はじめにこの店を見つけたのは自分だった。 こんな町には似合わないと思った。 大きな繁華街にならよくありそうなShotbarに降りる階段としては普通なものだけど。 なにか、あたたかいものがありそうな地下へと消えている階段にひかれつつ、 約束の場所へ急いでいた。 冬が始まる頃。 駅前で待ち合わせた後、よくある居酒屋で近況報告をし合う。 半年に一度くらい近況報告の為だけに続いているようなこの関係は何なのだろう? ひととおり、お腹も落ち着いたので店を替えようということになり、 その、見つけた階段の店を提案した。 こういう、未知へと続いているという表現そのままのような階段を、 日本の男性が先に歩いてくれることはまずない。 子供の頃は、冒険好きな男の子のうしろからよく着いていったような記憶はあるのだけど。 ドアを開けると真っ暗ななかにエメラルドの証明が所々をたよりなさげに照らしているだけの、 比喩するならば、深海のような空間だった。 使えるだけのスペースをすべて有効に使えば、従業員が5,6人は必要な広さのなかに、 グランドピアノが据えてあった。 6,7人の客がS字に曲がっているカウンターに並んでいた。 私たち二人が座ると満席になった。 バーテンダーが飲み物を聞いてくれる。外人のようだ。それも中近東系。 上野の公園あたりをうろついている、不良外人と同じ種類を想像する。 私たちの話題がなぜか倒産した証券会社のうわさだった。 あそこに勤められるだけの人にはもともとの素質があるから、 また明日からも元気に生きていくでしょうと。 バーテンダーが私の為に作りたいカクテルがあると言う。 作ってもらったものを頂くと、ピーチがとても甘かった。 酔いのせいでお行儀よくはできなかった。おいしくない。と言っていた。 2ヶ月程経った日にその友人を含む数人で集まることがあった。 私もあの地下の部屋に続く階段の店は気に入っていたけど、 友人も気に入っていたようで、一も二もなくその店に行くことになった。 むしろ、その店に行こうという名目で集まることになっていたのかもしれない。 男性5人と私とで階段を降りる。 あんまり大人数で行くような店ではないのだけれど、集まってしまったものはしょうがない。 グランドピアノを囲んで飲む形になった。 バーテンダーは一人で忙しそうにしていた。 お構いなしにたくさん飲んだ。 同じようなシチュエーションでもう一度その店に行った。 バーテンダーは行くたびに「カシスの方」と私を呼んだ。 私がいつもカシスを飲むから。 それから、はじめの友人とは別の男性の友人と二人で行くこともあった。 はじめの友人も度々顔を出しているようだった。 春が来ていろいろな事件の末に、とてもストレスの溜まった状態が続いた。 周りの人間達は私の甘さを責めるだけで、一向に事態がよくならない。 私自身がよくしようという気にもなれないでいる。 そのうち、私は事ある毎に階段を降りるようになる。 ちょっと、自分とは違う世界の仕事が舞い込んできた。 話が出た頃からはっきりとそれはわかっていたのに、 人や時間の裏切りに投げやりになっていたから、 流されるまま、いつのまにかそのプロジェクトが始まってしまった。 想像以上に・・・というより、想像していなかったのだけど、 自分とは違う世界になじめなかった。 始まってから初めての週末に海に潜ったりしてたら、 二度と、あのなじめない世界には帰りたくなくなって、 ついには、出社拒否症となってしまった。 プロジェクトリーダーはよくできた人で、 それでも私を復帰させることに成功した。 その頃、仲のよかった男友達が次々と彼女を作ったりして、なんとなく、 「私と言う人間はひとりぼっちで居なきゃならないんだなぁ」 ということばかりが頭を占領していて、 それがうまいこと作用して仕事復帰にも結びついた。 作用したのはうまいことの方か、どうだか、この時だってただ投げやりに流されただけとも。 やっと、なじむことを始められたとき、私の通う先が遠くになることがわかった。 これを理由に、やっぱりここから降りようと思い立ってしまった。 それから委託元の社長との話し合いがなかなか進まない。 甘いと言えば甘いこと言ってるのが自分でもわかるので説得できないでいる、 責めるべきは自分ばかり。 話し合いが物別れに終わって次の約束に向う直前に、あの店へ寄ってみようと思い付いた。 ひとりで入るのは始めてだった。 何の躊躇もなく普通の速度で階段を降りた。 店の客は女の子がひとりだけだった。 きっと、この子は私が来た事を残念に思っているに違いない。 バーテンダーと二人で居たかったに違いない。 けど、私もそんな知らない女の子に気を遣うほどの余裕なんて心になくて、 また、カシスを頼んだ。 女の子は不機嫌そうに帰り支度をしてすぐに店を出ていった。 バーテンダーは「だいじょうぶ?」と階段のところまで追いかけていった。 かなり、親密そう・・ 戻ってきたバーテンダーと二人きりだ。 前からこの外人さんとは話をしてみたいと思っていた。 「ついている」と思った。 奥の方の、先程の女の子が座っていた席に移るようにすすめられた。 「めんどくさいのでやだ」と言って動かなかった。 そのまま入り口に近い席に居座った。 10分程したあとまた移るようにすすめられた。 あんまり頑なになる程のことでもないので素直にしたがった。 年齢のことや、住んでいた町のこと、結婚の経験、つまりは軽い身の上話。 「こんど、日曜に遊びましょう」と誘われた。 溜まっているストレスのせいでちょっと斜めになっている気持ちのまま 「はい」と答えた。 信じない。絶対、信じない・・・ お客がなかなかこないので、帰るタイミングがつかめないでいた。 次の約束はすっぽかした。 5月の連休に入って、めずらしく、やりたいことを後回しにして、 やらなければならないだけの事を、もう、放心状態でこなしていた。 多分、こんなことは生まれて始めてだと思う。 心が空っぽで、誰に何を言われても、 「はい。」と従うしかできなかった。 反論したり、調整を考えたりもする余裕がなかった。 ひととおり、ダブルブッキングの嵐の時期の後、 今度は誰に何を言われても、 「ごめん、今忙しい」 を繰り返すようになって、どちらも自分を見失っていた。 あのバーテンダーがしつこく誘ってくる。 相変わらず、「ごめん、今忙しい」 わがままと言われてるけど、かってきままに生きるライフスタイルは気に入っていた。 変わっていくのは嫌だった。もうこんなことは二度としない。 見失っている状態もやがては時が流れて砂時計の砂が落ちるように、 あれは、不思議なもので、最後の残り少ない時の方が減りが早く感じる。 自分を取り戻すのにはそれほど時間も要らなくて、 その時、ちょうど誘ってきたプロジェクト内の人と食事に出かけることになった。 これが、このお話の起承転結の転になる。 いや、これが起・・・ しつこく誘ってくるバーテンダーよりこの仕事の知り合いの方が恋を想像しやすかった。 その人本人を見ているわけではないのだけど。 待ち合わせにいそいそと出かけていくと、食事の前に、と言ってエステサロンに連れて行かれた。 高い美容器をすすめられ、買うと言うまで帰さない。 みすみす私もひっかかるわけに行かないが、 明日からもまた続くプロジェクトで気持ちよく過ごしていく為に契約に承諾した。 なにより、この人に少しでも何かを期待した既成事実が情けなかった。 それを情けないと思う部分がもっと納得行かなかった。 次の日、ひとりで残り少なくなったやらなければならないだけの事をこなしながら、 どうしても涙が流れつづけていた。 あれ、泣いちゃってるよ、と自覚するとよけいに止まらなくなった。 土手に行って気分を変えて、戻るとまた泣いていた。 しょうがない、誰も見てないし、と泣きつづけているとまたバーテンダーが電話してきた。 泣き声はすぐにわかって、とにかく来るように言われた。 こんな目にあって、まだ人を頼るのか・・と自分不信。 地下のその部屋に続く、左にカーブした階段をゆっくり降りながら、 後悔とは少し違うけど「こなければよかったのでは?」と考える。 不安で寂しくてしょうがないこの状態をどう包んでくれようとしているつもりなのか、 もう二度と、何かによりかかるようなことはしたくないのに。 どれだけ、ゆっくり降りても短いその階段はすぐに部屋へと到着してしまう。 細かい説明も求められなかった。 生ハムのサラダとオムレツが出てきて、実はこれはおいしくなかったのだけど、 「あぃちゃ〜ん。げんきー?」 と仕事の合間に声を掛けてくれて、 昔、英語を教えてくれていたオーストラリアの女の子が同じ呼び方してくたなぁとか、 よけいなこと思い出してたらすっかり落ち着いた。 なんだ、お腹好いてただけか? 連休でお金がおろせなかったので夕飯を抜こうと考えていたから、 そんなことしてたら、今夜自殺しちゃったかもなぁ、命の恩人だな、この人は。 などと、ホントに、もうすっかり落ち着いた。 お客がみんな帰ってしまって、また二人きりになった。 映画の券が二枚あると言って、次の日曜にいっしょに見に行こうと誘われた。 先日、女の子がここに座っていたことが少し気になった。 あの子もこうして誘われて、その気になった頃に飽きられたのかな、と。 それでなくても、あんな事があった直後の今なので、しばらくは誰も信じないだろうが。 連休が終わり、やらなければならないだけのこともホントに残り少なくなって、 気分もだいぶ軽くプロジェクトの仕事が再開された。 あいかわらず、降りたいという話合は続けたのだけど、これはそんなに芳しく運ばない。 ついでだ、と降りたい理由の一つにマルチ商法に引っかけようとする奴とは仕事したくない、とかも付け加えて。 クーリングオフを行使するよう指示された。 当然といえば、当然で、なんの足しにもならない気がする。 なんとも情けない気分がづっと続く。 流されるままにしていて、責任が取れなくなっているという状態がよく似ていた。 プロジェクトに参加した事と、美容器の購入の契約にサインした事。 チームリーダーに全てを相談する時が来た。 降りたいという話は委託元から流れていて、まずそれを阻止される為の説得があった。 出社拒否の時にも感じていたが、よくできた人で、 私はすっかりその気になった。 私としても、「降りたい」とさえ感じなければ解決で、そこはうまく解決されたと思う。 自分でも笑えるが、要はお金だったのだ。 リゾマンを借りていい車を乗り回す想像だけで簡単に。 そのお話のついでのように、クーリングオフの件も 「さっさとしなさいよ」のようないわれ方だった。 いったい私は何に振り回されているのかというと、自分の気持ちにだ。 いつも簡単に、人の言う事に「あぁそうだな。そうしよう」なんてやってるから。 すべてそうではないか?で、それを? またこうして人の言う事で解決してる?したのか? 委託元の社長やらを含めてその辺で親睦会があった。 リーダーに言われていたように、ギャラアップを言い出して、 契約書にはんを。と、切り出してはみたが、うまくかわされた。 あれれ、と言った感じで、それでもまた私は 「まぁ、いいか。このままでも」 などとまた流されている。 酔うと会いたくなる。癖なのだからしょうがないが。 相手は誰でもよくて、自分の事を好きな人なら。 また階段を降りた。 「私が来てさしあげましたぁ」 と、洋館の階段でも降りるかのようにしゃなりしゃなりとゆっくり降りた。 日曜に一緒に映画を観る約束をした。 気が進まなかったとは言わないが。 外人さんというのはどういう恋をするのだろう、とかそんな興味だけ先走った。 楽しかった。 日本人にはないレディファーストや大袈裟な口説き文句とか。 最近はすぐれないからなぁ、これをきっかけに私の運勢も浮上しないかしら・・ と思った。 変な事を発見した。この外人さんは英語が話せない。 顔立ちから判断されて黒い人が英語で話しかけてくるので、 私が通訳してやらねばならなかった。 マクドナルドの店員は日本語がわからないだろうと想像して、 私にばかり話すので日本語をそのまま日本語で通訳して、 さらには英語で店員に返事するというような混乱したことにもなった。 英語が話せないっちゅうのはなんだかやだなぁなって思った。 「実は、恋人、います。」 突然そんなこと告白されたって・・・ だから?と最初の感想。 不機嫌そうに帰っていった女の子をすぐに思い出して、 やーっぱりそうじゃん。 自分をどう、誤魔化そうか必死だった。 これを哀しいことと認識しないように。 ただの事故だから。すぐに忘れちゃうから。 ホントに、何をされてるんだよ。自分に。 クーリングオフの手続は済ませたけど、購入を勧めた奴といかに気持ちよく仕事をしていくか。 まだ問題のほとんどは解決されていなかった。 2,3日はそいつから逃げ回って過ごしていたけど、それもだんだん苦しくなって、 ついに食事を共に取る事になった。 これも例によって想像していたより、というより想像していなかったが、 大変な事だったようで、奴の吐き出す言葉、ひとつひとつのうそ臭さは、 一度でも何かを期待した自分の馬鹿さ加減とか、 元はと言えばこのプロジェクトに参加することになったあたりの投げやりな生き方、 さらには、そうだ、あの階段も降りなかったのだからという思考回路を導いて、 会話になどなりゃしなかった。 結局、自分ひとりでは手に負えないとチームリーダーに泣き付いた。 チームリーダーは「社命だ」といってクーリングオフを行使することを承諾させた。 その問題はそいつが、このプロジェクトを降りる、降りないの話に発展して、 私はもう、なにもかもに対してやる気が失せてしまった。 もう二度と降りることはないだろうなぁと思っていたのに、 また階段を。 これを押し売り事件と呼んで心配していた友人と二人で階段を降りる。 例によってこの男性も私を先に歩かせようとしたけど、 今回ばかりは先に降りてもらった。 私をもてあそぶバーテンダーにやきもちをやかせるにはこうした方がいいと思った。 バーテンダーに聞こえよがしに押し売り事件の報告をした。 難し目の日本語で話したので、バーテンダーはうまい具合に解釈し、 自分の話をされていると勘違いした。 その男性の恋愛問題と私の学校の課題をして、郊外に住む友人は先に帰った。 自分の事をしゃべってたのか?とバーテンダーは率直に聞いてきて、 私はそれを否定しておいた。 電車がある内に帰ることにした。 ひとりぼっちなのはいい。 これ以上、裏切られることのない安心感が。 土曜だというのにやらなければいけないだけの事にまた一日を費やして、 最近はあんまり会っていなかった男の友人を夕飯に誘った。 このところ起こりつづけている不幸をぶちまけまくって、 「たのんでないじゃん。男が欲しいなんて言ってないじゃん」 と訴えていた。 友人は否定するでもなく、肯定するでもなく、 ちょうどいい具合に笑い飛ばしていた。 この友人も、彼女がいるのに、私の側にも来るから、 八つ当たりしてたつもりなのに、ぜんぜん、動じてない。 癪に障るほど。 あのバーテンダーに矛先を向けたくなって、この人を釣れたまま、階段を降りた。 見せつけてやった。 部屋に帰るとすぐ電話が鳴って、 「さっきの人は彼氏でしょう?すぐわかるよ」 と言っていた。しめしめ。まんまとひっかかった。 「違うよぉ」と意味深な笑いで否定しておいた。 なんでもない日でも階段を降りることがあった。 何でもないとは名ばかりで、なんだかわからない内に 三人分の仕事をこなしつつ、大学生でもあるのだから、 尋常な状態ではないのだけど。 夜の9時と言えばまだ活動の時間帯で、 その日もいつもどおり、やらなければいけないだけの事に従事していると、 バーテンダーから電話が入った。 来い、とも言われなかったけど、なんとなく、それからすぐ後に仕事を切り上げて、 電車に乗りながら、教科書を読みながら、やっぱりあの階段を目指した。 階段を降りる時、ほとんどの時は自分の抱えている問題で頭はいっぱいなのだけど、 表立って考えることはお客がいるかいないかだ。 たまにはこんな、気持ちに(少しだけど)余裕がある時に話してみたいと思っていた。 聞き耳をたてて、自分の足音すら静かに、中の様子を探る。 あんまり静かに降りても気づいてもらえないと困るので、最後の三段は普通に降りた。 お客は男性がひとりだった。 バーテンダーは私の相手はせずに、その男性の話をずっと聞いていた。 私は溜まっているメールを読む為のノートパソコンを取り出した。 液晶のバックライトが思いのほか明るくて驚いた。 野菜をそのままつまみながら、膨大な量のメールを読みながら、ビールを飲みながら、 深海のような空間。 なかなかいい。 ずっと、ずっと続くかもしれない。 私はなくならないものが好き。 カウンター越しのキスや甘える彼に意地悪する私。 正しい事ではなくても続くかもしれない。 だいたい、正しい事ってそもそも、 これにとっては正しくても、それにとっては正しくないようにできていて。 彼女にとって、私の存在は正しくないかもしれないけど、 私にとって、この深海の空間は正しいのだ。 彼にとって、どちらかというと彼女の方が正しいとか、 両方とも正しいとか、どちらもホントはただしくないとか。 どれも有り得る。