「義経と談山神社」
 談山神社は677年、藤原鎌足の長男で僧侶の定慧により、父鎌足の廟所として創建され、神仏習合の形で多武峰妙楽寺という天台宗の寺院として盛衰を繰り返してきましたが、明治維新の神仏分離令によって神社として残り、現在に至っています。そんな由緒ある談山神社に、源義経が、兄頼朝の追討軍からの逃避行の途中に訪れていたのです。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には「文治元年十一月廿二日辛丑。豫州(義経のことです)吉野山の深雪を凌ぎ、潜に多武峰へ向ふ。是、大織冠の御影に祈請の爲云々」 行く末を案じ、大織冠藤原鎌足の御影に祈る義経一行を、十字坊という僧侶が匿い、丁重にもてなしたそうです。この地で800年以上の時を経て、義経ゆかりの龍笛の音声が響きわたることは大変意義深いことではないでしょうか。

「薄墨の笛」
 静岡県静岡市にある鉄舟寺には、源義経が寄進したと伝わる「薄墨の笛」が寺宝として所蔵されています。この笛の由来は、鉄舟寺の前身、久能寺の『久能寺縁起』に、「源九郎判官義経、末代の重寶の為に薄墨と云ふ笛御寄進有るなり」とあり、駿河國新風土記には「源義経所持、薄墨の笛、蝉なし、中村式部少輔再興、笛の頭に金にて村の字を置けり云々」と、戦国時代に駿河の大名だった中村一氏が薄墨の笛を補修したという件が記され、実際に笛の頭に「村」の文字が象嵌されています。また『浄瑠璃物語』では、義経の笛を「蝉折」と称したり、謡曲『橋弁慶』では「虫喰い」といっていたり、薄墨の笛の装飾の部分が抉れたように無くなっている特徴と一致しており、『平家物語』の中で、鳥羽上皇が宋の皇帝から返礼品として贈られた竹で作らせた「蝉折」である可能性もあります。薄墨の笛の真骨頂はなんといってもその音にあります。一度お聴きいただいたなら、なるほど義経の名笛だと納得していただけることでしょう。談山神社権殿で、薄墨の笛がどのような音を響かせてくれるか、とても楽しみです。

 開演までの間、木々に囲まれた境内をゆっくり散策されるのも良いですし、また桜井駅から談山神社への途中、聖林寺にお立ち寄りになり、フェノロサも絶賛した天平彫刻の最高傑作、十一面観音菩薩立像を拝観されるのもお勧めです。お車でお越しのお客様は、飛鳥まわりで石舞台や飛鳥寺などを見学なさってみてはいかがでしょうか。 ご来場をお待ち申し上げます。

薄墨の笛の会奈良支部代表 瀬川泰紀
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