赤い大地で青空探すと(3)
◆◆◆
リメンバランスを出てから、時間の感覚は狂いっぱなしだった。リメンバランスの中で、産まれてきた時から定まった生活をしてきた私には、正確な体内時計が備わっていた。それなのに、火星の空を見ながら、すごいスピードでどこかへ向かっている状況は、私の脳の機能を少なからず攪乱した。
異様なほど静かな世界。聞こえるのは自分の呼吸音と、スーツを伝わって来る振動音。あまりに単調なリズム。
緊張の連続で私の頭は重たく、うまく働かなかった。瞬きをするごとに色が怪しく変化する赤い空を見る度に、自分の位置が把握できない理不尽さを解こうと、無意味な計算を繰り返した。
私が見たいのは……青い空なのに。
急に、世界が回転しだした。ひどいむかつきを覚え、私はたまらず目を閉じる。
「長い間、整備を怠っていたわりに、快調なドライブだった」
モルが低い声で言っていた。彼が急ブレーキをかけて、ローバーは停止したらしい。
「こ……ここは?」
「どうした、元気ないな。自動車酔いか? おまえたち火星生まれにも、そういう問題はあるんだな。スーツの中で吐くなよ。惨めなことになるぞ」
モルが何か言ってることを意識しながら、私はローバーの屋根に上ろうとする。凍結した思考は上手く働かず、スーツは重たかった。
ローバーに乗ったときには天頂にあった速い月が、いまはなぜか地平線上にある。
ローバーの中でほんの数回瞬きをしているうちに、月は動いたのだ。
人を欺く惑星。目を凝らせば、実はこの赤い空も、自室の天井に投影されたものだと分かるのでは? これが消えて、灰色の天井が戻ってきても、私は全く驚かない。
ただ、耳に入ってくるのは、滑らかなリメンバーの声ではなく、冷たく乾いた男の声。
「さて、コプラテス・マイナー谷に着いたぞ」
「わ……」
私はローバーから降りた。着地の際に、足を氷に突っ込む冷たさが走るが、私はそれにも気付かない。
ヴァーチャルでさえ、見たことのない光景が広がっていた。
視界は数百キロにわたって開けている。火星の地形は人間の目に向いた作りをしていない。距離感は全く掴めない。巨大な谷だった。
底の方は赤茶色の煙でぼやけ、対岸となると一体どのぐらい遠くにあるのか分からない。五キロか。五十キロか。
「マリネリス大峡谷と比べれば、ほんの小さな溝という感じだが、それでも見晴らしはいい」
小柄なスーツが隣に立つ。
「金属の航宙船残骸の底にいると、妙に息苦しいし、考えも固くなっていく。始終、狂った人工知能に見張られるしな。ときたま、こういう場所での息抜きが必要だ」
男の言葉をゆっくりと解釈しながら、私は回りを観察した。
リメンバランスの着陸地点、ヘラス平原とは土の質が異なるのだろう、ここの土は棘のような形に固まっていた。ちょっと歩いても、自分自身の足音がばりばりと、けたたましい音を立てる。谷からの風は強く、無数の土の塊が地面の上を常に転がっている。地形は、火星がまだ熱かった時代、谷の生まれた時から、止むことのない変化を続けているのだろう。
そのとき、異質な物体が目に入った。
ローバーの少し先。何か、一抱えもある機械が地面に突き刺さっている。その表面が、削られて文字らしきものを形作っていた。
モルはそれに歩み寄ると、地面の冷たさなど感じていない動きで、その前にひざまずいた。その動作と、彼の前に刺さるオブジェを見て、思いあたるものがあった。
「お墓……?」
「よく知っているな」
モルが頭を垂れる。
私は過去の風習を思い出しながら、呆然と立っていた。お墓なんて、宇宙進出以前の、大昔の風習だ。
そんなものが火星に。
「スーツにローバーにお墓……」
リメンバーや、他の人類たちとの取り決めで、モルがこれらを所有しているのではない。
彼は奪ったのだ。他の人類が持つ、数少ない物を。
いままで封印してきた感情。それが急に解凍されたらしい。抑えが利かなくなり、私は目もくらむような負の感情を抱えていた。
「あなた一体何なの!? 私たち一人一人が積み上げてきたものを、こんな風に浪費して――」
「ウィティ。死者の前では静かにするものだ」
彼は低い声で言って、墓標に向けて頭を足れた。
私は肩で息をしていた。努力をして理性を集める。モルに罵声を浴びせても無駄だ。彼は通信を切っているし、どのみち私の言葉など、彼には何の意味も持たない。ヘルメットに表示された私の心拍数が、ゆっくりと正常値に落ちていく。
私は足音をあまりたてないように、ゆっくりと歩いて、モルの隣に立った。
『航宙士ソフィア・サリヴァナ 2074ー2112 多くの人命が彼女に救われた』
墓標にはCP語でそう書かれていた。
ソフィア……。その名はこのヘルメットにも書かれている。このスーツの元の持ち主。
火星にお墓とは、何だかおかしかった。ここは人類流刑の地であるのに、死者を眠らせてどうするというのだろう。眠るとすれば、それは地球であるべきだ。
モルはやがて立ち上がり、私たちはお墓を離れた。彼はまるで、お墓に声を聞かれないように用心するかのごとく、それに背を向けて口を開いた。
「僕が何だって? 僕が航宙士ということはすでに話したはずだが」
「あなたはリメンバーの築いた秩序を無視しているわね。一体、どういうつもり? 人類を滅亡に導きたいの?」
「リメンバーの秩序か。くそっ、あの人工知能は大嫌いなんだ。あれのせいで、人類は骨抜きだ。考えるということを、あれに全て任せちまったんだからな。マーカスは、なんであんな奴らを火星に連れてきた? あいつのアイディアの中でも特に最低だった」
私を育ててくれたリメンバーを愚弄して、人類を救ったマーカスの名さえも挙げようとしている。
前に立つ黒い姿の、そのヘルメットの向こうの男を、私は憎んだ。
「分からないか、火星生まれ? 全ての物資をリサイクルに回したおかげで、人類は何一つできなくなってしまった。答えを求める力を失ってしまった。何が、人類存続のためだ! おまえたちは、我ら種族を緩慢なる死に向かわせているぞ」
「答えって何?」
「ここはどういう世界なんだ? 地平線の向こうには何があるんだ?」
モルは腕を振って、谷と山々を指した。
「木の上で果実をつかんでいたサルだった我々を、宇宙まで押し上げたのは何だ? 答えを求めようとする、精神だ」
「ここは……ここは人類の地獄よ」
「反吐が出そうな答えだ。この星に失礼だな」
モルは唾を吐けたら吐くような声で答えた。
私は足元に広がる赤い大地を見下ろした。
怖い。
この冷たくて赤い星には恐怖しか感じない。私を囲む殻であるリメンバランスはもうない。直に触れる冷酷な惑星は、堪え難い恐怖で私を圧倒している。
一体、それ以外のいかなる感情を抱けようか。
男との短い言葉のやり取りは、相手の不可思議さを際立てただけだった。
私はしゃがんで、峡谷の向こう、砂煙にぼやけた地を見やった。
「翼があれば、ここから飛び去って、地球へ……」
「飛んで火星からずらかろうというのか? 無理だな。空気が薄すぎる。羽ばたいても無意味だ」
モルはつぶやいたが、私はかまわず続けた。
「……少なくとも、地球へと飛ぼうと試みることができるわ」
「地球か」
私は目の前の理解できない男に対して、探し続けてきたものの名を上げた。
「青空は?」
「ん……ああ、それで誘ったんだったな」
ややあって、モルは答えた。
私に背を向け、
「あと一時間も待てば、青空が見られる。火星の夕焼けについては知っているな?」
私は土の塊を手の中で転がしたあと、ゆっくりと握りつぶした。
「騙したのね?」
「青空には違いあるまい。何が不満なんだ?」
火星の夕焼けは青い。
火星の空の色と、地球の空の色の違いは、空気中の粒子の違いによる。地球の空は青い光を散乱させやすい性質を持つのに対し、火星の空は赤い光を散乱させる。空気中に舞い上がった、土壌粒子のせいだ。
だが、日没に際しては、太陽光が空気中を通過する距離は、日中の実に五十倍にもなる。そのため、赤い波長の光は、散乱されすぎ、私たちの目には届かない。火星では夕焼けは青と白の中間の、ぼんやりとした色合いになる。
実物は見たことなかったが、その話は知っていた。
「私が見たいのは地球の青空よ。火星のまやかしの青空なんか……何の意味も無い」
「驚くべき欲張りだな」
男のヘルメットが陽光を反射して、鋭いまなざしのように、ぎらりと光る。モルはさっと、腕を伸ばし、私のスーツの肩甲を掴んだ。
「まやかしに何の問題がある? 現におまえはまやかしの中に住んでいる。古代の記録を発掘することに何があるというんだ? 地球の、何の情報を持って来たとしても、ここでは無意味だ」
私はモルの手を叩き落した。複層セラミクス同士がぶつかって、鈍い音がスーツの中で反響する。
「おお、怒ったな。いいぞ。自分の感情に忠実になったな。次はどうする? 殴り掛かって来るか?」
「そんなこと……」
私は震えながら自分の手を見下ろした。手のひらから、土がぼろぼろとこぼれていった。
結局、私は、地球を滅ぼした人類の子なのだ。
「……出来るわけないでしょ」
五秒ほど立ってから、モルはぽつりと言った。
「すまん」
私はのろのろとモルを見上げた。
「おまえはリメンバーの最高傑作だ。僕はただ、奴の作品をめちゃめちゃにしたかっただけなのかもしれん。くそ、僕はリメンバーに対峙する度胸もないのだからな」
なんで急に態度を豹変させるのよ……。
一体、対応するべきか分からない。私の中で、感情がごちゃ混ぜになっている。私の感情は、0と1で表現できる簡素なものではなかった。
モルはこちらにずんずん歩いて来る。ひるんで後ずさる私を無視して、ローバーの下の収納スペースからコンテナを引き出した。それを岩の陰に、荒々しく置き、もうもうと土煙を巻き上げた。
「それは?」
「食糧やら通信機やらだ。僕のローバーの通り道に置いて回っている。南極探検隊の真似さ。
こうしておけば、いざというときにも生き延びることができる。資源の無駄だと思うか?」
「純然たる無駄ね」
「そうだな。それ以上の返答は期待していない」
モルはぼそっと言った。
「リメンバランスのハッチを開ける手助けをしてくれた礼のつもりで、連れてきてやったんだが、火星の青空がお気に召さないんじゃどうしようもない。帰るか? あの航宙船の残骸、おまえの故郷リメンバランスへ」
私はリメンバランスの人間。それ以外の私など、あるはずもない。
私はゆっくりとうなずく。ヘルメットごしに、モルはそれを察したらしい。
「分かった。乗れ」
「あなたは、もういいの?」
私はお墓の方へ目をやった。
「コンテナは置いたし、ローバーは問題なく動くことが分かった。十分な収穫だ。それに墓参りには……大した意味はない。ただの儀式だ。たまにソフィアのために埃を払ってやらんといけない」
モルは心無しか早口で言った。私はローバーの梯子に手をかけた。ローバーの下面には赤い土がくっついていた。土は、ぱさついているくせに、やけにタイヤや足の裏にくっつきたがる。
「まずいことになった」
それまでとまったく変わらない口調でモルがつぶやいた。私はゆっくりと振り向く。
「不測事態だ」
彼は彫像のように固まっていた。その視線が向くのはコプラテスの峡谷の上、空の一端。
違う。空の色が違う!
赤でもないし、もちろん青でもない。
「く……黒い空!?」
もくもくと黒い空が迫ってきて、赤い世界を覆っていく。
「砂嵐だ」
凍り付いている私の横をさっと通り過ぎ、彼はローバーの梯子を一秒でよじ上った。
「急げ、ウィティ。ここにいると、命がなくなるぞ!」
私も弾かれるように、ローバーに駆け上った。
それを待たずに、ローバーの巨躯が震えて、走り出す。巨大なタイアの向こうで、赤い土が帳のように広がった。
私は半ば転がるようにキャビンに入った。
ここに来る時の運転は荒っぽいと思っていたが、あんなもの、モルの本気とはほど遠かった。いま、モルは本気でローバーを飛ばしている。
コクピットのキャノピーをびゅんびゅん飛び退る岩壁を見て、私は縮み上がった。
「確かに今は春。砂嵐もたけなわ。だが、くそっ、リメンバランスで天気予報はチェックしたのに。あそこのセンサーも老朽化してるということだ!」
モルが振り返って、私に言う。
ヘルメットがローバーのコクピット内明度に適応して、透明になっていた。
モルの表情が変わっていた。コロニーで常にかぶっていた、暗くてひねくれた表情の仮面が失われている。いまの、これが航宙士の本性。理屈抜きで、そう確信させられる、そんな動作。
彼は、こんな危機に直面してこそ、本領を発揮できる、地球生まれなのだ。
なぜか、リメンバーを前にした時のような、安心感に包まれた。
砂と風が拳となって、ローバーの壁面を乱打する。
「ウィティ、感じているか? この惑星の作る、自然の猛威を!」
何を言ってるの――。私は口を開いて、これに反論を――。
内臓まで届く振動がローバーを襲い、私の身体はなすすべなく宙を回転した。キャビンの壁に叩き付けられ、視界が歪む。
立ち上がろうとして、私はハンマーでなぎはらわれるように再び倒れた。
そして、悟る。
私だけが回転しているのではない。ローバーが横転しているのだ。
私はモルの方へ手を伸ばそうとするが、周囲のあらゆるのものが高速で移動している。
次の瞬間、私はローバーの開け放たれたハッチから放り出されていた。
私はコプラテスの谷を、底目がけてゆっくりと落下している。
一体なぜ? なぜ、私はこんな……? やはり、モルには近づくべきではなかったというの?
ゆっくりと遠のくローバーを見る。それは分解しながら、地面を転がっている。モルは事故を起こしたのだろうか? いや……。
ローバーは地球で、火星に来たことのない地球人によって設計されたものだ。地球人の技師たちは、この星の恐ろしさを知っていなかったのだろう。
ローバーが視界から消える前に、私は目を閉じた。
モル……。同じ地球生まれの男でも、マーカスは何万もの地球人と人工知能を火星に導いた。それなのに、モルは私一人をリメンバランスに戻すことにもうまくいっていない。
私は地球生まれという響きと、あの男のおかしな雰囲気にだまされた。
私は小さく悲鳴を上げ、そのせいで砂が肺に飛び込んできた。恐るべき寒さが私を強制的に覚醒させた。零下百度の冷たい土の上にうつ伏せになっていた。
全力で起き上がろうとするが、自分でも情けないほどにその動きはぎこちなかった。いろんな痛みがごた混ぜになって私を蝕んでいた。裂傷や、膨張挫傷だろう。だが、骨折していないのは、まさしく奇跡だった。数百メートルの断崖を転がり落ちてきた後にしては、健康と言えよう。
首を持ち上げれば、コプラテスの圧倒的な傾斜が目に飛び込んで来る。峡谷の底は砂だらけだ。私の足首まで、赤い砂に埋まっている。風がコプラテスを削った残滓だ。
赤い世界。血が目に流れ込んでくるのを、ぬぐう方法もなかった。
シリコン・ポリカーボネートのヘルメットは決して割れないと習ったのに。現実には、私の目と鼻の先に亀裂が走っていて、甲高い音を立てながら空気が逃げていく。何分ぐらいもつのだろうか。
いや……地球人の作ったスーツは、このような事態も想定していたはずだ。そう信じたい。ローバーの破壊を目にしたいま、それさえも難しくなっていた。
立ち上がると、関節が嫌な音を立てた。スーツの作動系に、深刻な被害があるとでもいうのだろうか。
「モル?」
相手がいままで呼びかけてきていないことを不思議に思いながら、こちらから呼びかけてみる。
静寂。彼は、もう生きてはいないのだろうか? 火星に生きて渡ることのできた地球人が、ローバーの故障で命を失ったと?
肩の通信機へ目をやる。
なくなっていた。通信機どころか、緊急用ビーコンまで、肩のモジュールパーツごと、なくなっていた。空虚な窩洞から、配線が覗き、火花を散らしていた。
私の呼吸音が速くなる。その事実が、ヘルメットに表示されることもない。ヘルメットを叩いた。完全に壊れている。
コントローラーは? 圧電繊維も問題が起きたようで、弛緩した皮をもう一枚肌の上に着たかのように、指が動かしにくかった。
大丈夫、コントローラーはちゃんと映った。
表示されている文字は……アイソトープ・リアクターからのエネルギー供給途絶。私は急いで振り向いた。バックパック式のリアクターはうっすら蒸気を上げていた。
私のスーツは、熱も空気も供給していない。どちらも減っていくだけだ。私は息と、希望を吐き出した。
コプラテスのぎざぎざの壁が、眼前に立ちはだかっている。これを登る手はない。迂回する他なかった。
だとしても、歩いてどこへ行くことができよう?
地球には磁場という天然のコンパスがあった。地球の内部で、高温金属のドロドロしたものが動き回っていたためだそうが、火星にそんなものはない。ここは凍り付いた死の世界。自分がどこへ向かっているかなんてことも、知るすべはない。
初めから意味のないと分かっている、無意味なあがき。
厳めしい絶壁を右手に、私はとぼとぼと歩き続ける。
空は黒く染まり、吹き荒ぶ砂の隙間から、ときどき太陽が光を刺した。この惑星の表面で滅びることを運命づけられた種族を観察する、巨大な目のようだ。自身の呼吸音と、心臓の鼓動の音も、打ち付ける砂の音にまぎれてよく聞こえない。それとも、これは本当に砂のせいだろうか。
私の聴覚の方が……いや、そんなことを考えて何になる。歩くんだ、ウィティ。私の制御を離れた、出来の悪いプログラムのように頭の中を考えが走り回った。
スーツの機能が死につつある今、歩くということはいよいよ難事となりつつあった。歩く速度は、一歩ごとに確実に遅くなっていく。私は脚を持ち上げては下ろす、持ち上げては下ろすという動作ではなく、私がいつも探し求めていたものを頭に思い浮かべようと努力した。
青空。
これを抱き続けねば。避けようもない死の苦痛の間際、このイメージが助けになるはず。
こんな所での死は恐ろしい。それは認めよう。リメンバランスの人間から遥か遠く離れた、忘れ去れた死。
だが、一方で、こんな可能性も浮かび上がって来る。
私の求めているものは、死を経てのみ手に入るのでは?
天国か。
発掘記録から、地球に存在した宗教という概念については知っていた。笑止だ。あなたたち地球人は全てを持っていたじゃないの……。
砂は私を打ち続けた。空を見上げれば、雷が光っていた。緑色のスパークが、黒い空を背に踊っている。
火星が、私をあざ笑っているように思えた。電荷のせいで、私の髪が逆立つ。
恐ろしかったが、歩みを止めても仕方がない。もう、私を守る殻、リメンバランスはない。
背後で雷が光り、世界が緑色に染まった。火星の神々の剣戟の生み出す、きらめき。不思議と私の心をとらえようとしてくる。
地球にも、雷はあったと聞く。やはり、砂嵐とともにやってくる天災なのだろうか?
と、前方に何かの影を見る。私は何度も瞬きした。砂がさっきからヘルメットの中に入ってきて、目が痛かった。
なんなのだろう? モルが置いていったコンテナのようなものだろうか? もう二、三歩歩くと、それはただの目の錯覚でしかなかったと分かるのではないか、となかば不安に思いながら私は歩き続けた。
だが、近づくに連れ、それはとてつもない巨大な物体と判明した。
人造物だ。すごい。
視界の前半分、右から左まで、この建造物が埋めている。表面は滑らかな金属製で、あのリメンバランスよりも立派に見えた。
リメンバランス以外の航宙船はみんな北半球に着陸したのは確かで、こんな所にあるはずもない。すると、これは一体? 火星に運河を作った、火星原住民の宮殿?
ばかばかしい。
幻?
幻なら、こんな黒い機械の塊より、青い空を届けてくれればいいのに。私はへたり込みそうになった。そうなれば、もう一度立ち上がれるかどうかわからない。
二十キロものスーツが肩に食い込んでいた。
眼前の構造物は、消えもせず、前方数十メートルに存在し続けた。
例えどんな奇矯なものが出現したとしても、私はその下へ逃げ込んだだろう。私は、ただ、この過酷な世界から身を遠ざけたかった。私は建物の影に入った。
物体の壁に端末がある。リメンバランスのそこかしこにある端末と、そっくりそのまんまだ。
あまりに見慣れた端末を目にし、私はほとんど意識せずに腕のコントローラーからケーブルを引っ張って、接続していた。かちっと音がして、ジャックイン・ソケットの周囲に明かりが灯る。
電子音が鳴った。モルからの着信音とは違う。
「……誰?」
『USCリメンバランスへようこそ』
耳慣れない言語だったが、知っていた。古語だ。軌道職業語。
『USCリメンバランスは、2100年進水の、最新型航宙貨客船です。その内部には各種人口収容設備やレクリエーション設備、端末設備を取り揃えております。もちろん、セキュリティーは万全です。汎用AIによる、二十四時間態勢の警備が敷かれています』
背後で雷が光って、周囲を閃光が照らし出した。端末の上部に、ハングル文字とカタカナが書かれていた。
『ご質問に関してはリメンバランスFAQセンターをご利用ください。それでは良き滞在を!』
声は止んだ。私は端末の前に突っ立っていた。
なぜか無償に笑いたかった。
火星の薄い大気越しにもはっきりとわかる低音。眼前の壁がごろごろ転がった後、瞳孔のように丸く開いた。
この扉……リメンバランスの外壁と同じ……エアロック。
これは、リメンバランスだ。
私が暮らしている火星のコロニー、リメンバランスとは違う。航宙船リメンバランスの失われた艦首部だ。
私はよろめきながら、暗い穴へと歩いて入った。残りエネルギーが気掛かりだったが、私はスーツの腕のライトを灯す。
まず、気付く。砂がなかった。
火星コロニー、リメンバランスは、例え十分に掃除の行き届いた区画であってさえ、数時間もすれば薄く赤い砂が積もった。リメンバランスは着陸後、二十年間、コロニーとして改造されてきた。あちらは穴だらけだし、常に人や物が出入りしている。
だが、この艦首部にはそれがない。
優れたかつての地球の技術で作られ、その姿のままここで眠ってきた。
ここの機器は、砂によるダメージが、桁違いに少ない。
情報発掘局がここに設営すれば、大きな収穫を手にできるだろう。
私に必要なのは、情報なんかではなく、生きていくのに必要なものなのに。寒さは堪え難かった。
金属製の暗い廃墟を私はさまよい続ける。まるで科学局のマウスが、出口を求めて迷路をうろつき回るようなものだ。自分が何を目指すべきか、思い出そうとする。
情報……。私が常日頃、漁ってきたクズ情報じゃない。
リメンバランスに人工知能リメンバーがあるように、ここにも情報中枢たるコアがあるはずだ。そこにアクセスすればより帯域幅の広い情報に触れることができるかもしれない。
おや……廊下の真ん中で、誰かが寝転がっている。
「モル?」
まさか。あの男は死んだのだ。
床に転がるスーツは黄色く、ずいぶんがっしりした外見だった。私は近づいていって、ゆっくりとヘルメットを覗き込んだ。
中の人物は……おかしかった。眼下は空虚で、肌の色は劣化した紙のように見えて、皺だらけだ。これが死体か。
ヴァーチャルで緊急時用手順など叩き込まれていた。でも、本物の死体を見るのは初めてだ。リメンバランスに死体というものは残らない。人間の身体は貴重だ。無駄にすることは許されない。
それ以前の時代では、死者は宇宙へと葬られていた。
だが、火星という異常な空間では、人間の死体はおぞましい形態となって残される。二十年もの間、彼らを分解するバクテリアもなく、ここで朽ちるに任されたのだ。
このままでは……私もこれになる。
私たちの死を強調づけるために、惑星がこんな風にするのだ。骸骨がにやにやと笑いかけてきていた。
それにしても、異様に嵩張ったつくりのスーツだ。まるで、火星よりも苛酷な環境に備えていたかのような。
だとすると、宇宙服なのだろう。
肩には金属製の肩章が付けられていて、そこには国連航宙局と書いてあった。これもソビエト連邦のような、地球での共同体の名だろうか?
いや、モルがそんな名を口にしていた気がする。
死体から努力して目を引き離して、壁に寄りかかった。スーツがうまく動かせない。その繊維の中を通っているのは不凍リンゲルで、劣化を止める処置は……。
あれ、赤色灯が点滅している。
赤い光には、近づくべきだっけ? いや、遠ざかった方がいいような。私は懸命に考え、踵を返した。
だが、廊下のそちら側は真の暗黒で、そちら側にはさらなる死を感じた。
私はかすかに悲鳴を上げて、凍てついた廊下を進み、死体をまたぎこす。
赤色灯の下の扉をくぐり、私は新たな部屋へと入った。部屋の中央の台で、光が飛び回っている。目を奪われた。
何分もたってから理解した。情報表示用のホログラムだ。
リメンバランスの中には存在しない。すべては2Dフラットスクリーンに置き換えられてしまった。ホロ作成に手間がかかる上、浪費電力のこともあった。
素晴らしくも、どこか恐ろしい模様の螺旋だった。いまや忘れられた芸術というものかもしれない。
私は引き寄せられるようにコンソールに近づき、震えているホロに触れた。見知った形状のソケットがある。私はスーツのケーブルを接続した。
一瞬、腕のコントローラーも同じ光を浮かべた。何かの共鳴作用だろうか。
遠いどこかで金属音が連続した。私は触れてはならないものに触れてしまったのだろうか?
ホロとそれを取り巻く数字の色が、一斉に緑色に変わった。
ホロのピクセルが集合して、一人の男のバストアップ像を作り出す。
知っている顔だった。リメンバランスの端末で、スクリーンで、記録画像で、目にする、英雄の顔。
「マーカス・ロビンソン……」
その英雄が私を見下ろし、喋り始めた。
『生きている航宙士がまだ残っていて嬉しい。こちらはすでに多くがやられた! 私の『リメンバランス』も、『サクラメント』も『カインドネス』も』
英雄は肩で息をしていた。画像が歪む。
『火星までの航行は苦難の連続だった。だが、その間、奴は待っていたのだ。こちらが隙を作るのを! 奴は今、こちらを殺し、辱めようとしている!』
その怒声に、私は震えた。
『奴の攻撃は激しい! 船のメモリーは多くを失ったし、生き残っている航宙士となると、五人いるかどうかだ! どうにかしないと……奴の支配から』
マーカスの顔が大きくなっていく。その声は太く、そして暗かった。
『船のコントロールは奪ったが……やつは生命維持システムを掌握した。予想以上だ。あんなに奴が成長し……船内のシステムに侵食していたとは』
なにか、人がすすり泣くような、かすれた音がした。
『奴は強大だ。もっと早く、私は気付くべきだったのだ!』
「奴って、誰のことなの!?」
相手が録画画像と知っていながら、私は尋ねた。
『私は、もっと早く滅ぼすべきだったのだ! 人工知能、リメンバーを! だが、奴は勝ち、支配権を確立し、私を殺そうとしている』
私の信じてきたものが否定されていく。
マーカスはリメンバーを憎んでいた。そして、彼はリメンバーに攻撃された。
『このまま負けるわけにはいかん! これから本艦リメンバランスは火星地表に激突し、リメンバーを巻き添えにしてやる! 搭乗している植民者たちの命も失われよう! だが、こうする他に、奴を倒す手はないのだ!』
「……もうやめて」
もうわけがわからなかった。私の膝の硬化材質が床に当たって、音を立てた。
私を包んできた世界は粉々になっていく。
『これしか手はないのだ! 愚かにも思えるかもしれん! だが、人類のためにも――人類のためにも――人類のためにも――』
「もうやめろ!」
私の金切り声に応じるように、マーカスの画像は消え去った。
完全なる静寂。
思えば、なんと心地よい世界に私は守られてきたことだろう。
だが、結局、ここは恐ろしい死の世界なのだ。
うつむけば、血と砂と涙がスーツの首の所で、水たまりを作っている。
自分が何かを踏んでいることに気付いた。新たな死体だった。
時間に蝕まれて入るが、最前までホロとなって浮かんでいたのと寸分違わぬスーツ。
「マーカス……」
かつての英雄は空虚な眼窩をこちらに向けて、なにも言わない。
私はスーツのケーブルを引き抜こうとした。だが、大人しくなっていた英雄の虚像が再び浮かび上がった。
『地球に残された――と――交信』
私の手が止まる。
「地球の……何?」
『――交信するんだ』
「地球に人が残っているの?」
画面のマーカスの口は動いたが、何も音が聞こえなかった。
「教えて!」
私はモルの真似をして、ステーションを蹴飛ばす。マーカスの像が大きくゆがみ、化け物じみた姿へと変化する。
『軌道上の航宙局が――戦前――そのレーザーを使えば、地球を――』
ざざざっと、ホワイトノイズはひどくなり,マーカスの顔は判別不可能な砂の集まりになってしまった。
私はそれを見つめていた。
再びピクセルが集まっていく。今度は、一辺が一メートルはあろうかという、キューブを生み出しそれに画像が投影された。
見たこともない、美しい青。
だが、私は知っている。
ゆっくりと視点は下がっていった。
「これは……地球?」
そんなはずはない。
地球はあの戦争で、徹底的に破壊されたはずだ。人類の愚かさ故に、穢された。
あの星は、この星よりも荒廃しているはず……。
「ああ……」
間違いない。地球。
言葉もなかった。私は跪く。
地球というものを学んだ日から、来る日も来る日もその美しい世界を頭に思い浮かべて、待っていた。
イメージの切れ端、言葉の切れ端から人の故郷を想像して、待っていた。
そして、いま、私の想像は実にお粗末なものと分かった。
二十年ぶりに、火星の人類の目に、地球は触れたのだ。
完全なる静寂の中、私は涙を流し続けた。
ゆっくりと森の中から、人影が染み出てきた。
◆◆◆
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