赤い大地で青空探すと(2)



◆◆◆

 私はモルに脅されているから、彼について行っている。そう思い続けているうちに、それが真実に思え始めた。
 彼の後に従って、廃棄階層のさらなる奥へと進んでいく。空気は冷たく淀んでいた。一歩進むごとに、閉じ込められた感じが強くなる。
 足下に積もった砂の量や、壁面の死んだ端末などは、すでにこの階層が眠りについてから長い時が過ぎたことを伝えている。生命維持が不十分なのだろう。息が苦しく、耳鳴りがした。
 モルの後ろ姿はどうしようもなく不吉に見える。彼は危険だ。彼に近づくべきではない。いますぐ走り出せば、また日常が戻ってくるはずだ。私の方が彼より三十センチ以上足が長いだろうし、走るスピードだってその分勝る。もしかしたら腕力さえも――
 だが、私もおかしくなっているのだろう。あの記録映像のせいだ。真面目なコロニー住人にして、情報発掘局員の私は気乗りせず、この怪しい同僚から離れたがっているのに、私の心の中のフラット・スクリーンは青空を求めて、いかなる危険でコロニー社会に害を与えかねない誘惑を映し、私はそれから目をそらすことができないような状態だった。つまり、意思とは無関係に足は彼を追い続けた。
 モルは唐突に止まり、床に触れた。
「……寒いわ」
 私は膝に手を置いて、つぶやいた。
「知ってる」
 モルは床のレバーをひねった。
 床の板が一メートル四方ほど滑らかに浮かび上がって、開いた。赤い煙がもくもくと上がるのを見て、私はどうしようもなく咳こみたくなってくる。
 彼はその穴に躊躇なく飛び込んだ。私は闇を見下ろし、ゆっくり考えることにする。今すぐ走り出し、リメンバーの元に戻るべきなのだ。迷うべき問題ですらない。
 だが、下の穴から酸化した鉄と硫黄の匂いが上がってきたのに気付いた。外の匂いだ。
 こんなこと、狂気の沙汰だ。そう、思いながら私は穴へと下りていく。梯子の足場が、肋骨のように壁から突き出していた。
 穴の底で、水平方向の通路と交わっていた。その通路は狭くて、明らかに今の重力方向を想定して作られていなかった。床を梯子が走っていて、歩きにくいことこの上ない。そしてかなり上方へと傾斜していた。
 天井も異常に低い。私ではなくて、モルのような身長の人でも頭がこするほど。
「宇宙航行時代の点検シャフトだ」
 モルはそれだけ言うと、この狭苦しい通路を進んでいった。迷ったら、ちゃんと生命維持のされている場所へ戻れるか不安だった。
 私はあわててモルの後を追う。
 モルは最小限の言葉以上のものを口から吐かない。私たちの間の沈黙を埋めるのは、リメンバランスの奥底から響いて来る機械の唸りだけだった。
 この異様な通路に蓋をするように、扉が立ちふさがった。モルは取っ手を回し、扉は横に滑った。
 さっきから感じていた違和感に気付いた。モルは扉を手で開けている。リメンバランス内では、全ての扉やハッチはリメンバーが制御している。人間は扉自体に触れることすら希なのに。
 私たちは円形の部屋に入った。壁に、何かの収納棚が並んでいた。
「外へと繋がるハッチの前の準備室だ」
「外……。コロニーの外へ行くわけ?」
「青空ってのは、お家の外にあるんだ」
 モルは軽く受け流すように言って、棚のカバーのキーパッドを叩く。生き残っている情報鉱脈でも教えてくれるのかと思いきや、外だって?
 どういう職種や地位にいる人間なら、勝手にリメンバランスの宇宙航行時代のハッチを開け閉めできるのだろう? リメンバー本人なら可能だろうが……あのAIは人類にとって益とならない行為にいい顔をしない。
 いや、それ以前に生身で外に出るのは致命的だ。コロニー外活動には生命維持装置の付いた密閉型スーツが不可欠。
 やはり、モルは頭のおかしい人間なのだろう。それ以外、考えられる、筋の通った話もない。モルは妄想を抱えている。失調者にはよくある問題。なぜか失望のようなものを抱きながら、私は踵をかえそうとした。
 シューっと白い煙が吹き出て、収納棚のカバーが持ち上がった。ぬっと人影が現れて、私は身構えた。
「これは……」
 人間ではない。棚に収納されていたのは、服だ。地球人が戦闘の際に着込んだ鎧のように、ごつごつしたパーツが見える。だが、頭部は球形のヘルメットになっている。
「裸で外に出るわけにもいかんだろ?」
 モルが歯をむき出すようにして笑う。
 見紛えようもなかった。
 ハードスーツ。火星の大地で、人が生きるために必要とする本格装備。
 こんなものの使用を許可されているのは、外壁やコロニー外の鉱山で働くスペシャリストだけだ。それ以外の者は、コロニーから外に出ることなんかない。たとえ可能であっても、誰が好き好んで、外へ行くものか。
「これを作るための技術はもうないはずなのに……なぜあなたはこんなものを……」
「驚く前に着ろ」
 隣の収納棚も開いて、スーツが現れた。私の前にあるものは白いのに対し、モルが手に取ったのは深緑色だった。私にとって伝説的な存在の、ハードスーツを魔法のようなスピードで彼は装着していく。
 すごい。
「おい、頼むぞ。スーツが着れないだなんて言ってくれるな」
 そんなことを言われても、教育期の訓練では緊急用ソフトスーツばかり使った。こんな、本格的なハードスーツなんて触ったこともなかった。
 私はぎこちない動きで、エンバイロメンタルウェアに身体をねじこみ、硬い胸甲を手に取った。
「なんで……なんで私にこんなことを?」
 私は尋ねた。自分でも彼に感謝しているのか、責めているのか、よくわからない口調だった。事態は、急速に私の想像の許す範囲を超越しつつある。
「これは誰のスーツなのよ?」
「それは昔、僕が愛した人のスーツさ。彼女が死んだ後も、整備してここに保存しておいた」
「それで何? 私が勝手に使っていい物なの?」
「疑問は尽きないな。身長二メートル半の、生っ白い火星のモーロック族ではなく、ちゃんと訓練を受けた国連航宙局の航宙士が使うべき物だとは思うが、そんな生き物は死滅した。悲しいことに」
 モルは意味の分からないことを低い声で言って、腕のコントローラーでスーツの圧電繊維をチェックした。フレキシブルなこの繊維が、過酷な火星環境から私たちを遮断してくれる。
「僕は地球生まれだ。意味がわかるか?」
 意味を飲み込むのに、数瞬を要した。しかし、なお、聞いたことが信じられない。
「……信じられない」
「じゃあ、なんで僕がおまえより頭一つ分も背が低いと思ったんだ?」
 白状すれば、何かの内分泌系異常だと思っていた。強烈な宇宙線にさらされる鉱山師や、外壁エンジニアは、おかしな異状や、悪性新生物を体内に抱えている。
「僕は航宙士だ。火星に人類を導いた、マーカス直属の部下さ。リメンバランスの航行にも直接たずさわった」
 馬鹿な。この眼前のおかしな小人が、マーカスと火星への旅の、神話の一部と?
 嘘には、もっとましな物がある。
「別に信じてくれなくてもいいぞ」
 明らかに、私の考えを見透かして男は言った。
「だって……一体、あなた何歳なの? 二十歳を越えているようには見えないけど……」
「火星年でか? 僕の親が、地球で僕の遺伝子に何か植えたんだろうな。まあ、若く見られるのは嫌いじゃない」
 彼は、私の手間取りように業を煮やしたのか、私の背後に回り、ヘルメットをかぶせ、スーツ制御コントローラーをメニュー画面にしてくれた。
「リメンバーは……ここのことを認めているの?」
 いや、信じがたい。あの、リメンバーがスーツの個人所有なんか許すわけが――
「リメンバーはこんな外壁にいない。奴はこのことを知らない」
 モルは表情も変えずにそう言って、天井を見上げた。
「まだ、AI規定の第三項が残っているのだろうな。『人工知能は可能な限り、自らが傷つくのを避けよ』だ。リメンバーは自分を傷つくのを避けるために臆病になっている。外壁近くで、忍び込んできた宇宙線に引っ掻き回されることを怖がっているんだ。リメンバーほどのAIなら乗り越えられてもよさそうだが……本能のように奴の中に巣食っているのかもな? ほら、人間が宇宙に飛び出た後も、奈落への落下を恐れ続けたように」
 私は何も言えなかった。
 リメンバーがそんなに弱いはずがない。あのAIは、人類のかつての知恵の記念碑だ。廃棄階層のように、不要な階層から退くことがあっても、コロニー外壁のような場所から逃げているだなんて。ありえない。あってはならない。
 リメンバーは火星の人類を支え、守り、復興の鍵となるべき存在なのに。
 ショックも覚めない私を押して、部屋の再奥まで進むと、モルは腕のコンピューターからケーブルを引き抜いて、端末に接続した。端末の奥には巨大な円形の扉。鼻を刺す硫黄の匂いが強くなる。
「さて、おまえに解いてもらった解答が役に立つ時が来た」
 端末のスクリーンがパスワードを求めている。先ほど情報発掘局で解かされたのと、全く同じ防壁だった。
「……これを開けたかったの?」
「その通りだ。本来、航宙士は全てのパスを通過できる権限を与えられていたのだが、僕のは……その、つまり劣化してしまった。おまけに、リメンバーの野郎が偏執的にハッチというハッチを閉鎖しているせいで、僕はもう五十日もこのコロニーに閉じ込められている」
 モルの声にかすかないらだちが含まれていた。
 かすかな内面の吐露。だが、それが欠けていたパーツだった。私は理解する。
「このパスが欲しくて、情報発掘局に入ったのね?」
「その通り。暗号を解くことに関しちゃ、プログラム局もコロニー維持局も、おまえたちの足下にも及ばない」
 モルは悪びれるという態度なんか知らないようだった。
「一体、外に何があるの?」
「言葉で説明するのも芸がないだろ」
 モルは腕を振って、ケーブルを回収した。
『作業用エアロック、開放します』
 端末が喋る。リメンバーの声かと思ったが、少し調子が違った。なんというか、リメンバーにあるような感情的な音の調子にかけている。扉に設けられた準知能だろう。
 さっと、背後で扉が閉まり、私たちは五メートル四方ほどの小空間に閉じ込められた。そして、前方の隔壁がぐるぐる回転しだす。二重扉式のエアロックだ。
 扉は火花を散らす。
 モルはかすかに唸って、私の知らない言葉を吐いた。
「可動部にまた砂が入ったかな? 回路が硫黄で汚染されて、しかも凍り付いてなけりゃ、大したことはないが――」
「故障なの?」
 モルは端末の下の壁を蹴飛ばした。とてつもない音がして金属が震えた。
 見たこともないような、乱暴な機械の扱いに、私はぎょっとする。
「安心しろ、エンジニアはユーザーの八つ当たりぐらい想定して、物を作っている」
「でも二十年前のものだし……二度と作れないものじゃ……」
「整備ぐらいしているさ。まれに、だが」
「あなたが?」
「リメンバーに命令されなきゃ何もできない、有機的なロボットには成り下がりたくないのでね」
 モルはもう一度壁を蹴飛ばした。スクリーンが、ぱっと光をほとばしらせた。
「おお、直った」
 火花が飛び交い、古い機械の奥底からの叫喚が空間を満たした。前方の扉が、ゆっくりと前後に開いていく。
 その金属の音は徐々に小さくなっていった。空気が抜けている。足下に積もった砂が、複雑な渦を描きながら舞い上がった。
 間から光が流れ込んで、目に染みた。

 赤い世界が私の視界を覆い尽くす。
 私は弱い生物だ。対して、火星の厳しさは半可なものではない。
 恐ろしい世界と私を隔てるのは、地球人類の知恵の産物のみ。これなしでは、一秒と生きることはできない。気温は絶対温度で二百度ほどと、ヘルメットに表示された。気圧は十ヘクトパスカル。特に強調されて表示されているのが、宇宙線暴露量。ベクレルやらシーボルトやらの数値が羅列され、さらにグラフまでが描かれ、明るく彩色された。
 宇宙線は見えない恐怖だった。無音で私の細胞の中に染み入ってきて、コロニーの医療設備では治療ができない破壊を引き起こしていく。地球から受け継いできた遺伝子は、おぞましい変異を引き起こされるのだ。リメンバランスの外に立つことは、一秒ずつ私の寿命が減っていくことを意味していた。
 耳を澄ませてみた。聞こえる音は、生命維持装置やクーラーの稼働音と、私の息づかいの音だけだ。
 自分は何を期待しているのやら。自身の命が磨り減る、秒針の刻みの音だろうか。
 本当に危険な状態になれば、地球製のスーツが警告してくれるはず。怖がっていては何も得られない。私は意を決して、ぎこちない動作で足を動かした。
 ゆっくりとリメンバランスから歩み出た。踏んでいるものが、金属から火星の土、デュリクリストに変わる。
 過酷な赤の世界。
 故郷を失った人類のための、煉獄。
 この星に太陽から届くエネルギーは地球の半分以下だというのに、まぶしくてたまらない。目を細めてから、ようやくヘルメットをコントロールすることを思いついた。
 目の前に傾斜のきつい土の丘がある。先行くモルは無言でよじ登っていった。私に驚きや感動も味あわせるつもりは無いというのか。
 振り返れば、円形の扉は閉まって、金属の壁の一部になるところだった。巨大な金属の岸壁……これがリメンバランス。あまりに巨大で、あまりに近く、自分でも何を見ているのか分からない。
 私は不安の塊になって、丘をよじ登った。足を動かすたびに赤茶色い煙が上がる。
 地面は階段状になっている。リメンバランスを絶え間なく打つ火星の風が、反射してこんな地形を作っているのかもしれない。
 地面の表面は硬いが、私が踏むとパリパリとひびが入った。モルの足跡を追うのも、簡単だ。
 やがて、私は丘の頂に立った。
 周囲の状況が分かる。二十年前の、リメンバランスが地表に衝突した衝撃のせいで、大地はお椀のように大きくへこんでいるのだ。
 リメンバランスの姿は私の想像したいかなるものとも異なった。上を見上げても、頂点の見えない、巨大な金属の塊。表面は火星の砂のせいで真っ赤に染まっている。地球人の作った巨大航宙船は火星の砂をまとって、何らかの神性を得たのかもしれない。劫経た機械に宿る、謎の迫力。あまりに異様で、あまりに不気味。
 この中で私は生きていたのか。この中に数千人の、最後の人類と、彼らを支える人工知能リメンバーが……。
 リメンバランスから目をそらした。火星の地表の姿も、それに負けず劣らず、こたえた。
「赤い星……」
 赤い地表は平坦で、地平線は近く感じた。ちょっと五分ほど歩けば、濃いオレンジ色の空と大地の境界線に辿りつけてしまえそう。地面の土は波の形の模様が無限に刻まれ、見ていて目がまう。断続的に吹く強風が、今でも前方で彫刻を続けている。
 これが火星。
 地平線まで点々と黒い岩が転がっている。岩ではなくて、山かもしれない。距離感がうまくつかめない。
 ほかにも、岩にしてはおかしな形のものが見えた。妙に穴だらけな、柱のような外見。その下を、豆粒ほどのローバーが走っているのを見て、正体は明らかになる。リメンバランスの四散したエンジンだ。
 もちろん、リメンバランス内でヴァーチャル映像の火星なら、よくお目にかかった。今朝なんか、何時間も火星の空を眺めていたほどだ。だが、違う。実物は違った。
 私はゆっくりとひざまずいて、土に触れた。信じられないほど冷たい。ぱさぱさした赤い砂が指の間から逃げていく。
 ごん、と頭の上で音がする。モルがヘルメットをくっつけてきていた。
「まだ通信は開くな。コロニーに聞かれる」
 ヘルメットを介したモルの声はひずんでいた。この星には、会話に十分なほどの大気も無いのだ。
「行くぞ、ウィティ。土に触れる時間なら、あとでいくらでもある」
 私はうなずいて、立ち上がった。掌は痛みを感じるほど冷たかったが、スーツの電気的な熱がすぐさまなだれ込んでくるのを感じた。
 モルは相変わらず、まるで周囲の様子に関心も持たずにずんずん進んでいく。もしや、本当に歩いて地平線を突破するつもりなのだろうか。
 頭上には月が浮かんでいる。火星には二つの月があるが、あれは『速い月』フォボスの方。せかせかと上がったり下りたりする忙しい月だ。もう一方ののんびりした『遅い月』ダイモスの方は、まだ数日は上らない。
 地球は金色にして、美しい月を持っていた。名はルナ。
 だが、こちらは火星。美しいものなど一つもない。月も当然のようにひずみ、あばただらけで見ていて鳥肌が立つほど。
 私は視線を落とし、地面を見て歩き続けた。地面はどこまでも、同じように続いていて変化がない。ただ、疲労だけが蓄積されていく。まるで悪い夢だ。振り返って、リメンバランスが小さくなっていくのが、自分が一カ所で足踏みしているのではなく、歩いていることの唯一の証拠だった。
 太陽は小さいのに、やたらとぎらついていた。太陽からのエネルギーが、人類に残された数少ない恩恵ということは自覚しているが……それでもこの怒れる光源は恐ろしい。今だって、私の身体を有害な光線で貫いていることだろう。スーツの原子番号の高い金属を含む複層繊維が、多少は吸収してくれるはずだが、全ては無理だ。
 コロニー住人がリメンバランスから出ようとしないのは、残るスーツの数が少ないからじゃない。外界は恐ろしいからだ。頬を幾筋もの汗が流れたが、拭う方法なんてなかった。いま着ているスーツが、地球人類の技術の結晶であることは知っている。だが、大昔の代物であることも事実だ。スーツが故障したりしたら、何秒ぐらい生きていられるのだろう。そんな考えが浮かんだり消えたりする。
 突然何かにぶつかり。私は尻餅をついた。いつの間にかモルは立ち止まっていて、私は気付かず追突したらしい。
 痛いほどの寒さが染み込んでくる前に、私はモルに引っぱり起こされた。
「歩きながら寝ていたのか?」
 ヘルメットを接していないにも関わらず、モルの乾いた声がヘルメット内に響いた。どういうことだろう?
 モルが私の左手首のコントローラーを操作した。ヘルメット内部に投影されていた表示が『無線封鎖』から『プライバシー・バンド』に変化した。
「ここまでリメンバランスから離れれば、声を聞かれることもない。通信機とビーコンはスーツの右肩に装着されている」
 私の右肩からにゅっとアンテナが生えていた。
「火星で無線通信はできなかったんじゃなかったの? 電離層が地球と違うから」
「惑星の反対側に通信するような短波は無理だが、こんだけ近けりゃ問題ない。いちいちヘルメットくっつけるのも面倒だしな」
「で?」
 私は、周りを見回した。相変わらず土と岩ばかりだ。眼前にも黒い岩の塊が見える。だが、岩は岩でしかなかった。
「一体どこまで歩くつもりなのよ? 岩ばかりで、青空は見えてこないんだけど。もしかして、地球まで歩くつもり?」
 通信機が、私の口調に含まれた感情をどこまで正確に伝えてくれているのか疑問だ。だが、モルは何ら動じず、岩の上にしゃがみ込んだだけだった。
「五分や十分歩いたところで青空が見えるとは思っていないだろ?」
「すでにすごい量の宇宙線を浴びたわ」
「そいつは大変だ」
 次の瞬間、信じられないことが起こった。モルの下の岩が急に震えて、縮みだす。
 私は何度か瞬きしてみた。だが、岩の収縮は止まらない。
 おかしい。絶対におかしい。
「ねえ、モル、私のスーツの酸素分圧は正常よね? なにか幻覚が見えてる気がするんだけど」
「昼飯に何かおかしなものが入っていたんじゃないのか?」
 モルは、書いてある文章を読むような口調で言った後、ぺちゃんこになった岩を引っ張った。それはずるずると地面を滑って、モルの足下に集まっていく。
 私はかがんでみて、おそるおそる縮んだ岩に触れてみた。弾力ある手触り……リメンバランス内の床や壁に使われているポリマー建築材と全く同じだ。それに火星の岩の模様が描いてあるらしい。
 私は立ち上がってモルを正面から睨みつける。
「あんまり馬鹿にし続けるようだと、私は――」
 ポリマーのシートの下から何かが出てきて、私ははっとした。
「僕の自家用車さ」
 モルはゆっくりとそれに歩み寄った。顔は見えないが、彼の声には、わずかながらいわゆる感情が含まれていた。自分の自慢の作品を前にしたような、純然たる歓喜が。
 現れたのは、間違いない。ローバーだ。火星地表面移動のための多目的車両。
 ローバーは見たことのない型だった。だが、大きさから想像するに、リメンバランスの鉱物集積所を出入りしている物を若干改造した物に違いない。タイアは、火星の土の上を走る乗り物全てと同様に馬鹿でかかった。直径三メートルほど。
「乗れ、ウィティ」
 素敵なことに、入り口は車体上部にある。ハードスーツを着て用心しながら、梯子を上るのは骨の折れる仕事だ。あっと叫ぶ間もなく、私は手を滑らせ、冷たい地面に叩き付けられていた。アイソトープ・リアクターが背中に鈍く食い込んだ。錆色の土煙が上がり、何も見えなくなる。
 私はしばらく息を止めていた。今の衝撃でアイソトープ・リアクターがメルトダウンを起こしてはいないだろうか? そうでなくても、故障なんかしていたら困る。もう誰にも新しいリアクターは作れないのだ。
 ローバーの下に何か積み込んでいたモルが歩み寄ってきた。
「起きろ」
 ヘルメットは風景を反射していて、モルの顔は読めないが、その声は適度な呆れを含んでいる。
「おまえが着ているのは、ガラスのドレスじゃないんだ。航宙局のEVMAスーツだぞ。いつも通りに動け」
 そう言うと、彼はひらりと飛び上がり、タイアを蹴って、コクピットのキャノピーをよじ上っていった。
 私はモルの身軽な動きに、うらやましいものも感じていた。

 私が乗り込むやいなや、ローバーは走り出す。モルはローバーであれ、扉であれ、優しく扱う人間ではなかった。
 ローバーの内部は与圧できる設定と聞いていたが、それどころか、砂が十センチも積もっているありさま。壁面には霜と砂の混ざったものが斑な模様を描いていた。その手慣れた運転や、ローバーを前にした手つきから、モルがとんでもない腕のエンジニアということは分かっている。彼の腕なら、キャビンの整備ぐらい朝飯前だろうに。モルという人物は、いまなお私にとって謎、の一言だった。
 ハッチを閉めた所で何も変わらない。だから、開けっ放しにしておいて、私は座席から空を見上げていた。
 今は日が出ているので、これでも気温は高い。スーツから放射される熱よりも、リアクターで生成される熱の方が多いほどだ。スーツのコンピューターはクーラーをかけている。だが、夜になれば気温は零下百度を下回る。
 そんな世界にさまよい出ることは、何を意味するのだろう。
 ハッチに区切られた空は血の赤色で、常に渦を巻いて変化している。吸い込まれそう。
 火星。マーズ。マルス。発掘記録が言う所の、戦いの神の星。皮肉なものだ。ここへ来て、人間は初めて戦いをやめることができたのに。
「ねえ、モル。戦争はどうして起こると思う?」
 コクピットの後ろ姿に尋ねた。
「暇つぶしだろ」
 モルは即答してきた。
 この男は……。その軽い答えっぷりに、私は眉間にしわを寄せた。
「いや、ウィティ。おまえをからかっているつもりはない。本当にそう思えるんだ。戦争は、経済のせいという奴もいたし、宗教のせいという奴もいた」
 モルは右手で大きなハンドルを回し、左手で絶え間なくレバーを上下していた。
「だが、僕に言わせると、平和に飽きたときに、あのイベントは起こる」
「私たちはそこまで、罪深い種族なの?」
「罪深い? さあな、知らん。そんなことを決めるのは、千年後の歴史家の仕事だ。なぜ僕たちがそんなことに頭を悩ませなければならない?」
 モルはそう言って通信を切った。
 私は膝を引き寄せ、装甲に覆われた膝頭に顎を預ける。
 地球生まれを自称する男はこのように答えた。
 では、人類の庇護者、感情を持つ機械リメンバーはどう思っているのだろう? 私たちが罪深い種族と知っていてなお、守る価値があると思っているのだろうか。