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アート・絵画・現代アート・美術系のイベント・団体展出品作品12

浅野琢也(Takuya Asano)

第65回 日本アンデパンダン展 インスタレーション作品

作品タイトル

「イノチノ・キョウカイ(命の線引き)」

2012年3月(日本美術会)国立新美術館・六本木


 
床3メートル四方の大作です。画像をクリックすると、全体のイメージ動画(AVIファイル)を、ご覧いただけます。

2011年3月11日の地震で津波が起こり原子力発電所の事故で放射能漏れが起こりました。この
事故で被爆した人に健康被害が出ても発病の原因を明確に証明する事は、不可能です。
放射能の怖さは、第二次世界大戦の時に経験した人達が語りついでいます。広島や長崎で被爆した人の
場合は、被爆した事実を証明できた人にだけに被爆者手帳が渡され認定され健康管理手当てが支払われる
法制度による線引きが行われました。爆心地からの距離を決めるのにも机上で数字で決められた法制度です。
公害の被害も健康被害の実態を、医療機関から請求されるレセプトや身体障害者手帳の発行などの情報から
患者の分布や症状をデータとして把握しても不適切な状態で制度に「線引き」をして被害者を、切り捨てています。
今まで繰り返された公害裁判と同じ事になるでしょう。
法制度の境界線は、イノチノ・キョウカイです。決めるのは政府です。同じ原因で同じ病気にされた被害者を
「イノチノ・キョウカイ」で分けて公平・公正だと思えません。良識ある適切な対応を願う意味を、作品に込めました。
現実社会の「いのちのきょうかい」は、救いに向かうか制度的な境界線を作り泣き寝入りを強いて棄民に向かうのか?
生き残ったのだから見届けたいものです。


 
細長い2本の三角錐に透明な球体を固定し様々な色に変化点滅しています。教会の塔を連想したり
大災害などで、多くの人命が泡のごとく消えた時に作られるモニュメントを連想させます。
シャポン玉を模しました。台の下には、灰色の海に飲み込まれた犠牲者を模した人体を並べました。
葬儀の祭壇は、明るくキラキラと美しく豪華です。悲惨な死を光で包み込むようです。
生と死の境界は、目に見えません。見えたら隠蔽されているかも知れないと疑いたくなります。

回転し続ける地球儀の中心に小さな種みたいな地球のホログラムがあります。赤い自爆スイッチを
模したケーブルを置いています。
地球の未来は、1人1人の生き方の選択で、方向性が決まるでしょう。
エビの乗っかった漁船は、放射能で海を、汚されたため少しの振動に敏感になり海を汚された怒りで
ピクピク動きます。台の上には、沢山の折鶴は、被害者の健康を願い一面に置かれています。



 
大勢の来館者が、この場所で、鶴を折り参加して下さいました。

 
テトラポットの周りにシャボン玉を噴出させられます。量や方向など
美術館の許可を、取るのが大変でした。

「シャボン玉」という唱歌があります。野口雨情作詞です。
シャボン玉には、夭逝した自分の子供への鎮魂の意が込められて
いる説があります。
1つ1つのシャボン玉は、天に向かおうとする魂のようです。
そして小さな虹の球体でもあります。ブリズムの効果により
全ての色を持っています。1つ1つが様々な大きさであり光の
かげんで個性を持っています。

「シャボン玉」には、人が流す「涙の色」という事を、聞いた
記憶があります。怒りの涙・悲しい涙・悔しい涙・感激の涙・
嬉し泣き。泣く理由は色々で複雑です。
「喜怒哀楽怨」という基本的な感情が混ざった、透明だけど
複雑な色の塊です。美しい景色に感動したり、良い行いに感動して
人生、美しい涙を流したいものです。

【月刊・民主文学(2012年6月号)日本民主主義文学会の月刊誌「芸術批評のひろば」に
「イノチノ・キョウカイ(命の線引き)」を取り上げていただけました。(5月8日追記)】



震災直後に開催された第64回日本アンデパンダン展に出品した「完・ファインナンシャレ+チワワ」は
昨年の「新聞あかはた」の展覧会の様子を報道したコラムに「サラ金のポケットティッシュ」とだけ
紹介されていました。作品名や作者名は省略し展覧会全体で印象に残った作品を記者の目で観たイメージ報道で
した。
 そして震災から1年経ち第65回日本アンデパンダン展を向かえました。南相馬市出身で津波の直撃を
受けた知人は、親を震災の1年前に東京に引っ越させて故郷の福島県には、かつて実家だった家を手放した
後で、津波が空き家を、飲み込んでいったので被災しないで済んだと話してくれた。ただ、かつて住んで
いた家が呑み込まれて跡形も無くなった状態は、思い出や自分の足跡(そくせき)を流されたみたいで
ショックだったみたいだ。東京に上京して不安定で厳しい芸能関係の仕事を続け実績を残してプロダクション
の社長という地位を築いて親を田舎から呼び寄せた後で津波が来たことになる。
そんな事を聞くと【宮沢賢治の「幸せに至るためには、いろいろな悲しみも含めて
あらゆる経験と感情を心の地層に積み重ねなければならない。」という一節を思い出す。】
洪水なら塩分を含んだ水でないため大地が肥える効果がある。(人間の手が入っていない
自然界の事だ。)津波は、塩分を含んでいるので震災から2カ月後のゴールデンウィークに開催された
グリーンバイブレーション展に「ソルティードッグ3,11(スリーワンワン)」という塩の犬が人間が
近寄るとセンサーが反応して三回鳴くインスタレーションを出品した。
月刊・民主文学(2012年6月号)という日本民主主義文学会という文学団体の月刊誌の
「芸術批評のひろば」に「イノチノ・キョウカイ(命の線引き)」が取り上げてもらえた。
文学者の目で批評を貰えるのは、嬉しい。
 境界線と宗教団体の教会や協会を連想するようにカタカナにして宮沢賢治の【洞熊学校を卒業した三人】
に登場する「赤い手の長い蜘蛛と、銀いろのなめくじと、顔を洗ったことのない狸」みたいに
「なまねこ、なまねこ、ああありがたや、山猫さま。」と台の下を覗き込むと振動に反応して鳴く
リアルファーの眠りネコを置いて展示台の下の地層と台の上と壁には国立新美術館を真上から見下ろすと
美術館の建物自体が波の形でありテトラポッドより濃い灰色にすることで白っぽく乾燥していた
コンクリートやアスファルトが黒に近い灰色に呑み込まれていく様子を表現していた。
ネコと犬は、死んでいては悲しすぎる。日本のスプラッター映画にアメリカ資本が出資する時に
「犬とネコと子供は殺すな」と条件がついたという事が書かれたパンフを持っている。
そんな訳で、しっかりと眠っている犬(宮沢賢治の【祭の晩】に登場する「空気獣」という見世物
みたい発想でカムシャフトで腹の部分が膨らんだり萎んだりすることで呼吸しているように見える)も別の場所
から覗くと見える状態にしてあった。台の奥には灰色のトルソーを並べていた。
AVIファイルをアップロードしてあるのですでに動画で観ることができる。
規定の展示スペースを最大に使っているので「木をみて森を見ず」状態でも何か1つ印象に残るものが、あれば
成功だと思うことにしている。なんだか自分が「顔を洗ったことのないタヌキ」になったみたいで、面白かった。
しかも、狼まで食べて、狼の持って来た籾を三升風呂敷のまま呑み狸のからだをゴム風船のようにふくらませて
ボローンと鳴って裂けるラストにならない。現代は、稲の葉が発芽しないF1種という遺伝子ノックアウト
加工されているという状態だ。じぶんの寺で「そうじゃ。みんな往生じゃ。山猫大明神さまのおぼしめし
どおりじゃ。な。なまねこ。なまねこ。」と念猫(ねんねこ)を、となえるあたり{神社じゃないのかよ?」と
つっこみたくなるティストで自分の出品を観てくれている人に作品説明で、やっていた自分の姿は、とりわけ
「顔をあらったことのない狸」そのものに見えていた事だろうと自分で、思い出し笑いしてしまう。
以前、レンタルDVD屋のレジで並んでいると体の大きな発達障害の子供に抱きつかれ呼吸器障害のある私は
立ったまま硬直した所を、「おおなかポンポンポン」と太古みたいに叩かれてボーゼンとしているうちに
子供が何処かへ消えていた経験を、した事があったのを思い出したのも「経験と感情を心の地層に積み重ね」
て生きているからなのかもしれない。


「波のメモリアル3,11」に、リンクします。



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