| 自己紹介 |
| 初めまして、no(Emとも、ひともぢとも)といいます。このサイトの管理人です。現在浪人中ですが、元々雑誌の編集をやっていました。このサイトはどこから見ても完結するように作りましたが、あまりに多趣味なためにまとまりがないともいえます。文字が多く画像が少ないので目に痛々しいかも知れません。どうか1度に全部見ようとせずに、ブックマークをして度々遊びに来てください。恐らく訪れるたびに新しい発見があるはずです。また、文章を書く仕事があれば依頼を受け付けていますのでよろしくお願いします。何か疑問に思ったこと、意見したいことがあれば、掲示板かメールで気楽にどうぞ。どんな内容でも戴いたメールには必ず返事を書きます。 |
| ちなみに、文字ばっかりですし、どこへもまだリンクしてませんので、ひたすら忍耐強く読んで下さい。 |
| 誕生より奔放だった小・中学時代1967〜83年 |
| 私は1967年7月8日土曜日に北海道の札幌で生まれました(付け加えるなら、蟹座で、血液型はB型)。未年生まれなのですが、前年が「丙午」でしたので、私の生まれた年は大幅に人口が増え、その後の受験や、就職の時大変に厳しい思いをしています(本人の努力が足りないという批判はさておきましょう)。 |
| 私の本籍地は札幌市中央区旭が丘1840番地という今はなくなった住所で、旭が丘高校や、旭山記念公園の下で育ちました。その後2年ほど旭川に住むのですが、何しろ小さかったので、記憶はありません。4歳になる頃に札幌に戻ってきて、東区本町1条3丁目の大叔父の家の隣で小学校に入学するまで過ごし、小学校入学と同時に東区本町2条6丁目に引っ越しました。 |
| 小学校に入る前には東苗穂保育園で1年保育を受け、その後、札幌市立本町小学校に入学(1974年)しました。小学校時代はその当時の小学生と同じく野球に明け暮れていました。 |
| 中学は小学校の隣にある札幌市立東栄中学校(1980年)です。中学時代はバドミントン部に所属し、部内では強かったのですが、大会ではいつも1回戦敗退という見事な内弁慶ぶりを発揮し、「東区最弱」の名を欲しいままにしていました。 |
| また、中学校1年の時に、友人がみんな通っているからという理由で通った「北大学力増進会」という塾では、札幌市内で100番という好成績を1回目の試験で記録(国語)するも、授業態度がふざけているためわずか9か月で退塾処分になる(実際は任意退塾)。 |
| 多くの方と同様に小学校までは「神童」と(自分で)呼ばれていた私も、たいして勉強をしなくなり、全く平凡な学業成績のまま中学校3年の時には、札幌市立啓北商業高校の推薦面接を受けるが、敢えなく落ちてしまい、北海道立札幌東陵高校へ入学(1983年)。 |
| 桃色だった高校・大学生時代1983〜90年 |
| 学校では真面目な生徒として、3年の時(1985年)には文化委員長などの生徒会役員を行い、学校祭では前日祭、後夜祭の司会もする。その甲斐あって、学校推薦を貰い私立札幌大学外国語学部英語学科の推薦面接を受け、無事合格(1986年)。然し、合格のポイントは高校1年生時より、すすき野での度重なる飲酒、朝帰り、たまの喫煙、放課後のアルバイト、大学へ合格するなり自動車免許の取得(卒業時まで禁じられている)、仮免しか持っていないのに公道での暴走、放課後の生徒会室での女子生徒との逢い引き、他校の友人と天文部の観測会と称しての飲酒、賭け麻雀の会、授業中の睡眠、2時間目終了時の早弁(“時間より早く弁当を食べる”の略か?)、自転車の2人乗り、試験時のカンニングなどの真面目な生活態度を重く評価していただいた結果だと思う。 |
| 因みに、高校時代「英語2B」という科目で10段階評価の1を貰い(本当に赤いボールペンで書いてあった)お先真っ暗になるも、その程度の学力で、英語を専攻するふてぶてしい態度と詐欺師的才能に友人、先生より多くの賞賛を得る。 |
| 大学へ無事入学するも父と衝突、学費を一切出してもらえない事態に陥り、札幌ローヤルホテルの宴会場で、ウエイターとしてアルバイトを始める。然し1年の秋には自分の車を所有したくなり、更に時給の良い「株式会社フジカラーサービス」の現像所で深夜の現像処理のアルバイトを始める。因みに購入した車はマツダファミリア昭和55年型、1500cc赤、サンルーフ仕様。 |
| 深夜のアルバイトなため、昼間はほとんど学校には行かず、たまに行ってもその全てを睡眠時間に当てる。そのため、大学4年次は卒業が危ぶまれたが、何とかクリア。1990年3月「文学士」の学士号を受ける。 |
| そして東京へ1990〜98年 |
| 卒業するも就職は厳しく、22年間住み慣れた札幌を離れ、学割の料金でフェリーに乗り、東京へ移住する(1990年3月)。親戚、友人の家を転々とし、5月に板橋区赤塚に部屋を構える。完全な一人暮らしなので、定職に就かなくてはならないのですが、友人の紹介により有楽町マリオンの中にある「松竹株式会社 丸の内ピカデリー会館」という映画館で2年間アルバイトとして働く。 |
| 1992年3月いつまでもアルバイト暮らしをしてはいられないので、勤め人になることを決意、「株式会社スリーアイ パブリケーション」という出版編集会社に入社。 |
| 1994年9月初めての海外旅行。友人のいるアメリカ合衆国、オレゴン州ユージーンという街に1週間ほど滞在。ポートランド、ワシントン州シアトルなどを観光し、長年憧れていたアメリカの広さに感動し、いずれこの地に住もうと決意する。 |
| 1995年5月トロンボーンを習いにいく。何故トロンボーンなのか?と良く聞かれるが、恋愛するのに理由などいらないのだ。私はロックやポップスに限らず、ジャズやクラシックも好きなので、どの分野でも活躍できるこの楽器が気に入っている。でもいずれはジャズのバンドをやりたい希望を持つ。また、同年8月最初の楽器Vincent Bach 42BOを買う。 |
| 1997年4月このウエッブ・サイトを開設する。まだ日本ではインターネット黎明期であるためか、満足なhtmlの解説書もなく、独学で頑張ってみる。いまにして思うと、ホームページビルダーなどで後発がどんどん綺麗なページを作っているが、こうなると意地なので、そんなソフトは使わずにやり抜く。 |
| 1997年8月富士山初登頂!する。夕方から登り始め、途中山小屋で休み、真夜中にまた登り始める。はっきり言ってなめていた。8月末とはいえ、0度に近い寒さ、初めて体験する酸素の薄さ。途中何度も倒れそうになりながらも精神力と体力で登頂。山は見るものではなく登るもの。 |
| 1997年11月永年「自分とは?」と問いかけていた私が、ついに自分自身に答えを示すときが来た。河口湖マラソン完走。正確には、大会規定の5時間を切れなかったので、公式には完走扱いではないが、5時間35分で走りきりました。もちろんこのタイムは当時の私のベストですが、こんなもんじゃないよ、普段の俺達は(by青島巡査部長)!なので、まだ私のチャレンジは続く。 |
| 結婚する1999年〜現在 |
| 1999年6月2度目の海外旅行は、友人のEさんの結婚式でハワイに行く。あれほど嫌がっていたハワイなのに、いって即座に虜になる。たった4日間だったが、ワイキキビーチ、ガン・シューティング、パイナップル園、パールハーバー、アラモアナ・ショッピングセンターと満喫する。友人のb君、Sさんと一緒に行ったので、更に倍楽しめた。 |
| 1999年9月友人のb君の結婚式の司会をする。神宮外苑のセランというレストランで行ったが、人前式であったため、私が進行・仲人・神父の役目をする。仲人といえば親も同然である。因みに、でたがりな性格なので、結構味をしめ司会の依頼があれば受け付ける。 |
| 1999年11月28日再びマラソン走る。練習不足がたたり25km手前で屈辱のリタイア!しかし再び挑戦する目標をとっておいたのさ、とうそぶく。 |
| 1999年11月29日とうとう結婚する。友人の紹介で4年ほど前から知り合いだった、彼女をだまくらかして、正気に戻らないうちに入籍する。また入籍に伴い本籍地が変更になったが、何故か板橋区赤塚に決める。 |
| 2000年5月東京にて、結婚披露パーティーを行う。堅苦しいのが嫌いなため、1.5次会風にして、トロンボーン演奏、三味線演奏、唄など100人の出席を得て盛大に行われる。 |
| 2000年7月札幌にて、結婚披露パーティーを行う。東京同様和やかな雰囲気の中、ピアノ演奏、タイのダンス、私のトロンボーン演奏と80人の出席を得て華やかに行われる。 |
| 2001年3月念願であった、フランス製のトロンボーンCourtois300BRを買う。中古でしか手に入らないヴィンテージもので、蘊蓄好きな私の趣味人としての真骨頂である。 |
| 2001年4月20日9年間働いた(株)スリーアイパブリケーションを円満退社する。 |
| 2001年7月16日遅まきながら新婚旅行に行く。11日間の優雅な日程にもかかわらず、じっくりと腰を落ち着けてフランスのパリだけをしゃぶり尽くしてくる。観光地もきっちり回ったが、地元の人の生活もかいま見てきたはず。とても肌に馴染む街で暮らしてみたくなる。 |
| 8月より12月まで失業保険の給付を受ける。9月頃より再就職活動を始めるが、なかなか思うに任せず、焦燥の日々を過ごす一方で、サイトの充実著しく、デザイン変更、毎日更新などやってのける。 |
| 2002年1月15日テイケイフォース入社。本筋の就職活動は継続しつつ、いつ辞めても相手に迷惑のかからないアルバイトを探し、警備会社を選ぶ。シフトが日ごとなのと、体力を使う仕事で身体を絞るため。 |
| 2002年8月10日約7ヶ月間の警備員暮らしから足を洗う。総勤務数124勤。2月の凍てつく寒さの中の夜勤、7月の34度の中の日勤、台風や豪雨の中の勤務、ドライバーに怒鳴られたり、通行人に文句を言われたりの中で、6時間も休憩なく立っていなくてはならないという過酷な仕事に耐えてきた。体重は8kg落ちたが日に焼けて顎ヒモのラインがくっきり付いた。 |
| 2002年8月21日ナリタホールディングス入社。友人の経営するオーストラリアに本社のある輸出入コンサルタントの会社に入社する。一応肩書きは東京所長(英語ではマネージャー)。 |
| 2003年1月楽団カーニバル2001 フィルハーモニーオーケストラに入団する。とうとう楽団員となりオーケストラに参加した。新たな活動フィールドが広がる。 |
| 2003年4月放送大学大学院文化科学研究科修士科目生として入学。最初の一歩として科目生で入学したが、いずれは本科生となり修士号をとるのが目標。 |
| 2003年5月某「ら」株式会社入社。全国に事業所があり社員規模250人の会社に入社する。所属は企画部企画制作課。食品流通の会社でカタログや情報誌などを作る |
| 2003年6月楽団カーニバル2001マンドリンオーケストラ第3回定期演奏会の司会をする。何だかんだで司会の依頼が来る。自分では向いていないと思うのだが、出たがりなので引き受けてしまう。 |
| 2003年9月20日所属する管弦楽団の第1回定期演奏会。「君を乗せて」「美しく青きドナウ」の2曲で指揮者デビュー。トロンボーンとしても初めてのオーケストラ。 |
| 2003年12月28日カーニバル2001の第1回総合音楽祭。結婚行進曲で指揮を行う。またメインプログラムのボレロではトロンボーンソロを行うがあえなく撃沈。 |
| 2004年3月人事異動により販促企画課へ。カタログ制作をしながら販促企画も行うことに。畑違いの業務にとまどう |
| 2004年7月再び人事異動で古巣の企画制作課に戻り正社員になる。正社員になり出戻る。人の運命というのはわからないものだ。 |
| 2004年9月18日所属する管弦楽団の第2回定期演奏会。「リロイ・アンダーソンの4曲」とシューベルトの「未完成」の2曲でを指揮する。 |
| 2004年9月21日から29日までウィーン・プラハ旅行。友人がプラハに赴任しているため、訪問してみた。初めてのアエロフロート、初めてのモスクワ、初めてのウィーンフィル。初めてのプラハと貴重な経験を積む。プラハでは毎晩音楽三昧で音楽修行の旅となった。 |
| 2004年12月4日第2回総合音楽祭。指揮は「いつも何度でも」と「君を乗せて」の2曲。この日は初めてウィンドオーケストラのステージにも乗る。初見では殆ど吹けなかった。メインの「ポロヴェツ人の踊り」は気持ちよく吹ききる。 |
| 2004年12月11日所属する管弦楽団で結婚する二人の結婚式司会をする。楽団の人間の演奏もあり、非常に和やかないい式だった。私の司会も若干板に付いてきた。因みに今回もレストランウエディング。何と四谷のオデル・ドゥ・ミクニ。 |
| 2005年8月27日所属する管弦楽団の第3回定期演奏会。ショスタコーヴィッチの交響曲5番を指揮。交響曲を全曲指揮してしまった。ものすごい演奏で、生まれて初めてブラボーをもらった。 |
| 輝かしい未来 |
| 2010年フランス語のフリーペーパー発刊をきっかけに東京都飯田橋界隈にプチ・パリを作る。自分で輸入してきたフランス車やフランス楽器を中心に、フランス雑貨店やフレンチレストラン、フランス映画専門映画館などフレンチコンプレックスを作り成功を収める。フランス語専門のFM局も同時に開局する。 |
| 2016年巨額の富をバックに、独自にシンジケートを組み、アメリカズカップに挑戦し、見事奪取。カップを持ったまま家族とともに、自分のボートで世界1周の旅に出る。 |
| 2020年アメリカ人以外のオーナーはなれないという人種的問題をクリアしNFLマイアミドルフィンズ買収。3年後にスーパーボウルを制覇すると同時に売却しアメリカのスポーツ及び経済マスコミを驚愕させる。 |
| 2022年余技で書いた脚本がハリウッドのエージェントの目に止まり、映画化。2015年のアカデミー賞オリジナル脚本賞を手に入れる。 |
| 2025年NASAのスペースミッションにより、現代の思想家、哲学者、詩人、作家などによる体験飛行があり、月面着陸を含む2週間の宇宙飛行に参加する。 |
| 2027年還暦を迎えたこの年、欲しいものはすべて手に入れた私の最後の願い、ノーベル文学賞を受賞する。と、同時に野財団を設立、ノーベル賞の賞金をすべて未来を担う世界中の子供達のために使うことを決める。 |
| 2031年11月12日、ゼフレム・コックレーンのワープドライブ実験を待たずに生まれ故郷の北海道で死去。享年64歳。最期の言葉は「えみ、明日の朝飯は卵かけご飯にしてくれ」であった。なお遺灰は宇宙にまかれる。 |