ドイツ 原子力発電を放棄

2000年7月17日発行

新井栄一araie1ch@gol.com

 

まずこの政治マンガを見ていただきたい。


Le Monde, 15 juin 2000

これは2000年6月15日付けのフランスの新聞Le Mondeが第一面に掲載した上記表題の記事に付いていたものである。右半分はドイツの原子力発電所が廃止され、ドイツの建物の前でミドリっぽい人(胸に花のアプリケ、ひげ、髪の毛が伸びている)が反原子力運動の勝利を喜んでいる。その建物への電力は左半分に示されているフランスの原子力発電所から送られている。冷水塔にはEDF(フランス電力)Exportation(輸出)と書かれている。その前では放射能マークのついた作業服を着たフランス人技師が「商売繁盛」を喜んでいる。その横には放射性廃棄物のドラム缶と機嫌の良くなさそうなねずみが一匹。
このマンガはドイツ政府の今回の決定により、将来の電力需給関係はこうなるだろうと皮肉を交えて示している。スイスも多分原子力降りを決める可能性があり、そうなるとその電力需給関係は結局このマンガと同じことになるであろう。

 

1. なぜドイツは原子力の廃止を決めたか?

1998年10月の連邦下院(Bundestag)選挙でGerhart Schroeder率いるSPD(ドイツ社会民主党)は過半数に至らない第一党の座を得た。連立政権樹立のためには相手としてみどりの党(Buendnis90/Gruene)を選ばざるを得なかった。この連立交渉の条件の1つは原子力発電から降りることであった。

 

2. 過去のSPD政権の時代にも原子力開発は進められていた

戦後のドイツの原子力技術開発の歴史には日本のそれと比較できるところが多々ある。1955年頃から2つの大規模原子力総合研究所と2つの小規模特定分野研究所を発足させた。1966年から1982年の間にはSPDが関与した連立政権が続いた。1969-74年にはWilly Brandt(ノーベル平和賞受賞者)が、1974-1982年にはHelmut Schmidtが宰相になっている。1982年以降、保守党CDU/CSUと自由党FDPの連立政権になった。この間、1979年3月28日に米国Three Mile IslandでのPWR型発電用原子炉の炉心溶融事故、1986年4月21日には旧ソ連,現Ukraine Tchernobylでの発電用原子炉の暴走・爆発事故、ヨーロッパ中の大規模汚染の拡大事故が起きている。1990年代に入ってから本格的反原子力の雰囲気が同国内に強くなった。

 

3. 1990年代後半に入ってからドイツの原子力発電は事業として正常な状態になかった

使用済み核燃料棒は国際規格の輸送容器に格納されて鉄道でフランスLa Hagueまたは陸路・海路を経てイギリスSellafieldへ再処理のため送られた。再処理後 核燃料物質(Pu, U)と核分裂生成物(Sr-90, Cs-137などの高放射性物質)がドイツに同様な経路で返送され、Ahausに一時貯蔵所されている。Ahausには中間貯蔵所があるが、最終貯蔵所の立地の見通しはない。
1990年代後半には鉄道輸送はみどりの党の運動員らの激しい妨害を受けた。この反対運動はだんだん激しさを増し、1998年前半には運動員数が40000人に達し、列車の警備に出動する警官の数も40000人にのぼるという状態になった。
ドイツの毎日のTV、新聞の報道は線路脇で殴りあう警官隊と運動員を映し出していた。つまりこの時点ですでにドイツの原子力発電は法で定める事業として正常な状態をなしていなかった。

 

4. 使用済み核燃料輸送容器の汚染スキャンダル

1998年5月には使用済み核燃料輸送容器の表面に基準値を超える放射性汚染があること、電力会社はそれを以前から分かっていながら隠していたことが報道された。市民はもとより、この大スキャンダルに最も憤慨したのは警官の労組であった。法を守るため体を張って守っていた列車の車両にまで放射性汚染があったというのでは警官は救われない。

 

5. 原子力降りの具体的な形

上記のような反原子力発電運動の経緯を見ると、今回の「原子力降り, Atomausstieg」が国民からも、発電事業を含むドイツ工業界からも「しかたない」と受け入れられたことは理解できる。その条件は:1)どの動力用原子炉も運転開始後32年を経た時点で原則閉鎖、2)政府は原子力発電会社に補償金を払わない、3)最初の閉鎖は2002年12月に、最後の閉鎖は2021年になる予定、4)2005年7月以降は使用済み核燃料の外国での再処理の禁止、5)それまでは妨害せず。2000年に入ってからドイツの総合電機メーカーであるSiemens社はその原子力部門を切り離し、フランスの原子力メーカーとの合弁にもっていった。

 

6. 1950年以来の原子力政策

1960年頃すでに、当時の原子核物理学の知識で原子力発電からの電力量と放射性物質の発生量、その半減期の関係は正確に計算できる状況にあった。しかし、筆者を含めた原子力科学者たちは「夢のエネルギー 原子力」に酔いしれて、発生する放射性廃棄物の処理・処分の方法が確立していないこと、最終処分の立地の問題について国民に十分知らせ、原子力を選ばないという選択肢を考えなかった。ちなみに、オーストリア、デンマーク、イタリア、フィリピンなどは原子力を採用しなかった。
著者が1978-79年 研究のためドイツに滞在した時、ミドリっぽい知人からこの点に関して受けた警告を今も忘れることができない。当時 みどりの党の活動は勢力の小さな草の根運動であった。一方、原子力開発には当時すでに1950-60年代のような勢いはなかった。しかし、あの頃みどりの党の言うことに耳を傾けた人はいなかった。

 

7. 原子力政策の2つの間違い

第一の間違いは1950-60年代に科学者も政治家も放射性廃棄物の1000年を越える最終保管の技術的見通しと、保管の立地に関する国民の合意なしに原子力エネルギー政策を始めてしまったことである。原子力以外の非化石エネルギー源(太陽光、風力など)の技術開発には第二義的な力しか投入されて来なかった。
第二の間違いはこれだけ大きくなった(ドイツでも日本でも総発電量の1/3)エネルギー源である原子力から降りることを代替エネルギー源の見通しなしに政治的に決定したことである。この決定においても国民との本当の合意はなされていないのである。つまり、原子力を2021年までに全廃しても、これに代わる非化石エネルギー源の開発見通しは明らかではなく、二酸化炭素の排出規制のための1997年12月の京都会議の合意(これに最も熱心だったのはドイツが率いるEUであった)を進めた場合、国民は今までのような安いエネルギーに基づく便利で贅沢な生活は続けられかも知れないということへの合意である。このことについてはっきりした認識はまだないように見うけられる。従って、冒頭のフランスの新聞の政治マンガのようなことになる可能性が大きい。
ライン(Rhein)河をはさんだドイツとフランス。このマンガの通りになったら、原子力から降りるも、降りないも同じことである。つまり、今回のドイツ政府の決定は政治の「お笑い劇」にしかならない。

 

8. 我々はこれから何を学ぶか?

結論から言うと沢山学ばなければならない。なぜなら、我が国のこの問題に関する状況はドイツのそれに比べて、良くない。例えば、使用済み核燃料輸送容器のデーター改ざん、水増し,ねつ造(読売, 1998年10月23日)という事件はドイツに少し遅れて1998年10月に発覚している。
日本もこの先30年―50年の内に太陽エネルギーの恵みで工業生産を始めあらゆる経済・社会活動を営むことのできるシステムを構築しなければならない。これができれば、原子力などないに越したことはない。現在、我が国の大学ではこの方向に向かう研究がかなり行われている。しかし、これらはまだ理学・工学の段階にあり、実用化、工業化、商品化に至るにはまだかなりの時間がかかる。希望と暖かい目でこれらの研究者を見てやってほしい。