亜米利加紀行
序章

 私にとって初めての海外旅行になる今回のアメリカ旅行は、瀬谷さんが、オレゴン州のオレゴン大学に留学しているというところから始りました。

 瀬谷さんが通うオレゴン大学(U of O)はオレゴン州の片田舎ユージーンという街にある。読者の中にはオレゴン州の正確な位置が把握できなかったりする方も多いと思うので早速地図を開いていただきたい。あの広いアメリカ合衆国で(アラスカとハワイを除く)太平洋に面しているのはたったの3州だけで、即ち日本の皆さんがよく御存知のカリフォルニア州、ワシントン州、そしてオレゴン州である。

 TVドラマで「オレゴンから何とか」というのがやっていたのでそれで名前だけはという方もいるでしょう。私はそのドラマを見ていないのですが、簡単に言えば「畑ばっかり自然ばっかりのオゾンで胸がパンクしそうな位自然に恵まれた州」です。因みにニックネームはビーバーステイト。推して知るべし。

 さて、1年前にパスポートを取った私は先ず会社と休暇の調整をして(というか私の都合で勝手に決めた)次はステイ先の瀬谷さんとのスケジュールの調整、彼女は新学期前で忙しいとのことであったが、私が無理にとお願いして結局これも勝手に決め、次は飛行機の手配。これも瀬谷さんがアメリカへ行くときに使った代理店に行って「、この日とこの日だけどよろしくね」と決めてしまい、アメックスカードも寺林君に無理を言って作って貰った。トラベラーズチェックや現金も円が高い時に狙い澄まして換えてしまい、準備は万端整ったのです。

9月9日金曜日

 飛行機はデルタ航空、成田発17:25ポートランド行52便。チケットは2時間前に成田渡しということで、例によって時間より大幅に早く行く小心者の私は11時には部屋を出て、(因みに男の旅行らしく、衣類等はその日の朝バッグに詰めた、前の日やっておきゃいいものを)12時6分の京成スカイライナーに日暮里から乗り13時位には成田に着きました。

 初めて行く成田空港は流石に広くて、店等をぐるりと一周して歩くのにも結構時間がかかり、機内で読むための本を2冊(因みに、サラ・パレツキーの「ガーディアン・エンジェル」例のV. I. ウォーショースキー物と最近研究している「ワインの本」)買うと前の日に読んだガリバーに書いてあったようにイヤープラグを買う。(因みにガリバーには「機内で快適にしかもアテンダントに好まれるお客になるために」と題してコラムが載っており、これによると国際線に乗ったなら、好きな本を一冊取出して、トレーナーかカーディガンを着て《海外の人と日本人は気温の感じ方が著しく違うらしい》、イヤープラグをして大人しくしていることと書いてあった)その後15時位にハンバーガーをウーロン茶で流し込み(パレツキーの影響か?)チケットを貰った。

 私の荷物は鞄一つなので、そのままゲートをくぐり、パスポートを出して出国審査。その後出発ロビーで待つこと1時間半。周りの日本人の数が大幅に減り、と思ったら出国審査を終えた段階でもう私は外国人なのね。太陽が段々傾き改札が始り、私はそのタイミングでトイレに行きチェックイン。飛行機自体は馴れている物の、国際線となるとえも言われぬ雰囲気があります。(この使い方は間違っているか?)

 貰ったチケットは37のC。アテンダントに「通路側です」と言われた私は何の疑問もなく窓から2つめの通路側に腰を下ろし、ガリバーの教え通り、先ずトレーナーを着た。確かに異常な冷房で、空港で待っている間に大分読み進んだガーディアン・エンジェルを開き3行ぐらい読んだ辺りで頭の上に“?”が浮んだ。会社の小澤さんの言葉が思い出され「もし、自分にお金があれば絶対にエコノミーなんか乗りませんね」小澤さんが酷評する割にはこの席は快適で、足下もゆったりしている。勿論私のチケットはエコノミー。ふと気が付くとその席の横の真ん中のブロックには見るからに窮屈な5つの席が並んでいる。そうです私の座っていたのはビジネスクラスだったのです。慌てて隣に移動した私は何もなかったかのように続きを読む。そしてTeke off。この瞬間を境に全ては忘却の彼方、過去の物となるのです。

 お決りの非常時のためのビデオの後はイヤープラグをしてひたすら読書へ…。とは思う物の、何しろ初めての国際線。周りをきょろきょろ、とりあえず隣は親父。その隣の親父と話をしているが多分茨城か栃木の酷い訛がある。先にこの親父の痴者振りについてスペースをとることにしよう。私の乗った便は日本を17時に出てアメリカにその日の10時に着く便で、機内で寝ないと時差ボケがつらいのは自明の理なのです。それなのに、嗚呼それなのにこの親父、機内サービスのドリンクでは私も巻込んでビールビールと騒ぎ、氷を貰って、機内に持込み禁止の梅酒の瓶を取出すと私にも振舞いとにかく留まるところを知らずに大声で喋り続ける。イヤープラグというのは大きな音や、低周波の音はカットしてくれるものの、人の声は割とよく通ります。丁度日付変更線の上で始った映画のファーストシーンがたまたま時計の絵だったのに、「今、日付変更線け」等と恥ずかし気もなく喋るし、結局8時間半のフライトの内5時間は喋っていた。

 本当にこんな親父の隣に座ったことは不幸で楽しかったこの旅の一番の悲劇とも言えました。それでなくても同じ姿勢で狭いシートに座っているのは非常な苦痛で、然も映画のスクリーンが近くて目をつぶってもちらちらするし、隣では騒いでいるしで本当に苦痛なフライトでした。それ以外では、私がトイレに行っている間に夕食が配られ、気の弱い私は夕食が食べられなくて、でも「寝る前に食べるのはお腹に良くないのだ」と自分を慰めた。(この辺の文章が単調なのは眠いのに眠れない辛さを表している)

 結局ウトウトしただけで殆ど貫徹、窓の外には陸地が見えてもうじき着陸となってしまった。現地時間は11時。然し私にとっては2時。着いたポートランド国際空港は、「何これ?」と言うぐらい可愛い空港で、札幌の丘珠空港に毛が生えた程度の大きさしかない。「又のご利用をお待ちしております」という機内アナウンスと共に「フン、3度と乗るものか(帰りも乗るので2度は乗ってしまう)」と鼻を鳴らしながらバッグを掴み一目散に機内を出て、いよいよ入国審査。

 私は(Alien)の列の比較的短い列に並んだが、私の前の女の子2人が立て続けに書類の不備でもたもたしている。「お前の名前は英語ではとてもいい名前だ」と英語で言われ。「サンキュー」などとニコニコして、「お前はユージーンに行くのか?学生なのか?」と聞かれ、「No, My friends room is there」と流暢な(嘘臭い)英語で応えたりしました。そこを過ぎると荷物検査ですが、何とノーチェック。そのままロビーへ出ることになる。

 迎えに来て貰い1年振りに会った瀬谷さんは若干太っていたものの元気そうで何より。外の駐車場に出ると東京の重苦しい空とは一転抜けるような青空「これがカリフォルニアの空か」「オレゴンです」などと突っ込まれながらフリーウエイを進む。ここからユージーン迄は彼女の車、日本でいうところのスズキのカルタス?(だったっけ?)こちらではメトロのジオでの移動。

 ああ、本当に道路が広くて、然も右側通行。然し映画で見たような風景であまりアメリカにいるんだという実感がわかないのも事実です。ポートランド市街を抜けてインターステートハイウエイ5を南下しま…早くもミスコース。市内に入ってしまい。元のI5に戻るためにガスステーションで道を聞く。道を聞いた瀬谷さんが「お前は韓国人か?」などと聞かれたらしいが、その間道路を眺めていても、未だに実感がわかない。ここは本当にアメリカなのだろうか。

 何とかI5に戻りこれから2時間の旅。アメリカのフリーウエイは日本のそれとは違い高い所にはなく、右も左も畑の真ん中に何処までも続く舗装の悪い道路。片側3車線ですが、車線が引いてなくて、その代りにでこぼこ(何ていうの?)になっていて、気楽に車線変更するとドドドンと振動が来る。75mph(120km/hだよ)で車線変更するとかなりタイヤが心配になる。

 長い飛行機のせいで足が鬱血したためダッシュボードに足をのせて後方に去っていく隣の車線の車を眺める。ウイークデイの午後なので女性ドライバーが多かったり、やたらに荷物を積んだ車が走っていたり、大きなトラックが死ぬほど走っていたりする辺りは日本とはひと味違う。そのうち大体半分が日本車だと思う。とするといわゆる「アメリカは日本車ばかりが走っている」ということになる。恐らく日本は8割以上が日本車であろう。その差は歴然である。

 その昔サミーヘイガーが「I can't drive 55」という曲を歌っていたが、アメリカのフリーウエイは55mphがリミットなのかと思っていたらそうではなくて、55〜65mphの間で日本の高速とあんまり変りがないのだそうだ。ご存知の通りアメリカは各州によって法律が違うため、税金の体系も違い、オレゴン州はセールスタックスを付けないなどの優遇措置を取らないと誰も住んでくれないぐらいで、とても貧乏な州なのだそうだ。足りない分は、道路の舗装が悪かったり、都市部を過ぎると街灯がなくなったりするのは仕方がないとしても、道路の真ん中の広いグリーンゾーンにポリスが昼寝をして待っていたりして足りない分の徴収に目を光らせている辺りも何だか北海道に似ていて、瀬谷さんは運転中前を見ている時間よりも後ろを見ている時間の方が長かったのではないかと思うぐらいです。

 2時間のドライブを終えていよいよユージーンの街に着いた。聞いていたよりも大きな街で、都会とは言えないものの、ティピカルなアメリカのルーラルタウンという感じです。腹が減ったので最初の食事ということにします。「何が食べたい?」とは聞かれてもアメリカの食べ物は何があるのだろう。「最初はハンバーガーで」というと彼女は「バーガーキング」に車を入れた。バーガーキングはアメリカで2番目のハンバーガーチェーンです。(勿論1位はマクドナルド)

 ドライブスルーでハンバーガーとポテト、ダイエットペプシを頼んで一旦彼女の用事で大学に寄る、街並がアメリカらしさを若干でも感じさせてくれるとすればそれは高い建物がないということに尽きる。流石にキャンパスの建物は4階建てぐらいですが、普通の家は大体が平屋なのです。駐車場に停めた車の中で彼女を待っていたら、道を通りすがった太ったお姉ちゃんににっこり微笑まれ、照れるあまりストローを加えたまま微笑み返してしまい、口からペプシがこぼれた。

 その後漸く瀬谷さんのアパートに到着しました。さて、瀬谷さんのアパートについて説明しましょう。瀬谷さんは今現在、川沿いの1件家に3人で住んでいます。(何か英作文の問題みたいだ)そこは12畳位の個人の部屋が3つと4畳半位のバスルーム、リビングとダイニングキッチンは20畳位で、その他にランドリールームが3畳位かな。とにかくそんだけ広くて一人200ドルと少し。これは安すぎる。(因みに1ドル100円で計算して見ろ)

 然しそこへは引越ししたばかりで、私が最初泊ったのは今迄住んでいた部屋で、ここは彼女の友達が住んでる所で、今旅行でいないのでその間彼女が借りていたのです。そちらの部屋は6畳のベッドルームと4畳半のバスルームと14畳位のリビングキッチンのシンプルな間取。でもここは大学から歩いて5分位の大変便利な所にあり、こっちの部屋に着いてまずはほっと一息。早速バーガーキングのハンバーガーを食べます。噂に聞いていた通り大きいのです。普通のやつでもビックマック位の大きさはあります。これで1ドルなんてねぇ、信じられないですよね。感動しながら食べ終り、テレビなんかをつけてみると、見事なばかりに英語ばっかり(当然だ)。

 実はこの辺りで時差ボケが辛くなってきました。瀬谷さんは早速友達の韓国人、韓相勲(ハン・サン・フンと読むのだが英語風に読むとサンフン・ハンになる)に電話しました。彼の他の友人はみんな夏休みで旅行していたり、国に帰っていていないのだそうだ。彼は17:30に来るのでそれまでひと休み。

 訪ねてきた彼は一見すると日本人のよう(最も彼も私を見て韓国人のようだとは言っていた)で、何か英語で話すのが不自然な感じでした。然し彼は大学で日本語のクラスを取っていたので「名前は何ですか」と日本語で聞いてくれたのが初めての会話でした。因みに彼は21歳で、最近の韓国の若者は漢字が読めないらしいのですが、彼は書けなくても読めるのでこれ以後、筆談という場面も多々あった。「何処へ行きたい?」と聞かれても何処に何があるのか分らないし、「何が食べたい?」と聞かれてもアメリカならではのものなんてないに等しいし、結局この後食事を兼ねて飲みに行きました。(何処に行こうか)と(何が食べたい)これがこれ以後のキーワードになります。

 アメリカも日本と同様飲酒運転は禁止のはずですが、そんなことお構いなしでサンフンのアコードに乗って出発です。因みに輸出仕様のアコードはオートシートベルトとでも言うのでしょうか?ドアにシートベルトが付いていて、座ってドアを閉めると自然に締る仕組になっています。飲みに行ったのは19th street cafeという店ですが、カントリー風の居酒屋という感じ。アメリカでは酒を飲む時、タバコを買う時はIDが必要だと言われたのですが、ここではノーチェック。瀬谷さんは日本にいた時殆どビールが飲めなかったのですが、「この店のビールは美味しい」と断言。日本では最近解禁になったいわゆる“地ビール”というやつで、確かに日本の炭酸強めの苦いビールとは違い、甘い感じでこれなら女の子も喜んで飲むでしょう。一緒に頼んだピザも手作りで、例の四角いピザでとても美味。

 そして、それまで瀬谷さんとサンフンが話していた英語に必死に耳を傾けていた私もアルコールが入ればこっちのものです。それ迄黙っていたのが嘘のように大きな声で話出し、といっても難しい話や忘れた単語は瀬谷さんに助けて貰った。結局2時間位そこにいてその日はお開き、私は酔ったまま寝たのですが(というか酔わないと興奮して眠れないのです)瀬谷さんは大学で学生をしながら先生のアシスタントもしており、それを急いでやらなきゃ行けないというので仕事にとりかかりました。因みに私にとって1994年9月9日というのは39時間あったことになりますから、間違いなく私の人生の中で“一番長い日”になりました。

9月10日土曜日

 朝は比較的早く目が覚めました、というのもおしっこがしたくなったのと、朝方やたらに寒かったからです。何と瀬谷さんは貫徹です。朝迄ずーっとワープロを打っていました。彼女のタフさには感心します。さてこの日は朝から小雨が降っており、この時期の北海道位の気温です。この日は昼過ぎから動き出し、サンフンと3人でランチに出掛けました。スーパーの中に入っているコリアンカフェ(韓国レストラン)に行きました。何でアメリカに来てまで、とは思わずに美味しければいいやと日本で言えば(豚キムチ定食)のようなものを頼みました。因みにそこで私は韓国に関して知っているだけの知識を披瀝したのですが、私の母がよくキムチチゲ(キムチ鍋)を作ってくれたと言ったら喜んでいました。

 その後する事のない私達はボーリングに行き、私は生れて2回目のターキーを出して、2ゲーム目に勝ち、何処へ言っても負けず嫌いなところを披露しました。その後サンフンは帰ってしまい、私達2人は方や時差ボケ方や貫徹疲れで夜まで寝てしまい、夜になるとサンフンが迎えに来てくれました。理由は何処にも連れていけない(行く場所がない)事に業を煮やしたサンフンが(ストリップバー)に連れていってくれると言うのです。

 パチンコ屋かファミリーレストランのありそうな割と街に近いところにそれはありまして、ストリップと行ってもメインはバーなので、普通のバーの感じではあります。ただし窓の類は一切無く妖しげな雰囲気でもあります。入口もすぐには中が覗けない構造になっていて、カウボーイハットをかぶった親父が、レジを打っていました。そこでIDを見せて、入場料2ドルを払います。入って右手には奥手へ伸びるカウンターそこでドリンクの販売をしています。右の手前にはジュークボックスがあって何だかふつーの居酒屋のようでもあります。奥手には少し高くなっていてそこにビリヤードの台が4台あります。然し左手の奥には大きな鏡の前に腰ぐらいの高さのステージがあり、そしてこのバーのセンターには半径2ヤードくらいの円形のステージがあり、そこのセンターからは天井へ向けて棒が伸びています。そのステージの周りもカウンターになっていて、椅子が置いてあります。そしてステージを避けるように20組位のテーブルもあります。

 天井からぶら下がった何台かのテレビにはハワイで行われているU of O ダックス対ハワイ大学レインボーズのフットボールの試合が流れていました。お客の20人くらい。そのうち6人は奥でビリヤード。残りの人々はカウンターやテーブルに座り大きな音で流れる曲に合わせて踊るお姉ちゃんを見ている。私とサンフンはカウンターに行きビールを注文。アメリカだと言うのに1杯2ドル50もする。外の物価と比べたら高いのはやはりここがいかがわしい場所だからだろうか?サンフンの後についてステージから少し離れたテーブル席に着いた。白人のお姉ちゃんはあまりダンスが上手では無いらしく、何だか真面目にやれよ。という感じだったがとりあえず、サンフンと取留めのない話をしながらビールを飲む。

 踊り終えたお姉ちゃんはステージから降りると、今脱いだものを着てテーブルに座ったり、レジに行ったりして店内を歩き回っている。そして、ウェートレスだと思っていたお姉ちゃんが徐にステージに上がり踊り出すのだ。お姉ちゃんによって、踊り方脱ぎ方など様々なのだが、全部脱いぢゃう人とそうでない人がいて、やはり脱がない人にはチップは厳しいようだ。

 一回りしたところでサンフンが私の耳に「ここは女の子が4人しかいないし、みんなブスだ」と苦い顔をした。私は何しろ始めてのことなので、それなりに楽しいのだが、彼はどうもそんなに楽しくないらしい。日本人同様照れ屋なのかもしれない。それでも私が「そうは言うが、2番目の女の子は私のタイプだ」と説明すると。その娘の前の女の子の所で席を移動して、いよいよステージのカウンターに陣取った。

 因みにステージの周りにいる奴等はビールを飲んでるのか飲んでないのかやたらに盛上がり、(ああいうところは奴等を見習わねばと思う)"Born to be wild"や"マイ・シャローナ"等の歌を大声で歌っていた。サンフンはポケットから1ドル札を取出すと山折りにして、ステージの縁に置いた。「こうやって出すんだ」と彼がいうと、踊っているお姉ちゃんが自分の前に着て、あられもない姿で踊ってくれる(というか見せつけてくれるという方が当っている)。その頃私は既に3杯目のビールにとりかかっていたが、丁度いいタイミングで私のお姉ちゃんの番になった。私はもうこの時点で2ヶ月前の新宿での私と同じ酔っぱらいの親父状態になっており、迷うことなく5ドル札を山形に折ると、ステージの縁に置いた。彼女のは私の前に来ると誘うような妖しげな目でじーっとこっちを見つめたままくねくねと踊るのです。

 勿論踊子さんにはお手を触れてはいけないので、見るだけなのですが、何しろスッポンポンですから、何処を見たらいいやら、なのです。一人2曲が決められたパートのようで、それが終ると彼女はテーブル席のお馴染みさんと飲んでいて、ちょっと羨ましくなりました(この時ほど英語が出来たらなぁと思ったことはない)もう1周する間にサンフンが「10ドル払えばテーブルダンスしてもらえるぞ、何なら話してやろうか」というので、4杯目のビールを飲みながら「Yes, Please」といい、今度はステージ登り口側の席へ移動した。ステージが終って降りてきた彼女にサンフンが何やら話しかけて、彼女は服を着ながら私の方を見て「OK」というと、曲に合わせて踊りだした。

 サンフンは変に気を使い椅子ごと少し離れた席へ移動した。元々大した服を着ているわけではないのであっという間にスッポンポン。椅子を使ったり(私は壁を背にしていたので)壁に手をついたりと、例の妖しい眼差しで踊るのです。踊は大したことはないのですが本当に目がいいのです。肌なんて日本人の方がいいに決ってるし、胸も大きくないし、パンツの下は見てるだけぢゃ楽しくないしねぇ…。1曲踊ると「Thank you」と言い終り。私は懐から20ドル出すと、やはり「Thank you」と微笑み返しました。

 暫くして、サンフンがトイレに行っている間に4人の女の子の内の一人が私の前にやってきました。「テーブルダンスはどぉ?」等と抜かしやがる、いかに酔っぱらいの親父といえどもお気に入り以外の女の子に大枚10ドルのチップを払う気はありません。「No, Thank you」と言ったのですが、彼女は自分の胸を持上げながら「あたしのダンスはいいわよ」等とこきやがるのです。私はその時ほど自分が日本人であることを感じたことはありません。「OK!」と言うと、10ドル渡してとっとと目の前から消えて貰おうと思いました。然し彼女は律儀に踊ってくれます。私は目の端で私のお気に入りの子がこちらを見ているのが気になりました。

 サンフンが戻ってきてその話をすると「断るんだよ!」と強く諭されました。私は「日本人だから断れない」等と訳の分らない理屈をこねていました。そうこうしている内になんとお気に入りの子が又しても私の前にいて、ウインクしているのです。ちらりとサンフンの方を見ると呆れた顔をしていますが、私は日本のお金ちの酔っぱらいの親父なのです。ポケットからありったけの札を取出すと全部渡しました。彼女はにこやかに(当り前だ)笑うと「Thank you」等と言い2曲。さっきより幾分近寄って踊ってくれました。

 踊り終った彼女にサンフンが名前を聞いてくれました「私の名前はトゥーリーよ。日本ではチキンのことでしょ」などと言い。サンフンが「俺はコリアンだ」というと私は「日本に来れば10倍稼げるのに」等と恥ずかしげも無く言ってのけ、サンフンが色々聞いてくれて彼女は何でも学生でダンスアートの専攻なのだそうだ。それにしてもバイトで脱ぐなよな。と思いつつ2時間あまりの楽しいひとときを終えて、帰宅しました。

9月11日日曜日

 やはり昼位に目を覚し、テレビをつけるとフットボールがやっています。本当なら全部見たいのですが、ここはアメリカです、テレビを見に来たわけではありません。「何が食べたい?」と聞かれるいつもの会話からスタート、学生の街らしく飲食街は充実しています。この日の予定はショッピングモールツアーです。モールというのは簡単に言うと郊外型大型スーパーのことなのですが、日本で言うとオートバックスとかの形態が近いのかな?とにかく広大な敷地に広大な駐車場。そして平屋建のスーパー日本だと百貨店というのは7階とか8階とかの高層建築になっていますが、ここでは土地があるのでわざわざ工費をかけて高くしなくても良いのです。

 何しろ、スーパーだけではなく、飲食店街と映画館まで付いているのです。端から端まで歩いて、あの店のあれが買いたいと言っても相簡単には戻れません。そんなモールがユージーンの周りだけでも3つ4つあるのです。そしてする事がない私達はその全てを回って、お土産の当りをつけたりしたのです。因みにそこでお姉ちゃんの落した20ドルを目敏く見つけた私は、瀬谷さんに拾って貰い、その晩はフリーディナーになりました。

9月12日月曜日

 この日も瀬谷さんと私は昼くらいに行動開始。この日はこの旅行で最大の行事シアトル行です。シアトルは北西アメリカ最大の都市。私の知る限り水のきれいな、美しい街で、アメリカ人の「住みたい町」アンケートの上位に毎年入っている街です。実はこの日の移動はいつもの“ジオ”ではなくて、代車の“アルティマ”(日本で言うと日産ブルーバード)なのです。“ジオ”は修理のために工場に入っているのです。さて、アルティマにガスを入れて(オレゴン州は法律で、ガスステーションの人がガスを入れてくれるので日本と同じです)、我々はサブウェイでサンドイッチを買ってI5を北上します。

 来た時と同じくポリスにだけ最大の注意を払って、見渡す限りの畑の中をひたすら進みます。ポートランドを過ぎると私には初めての道路になります。アメリカ50州あるうち私が行く2つめの州はカナダとの国境ワシントン州です。アメリカの車はナンバープレートが州毎に違う絵柄になっていて、オレゴン州のは木をモチーフにしたそれらしいもの。ワシントン州はマウントレーニアをモチーフにしたとても綺麗なものです。ポートランドを過ぎたコロンビア川の上が州境なのですが、そこに出ていた「Welcome to Washington」という看板を写真に残してきました。この旅行で移した唯一の写真です。

 「そうだファクトリーアウトレットへ行こう!」車中で瀬谷さんが急に張切り出しました。ファクトリーアウトレットというのはブランドメーカーの工場で作られたもので汚れたり、型くずれをしていたものなどを安く売出す郊外型の店で、これは法律によって都市部から何マイル離れていないといけないと決められているのです。そこはチャンピオンやゲス等のブランドが入っていましたが、他に安売の本なんかもあって、結構買物をしてしまいました。因みにワシントン州はセールスタックスがあるのですが、オレゴン州に住んでいることが証明できればノータックスというのが凄いところです。

 そこを出て再びI5に戻ると右手にマウントレーニアが見えてきます。森永のカフェラッテのCFでもお馴染みの綺麗な山です。私が今まで見た一番高い山は富士山で、それよりも1000mも高いのです。段々車の量が多くなってきました。シアトルが近づいています。途中で寄道をしたため、4時過ぎになってしまいました。遠くに高いビル群が見えて、手前の工場地帯にはテレビで見慣れたシアトルのキングドーム(アメフトのシーホークス、野球のマリナーズの本拠地)が見えてきました。

 I5を降りて中心街に入っていくとここが海に面した坂の街であることが分ります。然し横浜とも函館とも全然違う感じの街です。ちょっと時間が遅くなったので、あまり観光する場所へは行けませんでしたので、とりあえずウオーターフロントを一回りしました。

 ここは北米インディアンの街だったらしく、そのグッズが多く売っていました。実際には内海なのですが、私が初めて太平洋の東側に立ったのです。ウオーターフロント後にすると、駐車場までは坂を上らなくてはいけないのですが、その階段を瀬谷さんと私は子供の頃によくやったじゃんけんで、グーで勝ったら「グリコ」で3歩、パーで勝ったら「パイナップル」で6歩、チョキで勝ったら「チョコレート」で6歩進めるというのをやりながら上ったのですが、やはり観光客は強いもので、とても東京ではこんな恥ずかしいこといい年こいて出来ないのですが、ここだと出来るんだよねぇ。因みに私が後1歩残した所で彼女に逆転負けしてしまいました。2人の人生を暗示しているようです。

 その後はシアトルの最大の観光名所「スペースニードル」へ向いました。因みにシアトルには飛行機でお馴染みのボーイング社の本社があります。それにちなんでのスペースニードルなのでしょうか?一人6ドル50の高い入場料を払い塔に上ります。上に着くと丁度夕暮時の素晴しい眺め。冠雪したマウントレーニアが雲の上のその頂をピンクに染めているなんて絵柄はそう滅多に見られるものではないし、神々しくさえありました。太平洋側にはマウントオリンパスがありその向うに夕日が沈んで、これ又見事な夕焼です。

 残念だったのはその塔にはやたらに日本人が多くて、名札を付けた若者が(恐らくお見合ツアーだろう)うろちょろしているのです。海外に行くと本当に日本人が嫌いになるものです。私が日本人であることを忘れるために「ニーハオマー」とか「アンニョンハセヨ」などと言っていると、本当に韓国人の女の子が隣にいたらしく私の顔をのぞき込んでいたそうです。とにかくそんなことを抜きにしてもシアトルの街は美しく、この街なら住んでもいいな。と思いました。

 因みにそこを降りてから夕食はウエンディーズに入ったのですが、そこでスパゲティを頼んだ私が馬鹿でした。奴等は麺を茹でると言うことを知らないのでしょう。教訓「アメリカの普通のレストランではスパゲティを頼んではいけない」お腹も一杯になったことだし、家路に着くことにしよう(そう瀬谷さんの用事があって、日帰りなのです、凄いでしょ)I5に乗った所で「ガス大丈夫?」と聞くと「大丈夫じゃない(否定、きっぱりと)」との答。私は日本にいる時もガス欠だけはしたことのない男です。夜の帳も降りた見知らぬ土地でのガス欠など考えただけでも背筋がぞっとします。

 「すぐにハイウェイを降りろ」というと沿道にスタンドを探します。然しこういう時は得てして道に迷ったりするもの。シアトル空港へ迷い込んだりして、すったもんだの挙句漸くスタンドを見つけました。然しワシントン州は自分で給油するタイプ。瀬谷さんもしたことはないそうです。こんな事ならスタンドでバイトしとけば良かったなどとぼやいても埒があきません。結局店の人に教えて貰い何とか無事に給油を住ませ。目指すはユージーンです。途中ポートランドで珈琲ブレイクを取り部屋に着いたのは午前3時。ビールを飲んでさっさと寝てしまいました。

9月13日火曜日

 この日の最初の動きはジオの納車のために、代車を返しに行くところから始りました。代車と言ってもレンタカーなので、それの会社へ行くと、従業員6人くらいの小さな会社なのですが、何かアメリカのオフィスという感じになっていて、トロイ・エイクマンに似たお兄ちゃんが受付けてくれて、ジオの工場まで乗せていってくれました。道すがら瀬谷さんが「ユージーンでどこか見に行くような所はあるか?」と聞いたら「そうだなぁ、丘ぐらいしかないなぁ」等と話していましたが、私はそんなことよりも横の車線を走っていたポルシェ356のナンバーが“LE M 356”になっていて、(これはポルシェ356がル・マン24時間レースで優勝したことがあるという意味で、これが分る人はそうはいない)とても感激しました。

 この日のランチは(毎日ランチからスタートしているが)イタリア料理の店“MAGZZI'S”私がアメリカ旅行中に行った唯一つのきちんとした洋風のレストランです。恐ろしく足の長いウエイトレスがいて、私達が食事中に「美味しいか」とか2、3回聞いてくるのです。勿論ウォーターピッチャーを持ちながらではあるが。そこで食べたペンネは多少味が薄いものの、なかなかのものでとても満足しました。(by平野雅章風)瀬谷さんは珍しいことに殆ど食べられずに、ウエイトレスにドギーバック(お持帰り用の箱)を頼んでいました。その後、今日の内に買物を済ませておこうと思い、買物へ。

 半日買物三昧した後、夕食は四川飯店へ、といってもここはユージーンで陳さんはいません。海老チリとマーボー豆腐を頼み、案の定2人では食べきれずにドギーバック行きに。その後「ヤクの売人がいたりするんだけどね」等と瀬谷さんが脅かしながら例の丘へ行くことにしました。確かに怪しげな感じの丘で、小樽の天狗山へ行くのと同じくらい怪しい感じです(高さは半分もないだろうけどね)。然し、丘の上から見たユージーンは小さいながらも美しい街、街灯がみんなオレンジ色なのがガーネットのようで、グレムリンの映画を思い出しました。

 帰りがけにスーパーでビールとつまみを買い、そこでトラベラーズチェックを使ったらレジのおばさんに「あたしゃ読めないけど、この字は可愛いわね」といわれ、レンタルヴィデオ屋へ。2人ですったもんだした結果、私が内容が分るバックトゥーザフューチャー2、3を借りてきました。その日はこの2本を見ながら、ビールを飲み、ポップコーン(バターのたっぷりかかった奴)を食べて寝ました。

9月14日水曜日

 この日のランチは昨日ドギーバックにしてきたものを温めて食べました。今日はサンフンが太平洋岸の街ニューポートへ連れていってくれるというのです。ユージーンを昼過ぎに出発した我々は途中道路工事のため渋滞にあったものの2時間くらいでニューポートに着きました。

 途中山を越えるのですが、何となく積丹に風景に似ていました。途中の田舎道の脇にオレゴン州立大学(OSU)がありましたが、ここも大きなスタジアムを持っていました。U of Oのマスコットがダックス(アヒル)ならOSUはビーバーです。さて、山道を抜けた当りでいきなり開けた街があり、海岸に出ると、日本には絶対存在しないであろう、白い砂浜、そして崖までが白く、恐らく遠浅であろう浜辺が続くのです。この眺めは勿論江ノ島海岸とは違うものだし、石狩の浜とも違います。

 我々3人は暫く砂浜を歩きました。当日は小雨が降ったりしていたので、海辺は薄く霧がかかっていて、とても幻想的でした。その後ニューポートから海岸を南下しました。途中海豹が見られる場所があったのですが、入場料が高いのでやめました。然し本当に美しい眺めで、心地よいドライブの後海辺の街フロレンスに着きました。フロレンスに着いた頃はもう夕暮の時間で、こちらの浜も真っ白なのですが、浜から防波堤のように一直線に岩が突出しており、かなり先まで歩いていけるのです。私は小学校の時に習った「夕日を追いかけて」という歌を心の中で口ずさみながら歩いていきました。

 完全に先までは行かずに、途中で腰を下ろしたのですが、段々満潮になってきたらしく、波が荒くなってきて、私は飛沫をちょっとかぶってしまいました。正真正銘太平洋に沈む夕日が見られるのかと思っていたら、丁度雲がかかってきて、紫色に染まる空は綺麗なもののその瞬間は見られませんでした。腹を空かせた我々はそんなロマンティックな感傷に浸る間も惜しんでユージーンへ戻ってきました。ファミリーレストランで食事をすると、私は一人でビールを飲んで寝てしまいました。

9月15日木曜日

 実は日本時間のこの日私の愚妹が結婚式をすることになっていまして、トマムの教会で式を挙げているのだろなぁ、とアメリカの地で思っておりました。おめでとう。

 この日のメインの行事は引越しです。それまで私は大学から5分のアパートに一人で寝ていたのですが、そろそろ友達が帰ってくる頃なので、いつまでもいると、帰ってきた彼女と鉢合せになる可能性があるので、私としてはそれは避けたいと、それで瀬谷さんの新しい川沿いのアパートの片づけも一段落したのでそちらへ引越しすることにしました。昼の内に、瀬谷さんの用事を済ませ、私はトレーナーなどを買って、その後郊外のファームへ行きました。そこでは野菜や果物を採らせてくれるというので、瀬谷さんの便りにならない記憶を当てにしていきましたが、結構そういう農家がたくさんあるのには驚きました。然しちょっと季節が悪かったのか、採らせてくれるものは殆どなく、結局小屋で売っていた、メロンやトマトを買ってきました。これは明日のポートランド行の時に食べようということにしました。

 ユージーンに戻ってきてサンフンと待ち合せをして食事に行きました。というのも明日はポートランドに行ってそのまま泊ってくるのでもうユージーンで過す最後の夜ということになるのです。バーベキューの店に行き(そこも店に大きな蒸留装置があり、ビールを造っていた)食事をした後、“Steelhead”というバーに行き最後の酒宴です。私は店の売物である5種類のビール全部が飲めるというSAMPLEというのに挑戦したのですが、苦いのから甘いのまであり、これは日本でも商売になると思いました。

 その後瀬谷さんのアパートの前でサンフンとはお別れしました。彼がいたからこそとても楽しい旅になったと思います。何時会えるか分りませんが(彼は国へ帰ると2年間の兵役があるのです)いつか日本にでも来てくれたらなぁと思います。

9月16日金曜日

 昼過ぎに起きて、残り物を食べて、荷物をまとめて慌ただしく出発です。今日の内にポートランドへ行って観光。明日の朝もぶらついて13時の便で帰国になります。僅か1週間しかいなかったユージーンですが、実際に暮している瀬谷さんやサンフンはくそみそに言っていましたが、私にはわずかの滞在地、とても自然の多い美しい街でした。「さようならユージーン」と街に手を振りながらI5を北上。2時間で着いたポートランド。早速市の中心部に車を停めて、歩いて観光です。

 1番最初に行ったのは「NIKE TOWN」スポーツシューズでお馴染みのナイキの本社はポートランドにあるのです。そのお膝下にあるショップは日本で言えば小さなものですが、なかなかお洒落でビルの外の外壁にはエアジョーダンのマークが大きくディスプレイされています。一番かっちょよかったのは靴を頼むと各部屋(バスケットの部屋、フィールドスポーツの部屋等と分れている)に巡らされた透明なチューブに頼んだサイズの靴が運ばれてくること。私は予算の都合もあり靴は買わなかったのですが、ウオーターボトルを買ってきました。

 ポートランドは札幌や銀座のように碁盤の目に刻まれた極めて整然とした街で、街角にはコーヒースタンドが出ていたり、デパートの前ではフレッシュジュースのスタンドが出ていたり、中心部の広場ではローラーブレードの大会がやっていたりして、ぷらぷらするにも飽きない街です。瀬谷さんのお気に入りの店を何件か見て回って、お腹が空いたところで、パイオニアプレイス(ここはポートランドの三越のような所らしい)を上から下まで見て回って、地下の食堂街で食事。因みにここで飲んだレモンジュースは最高に美味しいです。

 結構遅い時間になったので、急いで最後の観光地パウエルブックスへ行きました。ここはかなり大きな本屋なのですが、本屋と言うよりは大きな図書館という感じで、雰囲気はゴーストバスターズの図書館という感じです。あまりに広いため分野毎に部屋割りがしてありオレンジ、ローズ、ゴールド、ブルー、グリーン、パープルの各ルームと珈琲ルーム(ここは八重洲ブックセンターに似ている)に分れており、ご丁寧に地図まで置いてあるのです。

 私は日本関係の棚を見て回ったのですが、なかなか楽しくて、下手くそな漢字で「武道」と書かれた本などを見つけると思わず笑ってしまいました。日本の本も置いてあって、「柔道部物語」(漫画)が8巻迄揃っているのには驚きました。ぐるりと一回りして、夜の9時位。

 さぁて泊る処を探そうという段になって、瀬谷さんが「ホテルは高いからモーテルにしよう」というのです。車でどっかのスーパーを探して、ビールを買って、瀬谷さんがイエローページを破いて、「ここにしよう」と指さしたのが“トラベルイン”という安易な名前のモーテル。夜のポートランドを道に迷いながらやっと辿り着いたダウンタウンの怪しげなモーテルに車を入れ、チェックインです。カウンターにはきちんとした身なりだが、頭の悪そうな親父、カードで払いますと言うと、カードとパスポートをじっと見比べて、何やら書類の作成にとりかかりました。かなりじっくり書いているのですが、そんなことをしている内に上半身裸のヒスパニックが私達の後ろで歌を歌いながら、イライラしています。そいつの彼女も札と車のキーを握りしめた手でカウンターをこつこつ叩きます。(かなりおっかない)何とか無事にチェックイン(因みに39ドル)が済んでキーを貰いました。224号室。

 「2階で良かったね」とは瀬谷さん。然しその表情も2秒後には凍り付いてしまいます。「ヘイ、ダッド!」黒人の女の子がおとーちゃんを呼んでいます。L字型をした2階建てのモーテルはよーく見ると殆どの部屋の窓が開け放たれ、中ではテレビの電気だけが光っているのです。女の子の入った部屋は大人数用で、どうやら家族が住んでいるようです。「とんでもないところへ来たかもしれない」私は土産話に丁度イイや、と少しは思っていたのですが、その気持も段々修正しなくてはならなくなりました。

 部屋に入ると、広さはまぁまぁなのですが、第一に暑い。エアコンがなくて替りに爆音のする冷風機があるだけ。第二に明りが傘のついたスタンド一つでとても暗い。第三に冷蔵庫がない。持ってきたビールの栓が開けられないのは言うまでもなく(だってルームサービスなんて考えられます?)昨日ファームで買ってきたメロンを冷すことも切ることもできない。荷物を置いて一番最初にしたことはバスルームのチェック。これ又広さはまぁまぁなものの、お湯に浸かるには清潔度が気になる。何しろ壁に2匹のゴキブリが這っているのがショック。瀬谷さんが「殺して」というものだからその2匹をガイドブックで叩き潰し、私はテレビを付け、冷風機を付け、一つだけの粗末なテーブルの上に書類を広げて、お金の計算やらをしたのですが、そうこうしている内にゴキブリが1匹2匹と出てきて死骸が増えていきます。瀬谷さんは風呂へ入ると言出したのですが、風呂場にも又ゴキブリが、「お前さぁ、この状態で眠れるの?こんな部屋で、五月蝿いし、暑いし、ゴキブリは出るし」との私の問いに「あたしは眠れる」と言切るのですが、5分後には私の説得に折れて、この部屋をキャンセルすることになりました。

 カウンターに行き「We want leave」といい、「たくさん虫が出るんだ。」というと、「I'm sorry」といいながら、伝票を無効にしてくれました。少しはキャンセル料取られるかと思ったのですが、全くのただ、これは貴重ないい体験が出来ました。車を市内に戻して目指すは“Portland Hilton”です。車をホテル前に付けると、クロークコートをきちんと着たボーイさんがやってきた「部屋あるかな?」と聞くと「よし電話で聞いてあげよう」といって電話の所まで行っている間に、私は車を降りて、荷物を下ろす準備です。「大丈夫だよ」と行って、伝票を書込むボーイ君は愛想良く「車は回しておいてあげる。明日部屋を出るとき電話でいえばここに車をおいといてやる、名前は?」などと早口で言って、書いた伝票を渡してくれました。「さっきのモーテルとは違い、1流ホテルはサービスがいいよなぁ」といいながら伝票を覗くとしっかり12ドルと書かれていました。「モーテル1泊39ドルと比べると高いよなぁ」全くだ。

 フロントで部屋を取って貰うとキングサイズしかないという。何でもいいから頼む。と、取れた部屋はもう何というか、とにかく良い部屋なのよ(この辺の文体が変なのは旅の疲れのためスタイルが保てないためだと思って下さい)。眺めはあんまり良くないけど、完璧な空調、明るく広い部屋、フワフワで然も広いベッド、清潔なバスルーム。「30分前にいた地獄を思うと笑っちゃうよね」等と言いながら荷物をまとめ、テレビを付けてくつろぐ私。ルームサービスでナイフとオープナーを届けて貰い、瀬谷さんはメロンを切って、私はビールを開けて人心地。「ぢゃ、あたしは風呂へ入るね」と言った瀬谷さんがテレビを見てこう言いました「あれ?、サタデーナイトライブやってる」

 私はねぇ、根が心配性なだけでなくて、こういう時に限って猛烈に頭が回転するのよ、ほんの1秒の間にさぁ「やべぇ、サタデーナイトライブをやっているという事は、土曜日だ。ということは飛行機に乗遅れて、まんまと1日間違えている。昼間ナイキタウンにいた頃はもう飛行機が出てたんだ。ということは明日一番早い飛行機にのらなきゃ、そうすると、その分お金取られるなぁ。会社の人にも連絡しなきゃ、笑われるなぁ。今頃日本に着いている時間だ、成田に迎えに来てくれている寺林君に連絡しなくちゃ」これくらいのことは思うわけさ。でも一番強く思ったのは「普段あれだけ時間にうるさい俺がこんな大ドジを踏むなんて」という自己嫌悪の気持でした。

 何しろアメリカに来てから、毎日カレンダーを見ているわけでもないし、テレビでは曜日感覚は掴めないし。何となく今日は何日と思っていただけでした。瀬谷さんも土曜日だと思ってしまい。ますますパニック。私は今ヒルトンのフロントで貰った伝票を見ました。(EXP 17, Sep.)としっかり書いてあります。9月17日は土曜日で、私の出発の日だということぐらいは理解できます。一番最初にデルタ航空のインフォメーションに電話して貰って、次の早いチケットを取って貰うことにしました。然しそのカウンターが開くのは明日の8時だというのです。

 次の手は成田にいる寺林君に連絡することです。彼の留守電に「もしもし、野です。実はまだポートランドにいます。1日間違えて飛行機を乗り過してしまいました。とにかく飛行機が取れたら連絡しますので、今日は部屋に戻って下さい。」と入れて、次は会社です。会社は日曜ですが、念のため電話してみました。然し2階も5階も誰もいません(当り前だ)。会社の人の電話番号は誰一人として持ってきていません。スケジュール帳を見ていると、小林さんの電話番号らしきものが乗っていました。「よしかけてみよう」自分を奮い起してかけてみました「もしもし?」「はいこちら南流山駅」以前小林さんと待ち合せをしたときに、調べたJR武蔵野線南流山駅に国際電話をしてしまいました。これで私の出来ることは全て終りです。

 苦いビールを流し込み、瀬谷さんはシャワーを浴びにいってしまいました。茫然自失でチャンネルをひねっていると“デモリッションマン”がやっています。10分も見ていると終ってしまいました。次は何かなと思いテレビガイドを見ると、17日土曜の所には“デモリッションマン”は載っていません。もしやと思い前のページ金曜日の所を見ると載っているではありませんか。

 ビールで多少落ちついた頭は、財布を取りに行けと命じました。財布の中から今朝のガススタンドでのレシートと、さっきビールを買ったサミットのレシートがあります。どちらも日付は16日。落ちついてみると、ヒルトンの伝票に書かれた日付はチェックアウトの日付です。私はバスルームのドアを開けるとカーテンの向うの瀬谷さんに「今日は金曜日だよ!」と声をかけ、寺林君へ電話「もしもし、先程は訳の分らないメッセージを入れましたが、忘れて下さい。明日は予定どおり、そちらには15時30分到着予定です。又明日連絡します」全ては解決しました。普段沈着冷静で知られる私も馴れない海外旅行で多少動転していたようです。然しそれも思い出です。私は2本目の瓶を空けるとのんびりとテレビを見て、寝てしまいました。

9月17日土曜日

 最後の日です。朝早く起きたものの、やはり疲れが溜っていたからでしょうか。それとも1流ホテルのベッドは寝心地が良かったからでしょうか、目が覚めても起きるのがもったいなくて仕方がありません。とりあえずシャワーを浴びて、寺林君に電話しました。彼は私のことをよく理解しているので、笑って迎えに来てくれると言ってくれました。予定通です。然し電話している最中に部屋掃除のおばさんに覗かれてしまいました。急いで瀬谷さんを起して、支度をして車を玄関に回して貰い出発です。

 飛行機は13時25分、ポートランド国際空港は市内から30分ぐらいの所だそうで、午前中はサタデーマーケットを覗いてみることにしました。車でぐるぐる回っても何処でマーケットがやっているか分りません。途中で車を停めて何人かに聞いたのですが、中でも傑作だったのが2人連れの黒人に瀬谷さんが「Excuse me」というと「Are you looking for me?」(俺をお探しかい?)等というのです。こういう会話はアメリカ人ならではですよね。結局、コロンビア川沿いの公園の側でやっていたサタデーマーケットにたどり着きました。

 よく旅の本にマーケットに行くのがその街を知る一番の方法だ。等と実しやかに書かれていますが、ここは確かにその本来の(市場)という意味からはちょっとはずれていますが、フリーマーケットもマーケットにはかわりありません。殆どの店は素人が作った土産物(但し玄人裸足であることは言うまでもない)を売っているのですが、置物、陶芸品、絵画、アクセサリー、中には盆栽までありました。

 その他食べ物屋が出ていて、大道芸人がいるという本当にマーケットらしいマーケット。2人でじっくり見て歩いて、そこで食べた春巻は本当に美味しかった(因みにそこのおばさんに中国語で話しかけられて、分らないと「何だ日本人か」と言われたのは瀬谷さんです)です。またシュリンプとなんかの芋とで炒めた奴も最高に美味しくてそれを公園で食べて、又道路を渡ってマーケットに戻って、瀬谷さんは小さな4穴のオカリナを買いました。残念ながら、時間が来てしまいました。私は後ろ髪を引かれる思いで「行かなきゃ」と言い。一路空港へ。

 出国も殆どノーチェック。私は行きの飛行機の苦痛さを思い出して少し憂鬱になりましたが、ちゃんと空港でアイマスクとスリッパを買いました。もう搭乗手続は始っていましたが「ここは成田じゃないんだから1分前でも大丈夫だよ」という瀬谷さんの言葉を信じて、オレンジジュースでお別れです。私は感謝を告げると、ちゃんと勉強することと体に気を付けることだけ言って、飛行機に乗りました。

 帰りの飛行機は最悪なことに5列のエコノミーの真ん中、然も殆どが日本人で満員。ただ、私の右隣が開いていたのが唯一の救い。そちらに足を投出して姿勢の窮屈さは緩和されました。帰国便では昼に出発昼に到着するため、そんなに寝る必要はありません。私は「ガーディアンエンジェル」の続きを読みながら、軽く寝て過しました。

 因みに軽い食事などが出て、その合間にドリンクサービスがありました。私は旅行中「水」は飲まないようにしていました。理由の一つは私のお腹がセンシティブなために水には注意していたこと、もう一つは「ウオーター」の発音が通じないことを恐れての2点でした。前からアテンダントがワゴンを押してきました。私は小さな声で「ウォーター、ウォーター」と口をほぐすために発音してみました。「ウォータープリーズ」私はイヤープラグをしていたのですが、アテンダントが「ウォーター?」と聞いてきたので私は「イエス」と頷きました。然し次の瞬間恐ろしい光景が展開されたのです。彼はコーラの缶を取出すと、「プシュッ」と開けたのです。そうです私のウォーターはコーラときこえたのです。隣の隣のアメリカ人はそれが聞えたらしく、私とアテンダントの顔を交互に見て笑っていました。私は恥ずかしいので「コーラが飲みたかったのさ!」という顔をして続きを読みました。

 因みに私の左隣は日本人だったのですが、その親父は(何か親父ばっか)「アイスウォーター」と言っていました。一つ勉強になりましたね。それでもやはり8時間半のフライトは長すぎます。途中一度だけトイレに行ったのですが、その時窓の外にアリューシャン列島が見えたのには感動しました。千葉の先から成田までが着きそうで着かないのですが、何とか到着例によって、脱兎の如く飛出した私は入国審査を終え、税関に立ちました。流石にここでは検査されるだろうと思っていたのですが、「何か申告するものがありますか」「ありません」「どうぞ」で終りです。こんな事なら何か持ってくれば良かったと思いました。

 出口には寺林君が待っていてくれました。とにかく帰国して最初の感想は「蒸暑い」です。よくこんな所に5年も住んでいるのかと感心しました。因みに寺林君のパルサーで成田−成増間は1時間弱。空いていると首都高も早いものです。とにもかくにも無事に帰国です。危ない目にも遭いませんでしたし、楽しい思いでばかりで、気分的にもリフレッシュできました。人間的にも一回り大きくなったのではとも思っています。こんな事ならもっと若いときに行っとけば良かったとも思いました。さて、この旅行で世話になった、瀬谷さんと、寺林君、餞別をくれたみなさまに感謝いたします。以上で旅行の報告を終了いたします。

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