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赤い大地で青空探すと(1)
◆◆◆
青い空を集めている。
こっそりコピーして個人用のチップに入れていた。もちろん、正規の入手手段を経ていないデータの所持は違法。
私はこんなことをするべきではないのだろう……。
だけど。集めずにはいられない。
代わりに、赤い空が私を満たしてくれることはあるのだろうか? 赤い空は高額だが、望みさえすれば手に入った。これなら、堂々と鑑賞することもできる。
私は購入した、赤い天空を見上げている。
空をそそくさと横切って行くのは、植物室で生まれたやせた馬鈴薯じみた衛星だ。
死の世界。生も見出すことなできはしない。
私の中に虚無が広がっていく。
ここが、私たちの住む世界。私たち人類に似合いの場所。
少なくとも、ここなら、私たちは他の動物、植物に迷惑をかけることはないだろう。
◆◆◆
『ウィティ?』
なめらかに合成された声が、私の名を呼んでいた。
『もしもし、ウィティ? 返事をしてくれないかな?』
私はため息をつき、椅子の肘掛に埋め込まれたタッチパネルに触れた。
天井に投影されていた赤い空が、ざざざっと、こすれるような音を立てて消えた。代わりに冷たくて重たい灰色の天井が戻ってくる。
赤い空なんて大嫌いだ。いま、はっきり認識した。
「起きてる」
『君のバイタルサインもそれが正しいことを表しているね。さて、次のシフトまであと三十分。出勤の準備をしてはどうかね?』
リメンバーが言った。そして、リメンバーの言うことがいつも正しいことを私は知っている。私はのろのろと椅子から体を起こした。スロットから私のカードが飛び出てくる。薄くて柔らかいが、大切な私のカードだ。
表面の液晶面を見て、私は凍りついた。
「うへっ、娯楽ポイント全て使っちゃったよ」
『君はかなり長い間、空を眺めていたのだよ』
一体、何を楽しみに今シフトを過ごせばいいのやら。
私の名前はウィティ。火星生まれ。九歳になって六十日ほどが経つ。
もう立派な大人。私は私にできる限りのことをして、人類に貢献しなければならない。
カードに記された私の所属は『情報発掘局』になっている。私はそれを見て、かすかにうなずいた。誰にでもできる仕事ではない。自分の得意分野が、人類のために役立つのは嬉しかった。
つらい時には、そう思うことにしている。
私はカードの液晶表示を、所持ポイントから時刻へと切り替えた。
『知っていると思うが、もっと安上がりな娯楽はいくらでもあるのだよ』
「そして、リメンバー、私は安上がりな趣味には娯楽を感じていないんだ」
『空が好きなのなら、気象監察局に配属されればよかったのだろうけどね……』
コロニーの環境制御を一手に担う人工知能は、ひどく悲しそうな声を上げた。
『しかし、君の能力は情報の発掘に向いているのは間違いないし、適材適所の配置抜きでは、能率の維持は不可能。今は苦難の時代なのだよ』
……分かっているわよ。
娯楽ポイントは尽きているが、私は全てのポイントを娯楽に費やす人間ではない。用心深さも、リメンバーに教え込まれていた。ということで、出勤前にシャワーを浴びることにする。洗面所に入ると、リメンバーが防水扉を閉めてくれた。服を脱いで、端末に繋いだ。
頭上から、すでに人体と処理機械を数万回、往復した水が降って来る。冷たい液体は、厳しく私を打った。私がもっと幼かったころ、超音波振動の衛生設備があったのをおぼろげながら覚えているが、すべて壊れてしまった。その後はずっと、湿ったスポンジだけを使う日々だった。
だが、一年ほど前に頭のいい誰かがシャワーというものを蘇らせ、コロニーを活気付けた。そのエンジニアは、コロニー社会に貢献したという理由で、大量のポイントを得た。
古語を使えば、その人は金持ちになったわけだ。
実際、素晴らしい再発明品だ。水は高額だが、私たちに地球を、肌で思い出させてくれる。他にも、もっといろいろな物が再発明されてくれればいいのに――。
……無理だろう。
『ウィティ、もう水は止まっているよ』
リメンバーの声で我に返る。すでに購入した、十秒間の雨は止んでいた。少量の砂が足下で渦を巻いている。
『注意力が落ちているね? 疲れているのかな?』
「……気のせいよ」
シャワーを浴びている間にエネルギー供給されたオーバーオールを手に取る。私が持っている服はこれ一着だが、十分に機能してくれているので問題はない。
足下の水たまりは急速に小さくなっていく。私は服を着込んだ。身体の表面の水滴も、繊維が全て回収してくれる。水分の損失は最小限に抑えられる。
『もし不調が気になるようならば、医療局を訪れることを勧める。小額の健康ポイントで診てくれるはずだ。それには精神面への治療も含まれていてね――』
「余計なお世話よ、リメンバー」
意識せずとも、声は硬いものになった。私はこの世界に耐えられないほど弱い存在ではない。殖民初期によく見られてような、失調者のように扱われるのは、まったく我慢できなかった。
掌の部分の布地で髪の水分を吸収すると、洗面所を後にした。私の銀色の髪は肩甲骨の辺りで揺れている。髪を切って、コロニーのタンパク質サイクルに加える気には、なったことがなかった。
自身の分析は得意じゃないが、おそらく、私は地球人の女性を真似たがっているのだろう。
部屋の端末からチップを抜き取り、カバーオールの上腕部コントローラーに差し込んだ。繊維がかすかに音を立てて、くだらない灰色から、青から紫へと微妙なグラデーションのかかった色へと変化する。私は他にも、必要なチップを装着した。職場は遠い。忘れ物を取りに戻りたくはなかった。
『それでは、いってらっしゃい』
リメンバーが私の部屋の扉を開ける。
◆◆◆
戦争があった。
長くて、醜く、汚い戦争であったという。
些細な情報は、私たちも発掘できていない。当時のことを記憶している人間ならいるが、その記憶は矛盾だらけ。
そして、戦争の内容なんてものは重要でなかった。
私たち人類は故郷を滅ぼしてしまったのだ。
故郷……地球を。
美しかったであろう故郷の地球は、汚染と瓦礫の残るばかりの廃墟と落ちぶれた。人間であふれていた地球は、人間の死骸であふれた。もはや勝者などなかった。人口が激減する中、生き残った人類は、もうこの惑星で生きていくことが不可能になったことを知った。故郷はそこまで徹底的に滅ぼされたのだ。
人類は手元にあった資源をかき集め、惑星間航宙船をこしらえると、生き残った人を積んで、故郷を後にした。
向かった先は太陽系第四惑星、火星。
戦前の人類最盛期にさえできなかった、こんな大規模殖民を成功させた理由は、リーダーたちの偉大さに由来する。
マーカス・ロビンソン。そして、彼を補佐したAIたち。
彼らは無数の困難にぶち当たり、それを時に強引とも言える手段でやり過ごした。火星に突入した航宙船は七隻。そのうち五隻が着陸に成功した。
それ以来、私たちはここで生まれ、死んでいる。
◆◆◆
あれから二十年が経過した。
だが、この時代のことを、リメンバーは話してくれない。
人類が、忘れるべき事柄と判断しているのだろうか?
そうなのかもしれない。
人類の究極の罪だ。それに触れれば、現代の火星に住む私たちでさえ、正気を保つことはできないだろう。
私の職場は居住区から遠く離れている。私は昇降機目指して、延々と歩いていった。
通路はどんどん合流していき、広大で、ローバー十台が横になって走れるほどの回廊となる。だが、暗かった。私が幼かった頃には、煌煌と明かりが廊下を照らしてたが、いまやそんな贅沢をする余裕もなくなった。
前方に唯一明かりが灯り、低いながらも歓声が響いて来る一角があった。特にその気はなかったが、私は光に引き寄せられるようにその大部屋に入る。
娯楽ホールだ。
壁の一面を除いて、天井から床まで、灰色のパネルで占められ、そこで人々がスポーツにいそしんでいる。私はキャットウォークから、素早いボールの応酬を見下ろした。複雑なルールのドッジボールをやっているようだった。
すでに怪我人が二人ほど出ているようだったが、それにも関わらずゲームの進行は早い。一人の男がさっと、一回転しながら跳躍した。三メートルほど跳んで、壁を蹴ると、空中をゆっくり落下していたボールを掴んだ。
敵対チームのメンバーは男の射程から逃れようと、疾走する。だが、男は高度五メートルほどの位置を維持している上に、男自身、三メートル近い長身だ。
その身体がひねられ、ボールは投擲された。さながら小隕石だ。重力の力を借りたボールが、標的を叩きのめした。当てられた人間が、ぼきっ、と音を響かせ床に伏した。骨折だ。
骨折は、骨密度の薄い私たち火星生まれの、人生の一部だった。
苦痛であるし、何よりもコロニーの医療設備がいつまで動くのか分からない。ほかの多くの物と同様、地球の優れた医術は失われようとしている。それに負担をかけないようにするべく、私は定められている最低量より多くの運動には手を出さなかった。
私は娯楽ホールの騒ぎに背を向け、エレベーターホールへと足早に歩いていく。人類と、コロニーのためにも、仕事をせねば。
建造時に作られた昇降機二十四本のうち、今でも動いているのは四本だけ。おかげで、人口減にも関わらず、居住区から地表まで、ゴンドラはいつも満員だった。
人々の疲れた沈黙のなか、ゴンドラはゆっくりと下り続けた。地表の階層で、鉱山師や、コロニー外壁エンジニア、ローバー運転手、鉱物集積所の働き手がどっと降りていく。彼らが採掘してくる物が、リメンバランスが外部から獲得する唯一の物だ。
それ以外の空気、水、食糧、エネルギーなどは、全て再利用されている。かつて、地球を食べ尽くした私たちは、学んでいた。
マニュファクチャー・ベイの働き手が、彼らの階層で下りると、もうゴンドラは空っぽになった。それでもゴンドラは降下を続ける。
窓の向こうに通過する階層が見えているが、櫛の歯が抜け落ちるように暗黒の階層が混じる。そして、ついには暗黒の階層ばかりが続くようになった。
ここから下は出入りする人間も少ない、廃棄階層。火星で役に立たないか、人口減が理由で、廃棄された階層。
私たち、情報発掘局は、ここに残された情報の記録媒体の遺跡、いわゆる情報鉱脈に寄生する形で、存在していた。
私たちの職場だけは、リメンバーが生命維持してくれているが、この階層の他の区画は過酷すぎて、人間には生きていくことができない。完全なる暗黒。まるで地球と火星を隔てる、宇宙がリメンバランスの中に封じ込められたようだ。
廊下一本間違えるのも危険だった。ゴンドラが止まる。
ゴンドラから下りると、もう人間の気配はなかった。
広いエレベーターホールの床に、今はもう忘れられた表示や宣伝が描かれている。
ホールの壁の一端に、リメンバランスの紋章がレーザー・ホロ投影されていた。何か技術的な経年劣化のせいだろう、レーザーは歪み、イメージをかすんだものにしている。今にも消え去りそうだ。
コロニーの現実を表しているようで、私の背筋を冷たいものを走った。私たち人類最後の、朽ちつつある楽園、それが『リメンバランス』。
「人類は偉大だよ」
突然、低い声がした。
「航宙船を改造してコロニーを作り、こんな惑星の上でもしっかり生きていくことができるのだから」
隣に男が立っていて、リメンバランスのイメージを見上げていた。異常に痩せていて、目に生気がない。
呆気にとられている私を見るでもなく、男はゴンドラに乗り込んだ。
「人類は強さを示さねばならない」
ゴンドラはうなりを上げて階層を駆け上っていった。
人類が偉大なんてことだあるわけないじゃない。私の唇は動いたが、声にはならなかった。闇が私にのしかかって来る。
『いまの男は気にするな』
リメンバーの声がした。異様な空間が日常に戻る。私は安堵に身震いした。
『ただの軽度の失調者だ。ときたま、階層が破棄されたことを忘れて、ふらふらやってくるのだよ。気にすることはない』
私はうなずき、暗くて広い回廊を歩いていく。
リメンバランスは巨大な円柱形の居住区と、コクピット、巨大なエンジンの分離したモージュール航宙船だった。居住区が円柱形の理由は、それを回転させることによって重力を自在に生み出し、地球を思い出すことができるためだという。
だが、その仕組みももう動くことはない。リメンバランスは火星突入後、頭から火星の大地に激突した。船体は火星の赤い大地に深々とめり込んでしまった。
エンジンは四散して、リメンバランスの周囲に積み重なった。このエンジンは二十年経った今なお、金属源として我々に採掘されている。
リメンバランスの艦首部も、いまなお、地底はるか底のどこかにあるという噂だ。
たしかに、艦首部はリメンバランスの指揮ユニットだった。発掘できれば役立つデータやテクノロジーは発掘できるだろう。
だが、発掘できたとしても、想像力盛んな者がいうように、リメンバランスが再び飛び立ち、私たちを地球へと連れ戻してくれるだなんてことは、まずありえない。
私たちは火星に生きるべき種族。そう定められているのだろう。
◆
情報発掘局の入り口をくぐった。
無人のステーションで、スクリーンだけが虚ろな光源となっている。生命維持装置が遠くで、絶え間ないうなりを上げている他、音はほとんどなかった。
カードをタイムレコードに入れた。電子音が鳴って、カードの表示が所持ポイントに切り替わる。シフト開始まで少し時間がある。遅刻しない真面目さを評価されて小額のポイントが入った。
私の自在椅子が起動され、こちらを向いた。私は腰掛け、ソフトの入っているチップを椅子にはめ込んでいく。座席がガラガラ音を立ててレールの上を数メートル下がり、壁の円形のブースの中に納まった。壁から2Dスクリーンと圧感キーパッドが飛び出てくる。
情報発掘局の中には百ものブースがあり、ブースの周囲の壁には、無数の半導体集積記憶媒体が収められている。この中のデータは地球脱出の際にかき集められたもので、リメンバランスのネットとは情報基体が異なっている。さもなければ、情報発掘士なんて職種は存在せず、リメンバーが一分とかからず全てを吸収してしまうことだろう。
圧感キーパッドに触れると、指に赤いものが付いた。エアロックから最も離れた場所だというのに、砂が入ってきている。噂通り、階層の換気フィルターも死にかけているのだろうか?
だとすれば、この階層も長くはない。
前の職場、一つ下の階の情報鉱脈が、五十日ほど前に死んだばかりだというのに。
ソフト面の問題なら、少なくとも解決の糸口を探すことができる。だが、ハード面の不調は本当に困ったことになった。座っている座席が動かなくなったら、一日二十四時間三十分、中腰で働かなければならなくなる。圧感キーパッドが死んだら、古典的なマウスとボタン式キーボードを、どこからか探してこなければいけない。そんな状況、考えたくもない。
情報発掘局は、この階層から少しでも多くの情報資産を回収するべく、不眠不休で働いている。だが、時間は足りず、人手は足りず、情報はあまりに多い。
私は頭を振り、スクリーンを起動した。ブースの天井までも覆うスクリーンに、数々の情報が投影される。
『22時現在、現場は激しい寒波に襲われており――』
『目に見える商品とは、すなわち貿易、サービス収支――』
『チューターが与えるのは、問題点を抽出するためのアドバイスで――』
『ひとみさん、ずっとあなたに言いたくて言えなかったことがあるんだ――』
『脳関門の一つは、脈絡叢における、上衣層――』
録音された大昔の声は、ひそひそという重なったささやき声と鳴って流れ出した。
膨大な情報の中を、少しずつ進んでいく。漠然とした道を辿って、延々と、何か形あるものはないかと、手探りで歩き続ける。
恐ろしく地道で、根気のいる作業。0と1から作られる、大昔の迷路。失敗は多かった。発掘に成功しても、収穫がないことも多い。例えば、何日もかけて追っていた情報が、実は意味のない創作メディアでしかないと知ったときなど、たまらくむなしい気分になる。
地上探索や、鉱山採掘と違い、データー発掘は現実に何の足跡も残さない。検索にはスキルがいるし、検索失敗に耐える打たれ強さも要求される。
私はこの職に向いているらしい。リメンバーはそう言うが、主観的にはどうとも言いがたい。他の職につくことは許されなかった。
私の見ている前で、スクリーンに表示されていた青い線は短くなっていく。その隣の数値も減っていき、ついには0%になった。解析終了。指でファイルをつついて浮かび上がらせ、スクリーンの上を滑らせて行く。椅子を回して転送ゾーンを向いて、そこにファイルをドロップした。
「戦前45年ごろのテキストね。保存状態良好。復元成功率もほとんど100%に近いわ。収録の準備をお願い」
シフトが始まって三十分が経っている。情報発掘局の玄関にある、ステーション型端末には同僚が座って、リメンバーへの収録を待っていることだろう。
「それにしてもいい腕だな、ウィティ」
すぐ後ろから声がして、腰を抜かしそうになった。
収録係の年上の男が、ブースの入り口に立って、私を見下ろしてきている。スクリーンの光を浴びて、男の姿は青白く照らし出されていた。
「あ……ありがと」
男はモルとか言ったか。最近、発掘局に入ったが、あまり仕事のできる男ではないはずだ。
「テキストの主題……『カーボンの月曜日』」
まともな文章なのかどうかは、どうにも判別しがたい。だが、内容を吟味して、コロニー住民に閲覧の許されたライブラリーに加えるのか、あるいはリメンバー本人の人格プログラムに追加するのか、判断するのは私の仕事ではない。
「こんなに沢山ウィンドウを出しておいちゃ、邪魔じゃないのか?」
モルがスクリーンを見上げて尋ねてきた。
「五十個ぐらいなら、並行して作業できるわ。テキストの復元は単純作業だし。音声や画像は厄介よ。動画なんて、私でもまだ数個しか発掘できたことがなくて――」
私はそう言ったあと、男が動こうとしないのにいらっとした。
「ねえ……今のテキストの出所をスキャンするのに集中したいから、あっち行って。それより、今の収録したの?」
「それは僕の仕事か? ああ、僕の仕事か」
モルは間抜けな仕草で手を打って、ステーションへと戻っていった。私は溜め息をつく。なんでこんなのが情報発掘局にいるのだろう。リメンバーやコロニー維持局は、古い情報から得られる物の重要さを理解していないのだろうか。
いや、維持局は知らないけど、リメンバーなら分かってくれているはずだ。彼は人類の産んだ最高の人口知性であり、よき情報は、人類のためにも、彼のためにもなる。
……つらいときにはそう思うことにしている。そして、私は地球の情報が欲しい。それに触れたい。
私はスクリーンを向き、直ちに発掘モードに精神を置く。精神だけじゃない。私は自分の記憶能力そのものさえも、操作できる。固定記憶と呼んでいる。私は、目で見た文字を記憶できるのだ。それが数式であろうと、意味のない文字の羅列であろうと、問題ない。一字一句記憶できる。
ほんの数キロバイト程度で、記録チップには到底敵わない。それでも、重宝する能力だった。少なくとも、記録チップと違って、私の記憶は破損するということがないのだから。
試験管から産まれた私に、リメンバーが刷り込んだ能力だった。誰もが持っている物じゃない。
目を固くつぶると、固定記憶内の邪魔データを片付ける。
さて、どちらの方向へ検索していこうか。明確な目標というわけではないが、情報発掘局は発足以来、ヒトゲノムを探している。私たち人類の遺伝情報。私たちの基本設計図。
発掘記録によると、地球時代、人類はその情報で種族の限界を操作することさえしていたそうだ。しかし、いかに野心的で壮大な計画があったにしても、人類文明の没落を止める役には立たなかった。
今の私たちに遺伝子を使って何かをするテクノロジーは残っていない。だが、ヒトゲノムを保持しておくことは、いろいろといい影響をもたらすと予測されている。
私はテキストから、1と0で作られた糸をたどっていった。ゆっくりと、糸がちぎれないように用心しながら。
ピン。
スクリーンが音を立てた。手応えだ。
……珍しい。意外と浅い層に、保存状態のいい動画ファイルがある。
青空は?
私はファイルを手元に引き寄せ、ちゃちな防壁を三秒で破った。ざざざっと、繊維がひきちぎれるような雑音がしたあと、音がクリアになる。画像はしばらく静止したあと、滑らかに動き出した。
映っているのは移動しているローバーだ。その上部構造が何なのかよくわからない。何か太い、鉄棒じみたものが生えている。
さらに周囲を金属ヘルメットをかぶった男たちが小走りで走っている。
画像の焦点がおかしく、背景が何なのかはよくわからない。
急に男の一人が大声を上げ、人々がローバーの陰に飛び込んだ。周囲が騒がしくなったのがわかった。
恐ろしい理解が染みこんでくる。
彼らが手にしているのは銃だ。固形弾射出式なのか、レーザーレイ照射型なのかは、分からない。だが、殺しの道具であることに疑問の余地は無かった。これは戦闘記録。
私は我知らず。掌を口に押し当てていた。
人類の究極の罪……。
口の中に鉄の味が広がる。
戦争。憎悪の感情が産んだ戦争。それによって、人類は数千年かけて築き上げたもの全てを巻き添えにして、滅び去った。
画面が切り替わって、男が誇らしげにわめきだした。知らない言語だが、内容は予測できる。忌むべき戦勝を誇っているに違いない。この男どもは、自分たちの行動が、惑星をどうしてしまったのか、理解できなかったのだろうか?
青い空を失ってしまったのだ。清らかな水を。静かに揺れる緑を。無垢な瞳を光らす動物たちを。
私たちの無意味な感情が、全てを滅ぼしてしまったのだ。
いまや、私たちは憎悪を捨てた。危険な感情を、遠くへ押しやった。コロニーに住むのは、落ち着いた平和的な人間ばかりだ。
そして、明らかにそれは遅すぎたのだ。
四肢に力が入らなかった。手を見下ろすと、指先まで包む繊維に血がにじんでいる。一体、私たちは、どれほどこの血を地球にぶちまけてきたのだろう。
時計を見ると、シフト交代の十分前だった。
がらっと、椅子がレールを滑ってブースから出る。私は身体を支えて立ち上がり、暗い廊下を歩いていった。
私の仕事場は背後で唯一の光源となって、私を照らしていた。
◆
地表近くの階層にある、食堂。この時間帯、食堂は閑散としていて、おまけに凍えるほど寒かった。生命維持システムの負担を軽減しようとしているのか、あるいは単に、広い場所に少ない人間しかいないために、人体の熱放射が得られないためか。弱々しいが、オレンジ色の光が天井で灯っている。
お盆を持って、テーブルにつくと、がしゃっと音がして、お箸がテーブルから飛び出てきた。
私は、味も素っ気もないオレンジ色のブロックをお箸でつついた。塩だらけの惑星なので、塩分だけには事欠かないのに、最近は味の無い食べ物が流行している。塩分過剰摂取は体に良くないそうだ。
「おまえたち世代のコンピューター技師は、みんな一人で飯を食いたがるな」
低い声がかけられた。コンピューター技師? 古語だわ。そう思いながら顔を上げると、向かいに座ったのは、またしてもモルだった。
「いろいろ考えることがあるのよ」
「それは大変だな」
モルは面白くもなさそうに箸を掴んだ。
「何しに来たの?」
「飯だ」
彼は明らかに私よりも年上だったが、十五歳は越えていないだろう。肌の色が茶色っぽくて、不気味に見える。髪はとげとげと突っ立っていて、色は当然、金と銀の中間の色だ。この酸化した惑星は、濃い色の髪の存在を許さない。
身長は、病的なほど小柄だ。二メートルに達してさえいない。百八十センチ前後。どんな疾患を抱えているのやら。
情報発掘局に来たのはつい先日だが、その態度は不思議と落ち着いているようだ。外壁エンジニア局からの転属だろうか。情報発掘士とは全くジャンルの異なる職種であり、兌換性のあるスキルなんてものも思いつかない。
おまけに、この男は怪しい雰囲気を発していた。暗い廃棄階層ではよく見えなかったが、ここで見る彼は、意地悪い小鬼か何かに見えた。
ふと、怪しいというキーワードで思い出すものがあった。
「ねえ、人類は偉大だと思う?」
私は尋ねてみた。
「寝言は寝て言え」
モルは間髪入れなかった。
「ところで、情報発掘士の中では、おまえがずば抜けた発掘能力を持っているようだな」
私はさっきの恐ろしい画像を思い出し、目を固くつむった。
「あのリメンバーでさえ、おまえに注目していたという噂だ」
モルは言うが、理論上、リメンバーは全コロニー住民に注目しているはずだ。私は頭を振った。
「……見つからないのよ。見つけたいと思っているものが」
「まあ、誰だって万能ではないからな。おまえの発掘能力はすごいけど、コロニー社会はくたくただ。人類復興の努力とか言うのにも、うんざりなんだ」
男は旺盛な食欲を発揮し、がつがつと食べ始めた。
「おまえが頑張っても、みんなはついていくのがつらいかもしれないぞ?」
「どういうことよ?」
モルは机の表面をガリガリ引っかいた。机の下を暖気ダクトが通っているにもかかわらず、壁は薄く霜に覆われていた。赤い砂の混じった、赤い塗料のような霜。
「暖房に回すエネルギーさえケチっているんだ。なぜ、士気が維持できると思うんだ、ウィティ? また階層が一つ死んだ。ローバーの複製にも成功していない。コロニー住人はかつて所有していたものを失い続けている。そして、ここで人類が滅びるまで、惨めに、失い続けるんだ」
男は爪の間の赤いものを見つめ、自虐的な笑みを浮かべた。わけもなく私の目がくらむ。
「どの局も、努力しているはずよ」
「おや、メディア局のそんな言葉を信じている人間がいるとは、驚きだ」
「わ、私の発掘したものは、人類の役に立っているわ。過去の記録を発掘すれば、いつか……」
「いつか、なんだ?」
モルはにやにや笑う。その浅黒い顔は、まるで自己満足している酸化した岩のように見えた。
「火星を地球にテラフォームできる? それとも、リメンバランスを再び飛ばして地球に戻し、さらに荒廃した地球を復興できる?」
男は素早く一笑し、
「おい、ウィティ、食わないなら僕にくれ。腹が減っているんだ」
私のお盆に手を伸ばしてきた。私はお盆を掴んでさっと立ち上がり、無人の席に移った。
だが、モルも移動して再び私の前に座った。まるで火星だけが私たちの下を回ったように、私とモルの位置は変わらない。
「なあ、僕にも質問させてくれよ」
モルが嫌らしく微笑んだ。こんなに私をいらいらさせる人がいるとは、驚きだ。
「何をそんなに悩んでいる? せっかく、リメンバーという万能AIが全部面倒を見てくれているんだ。考えたり、悩んだりするのをやめてしまえ。能天気に生きたらどうだ?」
「私たちにできることは何もないの?」
「ないことはないだろう。例えば、飯を腹一杯食べるとか」
男はもりもりと食べ物をかき込む。
「どうぞ、好きなだけ食べて」
私は手をつけてない皿をモルに押し付け、席を立った。
いままで口にしたことはなかった。けれど、私は火星を人類にとっての地獄ないし流刑地と感じてきた。自分たち種族の罪について考えるのに、これ以上適した地は他にない。
ここならもう、何をしても他の動植物に迷惑がかかることはない。
しかし、人類がここで本当に滅びてしまうことを想像するのはできる限り避けてきた。あまりに容易い想像から、私は全力で顔を背けてきた。
ここで滅びなければならないなんて、耐えられない。
青い空……地球に触れることも許されないなんて。なぜ、私がこんな気持ちを味あわなければならないのだろう。なぜ、祖先の愚かさの罪を私たちが支払わねばならないのだろう。
私は無人のゴンドラで降下を始めた。
もう、二度とあんな人間には近づかないように気をつけよう。でも、一つだけきいておきたかった質問があった。
青い空はどこにあるの?
……勿論、こんなことを訊くのは、失調者だけだ。
私は天井を見上げる。リメンバーの気配はなった。そうだろう。私なんかよりも、AIの助言を必要としている人はいくらでもいるのだ。
◆
別にシフト外に働いてはいけない決まりはない。
タイム・レコーダーの隣にある人員配置モニターをちらっと見たが、もちろん誰もいなかった。常時リメンバーと接続していて、データを送ることのできるステーションも無人の椅子を抱えてうずくまっていた。
私は自分の椅子の上に身を投げ、周囲の機械が適した位置へと移動するに任せた。ブースの天井までも覆うフラットスクリーンに、様々なファイルやウィンドウが映し出される。
モルに言われないでも、十分に分かっていたはずだ。
火星にはリメンバランスの他に、四隻の航宙船が火星に着陸したはずだが、それらは皆、北半球に降り立っていた。そのため、二十年間、一度も交信できたことがない。すでにそれらのコロニーが滅びたとの説もある。
かつて宇宙を飛び回った人類の領域は、リメンバランス内部とその周辺数キロにまで狭められた。
私たちは栄光の植民者などではない。火星にくっついた、一匹の虫でしかない。
「マーカス・ロビンソンがいれば……」
私は半ば祈るようにつぶやき、ブースの外の暗がりへと目を転じた。そこにハードスーツ姿の、厳めしい面付きの英雄を見いだそうとでも言うかのように。
人間は小さな存在だ。地球から火星への旅のさなか、燃え尽きるのは容易かったことだろう。しかし、マーカスは生き残った人間を束ね、この地にたどり着いた。
マーカスは着陸後、どこへ消えてしまったのだろう? 彼はいたずらに人類を苦しませるために、ここへ連れてきたのではあるまいか?
私は身を折って、タッチパネルに額をのせた。
――希望がないのよ……。
知らないことを知るために、情報発掘の習得に力を入れたのに、手に入るのは、損傷した情報の切れ端のみ。欲しいものはろくに手に入らない。
それでも、私たち火星の人類は、絶望の感情を凍らせて、封印する方法を知っている。そうできないものは失調者としてコロニーの社会から消えていく。感情の発作を意思の力でねじ伏せると、私は目をこすり、フラットスクリーンを睨みつけた。
青空を見よう。あれさえ見れば、また元気は湧いて来る。
私は個人用チップをポケットから出して、キーパッドに接続した。ぱぱぱっと、十枚程度の画像が投影される。
青い空。
私の探し求めるもの。
自分でも意味の掴めない衝動に従って、私は画面に手を伸ばす。そうすれば、それに触れること、一体となることができるかのように――
「なるほどな」
低い声が耳元でした。
私は飛び上がり、振り返った。
モル。彼が目を半分閉じて、スクリーンを見上げている。
私の急な動きを、椅子は他の命令と勘違いした。空の画像が、スクリーン上を素早く移動しだす。
「これは……これは……」
考えが散らばって、言葉になってくれない。
誓って言うが、まったく気配は感じなかった。男は幽霊のように忽然と現れた。
「可哀想なくらいうろたえてくれるな。ま、嘘をつくことも知らない、人工知能に育てられた世代だ」
モルはつぶやいた。その後、私を見据え、唇を歪めた。
「何をそんなに恐れているんだ? 確かに法には反している。が、僕がこのことを報告したとしても、ポイントを少々削られる程度だろう?」
私は……私は……。
「失調者と判断されて、この情報鉱脈から遠ざけられるのが怖いのか?」
違う。私は失調者などでは……。必死で首を振った。
「分かった……おまえ、火星が怖いんだな。現実が怖いんだ。そうだな?」
「やめて……」
「いいだろう。だが、リメンバーはおまえのその秘密の趣味を知っていると思うぞ」
まさか。私は急いでスクリーンを見回す。ここは廃棄階層だし、リメンバーの気配を感じたことは一度もない。
「信じられんか。まあ、いい」
モルはつぶやきながら、ゆっくり手を伸ばす。そして、天井近くの一角に浮かぶウィンドウをなでた。
「質の低い青空だ」
フラット・スクリーンは、私以外の人間が触れたことから、このイメージを重要物と判断して一時保存した。
「リメンバーは青空をくれないだろうな」
目まぐるしく行ったり来たりするウィンドウに照らされ、男の表情は人間をやめた何かに見えた。
イメージの周囲に関連情報が記されていく。それを走り読んで、モルははっと息をのんだ。
「どうやった!?」
彼は怒鳴り、ブース内に踏み込んで来る。私は可能な限り彼から身を遠ざけようと、スクリーンに身を押し付けた。
「な、何よ!?」
「ソビエト連邦の戦場環境報告イメージだ。どうやってこんなものを発掘した?」
「ソ、ソビ何?」
「地球地表にあった共同体の名前だ。企業なのか自治体なのかは判明していないが。そんなことはどうでもいい。どうやってここまで復元した? 暗号で厳重にプロテクトされていたはずだ」
モルが示したのは、私が休憩前に発掘した、あの恐ろしい戦闘画像だった。
「どうやったって……私が情報発掘士なのは知ってるじゃない」
「リメンバーが手伝ったのか?」
「そんなわけないでしょう!」
モルは鼻を押し付けるようにその画像を睨み、
「当時のスーパー・コンピュータでも、これを解くには膨大な手間がかかったと言われている。それを……おまえは暗算で?」
私はうなずく。
「二百年も前のイメージよ。当時のコンピュータなんて接続するネットも持たなかったがらくたじゃない。私は人類の作った最高の知性に教育されたのよ」
モルの顔から歪んだ感情が消え、思案深げのものへと変わった。
「僕は情報発掘士のスキルを過小評価していたか……」
彼は値踏みの視線を巡らせていた。だが、やおら腰のポーチからチップを取り出すと、スクリーンに接続した。
「ちょっと……私の仕事道具に変な情報いれないで」
「黙れ」
チップに含まれていたのは画像でも、サウンドでもなく、テキストですらなかった。それを保護するための、防壁だけが単体で含まれていた。
「何これ?」
「ウィティ、おまえなら解読できるな? さっきのと同じ、閉殻式関数のサイファーだ」
無数の数字がスクリーンに展開されていく。他の雑多な映像、テキストが飲み込まれていく。私は男の存在から、専門分野に逃げ場を見つけて、飛びついた。
「作られたのは二十一世紀後半、単に部外者の立ち入りを規制するためのもので、よって――」
「静かに」
私はささやいた。それで、モルの言葉を断ち切れたが、すでに私の世界はスクリーン上の数字に縮小されていた。
自身の固定記憶に、次々と転写されて、区分けされる。産まれた時から、情報処理のテクニックとして、数字は手足のように用いてきた。
数字の表層から、それが阻もうとしているものを暴きだす。
やがて、結論に至った。
同時に感じたのは、おかしなことに、失望だった。こんな、異様な男が私に解けと迫ったのは、なんてことはないありふれた防壁。先日、思いついた洒落た因数分解の新手法を投じてみた結果、三十秒もかからなかった。なんと拍子抜けなことか。
モルはブースの入り口の壁に寄りかかっていた。
「どうだ? 解けそうか?」
「もう終わったわよ」
彼の目を見ずに、チップを差し出した。
「望みはこれだけなのでしょ? それなら、もう――」
ごつごつした手が私の手首を掴む。男は唇をひん曲げて、笑みを作っていた。独特のすごみのある笑み。
それを見て、私の背筋を冷たいものが走った。
「青空を見せてやるよ」
モルは言った。
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