第1回被災地メーデー     1996年5月1日(水)長田区・若松公園

ゆめ たちあがれ 被災地メーデー

 震災で問われた労働組合のあり方。解雇などの犠牲になったのは、まずパートなどの非正規労働者であった。既存の労働組合はこうした解雇問題にほとんど取り組むことができず、その役割に疑問も提起された。神戸地区労は被災労働者ユニオンを結成して解雇問題や被災者支援に取り組みながら被災者・市民と連帯する運動を追求。そして、これが被災地メーデーという形で結実し、被災地での働くものと地域の絆を深めるきっかけとなった。“ゆめ”は、もとの暮らし・仕事を取り戻すこと。

舞台では沖縄の踊りが披露され、アチコチでいっしょに踊りだす姿も見られた。

瓦礫の中から被災地メーデーが生まれた。
会場周辺の仮設住宅からも多くの被災者が参加し、楽しんだ。

会場の周りには
震災の深い傷跡が生々しく残ったまま。

被災地メーデーアピール ゆめ たちあがれ

 1886年5月1日。シカゴの労働者が8時間労働制を求めてゼネストに起ち上がりました。それは武装警官の発砲により多くの犠牲者が出る大惨事となりました。これがメーデーの歴史のはじまりです。働くものが人間らしい生活をするための当たり前の要求とたたかいがメーデーの起源です。
 地震は30秒、しかしその「余震」はいまなお続いています。震災後1年余りを過ぎた神戸は、人口が10万人減ったまま。未だに「職」につけない人1万人。県外の工場へ強制配転された多くの人。店は再建したけれど、お客が戻らない商店街。仮設住宅での孤独死。転校先でイジメにあう子どもたち。小さな物音で目をさましおびえるお年寄り、幼児。もとの生活にもどれた人ともどれない人との溝は深くなり、あらたな差別さえ生まれています。
 すべてを奪われたとき、最後に残ったのは「ひとのやさしさ」だと、私たちは教えられました。「僕は大丈夫だから」と瓦礫の下で最後まで家族を励まし続けて1人で逝った少年。1つのおにぎりをわけあった避難所生活。市外から救援物資を積んで駆けつけてくれた多くの人たち。全国から駆けつけてくれたボランティアたち。そんな優しさに囲まれて、生き残った私たちは今日まで頑張って来れました。
 しかし、政府・行政は決してやさしくはありませんでした。復興対策の多くは山を越したと言います。住専処理に税金をつぎ込んでも、私たち1人1人の暮らしの復興には手を貸そうとはしません。基本的人権であるはずの「職」と「住」。それが保障されない国とはいったいなんでしょうか。被災地から本当の「日本」が見えます。
 長田・神戸から全国へ、メッセージを送ります。元の生活を、そしていままで以上の生活を1日も早く作り出すため、私たちがもう1歩踏み出してみませんか。これまで無関心だったこと。他人まかせだったことに、もう少し目を向けてみませんか。たとえば環境。たとえば政治。たとえば市民運動。たとえば労働運動。1人の力は小さいけれど、みんなの1歩は必ず大きな流れとなります。その流れから、1人1人に優しい世の中をつくりたい。

 ゆめ たちあがれ!被災地から。

1996年5月1日

神戸市長田区 若松公園 「ゆめたちあがれ」被災地メーデー

 第2回被災地メーデー     1997年5月1日(木)長田区・大国公園

ゆめ ひろがれ 被災地メーデー

 「震災被害を公的支援で」という声が高まり、会場に飾られた大きな手製の鯉のぼりに参加者がそれぞれの思いを「うろこ」に書いていった。その後、公的支援法制定の要求運動のなかで、この鯉のぼりは、国会行動にひとつのシンボルとして使われた。会場になった大国公園の周辺は震災時、火災被害の大きかったところ。NHKの朝の連続ドラマ「わかば」で「震災時、避難してきた人々を公園の街路樹が火の手から守った」という話から、このドラマの重要な場面に使われたところでもある。

会場前の参加を歓迎する看板。

住専問題。会場には「被災者支援を優先せよ」というプラカードも登場した。

第3回被災地メーデー     1998年5月1日(金)長田区・水笠公園

人間の国へ ゆめかなえ 被災地メーデー

 災害被災者の公的支援の運動は被災者の「人間の国へ」という訴えが、憲法史上初めての「市民・議員立法」の国会上程にまで行き着いた。この年からの出演となった「ちんどん通信社」が周辺の商店街を練り歩き、メーデーを盛り上げた。この年は公的支援に加え、大蔵省汚職がひとつの焦点に。参加者の様々な「怒りカード」をボードに貼ったサンドウィッチマンならぬ「怒りマン」も登場した。

河内家菊水丸さんの河内音頭。
参加者からは笑いと共感が渦巻いた。

会場で手作りした「鯉のぼり」。
鱗には被災者の願い・思いがいっぱいに書き込まれ、
東京の地で大きく泳いだ。

被災者への公的支援法を求める運動が広がった。

被災者・市民・働くものの怒りを集める「怒りマン」も登場。

第4回被災地メーデー     1999年5月1日(土)長田区・水笠公園

ゆめ つなげ 被災地メーデー

 成立した『被災者生活支援法』は、給付条件や給付額などの面で不十分なもの。新たに『生活基盤回復援護法』の運動も。神戸の失業率が7%を超える一方で、『改正労働基準法』が施行された。女性の残業・深夜労働の規制廃止や変形労働時間制の緩和など、働くものにとっては厳しい課題もあった。この年、はじめて参加者全員で歌うコーナーができ、被災地に「帰ってこいよ」の歌が会場に響きわたった。

第5回被災地メーデー     2000年5月1日(月)兵庫区・キャナルタウン広場

とりもどそう 人間 仕事 くらし

 この年、はじめての小劇に挑戦。全農食品での工場閉鎖と闘うパート労働者の姿を劇にした「18年も働いて」が披露された。会場が兵庫区に移り、JR兵庫駅すぐ南ということで多くの通行人の目をひいた。震災から5年、あたりまえの人間としての暮らし、仕事を取り戻そうとアピールした。

働くものの連帯メッセージを伝える喜多神戸地区労議長(当時)。  

  会場には働くものと被災者の笑顔がいっぱいに並んだ。

第6回被災地メーデー     2001年5月1日(火)兵庫区・キャナルタウン広場

ユニオンからはじめよう!

 雪印乳業の食中毒事件や三菱自動車リコール事件など既存の労働組合の役割やチェック機能が厳しく問われる事件が相次いだ。労働組合のあるべき姿、一人ひとりの個性を大切にした「絆」づくりの願いをこめ、このテーマとなった。遠く台湾から産業総工会のメッセージ携え、陳さんが参加。国際色豊かなものになった。小劇では全港湾本四海峡バス分会が熱演。

「解雇を撤回せよ」「職場に復帰させよ」「団体交渉に応じよ」。
全港湾本四海峡バス分会の仲間が演じる
働くもののミニシアター。
闘いは2005年全面勝利を勝ちとった。

花娘が登場した。
メーデーの起源は花祭り。
手作りの花が参加者に配られた。

地域を走った「花車」。
花はすべて“生花”で、
メーデー終了後はあっという間に丸裸にされた。

河内音頭にあわせて踊りだす参加者。
舞台も会場も一体になった。

 

第7回被災地メーデー     2002年5月1日(水)兵庫区・キャナルタウン広場

“ものさし”はルール

 メーデー当日の朝は雨模様。舞台の屋根としてシートをかぶせるなど、雨の中での準備作業だったが、始まる頃には雨も上がり、成功裡に。この年、歴代被災地メーデー会場を歩いてつなぐ「メーデーウォーク」を実施。働くもののミニシアターは三木学校給食労組の闘い。

バックステージは縦180センチ、横720センチ。
2日がかりで完成させる。

「被災地メーデー掲示板」からも情報発信。

毎年楽しませてくれる「ちんどん通信社」のみなさん。
商店街などを練り歩きながら
被災地メーデーを宣伝してまわる。

開会前の全員黙祷。
震災などの自然災害、戦争やあらゆる人災の犠牲者に「安らかに」と祈る。

第8回被災地メーデー     2003年5月1日(木)兵庫区・キャナルタウン広場

アトムの涙

 この年の3月20日にアメリカのイラク攻撃が始まる。大国の論理によってまたもや尊い命が奪われることになった。「被災地から訴えよう!戦争反対」をサブテーマとし、手塚治虫が生んだ科学文明の申し子であるアトムの誕生日が2003年4月7日ということにちなみ、このメインテーマとなった。
 この年の舞台は10dトラック。その舞台の右手に参加者の思いを書いた「涙」が掲示された。
 またこの年も2回目のメーデーウォークを事前に実施。JR六甲駅からHAT神戸にある防災未来センター見学まで歩いてつないだ。

被災地から戦争反対を訴えた。
この年の3月、
一方的なアメリカ軍によるイラク攻撃が始まった。

アトムの“涙”に書き込まれたのは、
戦争反対、平和な暮らし、働くものの怒り、被災者の願い。

メーデーウォーク。
被災地の現実を再認識するウォークを実施。
JR六甲道北西地域では、まだまだ復興途上である。

阪神沿線に立てられた
震災犠牲者を祭るお地蔵さん。

灘区西灘小学校に建設された犠牲になった生徒を思う時計塔と碑。

第9回被災地メーデー     2004年5月1日(土)兵庫区・キャナルタウン広場

この国に生まれてよかった!?

 「国連の調査による『この国に生まれて良かった』と答える住民の比率が最も低いのが日本」ということから論議が始まった。イラクの人々を支援しようと人質になった日本人に対する「国に迷惑をかけた」「自己責任」という非難の嵐は記憶にあたらしいが、この社会をこのように変えたのはわたしたち自身でもあることを訴えた。メーデー会場いっぱいに飾られたのは例年の花に加えて、参加者の思いを書いた「メッセージリボン」。はじめて金魚屋さんも登場した。

近鉄OSK劇団のみなさんが登場。突然の劇団解散と解雇通知を突きつけられたが、多くの人に支えられ闘いつづけた結果、見事自主再建をはかった。会場からは連帯の拍手。

小規模作業所の仲間たちも舞台に。
参加者といっしょに大合唱した。

手作りメーデーフラッグ。
怒り、悲しみ、願い、喜び、希望が書き込まれ、
会場ではためいた。

第10回被災地メーデー     2005年5月1日(日)長田区・若松公園

震災10年 夢のかけらつなげ

10年目、長田の空に涙雨=若松公園に1500人の笠の花

 10年目を迎えた節目の被災地メーデーは、震災直後に第1回を開催した長田の地に戻った。あの時は公園グラウンドいっぱいに仮設が建ち、倒壊した建物の瓦礫が残るなかで働くものと被災者・市民との絆を深め、連帯と交流の出発点となった記念すべき若松公園である。
 テーマは「震災10年=夢のかけら つなげ」。被災地の復興と被災者の仕事・暮らしを取り戻すために、ともに歩んできた被災地メーデーとそれぞれが追い求めてきた"夢"を検証しながら、これからの進むべき道を考えようと訴えた。しかし、10年目の雨。96年の第1回は午前中がぱらつく雨だったが、ほぼ予定どおり開催。今回は本格的な雨の予報。前日には中止を検討したが、「10年目の被災地メーデーをやめるわけにはいかない」熱い思いで、プログラムの大幅な変更で臨んだ。昼からの"本降り"の中で様々なハプニングや運営の大変さがあったが、出演者・屋台村のスタッフや多くの参加者からの「やってよかった」という声で実行委員の苦労も報われた。
 オープニングは南米の民族音楽フォルクローレを演奏する「グルーポ・ゆい」のみなさん。舞台のテントの中からスタートした。
 第1部・連帯の広場は、被災者の思いを詩に託して朗読活動を続ける玉川侑香さんと鈴木豊彦さんのキーボード演奏で始まった。震災で6000人を超える犠牲者、その後の地震・台風などの自然災害、戦争という人災、そしてJR福知山線の脱線事故で亡くなった犠牲者への黙祷を参加者全員で捧げたあと、連帯のあいさつ。前田和彦・実行委員長(神戸地区労議長)、石倉泰三・障害者団体代表、李玉華・西神戸朝鮮初級学校オモニ会会長、神社照夫・若松ふれあい街づくり協議会会長から、連帯と交流のあいさつを受けた。被災地メーデーアピールは小規模作業所で働く村上和美さん。「被災地神戸で、この10年間に私たちが紡いできた夢=人間(ひと)は1人では弱いもの。しかし、人間(ひと)はつながり、それで生きていくことができる」「この夢をつなげよう。一緒に声をあげよう。新たな人災による犠牲者が生まれる前に!」と呼びかけた。
 第2部は「熱笑&熱唄inわかまつ」。ちんどん通信社のみなさん、旭堂小南陵さん、岡本光彰さん、おーまきちまき&のむらあきさん、OSKの桜花昇さんが唄って、踊って、トークして、参加者を楽しませてくれた。メーデー川柳入選は「再雇用 賃金カットで リサイクル」と詠んだ西日本NTT関連労組の横林さんが手にした。
 第3部は「お楽しみ大抽選会」。抽選券を手に舞台が注目される中、見事特賞「ディズニー・シー1泊2日ペアご招待」は播磨ユニオンの岡野さんに輝いた。その他「朝取りタケノコ」「連帯メロン」「ボリビアの写真」「ペット用小型洗濯機」などが参加者の笑顔を誘った。
屋台村もがんばった。あいにくの降り続く雨で悪戦苦闘する場面もあったが、創意工夫と連帯・信頼関係で賑わった。カクテルバー(産興運輸労組)、ぶっかけうどん(県職労)、たこ焼きのガチンコ対決(JPU神戸貯金、県職労社保)、から揚げとビール(JPU東神戸)、金魚屋さん(全港湾弁天浜)、じゃこ天(NTT関連労組)、フリマ(全農林、神戸ワーカーズユニオン)、国労支援物販、にくてん焼き(あかし地域ユニオン)、おでん(粟原後援会)、フランクフルト(兵庫地区実行委員会)、障害者団体のお店、市民団体のバザーやホームレス支援の雑誌「ビッグイシュウ」の販売などこれまでにない多彩な屋台テントが会場いっぱいに並び、参加者との交流も深まった。

第10回被災地メーデー アピール
震災10年 ふたたび若松公園へ

 10年前の1月17日未明。私たちはこの日も普通の朝を迎えるはずだった。しかし、突然に神戸の街を大地震が襲い、激しく街を揺らし、人間を揺さぶった。家族を失い、家を失い、仕事を失ったおびただしい被災者は、なす術もなく、瓦礫の山と化した街を前に立ちつくすしかなかった。「豊かな国」のベールがはげ、実に貧しいこの国の姿があらわになった。
 しかし、私たちはそこから歩き始めた。
 わが国には、自然災害の被災者に対する公的援助の制度がなく、その考え方も存在しない現実。私たちは、震災被災者を先頭に、国の公的援助を求める運動を開始した。「法律や制度がないのであれば、それをつくってくれ!」――国会への請願行動、公的援助を求める署名活動が、神戸から全国に広がり、被災地の叫びは国会を動かす大きな力となり、『被災者生活再建支援法』が生まれた。この法律は、私たちが求めたものには遙かに及ばないものだが、その後の自然災害のたびに改善され、昨年の各地の台風災害、新潟中越地震の被災者にも適用された。
 さらに、被災地の労働者を解雇の嵐が襲った。震災被害による事業所閉鎖や会社倒産に加え、便乗リストラが横行した。それはパート・アルバイトなどの非正規労働者に圧倒的に集中した、「人災」そのものだった。しかし、企業別に、正社員を中心につくられた労働組合の多くは、なす術を持たなかった。「被災労働者に労働組合がないなら、それをつくろう!」――兵庫県下、そして全国の働く仲間の支援を受け、全国初の「被災労働者ユニオン」が生まれた。便乗不当解雇を撤回させ、雇用保険の受給権を拡げ、失業者のライフ・ラインをつないで行った。この経験は、県下各地の労働組合の地域連帯運動、そして労働相談窓口としていまも引き継がれている。

 震災翌年の1996年5月1日、私たちはこの若松公園で第1回被災地メーデーを開催し、今年で10回を数える。労働組合と地域住民が一緒に集い、大震災とその後の経験によって得られた"人間の連帯"を軸に、日本の社会の危険な流れに対して警鐘を鳴らし続けてきた。にもかかわらず、私たちは今回、身近なところで衝撃の大惨事を目にすることになってしまった。去る4月25日、JR福知山線で脱線転覆事故が起き、106人もの生命が奪われた。私たちは、深い悲しみとともに、「安全輸送」をかかげながら労働者には1秒を争う運転を強いていたもの、満員の乗客を乗せた電車をあの死のカーブに突っ込ませたものに対して限りない憤りを表明する。
 私たちは、被災地メーデーの出発地であった、この若松公園に戻ってきた。
 被災地神戸で、この10年間に私たちが紡いだ夢――「人間(ひと)は一人では弱いもの。しかし、人間(ひと)はつながり、それで生きることができる!」。
 この夢は、私たち一人ひとりの胸に、いまも確かに宿っている。その夢をつなげよう。一緒に声をあげよう。新たな人災による犠牲者が生まれる前に!

2005年5月1日

神戸市長田区若松公園グランド 第10回被災地メーデー

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