映画祭を続けて26年!

前田秀一郎&今村ミヨ

 1987年に「福岡アジア映画祭」を始めてから今年(2012年)で26年になります。正直言ってこんなに長く続くとは予想していませんでした。私たちが福岡で自主上映の活動を始めたのは、1976年の12月です。最初は、福岡で紹介されない独立系プロダクションの日本映画を当時名画座と呼ばれた映画館を借りて上映していました。オールナイトで5本や6本の作品を一挙にまとめて上映したり、監督を呼んできてフリートークをやったりしました。箱崎東映でやったATG映画5本立ては2日間とも長い行列ができるほど満員で、毎年の恒例イベントとなりました。そのうちに、日本映画ばかりでなく、外国のインディペンデント映画もやろうということになり、スピルバーグやルーカス、スコセッシ監督などが学生時代に撮った短編などを上映し始めました。さらに、その頃スタートした東京の岩波ホールの作品が福岡ではほとんど未公開なのでやってほしいという声が高まり、日立ホールでの月例名作上映がスタートします。また、その時期に、名前だけは聞いたことがあるが実際にフィルムで見る機会が少ない世界の名作シリーズも開始しました。さらに、当時の中洲のオフィスを改造した中洲シネルームを会場に、まだ映画に音が無かったころのサイレント映画の勉強会も始めました。ほとんど毎週のように新しいプログラムが組まれ、映写機がフル稼働しました。インディーズ系日本映画、メジャーな日本映画、アメリカのインディペンデント作品、岩波ホールのヨーロッパ映画、世界の名画、サイレントときて、次が映画祭という企画でした。フランス映画祭、スイス映画祭、ブラジル映画祭、トリュフォー映画祭、ヒッチコック映画祭、山中貞雄映画祭、フレディ・ムーラー映画祭、マルグリット・デュラス映画祭などといったイベントを単発で実施しました。そういえば、ゲストとして「去年マリエンバードで」「囚われの美女」のアラン・ロブ=グリエや、「ディーバ」「ベティ・ブルー」のジャン・ジャック=ベネックス監督も映画祭ゲストとして福岡に来て、講演をしてくれました。

 そして1987年、福岡アジア映画祭の最初のきっかけを作ったのは、今村昌平監督の「女衒」でした。今村監督の作品は大好きで、それまでにも何度か特集上映を行っていましたが、今度は何か別なものをやりたかったのです。そこで「マレーシア・ロケの時、雨で撮影が中止になり、向こうで見た映画が予想外に面白かった」という今村監督の言葉がヒントになりました。そうだ!アジアの映画にテーマを絞った映画祭は、まだ日本にはない!ということで、今村昌平監督に総合プロデューサーをお願いし、映画祭で上映する作品を集め始めました。ところが、当時日本にあるアジア映画の数は極端に少なかったのです。とにかく見ることから始めようと片っ端からフィルムを送ってもらいました。20年前は、アジア映画のほとんどがまだビデオやレーザーディスクになっていなくて、わざわざ重たい35ミリフィルムを送ってもらい、ホールを借りて試写を行いました。中国映画は、東光徳間が1977年に始めた中国映画祭の作品が日本で配給されていたので、かなりの数を見ることができました。そして、当時の中国ヌーヴェルヴァーグの代表作である「黄色い大地」と、前年イタリアのトリノ映画祭で審査員特別賞を受賞した「絶響」の2本を選びました。ほかに、韓国、香港、インド、スリランカ、フィリピン、そして日本の新作を入れた計16本を上映しました。その時は、これまでにもいくつか実施してきたいろいろな映画祭の一つだという認識しかなく、だから第1回というタイトルもつけていませんでした。ところが、基調講演をしていただいた総合プロデューサーである今村監督が、帰られる時に「こんな意義ある映画祭は日本のどこを探してもほかにはない。毎年やるべきだ。私も東京から応援するから、ぜひ毎年やりなさい!」とおっしゃったのです。

 そこでこの映画祭は毎年やるという羽目に陥ったのです。その2年前の1985年に始まった国際アニメーションフェスティバル広島大会は2年に一度の開催でした。同じ年の秋に始まった東京国際映画祭も2年に1度でした(1991年から毎年開催)。1989年に始まった山形国際ドキュメンタリー映画祭も2年に1度の開催です。どこの映画祭も準備にかかる時間、経費などを考慮して、2年に1度の開催を行っています。しかし、20年前、アジアの映画は大きく変わっていました。にもかかわらず、そんなアジアの話題作が日本ではほとんど見られない状況でした。そこで、無理を承知で、第2回目の準備を始めました。ところが、その前の年にフィルムを借りて見せてもらった作品の数々が当時日本で見られるアジア映画のほとんどで新しい作品は数本しかありませんでした。これでは、作品をまとめて紹介する映画祭はできません。途方に暮れた私たちは、3月に開催されていた第12回香港国際映画祭に参加しました。そこでは予想外に多くの友人を作ることができました。そして、「上映したい作品があれば、プロデューサーや製作会社の人間など紹介するから、直接交渉してみたら」という温かい励ましの言葉をいくつも聞いたのです。それからあとは人間関係のみに頼ったフィルム交渉が始まりました。こちらはボランティアで運営する名もない地方の映画祭で、大きな映画会社や企業、役所などといった肩書きとは全く無縁なのです。とにかく、監督や映画人に紹介してもらった映画会社や製作プロダクションなどを足を使って回りました。そして、やっとフィルムを貸してくれるようになったのです。それから後はもう当たって砕けろ!の精神で、アジア、アメリカを回り、映画会社やプロダクションの扉を叩きました。そんな始まりから20年以上が経ち、これまで招待した監督たちも全面的に協力してくれて、友人の輪は大きく広がりました。今では、多くの国で、私たち福岡アジア映画祭のことを知り、応援してくれています。

                     *

 私たちの福岡アジア映画祭は、企画から運営まですべてをボランティアの力で行っています。最初は少なかったボランティアの数も、年を重ねるごとに増え、この5年ぐらいは軽く100名を越えています。それでも新しく参加したいという方があとを絶たず、毎年1月から新メンバーの募集を始めます。今年ボランティアとして参加できなかった皆さん、ごめんなさい。来年はぜひ早めに応募して下さい。

 映画祭の運営というのは、プロダクションとの交渉、ゲストのヴィザ発給などの招請手続き、フィルムの輸出入・通関、資料、シナリオの翻訳、日本語字幕の制作、映写などプロ的な仕事も多く、最初のころは、その半分以上をどうしても福岡でこなすことができずに、東京の映画会社やプロダクションに依頼していました。中でも特に大変だったのが、日本語字幕の制作でした。この作業はかなりの時間と経費のかかるものでした。そこで新たに日本語字幕を制作できるのは、時間や費用の面から1回の開催で、3、4本というのが限界でした。すでに日本の映画会社が買っていて、日本語字幕の入ったフィルムを借りて上映するほうが楽だし、費用もかからないのです。それでどうしても、上映作品の半分ぐらいをそのようなフィルムが占めていました。しかし、アジアが一つのブームになり、日本全国で映画祭が始まると、映画会社から借り集めた作品で同じようなプログラムの映画祭イベントが多く見られるようになりました。そのような作品は、わざわざ私たちの映画祭で紹介しなくても、映画館で公開したり、ビデオになったりして日本で見る機会があるのです。また、似たような映画祭が増えてくると、その映画祭の個性、独自性が失われていくのです。

 ここ5、6年のパソコンやインターネットなどの進歩は、これまで東京に頼まなくては出来なかったプロ的な仕事を地方でも可能にしました。ですから、今は映画祭に関するすべての作業を福岡で行っています。そうなると、日本ではまだ一度も紹介されたことのない新作を何本でも上映することが出来るようになったのです。やはり、アジア各地で最近評判になり、ヒットしている作品をなるべく早く見たいというのは、誰もが思っていることでしょう。私たちは、アジア各地から面白い作品の情報を得ると、すぐにコンタクトを取り、交渉を始めます。一年中、インターネットを通じて、エントリーを募集していて、締切の3月31日近くになると、連日何十本もの試写用ビデオが送られてきます。そんな作品の中から、今年も話題の新作を選びました。

 これから公開される映画の宣伝という意味で、俳優や監督をたくさん呼んでくるという映画会社主体の映画祭もあるでしょう。しかし、私たちの映画祭の目的は、“知られざる新しい若い才能の発掘”です。才能はあっても、日本、そして世界ではまだ知られていない若い監督たちに、福岡を発信基地にして、大きくはばたいてほしいのです。そのために、私たちは、これからも福岡アジア映画祭を続けます。

 福岡アジア映画祭ホームページ(日本語)http://www2.gol.com/users/faff/faff.html

 福岡アジア映画祭ホームページ(英語)http://www2.gol.com/users/faff/english.html

 e-mail : faff@gol.com