与え得ないことに気付き、そのことが残念だった。夢の中勝ち得た名声、打ち立てた功績、培われた精神的高みに上るための意識の鍛錬の経験は失うには惜しいほど燦然と輝き、私を頭上から照らしていた。
試験が近づくにつれ、私はこのような夢ばかり見るようになっていたのだ。
私は時計へと目をやる。そして、私は奈落の底へ突き落とされるような恐怖に包まれる。
「寝坊〜!?」
私は喉よ、枯れよ、と悲鳴を上げると布団をはねとばした。部屋から転がるように駆け出す。扉を開けるのももどかしい。私の体はライフル弾のように回転しながら扉にぶちあたると、それを突き破った。
「……ふむ。慌て過ぎか」
扉にできた人間の形の穴を見つめて私はつぶやいた。
「はい、これ」
頭から木屑をはらう私に服が手渡される。
「いやあ、ありがとう。……って、イザベラ!」
茶色い巻き毛と柔らかい声の持ち主である同居人が私の背後に立っていた。
「イザベラ! どうして! 起こして! くれなかったんだ!」
「頼まれたかしら、そんなこと?」
「さあ、どうだったかね」
意地悪め。
なんにせよ、私は着替えた。私に着られた服はぴしっとしていた。おそらくはこの地上のいかなる服よりも私に似合っていることだろう。長い時間をかけて試験の準備をしてきた私に、試験の日の服装が似合うのは実に道理をわきまえたことなのだ。
「意地悪? そんな事はないわよ」
朝食の席でイザベラが話を蒸し返した。
「ほう? それがなぜだか聞かせてくれるかな?」
「思うに試験はもう始まっているのではなくて? 今回の試験では、例え寝坊しようとも試験会場にたどり着こうとする気骨のある人間こそが評価されるのよ、きっと」
私は紅茶を吹き出しそうになった。
「ははは。面白い冗談だ」
だとすれば試験の主催者は受験生一人一人の睡眠時間を操作して、試験の日に限って寝坊するようにしむける力を持つとでも言うのだろうか。
「私が相手しようとしているのは昔話にでてくる大魔術師や悪霊の類か? 違う。ただの試験だ! 紙に書かれた文字の群れだ! どうしてそれが私にそう力を及ぼしうる? 試験とは、合格した後、合格者になにが起こりうるか予想できない点で形而上学的行事だが、試験そのものは単なる通過儀礼に過ぎない」
「採点者は人間よ」
「だとしても! 試験の主役は受験生である私であるべきなのだ!」
私はそう叫んで締めくくる。イザベラは珍奇の昆虫を見る目で私を見やっているが、私は一切気にせずナプキンで口元を拭う。
「試験があなたの想像を超えるようなものだとしたら?」
「そんなことはありえない。断じて」
食事は終わりだ。私はイザベラを残して立ち上がる。
確かに寝坊したのは予測外の出来事だったということは認めよう。だとしても、全ては準備できている。私の予定は一つや二つの些細なミスで動くようなものじゃない。今日は私の人生での物事の集結点なのだから、私のプランはある種の芸術と呼ぶべき複雑な安全策が組み込まれている。
「では、行ってくるとしよう」
イザベラが追いついてきて、さっさと私の首に襟飾りのリボンを巻き付けはじめた。
「なに、ただの試験さ。なんの問題もなく終わるだろう」
「いい結果を出して世界中にあなたの勇名を鳴り響かすことを期待してるわ。もしかしたら、あなたの結果に新聞社が興味を持つかもしれないし、そしたら、新聞にのれるわよ。素敵ね」
イザベラがささやくように言った。すると、なんだ? 私の試験結果は新聞社に開示されるのか?
「イザベラ、私が試験を受けるのはこの受験生活を終わらすためなのだぜ。いい結果を出すことは過程でしかない」
私は眉間にしわを寄せ、歌うように言ったがイザベラがリボンをきつく締め上げたので、私の声は爬虫類の鳴き声のように低く響いた。
私はちらりと腕時計を見て思案する。時間はそれほどひどくはない。
「私が渋滞に巻き込まれるといった問題にぶちあたらない限りは、十分に時間内に試験会場にたどり着けるはずだ。必要なのは、そうさ、ほんの一握りの幸運だよ」
「ふうん、そう。だとしたら……」
イザベラが分厚い扉を開いた。
「あなたにはとんでもない量の幸運が必要よ」
冷たい風が厳しく私を打つ。
「そうか。なるほど。雪か」
外は吹雪だった。
そしてようやく私はバス停にたどり着いた。
私は肩で息をしながら、バスの急な階段を上る。足のまわりでかんじきが騒がしく音をたてた。バスの運転席で、運転手と助手が背を丸めて火鉢にあたっているのを見て私の凍り付いた怒髪が天を衝きそうになる。
「出せ!」
「おう」
運転手が新しい火鉢を奥から引っ張りだす。
「違う!」
「バスは出ねえ。この雪だもんな」
「タイヤに鎖が巻いてあったぞ! あれはなんだ、飾りか?」
「ああやっておくとタイヤがしゃきっとして劣化が遅くなるんよ。とにかくバスは出ねえ。こんな日はのんびりと動かないで、体表からの熱放射をおさえるに限るな」
運転手が言うと、助手もじっくりとうなずいた。
私がどう頼んでも駄目だった。報酬をはずむと言ったが、彼らは首を縦に振らない。彼らの興味は経済へと向いていない。そこでそれとなく脅してみるが、彼らはそれとない脅しに気付きさえしなかった。
私は頭を抱えて雪の中へ崩れ落ちた。
「あああ……こんなところで足止めをくうだなんて。今日の試験のための長きにわたる鍛錬は無駄になってしまうのか……」
「なに? 試験を受けにいくって? なんでそいつを先に言わねえんだよ! 乗りな!」
二人はハンドルに飛びつき、エンジンをふかした。
なんてこった。信じがたい。渡る世間に鬼はいないというのか? バカな。
世の中はもっと無慈悲な物であるべきだ。
だが、私の心の中の疑念などおかまいなくバスは走り始め、私の街は雪の向こうへと消える。
バスの客室はじめじめしていて、不快なほど暑かった。安香水と煙草の匂いがこもっている。
私は懐から黒表紙の小さな本を取り出した。勉強などではない。そんなものはとっくの昔に終わっている。今の私は、試験範囲の古典的伝承や化学式を暗唱するくらい造作もない。これは詩だった。試験の前には詩を読むことによって精神を完全なる平安に置くことが求められるとされている。
私の詩は自作だった。ずいぶん昔のことだが、詩を創作するのが私の趣味だったものだ。それは受験に専念するために捨てたものの一つだった。プロの詩人の洗練された詩であれ、私の大昔の稚拙な詩であれ、得られる効果は一緒だろうと考え、これを持ち歩いていた。
前方でガッチャンと客室の扉が開く音がして、足音が近づいてきた。それは私の真横で止まる。
運転手だった。逆光のため、見下ろしてくる彼の顔は黒く見えた。
「運転の調子はどうなのだね?」
「悪かねぇ。すぐ着く」
初老の運転手は言葉を区切るように発音した。
「このバスはすぐにマフィンズヒルに着く」
「ん?」
私はゆっくりと彼を見上げた。
「このバスはルーズヴェルト行きのはずだぞ。試験はそこで行われるんだ」
「ルーズヴェルトには行くさ……」
重たく、冷たい金属が私のこめかみに押しあてられた。
「だが、おめえはマフィンズヒルで降りるんだ、受験生」
運転手のかまえる六連発銃を見て私は一瞬ひるんだ。バスの運転手は武装を許されていたか? 思い出せない。試験範囲外の事柄だ。
「……あんたらのバス会社の株が安い理由はこれかい?」
「黙れ。受験票をよこしな。俺の家は貧しくてそれを買うことができねえんだ。だが、俺はついている。俺はそれで息子に試験を受けさせてやることができるんだ」
「貧しいあんたの息子は十分な教育を受けたのか? 優秀な師人をつけて学ばせたのか? 伝承の写本を買って覚えさせたのか?」
運転手の息子は文字さえ読めないのではないか、との想像が頭をよぎったが、良識が私の口をつぐませた。運転手は答えなかった。その目は血走っている。私はなおも言ってやる。
「それらをさせていないなら受けさせない方がいいぞ。試験はそんなに易しい物ではないはずだ。息子がかわいそうだ」
「黙れ!」
男が怒気をほとばしらせる。対して私は落ち着きを完全に取り戻し、静かな目で男を見やる。
「俺は貴様らのような裕福な人間だけが試験を受ける機会を与えられるのが許せないのだ! この行動はその理不尽さを正すための行動でもある!」
「そのためには人に銃を突きつけ、話を聞かすわけか」
「試験で評価されるべきなのは、受験票を買えるべきかどうかではなく、受験票を奪える大胆さを持ち合わせているかどうかであるべきなのだ! さあ、受験票をよこせ!」
「いやだね」
男は私が反撃を試みるほど大胆な人間であることは考えていなかったようだ。
私の右手がはね上がり、男の腕をつかんで銃をそらす。男は一声吠えて、私の腕をもぎ放そうとした。
バスのエンジンの騒音のおかげだろうか、客室での銃声は助手の耳へ届かなかったらしい。
バスはマフィンズヒルで止まることなどなく、ルーズヴェルトに到着した。バスが止まるが早いか、私は客室後部の扉を押し開け、転がり落ちた。雪が冷たく私を包み込む。
工場からの排煙のため、ここの雪は灰色だった。私を濡らしていた血がそれと混じって赤茶色い水たまりを作り出すのを見て私は悲鳴をおさえられなかった。今ここで警邏が私を見たら、平和な受験生ではなく、人食いの習慣を持つ野蛮人を想像することだろう。
だが、試験に備えて作り上げた私の精神は直ちに制御を取り戻していく。背後ではバスが雪煙とともに走り去っていった。私は雪で両手と顔を拭い、腕時計を指で叩いた。濡れたにもかかわらず、しっかりと動いていた。立って歩き出せばまだ十分に間に合うはずだ。
私は鞄を手に凍った道を歩いていった。湿った衣服が冷たくのしかかってきた。
天下は泰平といえるのに、試験の日に限って襲われるだなんてのは、なにか悪い冗談のようだった。今の私の姿を見てもイザベラはひっそりとした口調で、これも試験の一部であると言うのだろうか。そしてまた、あの運転手の男が求めたことを試験に備えた課題の一つとでもいうかのように背負っていかねばならないのだろうか? だとしたら大変だ。
そしてついに試験会場に到着した。
門を通るとそれと分かるほど空気が変わった。闘争の空気だ。
長きにわたる受験勉強の成果のおかげで、私の精神状態は最適へと近づいていく。目にはいつにも増して野心の光がきらめいているはずだ。
建物の入り口で番兵が立ちふさがった。私は受験票を差し出した。
「受験番号115番。試験へようこそ。どうぞこちらへ」
番兵は奥へと手をやる。
「試験は間もなく始まります」
「待て」
もう一人の番兵が制した。
「あまり似てない」
番兵は受験票が私の物であることを証明するための、私の似顔絵を指した。
「こいつは似顔絵ほど黒くないぞ。替え玉受験だ。失格だ。失格だ」
「それはシルエットという画法だよ。そっくりな肖像画を描いてもらうと時間も金もかかるからな。私の影を描いてもらったわけだ」
「ふむ。ひっかからないか。だとすりゃ本物である方の可能性が高そうだな」
番兵が受験票を返した。
「だが、本当に本物かどうかは試験が明らかにするはずだ。試験は、偽物が受けようたって、簡単に見抜いちまうのさ。そういう奴は合格できねえ。試験の前で嘘はつけんよ」
「心にとどめておくよ」
私は言う。
私は待機のための部屋に通された。暗くて広い部屋に多くの受験生がその実力を隠して待っている。彼ら全てが敵同士だった。海千山千の曲者ぞろいに違いないが、私もそうだ。部屋の中央の囲炉裡で炎が赤黒くめらめらと燃えている。
座ったとたんに名を呼ばれた。試験の時間になったのだ。
今度は試験官が受験生を調べ、番号順に受験室へと導き入れていく。
「どうだい? うまく合格できると思うかい?」
「さて、どうだろうねぇ」
私の背後の地味な姿の二人組がぼそぼそ言うのが聞こえる。
「いや、でも頑張らにゃならんねぇ。試験でいい結果を出せば、お役人になれて退職するまでいい待遇を受けれるらしいからねぇ」
思わず苦笑が私の顔にあがる。とんでもない田舎者も混じっているようだ。
「試験を誤った仮定、目的から受けようとしているだなんて、なんだかかわいそうですね」
私は目の前にやってきた試験官に受験票を渡しながら笑いかけた。
「役人になれることを望んで試験を受けるとはね。こんな間違えを抱えて試験を受けることは正しいこととは思えません。試験とは、合格した後に、国家によって市民権とそれにともなう権利を拡大、強化してもらうことによってより高次な活動を行えるようになることを目的としているのに」
だが、試験官は私に向かって嘆かわしげに首を振ってみせた。
「まったく違う」
「ええ?」
「試験とは受験生に秘められた潜在的な可能性を探る物なのだ。これによって人類がこれからどのような歴史を築いていこうとしているのか予測しようという大胆な試みなのである。また、受験生自身も自己の力量をより明確に自覚でき、相応の利益を得るのだ。君の言う、権利だのなんだのというのは、まったく意味をなさない的外れな考えだ」
私はがっくりきた。
「とはいえ、私は試験の全てを把握しているわけではない。試験とは一介の試験官が把握するには深遠すぎる行事なんだよ。おや、大丈夫かね?」
「全然平気です」
私はたちまち回復して、にっこり笑った。
こういったことも予想していた。試験を受ける動機には変奏する余地をこさえておくべきなのだ。私はなぜ試験を受けようと思ったのだろう? この問いに対しても、防御力を高める意味合いをもたせてぼかされた解答しかもっていなかった。
つまり、私の動機は不明瞭なのだ。
試験に合格する。それが重要だった。
私の通された試験の部屋は古い部屋だ。無数の冷たい石の机が私を待ち受けていた。灰色の床の上には木の葉が散らばっている。建物の構造から考えるに、これと同様の構造の部屋が多く存在し、受験生を試すために彼らを収容しているのだ。
私は席に着いた。壁に穴でも空いているらしく、ひゅうひゅうと寒々しい風が吹き込むのを感じた。だが、それは問題ない。試験会場がこのような状態であることを想定して、私の勉強部屋にも壁に穴が空けられていたのだ。
全ては予習済みだった。
部屋が受験生で一杯になり、準備が整った。部屋の一番前には教会の説教台のような高台があり、試験官の長が立っている。長が重々しい口調で試験を始めることを宣言した。
「オマエタチ、プリントヲ、ウラニシタママ、ウシロヘ、マワセ……」
鎧を着た試験官達が、妙に金属的な声で言い、受験生へと試験用紙を手渡した。試験用紙は奔流となって受験生を襲う。
やがて、全受験生の机の上に問題用紙が束となって行き渡った。いまや神々しいまでに白い紙が受験生の前に鎮座し、四角いその姿で私達を睥睨している。一人の受験生が悲鳴を上げながら目をおさえ、椅子から転げ落ちた。彼の両目が問題用紙の白さに耐えられなかったのだ。その男は直ちにつまみ出された。
受験生はおのおのの得物を手に取った。羽のペン、鉄筆、むき出しの木炭……。文字を書ける物ならなにを使っても許さる。
私の武器は鉛筆だ。これを形作る木は私の名の由来となった大木を削って作られた物だ。それは産まれた時からそこにあるべきだったかのように、私の手に収まった。
「カイトウヲ、ハジメルガ、ヨイ……」
試験官が言った。全受験生の百とも千ともつかない指が紙をつかむ。腕の筋肉が作動し、間接が回る。万もの問題用紙が机の上で裏返された。それは嵐のような音を産み出す。緊張は度合いをさらに増した。
試験の用紙は、その裏側のように無言の白さではなかった。黒い文字が、文字の形をしたありとあらゆる、考え得る限りの罠を張り巡らしているのだ。これを解き進むのに必要なのは融通のきく頭脳と、不屈の闘志だ。
周囲の受験生達は、試験を早く始めることが、そのままよい結果に結びつくのだとでもいうかのように、突き進んでいった。試験会場は製材所のように騒がしい。声に出されない思考のつぶやき、手元の文具を振り回す音。
だが、私は待った。
一人の受験生が、試験そのもののあり方に疑問を持ち、教場の生徒のように高く手を挙げ、試験官に疑問を投げかけようとした。だが、試験官は答えない。試験中は全てを自力で探り出すことが求められるのだ。その受験生はつまみ出される。
また、片隅では三人の受験生が集まり、試験に関して相談を交わそうとする。三人よれば文殊の知恵とでも言いたいのだろうが、はき違えている。それはカンニングだ。直ちに三人はつまみ出された。
この場に適さない者はどんどん取り除かれていくのだ。鎧の試験官達は机の間を金属音をたてながら歩き回り、不振な動きをする者はいないか見回している。受験生によっては、彼らに気を紛らわされることもあるのだろう。
その間にも、私は私の持つ力が形を整えていくのを見守っていた。
私の内側に長い時間をかけて作られた白い輝き、弾丸として力強いうなりを上げている。
私は目を見開き、問題用紙を睨みつけた。傍目には用紙相手に透視か、邪眼の練習をしているようにでも見えよう。だが、私の見ているのは問題用紙の二次元の表面的な視覚情報だけでない。問題用紙の文字の真の問い、質問の中のエッセンスだ。
私は目で見るもの全てから意味を見いだそうとする。
貪欲に情報をむさぼる私。そして、この情報は受験生を殺そうという冷酷な毒でもあるのだ。それが私の中で渦を巻き、内側から私を食らい尽くそうとしてくるのを感じる。それに応じて私も視界を自身の内面へと転じた。
免疫系のように、吸収した敵からデータを抽出し、最適の戦略を選び出すのだ。
よし、もういいだろう。敵を十分に理解した。
私は慎重に狙いを定めて白い弾丸を発射した。それは回転しながら、罠に満ちた黒い森へと突入する。直後、白い光が爆発し、全ての敵意が照らし出された。これは私を導く光なのだ。純白の風が吹き荒れ、黒の樹々は苦悶に震えた。
今こそ、攻撃の時だ。いや、攻撃というには語弊があるかもしれない。私がやるのは伐採に近かろう。その正体を暴かれた問題が、私の鉛筆になぎはらわれていく。標的が砕け、倒れる音が私の胸へと轟いた。
「試験とは過酷な行事だ。受験生はまったくの受け身な存在であって、試験側はほんの気まぐれでこちらを蹴り落とせる。こちらが数年、あるいはそれ以上の時間をかけて積んだものは実にあっさり吹き飛ばされてしまうんだ」
かつて、私の師人が言ったものだ。
「すると、私はかくも傲慢な試験官、あるいは姿を見せぬ採点官を憎むべきなですね」
「いや」
師人は頭を振った。
「それは無理だな。試験官なんてのは試験を構成する欠片の一つであって、憎むこと自体不可能だ。憎むべきものがあるとすれば、それは試験そのもの、システムだよ」
部屋には多くの受験生がいるし、ここ以外の会場でも試験は同時に行われる。受験生や、会場ごとに配られる問題は違うとの説もあるし、あまりに広範囲な知識を問うのでその必要はなく、全員同じものを受けるのだという説もある。どちらであれ、私は実際うまく戦っていた。
私は受験生の中でも最も熟達した受験生であるはずなのだから。予備学校で数々の試練を打ち破り、単位をとった。その中で私が作り上げていった精神の鎧は雷電の輝きをまとっている。私にはそれが見える。
受験生とは特異な人間だ。驚くような鍛錬を積み、極限を追い求めるというのに、その目標は修練僧の求めるような真理ではなく、具体的なものでしかない。社会のシステムのどこにもその居場所がない。受験生それ自体が社会になんの貢献もしていないのだから。ただひたすら、試験のために驚くほど実用性に乏しい知識をためこむ集団、私はそういう階級の人間なのだ。
私はなおも試験を解き続ける。試験は私の力の前に砕かれ、破片をまき散らす。
「試験の日が定められているのは正しいことなのでしょうか?」
かつて私は師人に尋ねた。
「受験生がその日に限って流行病に罹るかもしれません。あるいは会場に向かう中途に暴漢に襲われ、傷を負うやも。そういった体調では試験に太刀打ちすることすらできないでしょう。試験は受験生の真の実力を測りたがっているのではないのですか?」
それに対して、師人は短く答えた。
「そのような不運に襲われたのだとしたら、その受験生は所詮その程度の運の持ち主だったというだけだ」
戦いは激しさを増し、続く。私は眼前に立ちふさがる要害を次々と攻略していく。
時間感覚はとうに消失してしまった。試験の経過を表すのは、私に制圧された問題用紙の束だけだ。摩耗のため役に立たなくなった鉛筆を捨てて、新しいものを手に取った。
新たな力がわき上がるのと同時に、私は眼前の問題用紙の全体像をつかみ、このまだ解いていない隠された脅威へ意識の手を差し入れる。巨大なタイムテーブルに微細な調整が加えられた。
いま私が対面している問題用紙も恐れるには足らない。私は静かにそのことを認め、その問題用紙に襲いかかった。
「だが、おまえは複雑過ぎる」
声は言った。私の手が一瞬止まる。だが、すぐに動きを再開した。
「なにやら訳の分からぬものを山ほど背負って、自分のまわりを囲んで」
これは誰の言葉だったか。師人か。あるいはイザベラか。いや、もっと昔に父から言われた言葉だったかもしれない。
私はぼんやりと考えた。手は作業を続ける。
「試験はそんな付加物に興味はない」
そうだろう。私は試験のために不要なものは全てそぎ落とし、後方に捨ててきたつもりだ。
私はいわば一本の矢だ。ただ一つの目標しか目に入っていない。私は試験を倒すのだ。
「試験が見たがっているのは、受験生の本質だ」
声は消える。手は問題を解き続ける。
微々たるものだったが、私はその兆候に気付いていた。
問題が難しくなっていく。
ある一定の曲率に基づいて、確実に、少しずつ難易度が上がっていく。それが意味することに気付いて、私は重たい服の下でぞっと鳥肌を立てた。
試験の、その重みが数十トンの質量として私の前にそそり立っている。いままで霧が巧妙にその姿を隠していたのだ。
よかろう、私の行く手を阻むが良い。
私は武器を手に持ち、鎧を身にまとい突進する。
鉛筆の先端は高速で回転するモーターだ。全てを巻き込み、整然とした形へ裁断していく。
試験は問う。尋ね、求め、要求する。その白い顔の下には牙が隠れている。引き込まれたら、一瞬で細切れにされよう。
私は自信の笑みで答え、計算し、求めるものはやつの目の前に並べてやる。
私の並べる黒い文字は完璧だ。
文字は球体を表し、螺旋を描き、最後には渦となる。
数多くの問題用紙が屍となり、道を開ける。
だが、試験は考えられないほど盤石なのだ。一つの問いを砕くと、より強い二つが。一枚の問題用紙を制覇すれば、それより複雑な二枚が。
私は気炎を吐く。強敵が現れたからといってなにを躊躇うことがある? 私は目につくものを片端からなぎはらっていった。
どろりと空気は重くなり、腕を、足を動かすのが難しくなる。私は竜巻のように戦い続けた。岩石のような問題が倒れて、私はまた一歩前進する。次の問題用紙へと手を伸ばす。
まだ解いてない問題用紙は束となってそこにあった。それは一向に減っている気配を見せなかった。
私の顔に常に浮かんでいたであろう余裕の表情はここに至り点滅し、消え果てた。私の素顔を守る仮面は失われた。
いま、私を代わりに包むのはなんなのだろうか?
「これは……疲労か?」
声に出さずに自己の分析をつぶやいた。
私はがりっと奥歯を噛み締め、鉛筆を握る指に力を加える。
私は白い弾丸を投げ落とし、罠を照らし出そうと試みた。だが、かつて、あれほどの光を放った弾丸はかすかな火花を発しただけだった。視界を全て罠の悪意に塞がれ、光が私のもとまで届かない状況になってしまったということに私は気付いた。
私は息を吸い込んだ。だが、肺には空気の代わりに罠の作り出した虚無がなだれ込んでくる。
「もし試験に、誰も合格させる意図がなければどうするのです?」
かつて私は師人に尋ねた。
私の足が止まった。ここまで来てしまったのだ。
「どうするって?」
師人が急に泣き笑いのような顔をしたので、私はびくっとした。
「どうしようもないに決まってるじゃないか」
彼はつぶやいた。
「全力で……その空恐ろしい想像から気をそらすんだ。忘れるんだ。他に手なんてない」
私はなにも言えなかった。
もし試験者側に合格させる意図がないのなら、受験生の努力は限りなく空しいものとなる。
私が至ったのはいわば特異点だった。私の全ての能力をもってしても突破し得ない一点。心の中で自分自身が叫び声を上げているのを耳にした。いままで聞いたことのないような叫びだった。
だが、同時に安堵の気持ちを感じていた。これ以上、この強大過ぎる敵を相手せずに済む。疲労極まる戦いをしないで済む。その安心感だった。
解いてない問題用紙は今なお、束をなしている。そこには私が想像だにできなかった難問が並ぶ。他の受験生の問題が私のとまったく同じ、あるいは同等の難易度であった場合、私の進んだ場所までやって来れる受験生の数はゼロに近いだろう。仮に私よりも鍛錬を積んだ受験生がいたとしても、その者が進めるのはせいぜいあと一枚か、二枚といったところだ。
この戦いを制覇できる者がいるとすれば、もはやその者は人間を測る物差しで測ることはできない者に違いない。この試験が求めたのは千年に一度の天才だったというわけか。
私はその滑稽さを微笑んだ。
とにかく、私はいまや敗北した。私のこの長い旅もまったく無意味なものであったことが明らかになった。バケツの中に閉じ込められた地虫が出口を求めて這い回ったのと同じように、なんの解決も意味しなかった。求められたのは、そう、翼をもつ者だった。
私は無意識のうちにこの決定を受け入れようとしていた。予備学校は私に敗北の方法まで訓練していたのだ。私はその手順に取りかかるとしよう。
私は人生の唯一の目標を失うことになるのだし、この後のことにはもうなんの興味もなかった。
「違う」
私はささやいた。
「試験があなたの想像を超えるようなものだとしたら?」
かつて誰かが言ったのを思い出す。
「違う」
私は首を振った。
「こんなものではないんだ」
私は総毛立った。埋没していた暗闇の中、私は立ち上がる。条件付けによって作られた偽りの安心感は一瞬で吹き消えた。
今の私は一個の敵意だった。私は私の中で怒声を聞く。流れる力を察知する。全身が発火しているような熱さを感じた。
試験が私の想像を超えるようなものだとしたら?
それがどうした、と笑ってやろう。
怒りの笑みが閃光のように私の顔に作られた。だが、同時にとまどいも感じている。
私はどこへ行こうとしているのだろう?
この怒りはなにを示すのだろう?
試験でこんな感情を持つことは不利になることしか意味しない。大昔に削ぎ落とされたはずの感情だ。それが私の心の中、他の優先的な部分を食らって、野火のように広がっていく。
私をどこへ駆り立てようというのだ。
この冷徹な分析の思考も、溢れ出る怒りの前にかき消されようとしている。だが、最後の一瞬には一つの結論が脳裏にひらめいた。
本能。
目の前に置かれた謎を、解かずにはいられない人間の習性。
私を試験へひっぱっていたものの正体が明らかになった。それが私の制御権を握るのだ。
炎が全てを焼き焦がす。
「試験が見たがっているのは、受験生の本質だ」
かつて声が言った。
「じゃあ、見せてやるよ」
私は言った。
無造作に、躊躇なく。動きに無駄はなかった。
私は鉛筆を捨てた。それは背後へとくるくる回りながら消える。
「見せてもらおう」
試験は言った。私の口の中はからからに干上がり、心臓が激しく胸を打つ音で、他はなにも聞こえない。
試験の言葉は問題用紙に文字として存在した。
当然だった。文字とは意思を伝えるためにあるのだから。
「まずは理解せよ。試験の偉大さを」
試験の声は圧力で、衝撃だった。私の頭は割れそうになった。だが、目をそらすことは許されない。
「偉大だと?」
「試験は降臨する。超然と。人類の唯一の敵として」
「敵」
しかり、試験とは敵だった。私は理解する。試験とは敵。そして試験を受けることは戦いを意味した。
太古、人類が幼かった頃、我々のまわりには強大な力を持つ敵に満ちあふれていた。だが、やがて世界は変遷し、人類は炎を作り、文字を産み、世界を手にした。
敵はいなくなってしまった。
「それは正しくなかった。全てのものは戦い合う定め。これは法則」
試験は言う。
受験生は受け身な存在などではなかった。試験と受験生は対等な敵だ。試験は無慈悲な敵だろう。だが、元来自然とは無慈悲なものだった。
私は震える手でまた一枚問題用紙をめくった。
「私達の敵であるように、試験は作られたのだな」
「試験は大きくなる。強大な試験はやがて包括する。人類を。全てを。多くの試験により、人類は再編される。そして調節されることだろう」
私は試験の言葉を一笑にふした。
「おまえは敵だ」
私は苦しい息の下で言った。
私は祖先が、どんなに強大な敵を前にしても怖じ気づくことを知らずに、敵を嘲笑していた光景を頭に思い浮かべた。これは私が産まれる前から知っていた光景に違いない。だが、私自身が祖先と同じ立場に立って初めて意味をなす知識だった。
私は多くのことを思い出した。
体は重く、目は焦点が合わない。だが、今の私の心は誇らしい気持ちに満ちている。どれほど眼前の敵が大きく、強大であろうと、私はあきらめるつもりはなかった。
「おまえを食ってやる」
私は歯をむきだし、笑った。
「それがおまえの本質か」
「その喉笛、噛み裂いてやる」
「やってみるがよい。試験は逃げはしない。隠れはしない。常に存在する」
敵はそのとてつもない力で私を翻弄し、叩きつぶす。しかし、私はもうひるみはしない。どれほど痛めつけられようと笑って敵を嘲り続ける。
闇の中、私は傷ついた体を引きずり、敵へと這い進んだ。その足は遅々としたものだが、かまいはしない。
恐ろしい寒さの中、私の体の震えが止まることはなかった。気がつけばいつも暖かい洞窟を探していた。
予備学校のことも、家のことも、イザベラのことも意識に上ることはなかった。それらは遠くの世界の出来事でしかなかった。
空腹を抱えてさまよううちに、祖先達が私のまわりを共に歩んでいるのを感じた。
私達は歩き続けるのだ。
いつしか、私達は言葉を口ずさんでいた。それは歌か、あるいは詩か。その場で考えだしたものかもしれないし、あるいはさらに昔から伝えられたものだったのかもしれない。
闇の中での旅に終わりは見えなかった。その場で足を止めて死んでしまうのはたやすいことだろう。あきらめた瞬間、死はやってくるはずだ。だが、それは惨めな死に方だった。
選ぶことは許されない。死ぬ時は戦いの中でなければならなかった。
五感はうまく働かず、周囲を把握することはかなわない。それでも体の奥へと響いてくるなつかしい旋律に私は動かされて進んだ。
そしてついに敵の居場所へとたどり着いた。
ちっぽけな生き物が悲鳴を上げて逃げ出していく。哀れな生き物だった。
だが、私は捕食者。逃がしはしない。
抱擁するかのように、私の腕が獲物の胴へと絡み付く。そのおびえた顔に私は笑いかけた。
そして敵の喉笛に歯をたてた。灼熱が喉を下る。
光が爆発してなにも分からなくなった。
「お疲れだったわね……でも、もう起きて」
イザベラが雨戸を押し開け、日光が私の目を射た。私はうめく。もう少し寝かしてくれてもいいのでは?
私はのろのろと体を起こした。夢は見なかった。
「イザベラ……」
私の声はしわがれていた。
「おまえの言う通りだった。確かにあれは私の想像を超えるものだった」
「ええ」
「おまえ、試験のことをなにか知っていたのか?」
「あれ? 私も独自の目的のために試験を受けて合格したって言わなかったかしら? 三年前に」
彼女は片方の眉を吊り上げて言った。
初耳だよ。
「合格者はそれぞれの目的を遂げて普通に社会で生活してるわよ。……今なら、なぜ合格者がそのことを誇らないのか分かるんじゃない?」
「ああ」
分かる。試験はすでに倒した敵。私に敗北した、私よりも弱い存在。
もう興味を感じなかった。
「とにかくさっさと着替えてちょうだい……。新聞は届いてるし、電報もいろいろ来てるから。紅茶はミルクでいいわね?」
私の返事を待たずに彼女は部屋から消え、穴の空いた扉がばたんと閉まった。
窓から見える景色は雪解けの緑色。
そしてそれは平和で、私が喜んで生きれる世界だった。
試験のもたらしてくれた心の平安を味わいながら、私は立ち上がった。
2007 Examinee
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■あとがき!■
お読みいただきありがとうございます。
試験を受けるのに試験がどういったものなのか知らない受験生、に関してイメージしていてこの物語を思いつきました。
感想、助言などをいただけるととても嬉しいです。
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