99年8月の日記

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8月31日(火)
昨日の晩から激しい下痢に見舞われて良く眠れず、今朝は散々な始まりだった。

少し遅れて出勤すると、上司のコンピューターのネットワークカードが使えなくなっており、この再設定をするのに(結局ネットワークカード自体が物理的に壊れていたようで、設定出来なかったのだが)、午前中一杯かかってしまった。行きがかり上、事務所のコンピューターシステムのメインテナンスの担当になっているのだが、最後の最後になって僕が去ったあとが思いやられるような故障が起きてしまったのだ。

最後の日だというのに散々な午前中だなぁと言いつつ昼飯を食べに帰宅。月末なので使用人に給料を支払うと手元に残った現金は30ルピーだけ。まったくもって散々だ。

午後、満を持してアンバサダーの日本の輸入代理店に電話をする。25日にファックスで質問状を送ってから何も連絡がないので、こちらから電話をしてみたのだ。すると、1)新車の輸入はやっているが、中古車(まぁ、確かに中古ではある)の輸入はやっていない、2)新車でまとめて輸入しているからこそ、改造代や検査代を抑えることが出来るが、中古車の個別輸入になると個別対応になるので、高くつく、新車でも7、80万円はかかるのだから、中古車の個別輸入だと確実に100万円以上かかるだろう、3)(もっと細目について詳しく知りたいのだが、と言ったところ)今とても忙しいので、9月後半に改めて電話して欲しい(それでは此方のスケジュールには合わない)、との由。まぁ、輸入代理店としては、確かに新車の輸入を専業にされているわけで、個人ベースでの「中古車」の輸入に関わっている訳にはいかないということか。ただ、前もって結構細かな質問状をキチンと礼を尽くして送ってあったにも関わらず、今日の電話の対応は正直申し上げて余り真摯なものとは言いかねた。

アンバサダーの日本への輸入についてノウハウを有している唯一と考えられるソースがこのような対応で(本業ではないのだから責めるわけには行かないが)、余り助けにはならないと思われること、一方全てを自分でやる手間と100万円(一応100万円が全てを含めた上限値と思っていた)を超える費用をかけるほど暇でも酔狂でもないこと、から、結局涙を呑んでアンバサダーを日本に持ってかえることは断念することとした。極めて哀しい決定である。

相当落ち込んでしまったが、気を取り直して午後の仕事に掛かり、取敢えず僕のところでペンディングになっていた仕事を全て片づけた。何だか大晦日の大掃除を終えた後のような気分である。悪い感じではない。

ずっとやろうと思っていて、結局最後の最後まで懸案として残ってしまった、「ローカルスタッフ全員とその家族を家に招く」ことを9月5日に実施することとした。当日は選挙投票日なのだが、皆招待を喜んでくれた。

夕刻には、仕事の上でも、気持の上でも、駐在生活の相当部分を打ち込んだデリー地下鉄プロジェクトの実施機関の人々が、僕の送別会を開いてくれた。仕事の面では中々前向きな話がなくて困っているのだが、今日は仕事を離れて、トレッキングの話、インド政治の話、インドの占星術の深淵な世界の話など、色々な話題に花が咲いて、実に楽しい夕べとなった。

散々なことばかりあった一日ではあったが、最後に一緒に仕事に取り組んできたカウンターパートの人々と打ち解けた時間を過ごすことが出来て救われた気分になれたのだった。


8月30日(月)
さて、8月もあと2日。ということは、帰国発令まであと3日、ということで、そろそろお尻に火が付いてきた。引越し業者とコンタクト。取敢えず9月2日に見積りに来てもらうこととする。

日本に帰らなければいけないことをずっと伝え忘れていた友人のMr Vermaに電話。連絡が遅れたことを詫びる。彼の名無しの息子は9月19日に一歳の誕生日を迎えるが、やっと名前がつくそうだ。やれやれ。残念ながら、誕生日当日の名付けの儀式には出られそうにない。ヒマチャルプラデシュのスピティという中国国境近くのチベット文化圏に、帰国寸前の「最後っ屁」で旅行に行こうと思っている。

アンバサダーの件、日本の代理店に電話をするが、時差の関係か「今日は業務終了しました」とのそっけないお返事。また明日電話してみよう。因みに、随分前に、駐車場でちょっとした傷をつけてしまった。持ってかえるにせよ、売っ払うにせよ、綺麗にしておきたいと思ったものだから、今朝修理工場に送り出したのだが、すっかり綺麗になって帰ってきた。

ケーブルテレビの調子が悪く、STAR Newsが見られず、一体今日一日インドで何があったのかさっぱり分からない。


8月29日(日)
朝から起動するつもりが、結局昼過ぎにゆっくりと起動。熱はないのに、何だか頭ばかりに寝汗をかいて、気持が悪い。

午後散髪してから出勤。散髪屋はやたらと「フェーシャル」をやれとしつこい。インドの散髪屋では散髪以外にも、顔にどろのようなものを塗ってパックする「フェーシャル」とか、手足の爪を磨きつつマッサージする「ネイルケア」とか、ココナッツオイルを摺り込んで揉む「ヘッドマッサージ」とか、色々なメニューがあるのだ。そう言えば、某通信社の特派員は「フェーシャル」の常連だと言っていたっけ。僕はヘッドマッサージしか経験がないが、帰国前に一回位は「フェーシャル」を経験してみてもよいかなぁと思っている。

出勤後はひたすら引継書類の作成。あれもこれも書き始めるときりがない。

夕食は同僚某駐在員のお宅で御馳走になった。食欲が出てきたところなので、まともな日本食にありつけたのは実に有り難い。久しぶりに同僚夫妻とべちゃくちゃとおしゃべり。日本に帰ったら、こういう時間も無くなってしまうのだなぁと思ったのだった。


8月28日(土)
朝寝坊しつつも医者にいく。取敢えず今日が最後ということになった。念のため、帰国前に再度血液検査をやってもらうつもりである。これまで黙っていた、件のボッタクリ血液検査の話をしたら、老先生はすっかり怒ってしまってこまった。何回も通って看て貰った老先生の料金が8,000ルピー程度、たった一回の血液検査が3,500ルピーなのだから、先生が怒るのも致し方なかろう。保険の診断書に書かれた最終的な診断は、「チフスに似たビールス性発熱症」との由。

Massiの家にいって昼飯を御馳走になる。一家総出でもてなしてくれた。彼の奥さんが、「Saabは本当に良くしてくれたから、日本に帰られてしまうのは困る」といって涙ぐんでしまったのには困った。

その後、マーケットに行ったり、出勤して引継書を書いたりしようと思ったのだが、一旦家に帰ったのがいけない、一寸横になって休憩するつもりだったのが、目覚めたら既に夜の8時。やはり疲れが溜まっているのか。せいぜい明日は朝から行動して、時間を無駄にしないようにしよう。


8月27日(金)
熱無し。昨日しっかり晩飯を食べたお蔭か、何となく力が出てきたような、でも、疲れは中々とれないような、まぁ、一言で言えば病み上がり状態だが、元気は出てきたということ(一体何を言いたいのかわからんが、良くなりつつあるということか)。

夕刻、謎の美女2名と、謎の若者(といっては失礼か)2名と会食。若者2名はこのヨタ日記を克明に読んで頂いているようで、何だか照れてしまった。相当に真面目な話もした(つもりだ)が、途中から、捨てても捨てても帰ってくるカエルの話とか、ゴキブリ退治の話(炊飯器に巣食うゴキブリには気をつけましょう)とか、庭に居着いてしまうサルの話とか、殆ど初対面であるにも関わらず、おかしな話が頻発して、笑いすぎで頭が痛くなってしまうほどであった。いやぁ、実に楽しい夕食だった。もうすこし前に御知り合いになっていたら、私のデリー生活における笑いの比率がもっと高かったのではないかと思うくらい。

興奮しすぎたのか、家に帰ってすぐに熱を計ってみたら一寸高めであった。少し経ってから計りなおすと、平熱に戻っており、やはり興奮しすぎたのだなと若干反省。でも楽しかったからよいではないか。


8月26日(木)
昨晩は熱もないのにやたらと気持の悪い寝汗をかいたのだが、朝起きたときの体温は35.5度で、全くの平熱であって、安心した。水分を沢山とれと言われて、一日4リットル位は飲んでいるので、そのせいで汗をかくのかも知れない。医者にいくと、もう大丈夫だろう、あとは体力の回復を待つのみなだといわれ、医者通いはあと一回位で終わりになりそうである。

今日はRaksha Bandhan(リンク先は一寸重いので要注意)というお祭りで会社は休み。午前中だけMassiとPushpaに来てもらい、Massiからはミックスベジタブルカレーの作り方を教えて貰った。

そのあと、後任者のための生活関連の引継書を書いていたら、随分前にクビにしたドライバーのAshokから電話があり、「Saabが日本に帰ってしまうのを家族が大変悲しんでいるので、御別れのランチをやりたいから、帰国の前に家に来て欲しい」とのこと。Massiからも、Pushpaからも、是非家にきて飯を食べていって欲しいと誘われているが、クビにしたAshokからもそのようなお誘いがあるとは予想していなかった。何となく嬉しい気分になった。

午後、近くのマーケットのテーラーに行って、スーツを作りたいのだが、どれくらいで出来るのかと聞くと、急げば3、4日で出来るという。サファリスーツを随分と作って、どれも自分の身体にぴったり作ってくれる。日本に帰ったらサファリスーツと言うわけには行かないので、普通のスーツを自分のサイズに合せて作っておこうという算段である。

その後出勤し、今度は仕事の引継資料の作成。余り大した仕事をやってこなかったつもりでも、いざ書き出すと色々なことがあったものである。

何となく食欲が出てきたので、夕食は冷凍庫から色々と魚類を出してきて盛大に作った。良い感じである。


8月25日(水)
本日も、若干のだるさは残るものの、熱は出ず、基本的には快調。

インドを去るに当たって、要らないもの(古くなった冷蔵庫とか、炊飯器とか)をPushpaとMassiに上げるという話をしていて、他に欲しいものはないかと聞いたら、Pushpaから「何も要らないからアンタが残ってくれればそれで良い」と涙声で応えが帰ってきて困ってしまった。一寸したら、二人から、「Saabの写真を是非置いていってくれ」と頼まれた。

昼前に大使館の医務官に血液検査の結果を見て頂く。結局デングでも、マラリアでも無く、「肝臓に負担がかかるような何らかのビールス性の発熱」ということではないか、とのことで、肝臓に負担がかかるようなこと、特に飲酒は厳禁との極めて厳しいご指示を頂いた。

アンバサダーの輸入代理店に色々細かな質問事項をファックスに書いて送付。取敢えず改造等にどれくらいお金がかかるのかを聞いてから本気で持ってかえるべきかどうか決めることとする。

夕刻、当地でお世話になった方々に送別会を開いて頂いた。垢抜けたアメリカ風レストランで、雰囲気も良いところだった。酒が一滴も呑めないのが悔しかったが、仕事を離れて、ディスコと阿波踊りの話や、それぞれの組織の中での人脈模様、仕事以外で人生の幅を広げることの重要性など伺って、実に楽しい会だった。東京に帰っても、こういう方々との交流を保ちたいものだ。

遅れ遅れになっていた後任者への引継書作成に着手。書き出すと使用人のことばかりに力が入ってしまい、他の事項が後手後手に回ってしまう。


8月24日(火)
昨日の採血の結果を聞きに医者に行く。昨日微熱が出たという話をしたら、先生にやりとして、会社に行ったりして休みが充分取れていないからだとの由。ゆっくり出勤して、ゆっくり昼休みを取って、早目に切り上げて帰ってきているので、もっと休めと言われても困るのだが。

午後、先週の土曜日に行った血液検査の医者に結果を聞きに行く。予想通り、デングでも熱帯性マラリアでもないとの判定。この熱病、やはり原因が不明のまま終焉を迎えそうである。それにしても、追加で肝臓・腎臓機能のチェックもしてもらったら、前回の2,000ルピーに加えて1,500ルピーも取られた。これをボッタクリと呼ばずして何と呼べばよいのだろうか。

夕刻になっても熱は出ず。宮部みゆきのミステリー小説を読破。

周囲の人は、「インドの最後の最後になって嫌な思い出が残ってしまって残念ですね」というが、当人は余りそのようには思っていない。ナンダカンダいっても、駐在生活は日本で暮しているよりはずっと余裕があって柔軟である。日本で今回のような熱が出て寝込むことになったら、気分転換に事務所に顔を出して書類整理だけして帰ってくるなどということも出来ず、気分はもっと塞いでしまっただろう。その意味で、精神衛生上はインドで熱を出しておいて良かったとすら思っているくらいである。また、偽デングだか偽マラリアだか知らんが、病原菌はインド産ではなく、シンガポール産であると私は確信している。インドに罪はないのだ。

まぁ、思い込みは兎も角、楽しみにしていた出張もキャンセルになってしまったし、何だか時間が無くなってきて焦りばかりが募って、余り良いことはないのも事実ではあるのだが。


8月23日(月)
朝医者に行き、もう大丈夫だと思うと言ってきたが、先生、用心には用心をと、採血と尿の検査をもう一回やるという。もういい加減血を採られるのにも飽きたが、致し方ない。

医者の後会社へ。無理にならないように、11時頃出勤して、一つ二つ仕事を片づける。とにかく残された時間が少なく、焦ってしまうが、ここまで押し詰まってくると、もう出来ないものは出来ないと割り切ってしまう他なさそうである。

昼飯を挟んで6時半位まで働いて帰宅。何となく熱っぽい。体温を計ると37.3度。事務所で冷房が効き過ぎているために反動で熱が出たのではないかと思うこととする。結局横になるまで37度台の微熱が続いて、気持ち悪い寝汗をかきながら寝ることとなった。


8月22日(日)
今日も熱は出ず。何だか疲れは残るが、復活してきた実感がある。

そろそろインドを立ち去って後任を迎える準備を始めなければならない。とりあえず着手したのは、冷凍庫の整理である。日本食が手に入り難い当地日本人駐在員にとって、シンガポール、バンコクなどから調達した日本食材を納める冷蔵庫と冷凍庫は「生命線」といっても間違えではない。

私の場合はMassiのインド料理が旨かったので、余り拘らなかったつもりではあるのだが、いざ冷凍庫の整理を始めてみると、随分と無駄な買い物をしてきたものだ、ということが分かり反省した。一番無駄になってしまったのは、タイのアラである。潮汁を作ろうと思って、シンガポールに行く度にタイのアラを買っていたのだが、実際作ったのは2回程度で、殆どが無駄になってしまった。中には冷凍庫の中で水分がすっかり抜けてしまって、ミイラ状になってしまっているものもあった。その他、お客さんを呼んだ時にでも、と思って買ったマグロの刺し身や、タタキ用の鯵なども、一部ミイラ化していたのだった。実に勿体無いことをした。

思えば赴任してきたときに、前任者が残していってくれたものと、その後シンガポールから調達してきた食材をみて、本当に3年間でこんなに食べるのだろうか、と訝り、却って不安に思ったのだった。そんな話をしたら、事務所の先輩駐在員から、「普通の日本人駐在員は、冷凍庫を埋め尽くす日本食を見て安心するものなのに、不安がっているのは変だ」と言われたものだが、それが事実になってしまった。まぁ、食べられるものは大量に後任者に残していくことになるから、完全に無駄になる訳ではないのだが。


8月21日(土)
朝、血液分析の医者へ行く。マラリアとデングの抗体を調べるだけで、なんと2,000ルピーも取られた。結果は3,4日後に出るというが、2,000ルピーってぇのは一寸ボッタクリではないか?

その後家に戻り、Massiからカレー二品を習う。焼きなすカレーと、バコラ入りカレー。結構手が込んでいる。材料に、チャナ豆を挽いて作った粉や、日本では見つかりそうにないスパイスがあり、大量に仕入れて持ってかえることとする。

出来上がったカレーで昼飯。やはり出来立ては旨い。食欲が出てきてよかった。

その後昼寝。長引いてしまい、その後何処にも出掛けられなくなってしまったが、至福の時であった。

選挙関連のテレビと、時代劇のビデオを観てから寝る。今日も熱は出なかった。


8月20日(金)
起きた時の体温が36.0度。何となく身体も軽く、「これは!」と思ったら、何となく元気が出てきて、今日は一日熱が出なかった。復活?

朝約束通り医者に行く。触診を受けている時に、腹の真ん中あたりを押されて、何となく圧迫感があったので、その旨言うと、「胆嚢が腫れている可能性あり」ということになり、その脚で超音波透視機(?)を持つ近くの病院へ。何だかぬらぬらしたものを腹に塗られて、ぐりぐりと超音波を当てられた。当てられながら、私の腹の中が画面に映し出されるのを見ていたが、何だか全く分からん。

それが終わってから出勤。昨日よりは身体が軽い。

昼飯に帰ってきた際に、日本のアンバサダー輸入代理店に電話。質問したいことが多いので、ファックス番号を教えてもらい、質問リストを送ることとした。

午後、大使館の医務官に看て頂き、念のため、別の医療機関でも検査をしたほうが良いということで、血液検査専門の医者を紹介して頂く。明日行ってくる予定。それにしても思ったのは、「やはり日本人の先生の方が、自分の病状をキチンと伝えられ、先生のおっしゃることもはっきり分かる」という当たり前のこと。日常、英語で苦労することはないが、いざ医学のこととなると、ちんぷんかんぷんである。自分の英語の能力の限界を見たような気が少しだけした。

その後職場に戻り、再び仕事。昨日よりサクサクと片付く感じである。良いぞ良いぞ!

夕方に医者にいき、超音波の結果を聞くが、特に胆嚢が腫れている兆候はないが、要注意ということで、胆嚢・肝臓に配慮した薬に変えてもらう。朝、大使館の医務官にも看て頂くことを話した成果、老先生、今まで原因がはっきり特定できなかった理由を妙に詳しく説明してくれた。私自身、人間の身体の中で起きていることなど、一点の誤りも無く言い当てることなど至難の技だと思っているので、むしろ老先生に同情している次第。まぁ、元気になってきているのは確実なので、良しとしたい。

夕刻、円借款で実施中の養蚕案件の関連調査で現地入りされる専門家の方々と夕食をご一緒する。ここのところの恒例で、7時を過ぎると熱がでるかなぁ、と恐る恐るだったのだが、全くその兆候なく、流石にワインは一口嘗めるのみに留めたのだが、豈図らんや食欲も出てきて、若干重めかなぁと思ったニョッキのトマトソース掛けなどもぺろりと平らげた。その上デザートまで美味しく頂いた。食欲が出てきたのには自分でも驚いた。これは本物かも知れない!

と、言うわけで、何だか完全に復調したような気分である。まぁ、まだ明日以降の経過を見てみなければならないので、完全復調宣言は控えることとしても、取敢えず、このヨタ闘病日記をご覧になってご心配頂いた方々に厚く御礼申し上げます。


8月19日(木)
約束通り医者にいく。やはり朝の内は微熱がある。今日は若干医者に食って掛かってしまった。先生はマラリアの疑いが高いとしているのだが、血液検査などではマラリア陰性となっているのであって、デング熱が終わった後に続いているこの微熱の原因がさっぱり分からないのだ。

医者の先生も手を尽くして熱の原因を追求しようとしてくれているのだから、余り苛立つのは良くないと自分に言い聞かせるが、何とも困ったものである。一方、「他の医者の意見も聞いた方がよい」との周囲の意見を踏まえて、明日にでも別の病院で検査してもらうつもりではある。とはいえ、全体的には確実に快方に向かっている訳で、安心はしているのだが、気がつくと、熱が出始めてから既に2週間。完全に寝たきりと言うわけではなく、動き回ったり、出勤したりしてはいるが、こんなに長く病み続けるのは恐らく生まれて初めてのことではないか。東京で働いていた時も、役所に出向して苛烈な環境の中で働いていたときも、倒れたことがなく、基礎体力には自信があるのだが、もしかしたら今経験しているのは、人生の中でもまれな恐ろしいことなのかも知れないなぁと、他人事のように思ったりもする。

実は今晩は仕事のカウンターパートが一寸早目の送別会をやってくれることになっていたのだ。いつも身近に接していて、この3年間大変世話になった相手ばかりなので、こちらも楽しみにしていたのだが、熱のために断念、延期となってしまった。そして、明日から予定していた、カルカッタへの最後の出張も中止。以前担当していた案件の現地視察も予定されていたので、泣きたくなるほど残念ではあるが、とにかく身体第一である。仕方がない。


8月18日(水)
周囲みんなに、ゆっくり休養せよ、休養するとはテレビも見ず、本も読まず、とにかく横になって眠っていろ、と言われるのだが、当方どうも貧乏性であって、ただ横になっていることが出来ず、本も読んでしまうし、テレビも見てしまう。おまけにこの日記まで続けて書いている。

今日も貧乏性が嵩じて会社に行ってしまった。サッサと懸案を片づけようと思うが、肝心の相手が中々捉まらなかったり、折り返し電話を頼んでも、何時まで経ってもコールバックが無かったりで、キリキリする。やはり、「金の切れ目は縁の切れ目」なのか、核実験後の「経済措置」で新規借款が当面期待出来ないという雰囲気が広がると共に、色々な機関のカウンターパートの応対が少しずつ変わりつつあるような気がしてならない。

政治日記」更新。


8月17日(火)
朝医者へ。血液検査の結果、肝機能は復活したが、マラリアの原虫は発見されず。マラリアとは断定されないが、念のため抗マラリア剤をもらう。

全般的に復調しつつあるという実感・確信があるのだが、熱は37度前後を行ったり来たりしている。元々平熱が36度を下回る位なので、本来であれば、37度というのは高熱の域に入るのだが、今回の発熱で、37度位は何ともなくなってしまい、それ位の熱の時には横になっているよりも何かしなければと思うようになった。とはいうものの、結局は熱っぽく、上手く立ち行かないもので、何だか煉獄に置かれているような、中途半端な情況になる。

夕刻熱が下がったので、煉獄情況から抜け出そうと、会社に一寸顔を出す。仕事も一部片づけ、気分転換には丁度良い。


8月16日(月)
今日から完全に復活し、駐在員として残された半月間を満喫するはずだった。

ところが、朝7時過ぎから悪寒がし、8時過ぎにはなんと39度を超える熱となってしまったのだ。

熱でフラフラになりながら、予約通り医者にいくと、医者は、デングのサイクルはもう終わっているから、デング以外のマラリアや他のビールス性発熱病にも罹っている可能性があるという。本日も採血。

と、いうことで、今日も一日家で休んだ。本は読んだし、テレビの選挙特集も満喫したが、会社には迷惑をかけるし、残り時間もなくなっていくし、とにかくどうにかして欲しい。


8月15日(日)
今日はインドが1947年8月15日に英連邦内の自治領の地位を確保したことを祝う「独立記念日」であった。朝8:00(?)から、Red Fortの前での国旗掲揚に続いてVajpayee首相の演説があったが、寝ていてすっかり聞き過ごす。街中では子供と大人が一緒になって凧上げにいそしんだことだろう。

随分前に日本から送ってもらった時代劇のビデオを延々と楽しんだり、吉田健一のエッセイを読んだりして、家から一歩も出ずに過ごした。

額から頬にかけて、そして首から胸にかけて発疹が出ており、デング熱の終結症状であることを物語っているのだが、何故か日中36.8〜37度位の微熱で推移し、一寸心配していたら、(薬を飲んだにも関わらず)午後10時過ぎにはまたしても、38.3度に上昇。もう、慣れっこになってしまい、この程度の微熱ならば何ともないのだが、一体何時になったら熱をスッキリ一掃できるのか。


8月14日(土)
昨日の採血の結果を聞きにまた医者へ。全般的に良くなってきているが、肝機能が相当低下している由。デングの症状ではあるが、肝臓が直ってくれないと、何時まで経っても疲れが取れない。もう、熱はでないだろう、との御宣託を賜った。

昼前、Massiが来て、インド料理を習う。今日はチャナ豆のカレーとオクラのカレー。

その後昼寝してから、とある方に頼まれていた本を買いにマーケットへ行く。明日の独立記念日に向けた飾り付けがあった。それはそうと、暑い暑い。随分と汗をかく。普段は本屋に行くと、「購書病」が出て、帰りは山積みの書物を携えて、ということになるのだが、今日は何だか疲れてしまい、目的の本を見つけたらそそくさ帰ってきた。デングは疲労感と共に、精神的にも軽い鬱状態になることもあるとも言われているので気を付けよう。

帰宅後はグダグダと休む。貴重な週末ではあるが、今はグダグダ過ごすことが一番大切なのだ。


8月13日(金)
朝医者へ。熱は36.5度程度まで下がっている。また、今朝になって、額と首から胸にかけて、赤い発疹が出てきており、これをみた先生は、満足そうに、これを待っていたのだ、との由。デングであれば、発疹は熱が下がるとの兆候なのだ。こちらも一安心。本日も採血。

ゆっくりと休ませてもらい、午後随分遅くなってから出勤。特に何もせず、回覧書類を読んで、ルーティーンワークを片づけるのみ。来週からはフルに復帰するつもりなので、そのための基盤作りのつもり。一寸だけでも会社に顔を出して、完全に倒れてしまったわけではないと、自分に対して確認しているようなものだ。

夕刻も37度以上には上がらず。実家に電話をした。心配お掛けしてます。


8月12日(木)
昨晩は途中で一回目覚めたものの、奇妙な夢も見ることなく、比較的良く眠れた。今朝一番の体温が37度。起きだして少し経つと、37.5度。その後、38、39、39.5度と段々上がっていった。仕方なく今日は会社を休む。もう、38度位の熱では何ともないのだが、流石に39度を超えるとフラフラするし、何も出来なくなってしまう。

一日寝ているのも今日で何日目か。これもこれで疲れるものである。また、熱を出す、汗をかく、熱が引く、また熱を出す、汗をかく、...、といったプロセス自体、相当体力を要するものなのだということが良く分かった。この分でいくと、熱が下がった後の体力回復に相当時間がかかることだろう。

とにかく、デングでも何でもよいから、今日で発熱一週間。熱がキッチリ納まってくれれば文句はない。


8月11日(水)
昨日徹夜で仕事すれば、今ごろ平温に戻っていたのかもしれないが(?)、「解熱剤」が効いたのも昨日の日記を書いていた時点(23:00)までのことのようで、その後横になったと思ったら、じわじわと熱がぶり返してきたのだった。昼間の間、うそのように熱が下がっていたし、抗生物質を飲み続けるのも如何なものかと思い、夕食後薬を取らなかったのが祟ったのかもしれない。

熱が出ると眠れない。この一連の騒動が始まってからというもの、床擦れが出来るほどではないものの、横臥している時間が長いのだが、満足に眠れたことがない。それも、「眠りたいけど眠れない、あぁ、眠らないと明日に響くのに何で眠れないのか」といった、頭がどんどん冴えてくる型の不眠症とは全く逆で、「あぁ、眠い、眠いなぁ、本当に眠くなってきた、あぁ、眠いんだなぁ...」といった感じが続き、本当に眠いのだが、頭の別の部分が何やら物語を始めてしまう。

これが、天皇陛下の料理番(だったかどうか覚えていない)になった夢とか、神秘派ムスリム(スーフィー)の神学校に入る夢とか、何だかいきなり落語やれと言われて、なにやろうかなぁと一頻り悩んでみてから、「禁酒番屋」をやっている夢とか、全く支離滅裂ではあり、物語の詳細も全然覚えていないが、メモでも取っておけば、小説のネタになったのではないか。夢を見ながらも醒めている部分の自分は、自らの想像力(夢の中なのだから、記憶が材料提供した以外は完全に自分の力である)の豊かさというか、その限りなさに感動した。想像力涵養のためにたまには熱を出してみるのも良いものだと思ったりして。

因みに、この「陛下の料理番(?)」「スーフィー」「落語」は昨日一晩で見た夢である(他にもあったが、良く覚えていない)。こんなものに一晩中付合わされたのだからたまらない、朝起きた時の体温はかっちり38.0度であった。これでは会社は無理だなと思いつつ、予定通り医者に行く。一頻り診断して、熱の推移を再確認したDr Chopra(この道50年以上のお医者さん)は、一言、「断定は出来ないが、デング熱かもしれないなぁ」と言ったのだった。「まぁ、続いてはいるものの、熱は下がってきているから(デングなら)後1、2日で多分熱は下がるだろう、心配いらないよ」とのことで、危険な出血性デングにはならないだろうとの御見立てで一安心。

まぁ、大体は予想していたので、はぁ、そうですか、やっぱり、といった感じで受け止めた。このデング熱というやつ、蚊で媒介されるもので、潜伏期間5〜7日という。熱が始まったのは先週の木曜からだから、そこから逆算すると、このデング熱(であろうが何であろうが、蚊から感染したビールス性発熱病)は、なんと、ここインドではなく、あの近代・衛生・秩序の国シンガポールでうつされたことになる!

帰任直前が(気が緩んでいて)実は一番危ない、とはよく聞く話ではあるが、シンガポールで病気に罹ってくるということまで含まれているのだろうか、などと皮肉っぽく独りごちたのだった。

午前中は休んで、体温が36.5度に下がったので、午後から出社。取敢えず、一日一つはアウトプットを出さないと、到底追いつかない状態である。

午後6時に再び病院へ。体温を測ってみると、何と、35.7度。ほぼ平温である。これには自分でも驚いた。「仕事=解熱剤」の再来である。

夕刻、日本の弟から電話がかかってきた。また、この日記を読んで頂いているとある方からも電話。メール等でもお見舞いを頂戴しており、恐縮致しております。どうもありがとうございます。ピンピンしてるとは流石に申せませんが、まぁ、こうグダグダと書き続ける程度には元気にしております。

ここに熱のことを書くと、家族などに必要以上に心配をかけるし、他人の熱病の話など誰も読みたくはなかろうとは思うので、他のインドネタでも書こうかと思っていたのだが、身の一大事ではあるわけで、どうしても他のことに注意が行かなくなってしまうので、「闘病日記」のようになってしまっている。まぁ、これがデング熱であれば、明日か明後日には完治するはずなので、今しばらくお付き合い頂きたく。

そして今、12日0:00現在、37.3度である。またこれからじりじりと上がっていくのかも知れないが、今晩も奇妙な夢を楽しむこととしよう。


今日はグジャラートからアンドラプラデシュにかけて皆既日食が観察されたが、デリーでは曇っていて部分日食も見えなかった。(そもそも日食の影の外かも知れないが)。久しぶりに「政治日記」を更新した(取敢えず今日の分だけ)。


8月10日(火)
朝、まだ熱が37度一寸あり、足下もふらついている中、文字通り自らに鞭打つようにして会社に行く。あろうことか、何時も世話を見てくれているドライバーのMichealも風邪で休みだったので、自分でアンバサダーを駆って。半分空ろな目つきで運転するものだから、危なくていけない。すぐにスピードを出してはいけないと理性の部分が対応し、ノロノロ運転で行ったのだった。

午前中何をやったのか、来客があって地下鉄プロジェクトの話をしたことしか覚えていない。とにかくフラフラ、クラクラの連続。

これではいかんと、早目に昼飯を食べに帰るが、その時の運転といったら、朝出勤した際に輪をかけて危なかしい。フラフラしている時にも第三者的に自分を見ている自分がいるのも恐いけれど。

昼飯はお粥。熱で舌がやられてしまい、味覚を余り感じないせいか、食欲も余りなく、腹を下しているわけでもないのに、お粥とか、キチャディ(インド風米とダール豆のお粥)などばかり食べている。その場ではよいのだが、すぐ腹が空くのと、力が出ないのがお粥のお粥たるところというか、何とも情けない。

異様に長い昼休みをもらって、会社に戻ってからは、徐々に復調、仕事も捗り始める。念のためもっていった体温計で時折計ってみても、大体36.5度前後で落ち着いている。後になって薬の飲み忘れに気がついたが、何と私にとって最高の解熱剤は「お仕事」であったという、何とも情けないお話。


インド側の発表によると、グジャラートのKachchh地方のインド領空内にパキスタン軍の偵察機(プロペラ双発の対潜哨戒機?)が侵入(国境の内側10km)し、国際境界侵犯の際の国際取極に基づいて着陸を促したインド空軍のMiG21(旧い!)に従わなかったため、パキスタン軍航空機を撃墜した、との由。

これに対して、パキスタン軍は、同機は国境から2kmパキスタン側を通常の訓練飛行していたものであり、武装もしておらず、インド側の一方的な撃墜行為であるとして、インド側を激しく非難、撃墜機の残骸もパキスタン領内で発見したとしている。

事実が何処にあるのかまたしても分からないお話ではあるが、どっちもどっち、何時までこんなことを続ければ気が済むのだろうか。因みに、このKachchh地方も、一部国境紛争が残っている。

昨日まで3日間連続でカシミール地方の軍の施設が過激派に襲撃され、昨日はアッサム州で貨物列車が爆破され、アッサム以東の北東諸州への鉄路が断たれるという事件が発生したが、インド国内ではこれもパキスタンの諜報機関であるISIとアッサムの過激派ULFAの共同作戦であったとされている。選挙に向けて(すんません、色々あるのですが、「政治日記」更新してません)これら過激派の動きは益々激しくなっていくものと見られる。


8月9日(月)
結局今日も一日休んでしまった。朝医者に行ってからというもの、うつらうつらしてしまい、寝れば寝る程気持ち悪い寝汗をかく。まぁ、それにつれて体温も下がっていくのでこれに越したことはないのだが。

現在午後11:30分。ここ2、3日の傾向では、39度以上に熱が上がっていてもおかしくないのだが、今日は36.5度。平温に比べると一寸高めだが、熱の方は大体落ち着いたのだろう。とりあえずはよかった。

それにしても、ただでさえ、離任前に片づけるべき仕事が山積しているというのに、この4日間のロスは実に勿体無い。なんとか明日から出勤することができるだろうけれど、仕事をフルに再開するまでには時間がかかりそう。


8月8日(日)
兎に角、今回の熱にはホトホト参っている。何処にも痛みを感じず(却って熱のお蔭で虫歯が痛み始めた)、腹の調子も悪くなく、何ともないのだが、熱でボウッとしていて何も手が付かない。

医者は、白血球が増えているので、抗生物質を投与すれば一発だが、肝臓(万が一マラリアの場合、パラサイト(細菌のようなもの)が逃げ込む可能性があるらしい)に負担をかけることになるので、丁度週末でもあり、出来るだけ強い薬を使わずに、水を沢山飲んで、汗をたっぷりかいて熱を下げてしまおう、との由。よって今日やったことと言えば、季節はずれなのに、スウェットスーツの上下を着て、これも季節はずれの暖房をかけるという荒技。

このお蔭か、40度近くあった熱が38度弱程度にまでは降下してきたが、まだまだ。もう一汗かく必要があるようだ。

と、いった状態で、貴重な週末を無駄に過ごしてしまった。やったことと言えば、池波正太郎の「おれの足音」を読んだこと位か。このままでは明日も休まざるを得なくなるかもしれない。正式に駐在員として仕事をするのもあと20日余りとなったのに、本当に困ったものだ。


8月7日(土)
結局昨晩は熱でボウッとしたまま殆ど眠れなかった。昼過ぎに意を決して近くの医者に行く。通り一遍の診断の後、腹も下していないし、何処も痛いところもなく、ただ熱があるだけで、マラリアやデング熱の可能性もあるので、血液検査をしましょうということになって採血。夕方血液検査の結果を聞きに行くと、白血球が増えているとともに、ヘモグロビンも増えていて、血がとても濃くなっているのだという。「念のため」マラリアタブレットももらって帰宅。熱は下がらず、真夜中にはまた40度近くまで達したのだった。


8月6日(金)
朝起きたら、体温が38度以上あるので、会社を休む。熱でボウッとして、本を読む気にもなれず、ただただ汗をじっとり書きながら横になっているのみ。夕刻になると、体温40度近くまで上昇する。つらい。


8月5日(木)
忙しいというのに、午後から調子が悪く、ヒイヒイ言いながら仕事。ナンダカンダいって8時くらいまで働いたが、段々熱っぽくなってきて、頭がボゥーっとしてきたので、諦めて帰る。

帰宅後、体温を計ると、予想に違わず38度近くあり、その数字を見ただけで余計に調子が一層悪くなった。体温が2、3度上がっただけでこんなに調子が悪くなるのだから、人間という生き物、随分やわに出来ているものだなどと思いながら。

と、いうことで、久しぶりの鬼の霍乱。今日は早く寝ます。


8月4日(水)
インタビューを軸に代表的な政治家・有名芸術家・芸能人などの「観察記」を綴ったTalveen SinghのLollipop Streetを読み終えたので、随分前にさわりだけ読んだまま積読になっていた、P Sainath, Everybody Loves a Good Drought - Stories from India's Poorest Districts, Penguin India.を再開した。若手ジャーナリストがインドで最も貧しい地域の貧しい人々に取材したドキュメンタリーである。

まだ最初の50ページ程度しか読み進んでいないが、農政、インフラ整備、保健衛生、教育などについて、もともとは「貧困層のために」導入された施策が、行政による怠慢、貧困の実態への無知などから、如何に的外れなものに終わってしまっているかが記されている。デリーのような都市に暮し、のほほんとした駐在員マハラジャ生活を送っていると、91年以降の経済改革でインドは生まれ変わったと錯覚させられることがあるが、この本を読むと、経済改革の際に期待された、「均霑効果」(Trickle down effect)が如何に働いていないか、それを阻害する階層がどこにあるのかが手に取るように分かる。

丁度、有名なナルマダ渓谷開発計画(円借款や世銀借款も一部供与されたが、国内外の反対運動を前に、インド政府が外国からの資金導入を断念し最終的に自己資金による実施に踏み切ったもの)に対する反対運動が盛上っている。Booker賞を受賞した、Arundhati Royがキャンペーンに参加し、ダム水没地で立ち退きを迫られている農民を中心にデモ行進が行われた。ダムの高さが段々嵩上げされつつあるところに、例年よりも早いモンスーンの増水で、ダムの上流数十キロまで水没地域が広がりつつあるという。農民は代替地が与えられておらず、先祖代々の土地を離れると生活の基盤一切が失われるとして反対運動を続けている。我が社の円借款が関係していた案件でもあり、複雑な気持ではあるが、Everybody ...を読んでいると、ナルマダ程の規模ではないにせよ、同じようなことがインド中で日常茶飯事のように起きているのだということを実感させられる。

どこの国でもあるように、何かプロジェクトを実施する場合に、土地収用が必要となるケースは多い。これまで見てきたケースでは、土地収用地域が指定され、指定地域内に住んでいる住民には現金で補償が行われるケースがある。土地の代価及び生活基盤を奪うことの対価として補償が行われる訳だが、まずいのは、土地収用・補償支払いの後も、プロジェクトが実際に開始されて土地が物理的に必要になるまでの間、住民はその土地に残っていてもよい、とされるケースである。

これは一見温情に満ちた決定のように見えるが、プロジェクトの実施が遅れる場合(実に多い)、「温情」によりこれまでの土地に暮してきた住民は、プロジェクト遅延の数年間の間に補償金を使い果たしてしまい、いざ土地を追われる段階になると、移転先の確保、生活基盤の整備が出来なくなるという問題が起きる。勿論、補償金を使い果たしてしまう住民も悪いのだが、プロジェクトで土地収用される地域というのは、往々にして指定部族など貧しい住民が住むところであることが多く、現金を貰ったら日々の飲み食いに費やされてしまうという傾向があるのは責められず、結果として、行政による「温情」が裏目に出る形で、反対運動が再燃することもある。

ナルマダは反対運動の活動家達を通じて、世界的な注目を集めたが、「温情」という名の失政による、「誰も気づかない無数のナルマダ」がインド中に散在しているのだ。


8月3日(火)
間歇的に現れるアンバサダーの話題である。もう一ヶ月余りとなってしまったというのに、まだ日本に持って帰るか、インドに置いていくか決めていない。取敢えず、持って帰っても駐車スペースがないと一蹴に付されてもなんだなぁ、と思って、実家に、
>In message "question" dated Mon, 02 Aug 1999 01:26:38 +0530, Shohei HARA wrote:
>唐突ですが、私が今の車を持ってかえった場合、我が家には駐車スペースはあるの
>でしょうか?

というメールを送ったら、早速、

>In message "車庫の件" dated Mon, 2 Aug 1999 23:28:54 +0000, ***** Hara wrote:
>自分で買って馴れた車を持って帰りたい気持ちはよくわかる。車庫も現在は花の栽培
>に使っているがスペースをあけることは可能である。しかし日本の排気ガス規制の問
>題や故障時の部品調達、燃費などについては疑問がある。
>車は所有者のみならず関係者全てに迷惑の掛かる代物であるから慎重な判断をして欲
>しい。
>利用の仕方にもよるが最寄り駅へのコミュートくらいなら帰国後国産の小型車を買う
>ほうがよいと思うが、いかがか? これは当方の意見である。   父より    
>                           
>
>帰国もあと1月と少しになり、何かと忙しいことと思います。車の件ですが、貴男の
>ホームページを見る限りでは、四六時中故障しているようですが、高い運賃を出して
>持って来ても、安全の面や、修理の費用がインドとは大分差があり、こちらで国産車
>を買ったほうが利口に思います。今、廃車にするのにも、相等お金がかかるようです
>よ。以上参考まで。   母より。
>

と、前代未聞の両親連署のメール(一応転載許可済)が返ってきた。父の何だか硬い文章にも面食らったが、母に至っては、なんと現時点で廃車の手間まで心配してくれてしまっている。如何なアンバサダーとは言えど、走行距離未だ7,000km程度で新車同様なのだが...。

当方考え方がインド化しているせいか、「50年間基本デザインが変わっていない車ならば、言わばTime Testedで安全性には問題ないはず」と思ってしまうのだが、両親の心配振りがひしひしと伝わってくるメールを読んで、悩みが一層深くなってしまったのだった。そんなに心配要らないのだが...。


日本の新聞でも報じられているが、昨日の早暁、西ベンガル州で列車が正面衝突し、死傷者500名を数えるという大惨事が発生した。当初、爆発事件が発生したと報道され、パキスタンの諜報機関であるISIの仕業ではないかと(都合が悪いことが起きた場合には取敢えず何でもISIのせいにしておくというインド国内報道の定石に従った)報道がなされたが、状況が分かるにつれて、爆発に見えたのは列車が時速90km程度で正面衝突した際の衝撃によるものであることが分かった。事故原因は、(恐らく人為ミスにより)本来複線区間であったのに、アッサムの方に向かう急行列車が、事故の発生した駅の2つ手前の駅から逆の線路に切り替えられてしまい、そこに本来の方角からやってきたアッサムから西ベンガル州に向かう列車がやってきて、当然のことのように正面衝突してしまったと言うわけである。

これを受けて、鉄道大臣のNitish Kumarは引責辞任。

昨年であったか、「インド国鉄の事故発生率は日本よりも低い。踏み切り事故などが頻発している日本などから何の技術を学ぶことがあろうか」などとする新聞記事が掲載されたことがあった。事故発生率の分母に、営業キロ数をとれば、路線距離の長いインド国鉄に有利に働くのは当然で、数字の遊びに過ぎない。半月程前にも200人程度が亡くなる事故があったばかり。因みに、列車編成の大半を占める二等車両は、盗賊などの襲撃と無銭乗車を防ぐために(?)窓に鉄格子がはめられているため、事故が発生した場合に窓から外に逃げるということが出来ず、このような事故が発生した際に、被害者を増やす原因にもなっている。

鉄道は実にインドらしい交通モードで、旅をしていても一番楽しいのだが、安心してインド国鉄の旅を楽しめる日は一体何時くることやら。


8月2日(月)
ご一家と懇意にさせて頂いている某国大使館参事官の御夫人からお電話を頂いた。休暇で一ヶ月程インドを離れておられたので、私が日本に帰ることになったのをご存知なかろうと思い、「実はですね、...」と切り出して驚かそうと思ったら、何と先方から「原さん帰国なんですって?」との第一声。こちらが驚かされた。その情報の伝わり方を聞いてまたびっくり。日本からインドに戻ってくる便が遅れ、成田で待たされたときに、見知らぬ男性から話し掛けられ、デリー在住であることが分かると、「原さんが帰国することになったのをご存知ですか?」と問われた由。なんと、予想もしなかったルートであるが、このヨタ日記を読んで頂いている方(名乗られなかったそうなので、面識のある人かどうかは分からない。どうやらインドに赴任される方だった由)から、「原帰国」との情報が伝わったということである。世間は狭いというべきか、この日記の威力斯くありというべきか、とにかく驚かされた。

夕食は昨日お迎えした助教授とご一緒して、今回の調査のお話などを伺う。今日はデリーの卸し売り市場で、デリーへの野菜、果物の供給地と流通の関係について調査された由。デリーに暮していると、野菜はともかく、果物については、例えばマンゴーなど、インド中の様々な産地からのものが、それぞれの旬の時期に応じて順繰りに市場に出回るのを見ることができる。その産地たるや、デリー周辺に限られず、正に南の端から北の端までインド中に散在している。大国であり、産地多様化の可能性は充分にあるのだが、そのために必要な交通機関の発達が充分とは言えない状況の中で、どういうメカニズムでこのような流通が可能になっているのか、というのは、私も薄々疑問には思っていたところであった。恐らくインド中でもこのような全国の産地からの野菜、果物が集積されるのはデリー、ムンバイなどの大都市に限定されているはずであるが、そこに着眼されて分析を行われる由。生活者の目から観察できることでありつつも、見逃しがちになりそうな事柄が、経済学・地理学の分析の対象になり得るということに驚かされたというか、学問の対象は何処にでも転がっているものなのだなぁということが今更のように分かり、新鮮な思いに駆られた。目の前の現象を如何に捉えるか、それを分析の対象にまで絞り込んでいくことが出来るかどうかというところに、私のような一通り経済学は修めたことにはなっているものの結局は単なる凡人に過ぎぬ者と、プロの経済学者の差があるのだ。


8月1日(日)
とうとう8月である。あと1ヶ月しか残されていない。

インド・パキスタンの農村経済分析をご専門にされている某大学経済研究所の助教授が来印された。空港までお出迎えし、その後モダン・バザールという比較的若者向けのおしゃれなところにご案内。

ここはデリーで初めてマクドナルドが開店したところでもある。パキスタンでもマクドナルドは普及しつつあるが、その際の「ウリ」は付属して作られた、ジャングルジムなどがある子供の遊び場であるとのこと。今まで気がつかなかったのだが、モダン・バザールのマクドナルドにも小さな遊び場が出来ていた。

ベネトンやリーボックの店にも入ってみたが、その値段の高いことといったら、改めて驚かされた。900ルピーもするズボン(同じ布を買って仕立て屋で作れば500ルピーもしない)や、3,000〜5,000ルピーもするバスケットシューズなどが所狭しと並んでいる。因みに、我が家の使用人の一月分の給与は3,000〜5,000ルピー程度であり、会社のガードマンの給与は高々一月2,000〜4,000ルピーである。それを考えると一体何処にこんな靴を買う人がいるのだろうかとも思うが、それはそれでゴマンと金持ちはいるわけで、今更ながら驚かされた次第。