
無限ひずみ
トレリはキャビンから出たとたん、海水を頭からかけられた。
海は荒れ、波が甲板まで押し寄せてきている。
これは、ただの嵐ではない。ひずみの嵐だ。
トレリが往年の人気DJノエル・マックスを意識してセットした髪型は乱れ、頭の上にのっけた、黒いもやしの束か何か、よく分からないものと化してしまった。
シャツからも水がしたたった。
船なんか大っ嫌いだ。
トレリは船に乗るのは初めてだった。甲板はやたらと挑戦的に傾き、トレリは甲板を歩いているつもりが、飛び跳ねていたり、匍匐していたり、とめちゃくちゃなことになっている。
これほど、揺れる甲板の上では、魂が身体からさまよい出て行っても、気付かないのではなかろうか。
だが、そんなことを案じてもどうしようもない。彼は意思の力で、心を落ち着かせ甲板を進んだ。
びしょびしょだが、どのみちこのスーツは南ル・タピー製の防塩水のpH調整繊維の厚手のもの。いかなる海に挑んだとしても、実害はないはず。セールスマンの言葉を鵜呑みにするわけではないが、スーツは塩水を涼しげに弾きかえし、外気とトレリの体温の温度差で、やたらと発電を行う。
おかげで所持電力は多かったが、腰に装着したラジオは、沈黙していた。
ラジオはこの海域に入った途端、「ここはあまりに危険だ」との言葉を残し、不活性化してしまった。
ラジオの気まぐれな声に、いいように振り回されるトレリではないが、実際、なんだか不安だった。
ひずみのせいなのか。
この船は、外輪式二胴船だ。ユニークな形状の船であった。
二つの細長い船体の間に柱やワイヤーが一見、無秩序に張り巡らされそこにコクピットがぶら下がっている。その様は発生段階の原腸胚期あたりになにか問題が起きたために、二つの胴を一つの頭に持つおたまじゃくしを思わせた。
なぜこんな形である必要があるのか。
これもひずみのせいか。
ひずみがやけに引き合いに出され、旅をおかしくしている。ひずみとは何なのだ。
伝わってくるひずみ災害というのも、リアリズムに欠けるものだった。
トレリは船体からコクピットへと伸びるか細い階段を下りていった。
階段は錆とフジツボででこぼこと盛り上がり、場所によっては段ごとなくなっていて、そこから海面がのぞいている。この船には修理が必要に思えた。
甲板の空いたスペースは、全て食用植物が植えられている。
手すりにはむかつくほどぬめぬめとした物がこびりつき、それが単なる付着生物なのか、航海の安全に不可欠な物かすら分からない。
ぼわあっと、吸血蚊の蚊柱が行く手をはばむ。
トレリのイヤリングから守護レーザーがほとばしり、蚊柱を焼き尽くした。他に電力を使うあてもない。
ようやくコクピットにたどりついた。
すだれをのけて、暗いコクピット内部に首を突っ込む。その狭い空間の奥深くに舵を握るオジェモンの姿があった。
「いよう」
彼はうなるような低い声で言った。
「塩梅はどうだい?」
「よくはないな。このひずみの嵐だ。波は乱れちまって、簡単には読むことは出来やしない。船も自分がどっち行ったらいいのか分かんなくなっていやがる。こうなっちまうと、俺はもはや自分の勘に頼るしかないのだ」
そう言いながらもオジェモンの手は船の舵を右へ左へと回すのに余念はなく、外輪プロペラの大歯車が切り替わるがちゃこんがちゃこんいう音が三秒に一度は弾けていた。
海に関して経験の浅いトレリは、オジェモンの言葉にどこか不安を感じた。
「こんなんであんたの目的地『楽園』にたどりつけるのかい、オジェモンさんよ?」
「う〜ん……」
オジェモンは眉間にしわをよせ深く考えている様子で、それがますますトレリを不安にさせてくる。唐突にオジェモンが何かをひらめいた表情になったのでトレリは身を乗り出した。
「腹が減った。飯でも食いにいこうかい」
「……そうだね」
オジェモンは重たい金属棒の留め具で舵をガチリと留めると、のっそり立ち上がった。
すると、食事中、この船は無人で航海するわけか。
それにしても、大柄な男だ。オジェモンが立ち上がる度にトレリは認識する。
大柄なだけじゃない。その姿勢はだらりとしているが、全身に力が秘められているのを感じる。
二人は狭いコクピットから出て、どかどかと階段を上った。
船員用の小さな食堂に入った。入るなり長身のオジェモンは吊りランプに頭をぶつけて粉砕してしまう。
食堂は薄暗くなり、丸い船窓からの灰色の光でオジェモンがぼうっと浮かび上がった。
彼の顔には刻まれた様な皺と鋭い眼光。体は岩石のごとし。薄いキモノを羽織っていて、その色は青か黒。ときによって異なる。髪はごく短い灰白色で、逆立った無数の針に見えた。なんという男だ。
トレリの目に眼前の男は地獄からやって来た邪悪な鬼の様に映り、かすかに身震いした。
その男が男がキッチンの方を向いて「うどん二人前!」などと怒鳴るのだ。
「おいオジェモンさんよ、いつ俺がうどんを一緒に注文してくれなんて頼んだよ?」
「うるさい奴だ」
どのみちこの食堂にはうどん以外のメニューがないことは双方承知していた。これは自分をときどきひるませるオジェモンに対する、トレリの言語的な牽制に過ぎなかった。
船の名はノジェモン号といった。
ザーン・タピー深長海域を八日ほどかけて横断する快速船で、外輪式にしては小型で船員も少なかった。
世の中が混乱し、ひずみの嵐がひっきりなしに海域沿岸を襲っていたのでこのビジネスは死滅したとトレリは思っていた。
だが、オジェモン氏が、世の流れに習うということがあるだろうか。
オジェモンはいかなる奇術を用いてのことかたちまちノジェモン号船長との契約に成功したのだ。
航海は順調に進んだ。ノジェモン号は見た目も内容もボロボロだったが、トレリの知るいかなる貨客船よりも速かった。
ただ一つ、奇妙なことがあった。
ノジェモン号の舵を握ったのは船のクルーではなく、船客のオジェモンだった。
これは何だ? 客を退屈させないための、新手のサービスなのか。
船はそれでも矢のように進み、今日中に問題なく西方大陸にたどり着くものと思われた。
だが、問屋もそうは簡単におろしてくれないようだ。
今朝がた、船は今年最大級のひずみの嵐に突っこんでしまった。
食堂を不気味な低音が包み、船の骨格がきしむ悲鳴の様な音が聞こえた。
トレリは自分をある程度の度胸を持ち合わせたそこそこ豪胆な若者と自認していたが、それは陸の上でのみの話だった。
この嵐の下、ボロ船の中ではとりとめもなく不安がわき起こってくる。
今では、操舵者のオジェモンが眼前でうどんを待っていることが不安でたまらなくなってきていた。
「舵の留め具が外れたりしないかい?」
トレリは早口で尋ねた。
「そんなに心配なら自分で見てくればいいだろ」
オジェモンが不機嫌に応えた。
オジェモンは落ち着いた食事を望んでいるのだ。先方の意をくんで、トレリは口をつぐんだ。
だが、トレリはそわそわそわそわと、落ち着かない。
オジェモンの言葉に従って、立ち上がろうとしなかった。
コクピットへ行ったはいいが、留め具は実際に外れていて舵が風車のごとくぐるぐるぐるぐる回っている場面を頭に描いて恐怖を感じていた。
トレリは舵よ、止まれ、と両手で掴むだろう。ああ、だが、舵は止まるまい。回り続けるそれはトレリの両腕を糸巻きの機械のように巻き取りながらもその勢いを緩めはしまい。
トレリは想像の中で自分の悲鳴を聞き、ぞっとした。
「おい、トレリ、七味をかけるぞ」
トレリは頭を振って不吉な想像を打ち払った。オジェモンを見ると二人分のうどんに七味をどばりとかけるところだった。
「わーっ! やめてくれ!」
「調味料は多い方が美味しいというのは一般論ではないのか?」
オジェモンはとまどった顔だ。
「どこの味覚の狂った人種の一般論だよ! 麺の三倍も七味をかけあがった!」
トレリはオジェモンの差し出した丼とお箸をひったくると、ずるずるずびびーと音をたててすすった。
こしのある太麺と赤葱との苦みのある繊細なフレーバーは台無しになっていた。
こうなってしまうと、もう麺の快楽の歯ごたえにて、至福に悶絶することもできない。
人生の幸せが一つ、無に帰した。
トレリは目に涙を浮かべると向かいの席に座る悪人を睨みつけた。
オジェモン氏も食事を開始したところだったが、すぐにその方法が異常であることにトレリは気付いた。口をかっと開いてうどんを胃へと注ぎ込むのだ。すすりも噛みもしない。
一秒で食べ終えてしまった。
なぜ、彼は風邪薬でも飲むかのようにうどんを飲むのだろうか。疑問がトレリの中で渦を巻いた。
ナプキンで上品に口元をぬぐうオジェモンがトレリの視線に気付いた。
「今度は何だ!」
「なんでそんな食べ方を……ああ、分かった。脳の咀嚼、嚥下をつかさどる部位に不調をかかえていて、やむなくそんな方法をとっているのか。かわいそうに」
「馬鹿か、おめえ。このオジェモンに不調なんてない。ただ噛んでいる最中に歯が食べ物に触れそこなって代わりに歯と歯がぶつかり合って火花が散り、それがなにかに引火でもしてしまったりするのが嫌なだけだ。ああ、そうだ! 俺は金輪際、物を噛みはしない」
オジェモンは力強く言った。
なるほど……あまりに頑丈な歯を持ってしまった男の悲しい悩みというやつか。馬鹿馬鹿しい、とトレリは思った。
とにかくオジェモンは、そういった様々な問題を解決するために、いろいろと一家言ある考えを持っていた。
オジェモンが食後の糠茶を注文した頃、船長が入って来た。パチパチと明かりのスイッチを押したが、無論何も起こらない。
「電球が割れたのか?」
「このひずみの嵐だ。割れないわけがない」
オジェモンが言った。
船長は老いた風采の上がらない男で、骨と皮ばかりの体に薄手の水兵服を羽織っていた。彼の真っ白な髪と髭は絡まり合っていて、それは突然変異を起こした海藻に見えた。――髪と髭だったらの話だ。それが何か寄生したモネラ界の生き物であるという可能性もある。
「わしのノジェモン号のサービスに満足しておるか?」
「ふん、貴様のノジェモン号か」
オジェモンはその口調にありったけの軽蔑や嘲り、その他諸々の負の感情を込めようとしているようだった。
「第一、なんで船客の俺が舵を握っているんだ?」
「わしはおじいちゃんだからね。ああいう厄介な仕事には向かんのじゃ」
老人はひっひっひと笑い、実際トレリには彼の言葉は説得力がある論に聞こえた。
「どのみちオジェモン、おぬしよりうまくこの船を操れる奴はおらんじゃろう」
「当たり前だ」
オジェモンはうなずいた。
どういうことだ。トレリにはわけが分からない。
オジェモンはこの船にとって通りすがりの船客ではないとでもいうのだろうか。
トレリは船についてああだとかこうだとか話し合う二人からトレリは注意をそらした。
と、壁に何かがかけられているのに気がつく。目が暗闇に慣れてきたのだ。
それは額に入れられた書類だった。
『ノジェモン号
MED:4192 オジェモン・ゴドルストーンによって設計、建造さる
MED:4194 年間最優秀快速船に選ばれしことをここに記す』
トレリは口をあんぐり。
オジェモンの船だって?
……なるほど。確かにノジェモンとオジェモンには似たような響きがあった。トレリはそれに気付かなかった自分を小声で罵り、ぽかぽかぶった。
その隣の額へと目を転ずると、そこには白黒の写真が飾られていた。十人近い男女とともに当時のオジェモンとおぼしき若い男がなにかの優勝カップを手に微笑んでいる。
写真のオジェモンの年齢は、今のトレリと同じくらいだろうか……。
「おい!」
突然、オジェモンの銅鑼のような声が響いてトレリは飛び上がった。
いつの間にか、老船長は消え、オジェモンが炯々と目を光らせ立っていた。
「おまえ、そこでなにを見ているんだ!?」
「ななななんでもないっ!」
トレリはばっと自らの体で壁の写真を隠した。
「怪しい。おまえの背後になにか大切な物が隠されているような気がするぞ」
オジェモンはぬっと立ち上がった。そしてのっしのっしと近づいてくる。
オジェモンの作り出す巨大な影にトレリは包まれた。その筋肉によってグロテスクなほど張りつめた腕がゆっくりとトレリへと伸びてくる。
彼は唇をひんむき、のどの奥で不気味なうなりを発している。
オジェモンは本気だ。
……ま、まずい。
ここでオジェモンと格闘したくはなかった。
言い逃れる手はあるか。
そのとき、ボォーッという低い音がどこかで轟き、オジェモンは彫像のように固まった。
「法螺貝の音! 物見がなにかを見つけたのか!」
オジェモンは身をひるがえすと、疾風のように駆け出した。その姿はあっという間に食堂から消失した。
ふう。トレリは止めていた息を吐いた。
今のは危なかった、とトレリは安堵の笑みを浮かべ、壁からオジェモンの写真をはずして懐にしまった。
オジェモンは自分の写真なんか全て焼いてしまって持っていまい。この写真は何かの役に立つかもしれない。
例えば、いつかオジェモンが唐突に自伝を書くなどと言い出した時などにだ。これを高く売ってやるとしよう。
トレリもオジェモンを追って猛然と駆け出した。
船体表面のはしごを登って、船で一番高い場所である物見櫓へと至った。
いまや海はゴロゴロという不気味なうめきに満たされ、風も強かった。ひずみの嵐がその本性を現そうとしているに違いない。
鋼鉄の櫓の上でオジェモンは腕を組んで海を睨んでいたが、その表情こそ鋼鉄のようだった。
彼はずしりと重い遠望鏡を投げてよこした。トレリはそれのフード式接眼部に目を押し当てる。
「陸かい?」
「ああ」
「いや……全ての可能性を考慮しておくべき時分かもしれないぞ。あれはあるいは意地の悪い蜃気楼と言う可能性はあり得ないか?」
とても用心深いトレリは行ってみたが、
「トレリ! ひずみの嵐がそんなこざかしい策を使わんことは知っているだろう! 奴等はやる時はガツンと手ひどくやってくるのだ! おおトレリよ! 様々な可能性をやたらと考えたがるおまえのその脳の悪い癖が、おまえに本当に重要な物事の本質を見落とすという致命的失策をもたらさないことを俺は祈ることしか出来ぬのだ!」
オジェモンは無意味に両腕を振り上げ、歌劇の主役のような芝居がかった口調で吠えた。
トレリは遠望鏡を投げつけて彼を黙らせる。
「あの遥か遠くに見える陸があんたの探し求める『楽園』なのかどうか教えていただきたいところだな!」
オジェモンはふうむ、とうなって考えた。
どうやらオジェモンは『楽園』というキーワードが関わるとやたらと長考の構えに入ると見える。
オジェモンはそのまま十五秒程考え、ようやくゆっくりと口を開いた。
だが、その時だ。
彼が声を出す前に、あらゆる方向から先ほどのオジェモンの嘆きの声が響いてきた。
二人の周囲三百六十度からオジェモン一万人分もの声が、各個にトレリの脳味噌の悪い癖について朗々と嘆くのだ。
荘厳な嘆き!
それはあまりに不自然で不気味極めた。
トレリは青くなってそこに設置してある救難ボートの下に這い込んだ。
「超常現象だ!」
なおも大勢のオジェモンの声が、船に圧力として降りかかる。
「オジェモン! これはなんの呪いだ!?」
オジェモンはショックを受けて立ちすくんでいた。その顔は不理解からくる悲壮に覆われている。だがさらに数秒経過すると周囲からオジェモンの声は薄まり、やがて消えていった。
「阿呆か!」
オジェモンはたちまちぷんすか怒りだした。
「なにが超常現象だ! 呪いだ! びびらせあがって!」
「ええ? ……じゃあ、今のは何だい? 熟練した腹話術でも使ったのかい?」
「違う! これはひずみこだまだ。非常に珍しい現象だがあり得なくはなかった。ひずみの壁がとんでもなく湿ってんだろうな」
オジェモンはひずみ関連の専門学問の中から一つか二つ、定理を取り上げて話した。だが、トレリにとってちんぷんかんぷんな話で、ひるまされる。
トレリはまったく無学な人間ではない。
だが、このオジェモンが、あのひずみについて語るのだ。
脳が機能停止に陥らないはずがない。
「ひずみ解析で有名なモーゼス博士の論文には目を通したか? ほら、あの『アナライザー』誌八月号の。なに? 読んでない? なんと!」
アナライザー誌は、発禁になったはずだ。
社会にとって、あまりに有害という理由で。
「しかし、まあ、モーゼスがバーベル自然科学賞を逃したのは惜しかった。奴の発見はひずみ学の薄暗き臓腑の底に一条の光を導いたようなものだったからな。モーゼス! ああ、あわれなモーゼス!」
モーゼスモーゼスモーゼスと、オジェモンはその名を連発した。
オジェモンはそのモーゼス博士だとかのファンなのだろうか、とトレリは考えた。
いや、もしかしたらそんなものではないのかもしれない。
このオジェモンのひずみに関する不自然な程の洞察の深さ。この世界を襲うこの不可思議な災害な対してオジェモンはなにか先導的な研究を行っていたのではないだろうか?
オジェモンの過去の記録は彼自身によってなにやら偏執的に破壊されているようだったが、そのような過去はあり得なくもないとトレリは確信した。
研究者オジェモン……トレリはオジェモンという名の偉丈夫が白衣を着てシャーレを微望鏡でのぞいている場面を想像しようした。
うまくいかない……。オジェモンは野外向けの男なのだ。
……いや、いける。
オジェモンには白衣がよく似合うじゃないか。これは意外。
「おいトレリ」
白衣を着た研究員オジェモンはフラスコに紫色の液体を注ぐと遠心分離のための車輪型機械へと歩み寄る。
「トォォレェェリィィ!!!」
トレリは頭を振って想像を打ち払った。顔の五センチ前でオジェモンがトレリの名を怒鳴っていた。
「なにか?」
「やたらと白昼夢にひたるんじゃねえ! まったく満足に会話も出来ん」
「寝不足でね」
「それで、さっきの俺の声の反射は論理的に十分に起こりえたわけだ。あれは四年前にベアトリス・ペンウォート・ホールでやった個人オーケストラで俺が使ったテクニックに似ているところがあったな」
海が吠え始めた。オジェモンの声が知りすぼみに消えていく。
「……で、これから上陸するんだろ?」
トレリは水平線にかろうじて見える陸を、呆然と見やりながらつぶやいた。
「ああ。だがそいつは簡単にはいきそうもない」
船の前方の海は天をつくかと思えるほど盛り上がったと思いきや、次の瞬間断崖を形作っている。
トレリは総毛立った。
細胞の一つ一つが、目の前の間違った光景に抗議しているのを感じる。
なんてこった。これがひずみか。
さすがのオジェモンも、これにはひるんでいいはずだ。
トレリはちらりと傍らの男を見てみる。
しかし、オジェモンの髪は初めから逆立っているではないか。びびっているにしても、見た目からそれを知る方法はない。ずるい。
海面はいよいよ激しかった。今にも濃い灰色の腕が海面から生えてきてノジェモン号を握りつぶしそうだ。
「コクピットへ行くとしようかい」
薄暗いノジェモン号コクピット。
「全てのことをおまえに教えている暇はない。お互い忙しい身だからな」
オジェモンが舵の留め具をどかし、その下の八本の制御レバーを指した。
「船後部の推進羽根車操作用三次元操作棒だ。外輪式羽根車は船の左右に四つずつあり、手動で切り替えながら出力を調節するんだ。ギアの切り替えは足下のペダルだ。三秒に一度の目安で切り替えろ。あんまり早く切り替えすぎても船が傷むぜ。さあ、やってみろ」
「ちょ、ちょっと待てよ! なんで俺が船を動かさなきゃならないんだよ」
「うるせえな」
オジェモンは壁をのたくる筒をたたいた。
「液圧系チューブだ。喫水線のところの安定翼を広げたり曲げたりするのに使う。横波対策だ。ただし、前進中にはいじるな。翼がもげちまう」
最後にオジェモンは舵の上のレンズのついた機械を調節した。それは物理判定師が測定に使いそうなデリケートな代物に見えた。筒のまわりに黒い光るなにかが塗布してあるようだった。
オジェモンの指示でトレリはレンズを覗いた。
「数字が沢山あるだろ? 俺のようなひずみ読みにとっちゃ、これは波を知るために必要な便利な杖のようなものだ」
オジェモンはレンズの上下左右のダイヤルを使って十字線の中心に波が来る方法をトレリに伝えた。
あまりの情報の多さにトレリの頭は爆発しそうだ。
「おお、どうした? 理解できてない顔だな」
「はん、オジェモンさんよ、俺はもっと複雑な機械だって知ってるぜ。例えば俺のラジオ」
トレリは二年前により複雑なマニュアル車を操作したことさえあった。だが、そのときはエンストやら突発的爆発やらでひどい目にあった。オジェモンにそのことは伝えないでおく。
「ふん、どうだかな」
オジェモンはトレリの心中を読んだかのように、鼻で笑った。
「それよりなんで俺に操船を教えるんだ、オジェモンさんよ? あんたがやるべき仕事だろ」
オジェモンは首を振った。
「残念だが俺にはより重要な仕事がある。物見櫓の上で船のまわりの波を予測せねばならん。ひずみを説得するわけだ。トレリ、おまえは俺の手となって船を動かすのだ」
「船長とか、専門のクルーがいるだろ!?」
トレリの声は悲鳴のようだ。その両手は頭を抱えている。
「俺は連中にまったく興味がないし、あてにもしていない。さあ、正中線の数字が60ジュレブになっているはずだ」
「ジュレブ?」
「単位だ。細かい説明をしている暇はない。まずは数値の変動のタイミングを理解しろ。そして、波をこえるごとに数値を俺に伝えるのだ。誤差範囲もだ。右下の数値がそれだ。あとは俺の指示通りに動かせば船は何の問題もなく砂浜に乗り上げる。俺とおまえは陸の小店でうどんなんぞじゃない、まともな物を食えるって寸法だ」
「おや、あんたはうどん嫌いだったのかい」
「あれによく似た見た目の毒虫、ウドンワームに噛まれて死にかけたことのある奴にうどん好きはいねえもんなんだ」
「さいでしたか」
オジェモンはのそりと立ち上がった。
「行っちまう前に一つ教えてくれよ。俺の好奇心を満たすためにも」
「なんだよ?」
「オジェモン、なんであんたこの船を造ったんだい? あんたのその酔狂な『楽園』探索のための手段かい? だとしたらやけに手がかかりすぎている気がするのだがね。船なんか造らなくても借りたりできるだろ?」
「知りたがり屋さんはえてして早死にするもんだぜ、トレリ。だが特別に教えてやろう。この船は俺の個人史の汚点だ」
オジェモンが壁の一角を指した。今まで彼の体で隠されていて気付かなかったが、額に入れられた書類がかけてあった。
『ノジェモン号 MED:4199 反逆人オジェモンはその所有権を失う』
「楽園はこの糞だめの現実から逃げるための俺が必要としている物だ」
オジェモンはどかどかと去っていった。
反逆人?
一体彼はなにに反逆したというのだろう。
トレリは考えを巡らし、すぐに候補が多過ぎることに気付いた。
オジェモンの力をもってすれば大抵の既存のシステムに反逆し、それをひっくり返すことなどわけもないように思えた。
オジェモンが本当に海とひずみを言葉で説得するつもりだったのかどうかは分からない。
だが、どうであれ、ひずみの嵐は上陸を試みるオジェモンに対し牙をむいていた。それは無数の狼がノジェモン号を取り囲んだのによく似た状況を作り出している。
ひずみはその領地を横切ろうとする者すべてに容赦しないのだ。
『トレリ! 四号レバーを二回引いて北北西へ前進! 三号、一号も引いておけ! ギア切り替えを忘れているぞ! ぼやぼやするな!』
オジェモンの声は伝声管を伝わってくる間にねじくれ、間延びした。死人の声のようだと、トレリは感じた。涅槃から届けられるトレリへのメッセージ。
船体が波を引き裂いて進み、ひずみの断層へと飛び込んでいく。船体がびりびり震えた。
『うおっ! ……トレリ! 30ジュレブにまで戻すんだ! 早く!』
「そうせかしなさんな……ほれ30」
トレリは海面を見ながら目盛りを会わせる。
海面はひずみに歪められた憤怒の顔だった。
『二号を四回、一号を二回、三号を一回、20ジュレブ、液圧系二番を接続、25ジュレブ、一番を接続……』
「ちょ、ちょっと速い……」
『死にたいのか、それとも『楽園』に到達して生けるものとしての最終勝利をかざりたいのか今はっきり決めろ!』
忙しい人だ。トレリの手が制御機器の上で踊った。
船は一秒ごとにひずみの死の顎へと近づいている。
波は黒くなり、空気は立法センチあたりの異質さを増していった。これはひずみの邪悪な思念に違いない。
一瞬、レンズを通して波を見ていたトレリと海の底からこちらを睨むひずみの目が合った。
ひずみの目はいかなる生き物の視覚器とも似つかなかったが、トレリは心の奥深くでその正体を、ただ察知した。
トレリは舌打ちする。
昔、神の顔の眺めるのは危険だ、とどこかで宗教家が言うのを聞いた事があった。
ひずみは神ではあるまいが、どこか共通な性質を持つ深遠な生物なのかもしれない。トレリはそう考えた。
周囲の騒音は堪え難い程のものとなっていき、オジェモンの指示が遠のいていく。そして波は拳のように一団の敵意となって船を乱打した。
そこら中で金属が悲鳴をあげた。
『うぉおおおお!』
オジェモンが叫んでいる。あるいは激怒の声か。
トレリはオジェモンがどんな状況にいるのか想像しようとした。
頭に浮かんだのは、オジェモンが必死の形相で手足をばたつかながら波間へ消える場面だった。
オジェモンの体は暗黒の中へ、暗黒の中へ、暗黒の中へ……。
すすり泣くようなこすれる音とともに、伝声管からのオジェモンの声はぱったり途絶えた。
「……オジェモン?」
オジェモンは死んだのか。
ひずみを誰よりも理解し尽くしていたにもかかわらず、あっさりとやられてしまったのか。
日頃の大言に反して、所詮はその程度の男だったというのか。
いまやトレリは何も感じなかった。奇妙な落ち着きに支配されている。この船は俺が自力で操らなきゃならないわけだ。
トレリは理解すると、制御機器に手を置き、レンズへと目を押しあてた。
波はひずみの牙だった。船へ押し寄せ、切り裂いていく。
ひずみは未知で複雑だ。
だが、その動きにもパターンは秘められていることをトレリは唐突に学んだ。
船の制御機器の細かい原理などは分からなかったが、トレリはこれより精巧な機械を操ったことだってあった。
それにこれはトレリのよく知るオジェモンによって作り出されたものだ。だとすれば、トレリに使いこなせない道理はなかった。
オジェモンならどうするか。このイメージが大切だった。
船はひずみの測り知れない巨大な力を紙一重でかわしながら、矢のように突き進んだ。
船の表面から様々なものが引きちぎれて波間へと消えていった。この環境に不要なものを捨てていく進化の方法によく似ていた。
ひずみの道にはいかなる地図も存在しない。
トレリが頼れるのは自分の勘だけだった。原始から続く、人間に刻み込まれた本能でもあった。
船体を叩く波の音は、絶え間ない小太鼓の連打に聞こえた。
波が槍のように船体を貫いた。
今のは船体の上部構造の大半を破壊したに違いない。
トレリも負けじと、船体を一つの弾丸として波へとめり込ませた。
オジェモンの作品であるこの船がひずみに対してなんらかの警告を与えるような気がしたためだ。
手応えがあった。
波が勢いを失うのを感じる。
レンズを通して前方を見据えた。
次の瞬間、トレリは息をのんだ。
ひずみだった。
それも波、水を介してではなく、船はひずみそのものの上を突き進んでいた。
ひずみの感情が究極の情報としてトレリを通過する。
ひずみ。
唐突に火の手があらゆる方位であがり、灼熱の熱気が肺へと下っていくのをトレリは知る。炎の中で人間が、あるいは人間に生み出された黒い鋼鉄の生き物が闊歩し、全てを破壊するのを見てトレリは目を見はる。逃げる民を見、そして死ぬ民を見る。太古の戦に違いない。あらゆる破壊を覆い隠さんと樹々が湧き出て、やがては巨大な森が全てを貪欲に飲み込む。トレリは広大な緑を一片の意識として漂う。
「なんだこれは!?」
いまや光景は目を通してではなく直接の情報としてトレリを洗う。無数の通り過ぎる光景。耳に親しんだ心地よい歴史、神話と違いこの古の時代の光景は苛烈である。黒い情念が間欠泉のごとく吹き出し、光景を次々と穢していく。先人の築いた調和が崩れ去るのを時間と空間の変動からそれと理解する。
それらは波動としてトレリを占有した。最後に万物の起源が輝かしい光を発して、トレリの目をくらませた。
トレリはわっと叫び、両手で目をかばう。
だが、激し過ぎる光は手をやすやすと通過して目に突き刺さった。
それは……実に偉大な光であった。
天地創造に関連するものだった。その偉大さと比べるとトレリの知るもの全てはあまりに矮小で意味をなさなく感じた。
トレリは息を喘がせた。
「この世界にもあんな絢爛な時代があったということか」
トレリは低く毒づいた。
ひずみが見せたのは過去の光景だった。気がつけば、ふたたび冷たい湿った現実にトレリは囲まれていた。
船は再び波に取り巻かれ、締め付けられていた。
そして、トレリはあまりのショックにもはや波から意味あるパターンを見いだすことなど出来ないことを理解していた。
ノジェモン号は断末魔の叫びを発し、死にはじめた。
「終わりだ」
トレリはつぶやくと、制御機器から手を離した。厳しい戦いだった。だが、それも終わり、あとは死を待つだけだ。
「どけっ!」
突然、背後から太い声をかけられ、トレリは飛び上がった。直後に蹴り飛ばされて壁に叩き付けられる。
「痛いじゃないか……」
トレリは頭を振って立ち上がる。オジェモンはいつも通り不機嫌そうな顔で座席の高さを調節していた。
「死んだと思っていたぞ」
「死ぬ? この俺が? どうしてそんな間違った考えが頭に浮かぶんだ?」
オジェモンの頭の上に疑問符が浮かぶのを見てトレリは腹が立ってきた。
「じゃあ今までなにやってたんだよ!」
「うるせえ! 物見櫓が崩れたりして大変だったんだよ!」
船が打撃を受けてきしみ、二人とも怒鳴り合っている場合ではないことを思い出した。オジェモンが制御機器に手を置く。
「もう無駄だ。ノジェモン号はばらばらになる寸前だ。なにをしても事態が好転することはない!」
「おおトレリ! おまえの悲観主義は俺をうんざりさせんとす!」
「現実的と言え!」
オジェモンは巧みに船を操った。彼の操作のもと、船は波と渦流を断ち切るのではなく、それに同調した。持ち上がる波の上に乗り、ノジェモン号は空を跳ねる。安定翼がちぎれてその役目を永遠に終えた。二人の前の計器は火花を吐き出した。
「……なるほど。確かに船は長くはもたないようだな」
オジェモンが言った。
「オジェモン、俺はひずみの中に過去を見た」
「う〜ん? 過去を? ……ちょっと待て、今なんと言った!? ひずみの中に!?」
「ああ」
オジェモンの下顎が音をたてて下落し、目は驚愕のあまり飛び出そうになった。彼はあわてて顔を調節しながらつぶやいた。
「あれを見たか……すげえな、おめえ」
「いやあ。なに、それほどでも」
トレリは目をしばたたいてオジェモンから目をそらした。照れた時の癖だ。
オジェモンほどの、常識を逸脱した御人に認められるというのは、一体何を意味するものなのか。
「ああ、でも俺と比べりゃそう大したことないか、ええ?」
オジェモンが真顔で尋ねてきた。トレリは頭痛でもこらえるかのような仕草でこめかみに手を当てたが、すぐに顔を上げた。
「ひずみってなんだい?」
「天災だ。知っての通り」
「中に過去が蓄えられている、というのはなにを意味するんだ?」
オジェモンはうーんとうなった。
トレリに話すべきか否かを迷っているように見えた。
彼は無言で操船を続けたが、しばらくたった後、大きく肩をすくめた。
「世界は古くなってきているようだ」
「古く?」
「うむ。世界中でおかしなことが起こっている。ひずみ災害もその証左の一つだ」
船は絶え間なく傷つけられていたが、オジェモンの声は騒音を静かに圧した。
「世界がうまく機能していた時代には過去の知識は十分に管理され、世界の深層にて眠らされているはずだった。だが、今では過去は広がり、俺達人類が生活する領域にまで出てきてやがる」
「過去が現在を食べているのか」
トレリがゆっくりと言った。
「……まあ、詳しいことはまだまだ調査中だ。ひずみの脅威に気付いている奴も少ない。沿岸の連中もひずみを少々たちの悪い暴風雨ぐらいにしか考えちゃいねえ。それに、ひずみを直視するするのも大抵の奴にとって致命的だしな。あれに耐えれたのは、俺の知る限り、俺とモーゼスと……」
オジェモンがレンズから目を離してトレリを振り返る。
「それからおまえだ」
オジェモンは唇をひんむいて笑った。武器にもなりうるだろう歯がぎらりと光った。
彼は懐に手を入れると鎖のついたメダルを取り出し、無造作な仕草でトレリの首にかけた。
「おめでとう。おまえはフロムルトひずみ研究会の名誉会員だ」
「はあ?」
オジェモンは笑顔でトレリの肩をばしばし叩き、危うくトレリの肩の骨を折りかけた。オジェモンの喜びようが不自然に思え、トレリはとまどった。船が絶叫し、身震いする。
「って、そんな場合じゃねえだろ! 時と場合を考えあがれ!」
オジェモンが逆上した。
「あんたが一人で喜んでんじゃないか」
オジェモンはレンズを覗き込んで、もう一度怒りを反芻した。
「トレリ! 操船しろ!」
「おいおい、あんたはどこ行く気だ!?』
オジェモンは彼の荷の中から剣を掴む。
「この船はいささか重過ぎる。俺が少し軽くしてきてやろう」
トレリは席に着いたが、すぐにおのれがなにをしても手遅れである状況であることを見てとった。
陸は近いが、どう転んでも船がそこまでもつことはないだろう。
オジェモンがなにか手を打たない限り死は必然だった。
オジェモンはすらりと剣を抜いた。銀の刃が狂気に満ちあふれた空間を両断した。
オジェモンの目は常に狩人の目だが、船腹に大きく描かれたノジェモン号という黒い文字を見る時はその目に後悔の色を帯びた。
「最後まで役に立たん船だった」
オジェモンは吐き捨てると剣を振った。
外輪式二胴船のコクピットの上に立つ大男が剣を振るう度にコクピットをぶら下げているワイヤーや柱は斬られていった。
一番最後にコクピットと船体をつなぐ階段を斬ると、コクピットはノジェモン号の運動エネルギーはそのままに保ちながら、しかし、波という障害はないまま宙を滑空した。
オジェモンが振り向くと、ノジェモン号は波の黒い巨体に押しつぶされるところだった。
かつて彼が建造し、その後、彼の持ちうる全ての栄誉とともに失った彼の船は粉々に砕かれ、海中へと消えた。
「それでいい」
オジェモンは深くうなずき、完全に満足した。足下でトレリがなにか叫んでいるのが耳に入った。視線を前方へと戻すと、海が立ち上がり巨大な絶壁となってオジェモンの前に立ちふさがらんとするところだった。
だが、オジェモンはその壁を一目見ると、そのあまりの貧弱さと程度の低さを指摘し、嘲笑した。
激怒したかのように海の壁がせまってくる。
両者は激突した。
あまりの衝撃の激しさにオジェモンを構成する分子が散りじりになってしまいそうになる。
無限にも思える一瞬が経過した。
海とその奥底に潜むひずみが可聴域を超越した怒声をあげると同時に海の壁は崩れ去った。
ノジェモン号コクピットの行く手を遮るものはもはや無く、それは明滅する海の上を飛び続けた。そのまま数秒間飛行したあと、小隕石のように大地をこすった。
猛然と砂が舞い上がる。
やがて、ゆっくりとコクピットは停止した。
「大地だ」
トレリはコクピットから這い出し、その場に座りこんだ。
深く息を吸い込んだ。
トレリの知らない異大陸だ。
地面は灰色の砂で、起伏の乏しい大地にオレンジ色の葉を持つ松に似た樹木が点在するのが見える。それが地平線の果てまで続いているのだ。木の高さは、外輪式二胴船を十隻並べたよりも高いだろう。
空の色は気味の悪いことに、青かった。空気は甘くて、刺激的な味がする。
海のように揺れていない安定した冷たい砂浜は奇妙な存在に思えた。
ああ、だがもう一生船には乗るまい。船なんか大っ嫌いだ。
「ひずみの中で見たものは途方もなく美しかった。俺が頭に描いてもみなかったほどの美しさだった」
「ほう? そうか」
オジェモンはばりばりと音をたてて地図を懐にしまった。
「あれと比べりゃ、俺の知るもの、考えるもの全てはつまらないとさえ思えたよ」
「なんと乏しい知識と想像力だ! 嘆かわしや!」
オジェモンの悲嘆を装った大声がトレリの耳朶を打った。
「俺はひずみを見たその当時でさえあんなものより素晴らしいものを二百かそこらはものにしていた!」
どういう人生だよ。
トレリは大言を吐き続けるオジェモンの言の矛盾を衝こうお口を開いたが、いまいちそういう気分でもないのでそのまま口を閉じた。
第一、存外オジェモンの言葉が嘘でないかもしれない可能性があるのではこのことを論点とすることはトレリにとって不利を意味した。
「そして俺の求める『楽園』と比べりゃ、それさえも色褪せ果てる! さあ立てトレリ! 『楽園』は近いぞ! はっはっは」
オジェモンは上機嫌でずんずん歩いていった。
2007 Hizumi Infinity
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■あとがき!■
お読みいただきありがとうございます。
中層世界後期、オジェモンとトレリが『楽園』求めて旅する物語のエピソードの一つです。
はじめは嵐と戦う船乗りの物語を想像して筆を進めたのですが、この二人を主役に当てはめると、なにやらおかしな展開になりました。
感想、助言などをいただけるととても嬉しいです。
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