沖縄作戦と集団自決

                            
                         東京都郷友会常務理事


                             永江  太郎

 

 はじめに

 私が沖縄戦史に関わるようになったのは、沖縄が末だ米軍の施政下にあった昭和四十五年三月、久留米の幹部候補生学校の戦史教官に補職された時である。

 その時から四年間、防衛大卒・一般大学卒・部内選抜の幹部候福生や戦術教官達に沖縄作戦の実態を現地で教育するため、毎年四回は沖縄を訪れた。戦史教官の立場上、沖縄作戦に関しあらゆる質問に答えなければならないので必死で勉強したが、その中のひとつに『鉄の暴風』(沖縄タイムス 昭和二十五年刊)で有名になっていた渡嘉敷村と座間味村の集団自決の問題があった。

 私が着任した直後の三月二十六日、渡嘉敷村の慰霊祭に参列するため沖縄を訪れた赤松嘉次少佐が、地元の左翼団体や労働組合の抗議行動を受けて、空しく引き返したという事件も起こっていた。

 

我が国の公刊戦史である戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』にも、渡嘉敷島住民の集団自決について記述されているが、「刻々に迫る危機に住民は悲壮な決意を固め、皇国の必勝を祈りながら集団自決を遂げる悲惨事が生じた」とのみ記されて、肝心の「軍命令による」との記述はなかった。

 村役場が厚生省に提出した公文書には、渡嘉敷島では海上挺身第三戦隊の赤松嘉次隊長、座間味島では海上挺身第一戦隊の梅澤裕少佐の命令で集団自決が起こったと明記されている事件が、公刊戦史に記録されていないことに疑問を抱いて調べてみると、渡裏敷島の場合は赤松少佐や地元出身の知念朝睦少尉などの生存者の証言があり、座間味島でも梅澤少佐などの関係者の証言があって、住民自身の決断で自決したことがわかった(後述する厚生省の調査報告書の内容については、防衛研究所戦史部の所員になった時、当時調査に当たった援護関係者の「戦争犠牲者の救済を優先した」という証言があるのを知った)

 援護法の適用と「軍命令」

 

 集団自決としては、断崖から女性が身を投げる衝撃的な映像で有名なサイパン島のバンザイ・クリフがあるが、沖縄の集団自決も、投降して生きながらえることを潔しとしない住民の意志によるものであった。それが軍の命令・強要であると公的に認められたのは、昭和三十二年に厚生省引揚援護局の職員が、集団自決の実態調査のために沖縄を訪れた時に始まった。

 戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下援護法という)が改正されて、軍に協力した民間人にも拡大され、遺族や負傷者に「遺族給与金」や「障害年金」が支給されることになり、集団自決にもそれが軍の命令や強制によるものであれば適用されることになったからである。

 これは島暮らしの苦しい生活をしていた渡嘉敷村や座間味村の集団自決者の遺族にとって正に干天の慈雨であった。ここに生存者などの聞き取り調査が行われ、赤松隊長や梅澤隊長の自決命令があったとの公文書「援護法の適用を受けるための調査記録」が作成されたのである。

 

 赤松少佐と梅澤少佐にとっては全く心外なことであったが、困窮していた島の遺族を救うために、あえて抗議することなく沈黙を守った。

 昭和四十五年当時、新米の戦史教官のにわか勉強でも、これだけのことは判明したが、史実として確定するには、軍の当事者と厚生省の担当者の証言だけでなく、受給者である現地の関係者の証言が必要である

 その貴重な証言が得られたのは、私が富士学校の戦史教官在任中の昭和五十五年である。座間味島で、梅澤隊長の玉砕命令を受領したとされる宮里盛秀助役など五人の中で、唯一の生存者であった宮城初枝さんが、梅澤少佐をたずねて玉砕命令の受領は偽証であったと謝罪したのである。

 昭和三十二年四月に行われた厚生省の聞き取り調査では、村役場の職員や村の長老も同席する中で、調査官の質問に答えていた宮城さんは、最後に「住民は隊長命令で自決したと言っているが、そうか」と問われて「はい」と答えたのである。

 この証言をもとに作成された報告書が公的に認められて、座間味の犠牲者に遺族給与金や障害年金が支給されることになった。

 座間味島の集団自決の真相

 それから五年後の三十七年に、雑誌『家の光』で「体験実話」の懸賞募集を見た宮城さんは早速応募することにしたが、軍命令の有無については、既に村人に年金などが支給されていることに配慮して、証言を訂正することなく、村から厚生省に提出した公文書をそのまま引用した。

 この体験談は当選して同誌に掲載され、単行本にもなった。これが後に『秘録沖縄戦記』 (昭和四十四年刊)に掲載され、これを『週刊読売』が取り上げたので俄然評判が高くなり、座間味島を訪れる人が急増した。

 宮城さんはこれらの人々に沖縄戦を語る座間味の語り部≠ニなったが、軍命令については語ることはなかったという。

 宮城さんが「集団自決は隊長命令ではなかったが、そう書かなければならなかった」と娘・晴美さんに語り始めたのは、集団自決した人達の三十三回忌(ウワイスーコー。沖縄の風習で死者が仏から神になるというお祝いの日)を迎えた五十二年三月二十六日であった。
 出版社に勤めて「集団自決」の取材をしていた晴美さんに一部始終を語った。梅澤隊長に玉砕の弾薬を貰いに行ったが断られたこと、戦後の「援護法」の適用を受けるため「軍命令があった」と事実と違うことを証言したことなどを語り、最後に「梅澤さんが元気な間に一度会って謝罪したい」と依頼したのである。それでも「事実」を公表すると助役の宮里盛秀の名前を出さなければならず、助役の遺族に迷惑がかかるのを案じていた。

 こうして、三年後の五十五年に梅澤元少佐との面会が実現した。玉砕命令の受領は偽証であったと謝罪したのである。感激した梅澤氏は泣いて喜び、週刊誌の報道で職場に居られなくなって職を転々としたことや、息子が父親に反抗して家庭が崩壊したことなど、つらい思いを切々と語り、宮城さんは、戦争で働き手やすべての財産を失った住民が貧しい生活を乗り越えるには「援護法」を適用してもらうはかなかったと、当時の島の状況を詳しく話したとのことである。

 このように一連の経緯が明らかにされたのは、同行した娘の晴美さんが執筆した『母の遺したものー沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言ー』(高文研・平成十二年刊)があるからである。雑誌社の編集者を経て『那覇女性史』の編纂を担当した晴美さんは、若いときから座間味の集団自決の実態について取材していたので、その調査結果とともに、母初枝さんからの聞き取りを一冊の本にまとめたのが本書である。詳しくは省略するが、同書の中に注目すべき記事がある。

 その一つは、座間味の住民が「玉砕命令を隊長からの指示と信じていた」の一節(251頁)であり、もう一つは、晴美さん自身が、まだ学生であった昭和四十七年頃に『沖縄県史一〇巻』(沖縄県教育委員会)に収録する「県民の戦争体験」の聞き取りで、座間味の集団自決の調査をした。

 その時「集団自決」で未遂に終わった人のほとんどが「隊長からの玉砕(自決)命令があった」と証言したことを母親に話すと「ほんとに、直接隊長から命令を聞いたのか、どんな状況であったか、その人にもう一度確認してから書きなさい」と注意されたので再確認すると「役場職員の伝令が来た」「忠霊碑前に集まれと言われたから」となり「隊長命令」という明確な証言は開けなかったので削除したとの一文(258・259頁)である。

 これが座間味の集団自決の真相であり、沖縄の人達が今なお軍命令と信じている理由である。

 

 おわリに

 文部科学省の教科書検定に異議を唱える人々に共通する言葉は「県民感情が許さない」である。

この一言が、これらの活動家にとっては、軍命令の有無などはどうでも良いことを白状している。

彼らの扇動に惑わされて、地方議会の議員だけでなく、良識ある筈の県知事や市町村長までもが、右往左往しているのは、正に沖縄の醜態であろう。

 当時の座間味村宮里盛秀助役の実弟が、梅澤氏に書いたという念書「集団自決は梅澤隊長の命令ではなかった。補償申請のためであった」の問題並びにもう一つの集団自決、渡嘉敷島については曽野綾子氏の『ある神話の背景』に詳しいので省略するが、梅澤少佐と赤松少佐の遺族が提訴した「沖縄集団計決冤罪訴訟」は目下係争中である。

 この裁判の過程で「軍命令がなかった」ことが証明された結果が、文科省の教科書検定に反映されたのであるが、判決を待つ余裕が欲しかった。

 最後にどうしても触れて置かなければならないことがある。宮城晴美さんの著書『母の遺したもの』に「米軍に保護された住民にとって、それまでの〈兵隊さん)は、いつしか(日本兵)という敵≠ノ変わっていた。住民はすっかり親米派″になっていた(250頁)」の一節である。ここに、沖縄の人々の戦争に対する特殊な感情を理解するヒントがあるように思われる。沖縄を理解するには、このような戦前と戦後の変化にも着目する必要があろう。

 戦時下で信頼し頼りにしたのに裏切られたといぅ日本軍への不信感や、戦後の二十五年間服従を強いられた米国の軍政に対する屈辱感などの複雑な感情が、反発心を秘めた独特の県民感情を生み、反体制の革新的傾向を強めているように思われる。

そのため、歴史上の事実を直視することができなくなっている。あまりにも強い先入観と思い込みが、真実を理解し認識する力を奪っているように思われてならない。

 我々は、もう一度歴史とは何かを考える必要がぁる。歴史とは過去の事実、即ち人間の判断と行動の軌跡である。このような歴史上の真実「史実」を明らかにするのが史料であるが、その史料には必ず裏付けが求められる。根拠となる史料があって、史実が解明できるのであり、そこに歴史学の意義がある、

 心すべきことは、立法府たる議会や行政府たる政府は、歴史学者を集めた審議会が求められる所以を考えて、介入しないというけじめである。ましてや世論や県民感情などが、決めるべきものではない。今日ほど教科書検定審議会の見識が問われている時はない。