- 1月31日(日)
- 昨日のことだが、大物政治家の辞職が相次いだ。
第一に、BJP政権の議会及び観光担当大臣であり、Vajpayee首相の側近であると言われていたKhurana氏が大臣を辞職。昨今のキリスト教徒への迫害事件や、Vajpayee内閣のパフォーマンスに対するSangh Parivar及びBJP指導部との見解の相違が原因。Thakre BJP総裁は予てからKhurana氏は組織の結束を侵す者として、懲罰すべし、との見解を述べていた。辞任後記者会見したKhurana氏は、「内閣の中でVajpayee政権の足を引っ張ろうとする勢力がある。また、BJPの党大会でも、Vajpayee政権を真っ向から批判するRSS等の勢力に対して反論することさえ許されず、息の詰まる状況だった。自分は50年来RSSのメンバーであり、Hindutvaを信じて来たが、現在Sangh Parivarが追求しているHindutvaは本来のHindutvaとは別物と成り果ててしまっている」と発言。同氏はBJPには留まるものの、これら発言が重大に捉えられればBJPから追放される可能性もある。
二つ目の辞職は、マハラシュトラ州Shiv Sena-BJP政権の首相の、Manohar Joshi州首相である。特に辞任の理由は発表されず、「Thackarey Shiv Sena党首から辞任せよと言われたので辞任した」とのこと。前々から、Bal Thakarey党首とJoshi州首相との間が上手く行っていない、との話は浮かんでは消えることを繰り返して来たが、今回の辞任劇は、1) マハラシュトラでは今年末に州議会選挙が予定されており、Shiv Senaとしては選挙に向けて、一般大衆に訴える州首相が必要だった(Joshi氏はブラーマン且つマラティ(マラティ語を母語とするマハラシュトラ出身者)ではない)こと、2) Joshi氏が州首相を4年間務める間、彼自身に権力が集中し、Bal Thakarey党首への一極集中を党是としてきたShiv Senaの中にもう一つの権力軸が生まれたとThakarey党首が考えた、との見方がある。辞任の数日前には、Shiv SenaとBJPの政策協議がもたれ、農産物の買い上げ価格の引き上げ、農民への電力供給の無料化など、明らかに選挙をにらんだShiv Senaの政策が議論されたが、電力供給の無料化はBJPの反対にあい、結論を見なかった。因みに、Shiv Senaは党内民主主義が徹底していないとして、選挙管理委員会から正式な党首選挙を行うことを求められたことがあったが、Bal Thakarey独裁の体制は変わっておらず、Joshi前州首相も、Remote Control Chief Ministerと呼ばれていた。Bal ThakareyによりJoshi氏の後任に選ばれたRane氏の第一声は、「何で自分が選ばれたのか良く分からないが、Balesahab(=Thakarey)が選んでくれたのだから一生懸命がんばる」というものであった。
BJPもShiv Senaも、内部分裂を一因とする国民会議派の勢力縮小に伴う真空状態の中で勢力を伸ばした、一枚岩を誇ってきた政党であるという共通点があるが、色々なところで無理が生じて来ており、一つの転換点に立っている、ということが出来よう。
さて、クリケットである。結論からいうとインドは負けてしまったのだ。
昼過ぎからクリケットの中継を見始めた。インドのバットマン(バッター)はSachin Tendulkarというナショナルヒーローと、Nayan Mongiaだった。One day matchでは6ers(6点打。野球で言えばホームラン)をぶちかますTendulkarがやってくれるかな、と思ってしばし見ていたのだが、パキスタン側のプレッシャーが効いているのか、中々振るわず、点も入らない。しまいに眠くなってしまい、ソファーでうとうとしながら見る。
クリケットは朝から晩まで一日かけてやるゲームなので、ティーの時間、ランチの時間が決まっている。3時過ぎになって、ティーの時間となり、約15分休憩。その後、Tendulkarが再度登場。このティー休憩の後から、Tendulkarのバッティングが冴え始め、どんどん点が入るようになる。見る見るうちにインドとパキスタンの点差が縮まっていったのだが、残念ながら、238/5(打者5人を残して238点獲得。昨日書いたように、インドは271点必要なので、残り5人の間に33点稼げればインドの勝ち)、Tendulkarが136点獲得したところまで見た時点で、事務所に行かなければならなくなった。このところ続いている内装工事の監督だ。Sachinも調子がいいし、このまま行けば勝てるだろうと思いつつ。
事務所に行って、それまで監督をしていたVineetへの挨拶代わりに、「インドは238 for 5」というと、彼は、「おぉ、それなら勝てるじゃないですか!」と喜んだのだった。ところが、監督が終わって家に帰ってから、「パキスタンに勝ってさぞかし盛上っていることだろう」と思ってテレビを点けると、豈図らんや、インドは負けたという。
どうやら、僕が家を出た直後、TendulkarのパートナーだったMongiaがフライに倒れ、その後、Tendulkarも振るわなくなり、405分間もnot outでプレーし続けた彼を仕留めた後、パキスタン側は俄然勢いが増して、最後のバットマンまでインドを圧倒し続けたらしい。
結果はインドの258点。インドは13点及ばず、パキスタンの勝ちとなった。
インド対パキスタンのマッチは、常に神経戦だと言われるが、Tendulkarが倒れた後のパキスタンの盛り返し、インドの不調はそれを絵に描いたような出来事だった。
勝利の後、パキスタンチームは場内を一周し、ウィニングランを行った。インドの観客がどういう反応を示すか、興味があったのだが、満員の観客は総立ちとなり、パキスタンチームへの惜しみない賞賛の拍手を贈っていたのが非常に爽やかな印象を残したのだった。
- 1月30日(土)
- 今日はMahatma Gandhiが暗殺された日。Raj Ghatにお参りに行こうかとも思ったが、やっぱり調子が今一つなので止める。Massiに風邪に効く料理を作ってくれ、と頼んだら、風邪ならば魚(?)、ということで作ってくれた魚カレーを、魚が風邪に効くなんてほんまかいなぁ、と思いつつ食べたり、スパイ小説を読んだり、急に思い付いて蕎麦がきを作ってみたりしつつ、一日中家でゴロゴロ。このところ、風が吹き始め、霧も無くなって、一年で一番良い季節になったのに、何とも勿体無い時間の過ごし方ではあった。
前任者が置いていってくれたいつ買ったのか分からないマレーシア製のVicks VeporRubを引っ張り出して来て、しこたま塗って寝ることとする。日本のコマーシャルでやっていた、ベポラッブというのが、Vapor+Rubだということを初めて知って少し利口になった。
クリケットは、今日までのところ、第2イニングでパキスタン286(all out)、インドは40(Two out)。双方all outなので、インドは明日の試合で271点(今日の分と併せて)とれば勝ち。さてどうなるか。
- 1月29日(金)
- 暗い話ばかりしていても仕方がない。少しは明るいことも書こう。
インドとパキスタンのクリケットマッチは、大きな問題もなく、昨日からチェンナイで始まった。勝敗の方はと言うに...、まだ分からない。というのも、チェンナイでのマッチはテストマッチと呼ばれ、5日間かけて戦う悠長なものだから。今日までのところは、第1イニング(all out)がパキスタン238に対してインド254。第2イニングがパキスタンの34(one out)。
何はともあれ、アホな騒ぎに巻き込まれず、予定通り始まったのは嬉しいことだ。
- 1月28日(木)
- まだ何だか熱っぽい。腰の辺りに熱から来たような痛みがあり、インフルエンザかなぁ、と思いつつも出勤。「インフルエンザは手から来る」という話を聞いて、急に手をきれいに洗ったり、うがいを始めたりするが、時既に遅しか。
オリッサの伝道師一家惨殺事件の調査のために、教育担当のJoshi(BJP)、国防担当のFernandes(Samata Party)と、鉄鋼担当のPatnaik(Biju Janata Dal:元オリッサ州首相の息子。現在はオリッサ州では野党)の三大臣が中央政府から派遣され、ほんの一時間程現地を視察したらしいが、その結果、Fernandes大臣によると、「この事件には、BJP政権を転覆させようとする意図が感じられる。政権転覆をねらった『外国勢力』の陰謀の可能性も考えられる」との由。また、案の定というか、事件の原因の一つとして、オリッサ州政府の統治能力の欠如、をあげつらっており、同州の国民会議派政権への攻撃材料にしている。
この『外国勢力』というのは、言うまでもなくこれからクリケットで戦うお隣の某イスラム国のことである。インドではテロとか、何か都合が悪いときには、何でも『外国勢力』のせいにしてしまう、という傾向があるが、BJPのTakre党首はこの調査の結果が出る前から関与したと言われるBajrang Dalはシロである、との声明を発表している。Vajpayee首相は、Mahatma Gandhiが暗殺された1月30日を、「寛容の日」として、一日断食することを発表し、国民にも断食への参加を求めているが、中央政府が本当にマジメにこの問題を追及する積もりがあるのか、疑問だ。
何度も繰り返されていることだが、ビハール州でも、最下層民の村が地主階級に襲われ、23名が殺されるという虐殺事件が起きた。この背景には、非合法共産党勢力(CPI(Marx-Lenin))と地場の既得権益階級の抗争があると言われているが、こんなことばかりが続いて、一体この国何処に行くのだろうか?
- 1月27日(水)
- 朝起きたときから何となく変だった。昼飯を食べに家に帰った時に熱があるように思われたので、計ってみるとはたして37.7度あった。午後は早目に切り上げて早退しようと思ったが、熱でフラフラしながらも、残務処理をしていたら、オフィスを出たのは結局5時半過ぎになってしまった。
思えば、この一ヶ月程の間に、寒いデリーから南インドへ行き、寒いデリーに戻って来たら、30度のムンバイに行き、またデリーに戻って来たと思ったら、常夏のシンガポールに行って、まだ寒さの残るデリーに帰って来たのだから、体調が崩れるのも当然か。自分でいうのも何だが、随分と飛び回ったものだ。来週はカルカッタに出張の予定。
シンガポール出張編の日記を書いた。つまらない。
- 1月26日(火)
- 1月26日は、「共和国記念日」である。インドが英連邦内の自治領として「独立」を達成したのが、1947年8月15日。この日は、「独立記念日」として祝われているが、今日1月26日は、1950年1月26日に共和国憲法が発効し、真の意味で独立共和国としてインドがスタートを切ったことを祝う日である。
独立記念日には、Nehru首相が独立インド国旗を掲揚した故事に倣って、オールドデリーのLal Qila(Red Fort)の前で記念式典が行われるのが通例だが、共和国記念日には、大統領官邸(旧総督官邸)からインド門まで一直線に伸びる、Raj Path(統治の道)でパレードが行われる。Raj Pathの一帯は、Lutyensという大英帝国の技師が設計した、"New" Delhiの核心地である。偶然に過ぎず、何ら寓意はないと思われるが、独立記念日式典がムガル帝国の居城であったLal Qilaで行われ、共和国記念日式典が大英帝国の象徴たるRaj Pathで開かれるのは興味深い。
僕にとって共和国記念日はもう3回目だ。今年はインド大蔵省に懇願して、パレードの観客席への招待状を貰ったので、朝8時半に起きて、Raj Pathに行って来た。
式典は、首相、国防省、三軍司令官による戦没兵士への献花で始まる。これは、インド門で行われるため、Raj Pathの観客席にいる我々には見えない。その後、主賓であるネパール国王夫妻がメインの観客席に到着し、そこにNarayanan大統領も加わって、国歌演奏・礼砲と共にパレードが始まった。
まずは三軍のパレードから。陸海軍の各部隊の行進に続いて、空軍のパレードが始まる。ここで注目されたのは、既に実戦配備されているPrithvi(大地)短距離ミサイルと並んで、射程1,500kmと言われる中距離弾道ミサイルAgni(火の神)がパレードに加わっていたことだ。僕は「軍事オタク」ではないので、良く分からないが、見たところでは3段ミサイルになっており、一段目と二段目の間は格子のようなもので繋がっているだけだった。この他にも、インドの技術で新開発したと言われる迎撃ミサイル兵器などがパレードに加わった。
その後、各州からの山車を中心とした行進となる。必ずしも全州からの参加があった訳ではないようだが、中で驚いたのは、西ベンガル州のもので、説明は良く聞き取れなかったものの、ヒロシマナガサキを記憶にとどめ、核の無い世界を目指そう、といったメッセージが込められていたことだ。同州の共産党政権が、核実験を行ったBJPを暗に批判する意味も込めて企画した山車なのかもしれない。もう一つ、ケララ州の山車も、保健衛生の重要性を訴えたもので、各地の遺跡や風物をあしらった他の州とは明らかに毛色が異なっていた。両州とも共産党政権、BJPが何をやろうと我が道を行く、という感じがして好きだなぁ。
子供たちのダンスなどが終わると、空軍のミグ27とジャガー戦闘機が会場上空に飛来し、あっという間に去っていく。ほぼ式典はおしまいである。招待状には、「大統領と首相が退席するまでは、着席のまま待っていて欲しい」、と書いてあったのだが、そこは皆インド人、まるで、結末が分かった瞬間に皆ザッと立ち上がる映画館の観客の様に、戦闘機が見えなくなると共に退席ラッシュが始まってしまったのだった。
このように、パレードの主役は軍隊であった、という印象が強いのだが、そもそも共和国憲法施行を祝うべき共和国記念日の式典が何故、何時から軍隊主導のものになったのかは良く知らない。今年の式典が特に軍事色が強かったものなのかどうかも、残念ながら過去2年間の式典を見ていないので、何とも言えないが、こんな形で「力」を誇ってみる一方で、国内がガタガタというのでは仕方がないではないか、と思ったのだった。
- 1月25日(月)
- 既に日本の新聞にも報じられているようだが、1月23日の早朝、オリッサ州のManoharpurという村で、30年以上もこの地域で活動し、らい病治療などに献身してきたオーストラリア人の伝道師が、その息子二人と共に、車の中に閉じ込められたまま、焼き殺される、という事件が起きた。詳細については、以下の関連記事を参照http://mail.rediff.com/news/1999/jan/23oris.htm、http://www.hindustantimes.com/nonfram/240199/detFRO02.htm、http://www.hindustantimes.com/nonfram/250199/detFRO01.htm。
昨年のクリスマス前後から、グジャラートを中心として、ヒンドゥー教徒過激派によるキリスト教徒への攻撃が激化している。一旦収まったかのように見えた攻撃がこのような恐ろしい形で再燃してしまったのである。
この問題の背後には、基本的にヒンドゥー政党であるBJPの政権が中々安定せず、ヒンドゥー至上主義団体の思う通りには行かなくなってきている一方で、カソリックであるSonia Gandhiを総裁とする国民会議派が台頭しつつあることがあると言われている。ヒンドゥー至上主義団体は、Sonia Gandhiが国民会議派総裁になってから、キリスト教への改宗が増え、ヒンドゥー教の大きな脅威となっている、と主張している由。
今回の焼殺事件にも、以前にも書いたRSSの関連団体Vishwa Hindu Parishad(世界ヒンドゥー協会)の前衛組織である、Bajrang Dal(ハヌマーンの部隊:ハヌマーンはVHPが主導して破壊したBabri Masjidがあったところで生誕したと言い伝えられているラーマ王を助けて活躍する猿神)が関与していると言われている。Bajrang Dalは、1992年のAyodhyaのBabri Masjid破壊の主勢力であり、昨年末にも、カルナタカ州にあり、イスラム・ヒンドゥー双方から崇拝されているスーフィー(イスラム教神秘主義)の寺院を、「イスラム教徒の手から解放する」ことを目的として包囲したものであり、Sangh Parivarと呼ばれるヒンドゥー至上主義団体群の中でも最も先鋭的且つ実力行使志向のグループである。
さて、この一連の事件の問題は、人口の80%を超える圧倒的多数のヒンドゥー教徒を代表すると称する団体が、圧倒的少数派であるキリスト教徒を、「ヒンドゥーの伝統を侵す脅威」として弾圧しているところにあって、その理屈は全くおかしなものと言わざるを得ない。明らかに、一連の事件は多数派による少数派の弾圧であって、政治的な意図があるのは明らかである。ヒンドゥーに比べてクリスチャン・ムスリムの方が人口増加率が高い、という統計があるのは事実ではあるが、ヒンドゥーの圧倒的多数を覆すことはありえない。
今回の惨殺に対して、Vajpayee首相は犯人を激しく非難する声明を発表。また、Narayanan大統領も、26日の共和国記念日前にした国民へのメッセージの中で、Mahatma Gandhiの、「この国はヒンドゥー色でも、ムスリム色でも、クリスチャン色でもない、『寛容の色』に染まって欲しい」との言葉を引いて、宗教間の寛容の精神が今こそ必要であると説いた。
今回の事件の処置は今後のBJP政権の行方を左右する。まず、BJP政権を閣外から支援しているChandrababu Naiduアンドラプラデシュ州首相のTelgu Desam Party、西ベンガル州を基盤とするMamata BanerjeeのTrinamool Congressが、「BJP政権が本件について断固たる措置をとらない限り、政権への支持を撤回する」と表明し、それに呼応する形で、お馴染みのAll India Anna Dravida Munnetra Kazhagam(AIADMK)の党首、Jayalalithaが、「宗教間の抗争を引き起こす勢力はテロリストと同等」との声明を発表していること。BJP政権にとっては幸か不幸か、今回の事件は、国民会議派が政権を執っているオリッサ州で起きたわけで、基本的な警察権は同州政権にあるが、本件の首謀者とBajrang Dalとの関係が明らかになった場合には、Sangh Parivarの一員であるBJPであっても、断固たる措置をとる必要が出てくる。
そして、本件を如何に処理するかによって、BJP(そしてインドという国の捉え方)に対する国際的な評価も大きく影響を受けるものと考えられる。そもそもAyodhyaの記憶が冷めやらない中で政権に就き、国際世論に反する形で核実験を行いつつも、ヒンドゥー至上主義色を極力抑えてきたBJPであるが、今回の事件の事後処理は国際的にも注目されることになろう。今回の事件はBJPにとっても大きな岐路になるのではないだろうか。
一方、村落に入り込んで民衆の生活を向上させるために活動しているNGOを始めとするボランティアが事業を実施する際には、その地域に根づいている既得権益集団との対決が避けられない。既得権益集団は往々にしてその土地の上位カーストを代表しており、自警団の名の下に、ならず者を集めて被搾取階級を弾圧していることが多い。そこによそ者のNGOや宣教師などが入っていって、民衆のために働こうとすると、多かれ少なかれこれらならず者達との衝突が起きる。今回の被害者は長年オリッサで活動してきたとのことではあるが、案外このような地盤がそもそもあったところに、反クリスチャン運動が相俟って今回の惨殺が引き起こされたのかもしれない。
インドが好きで、喜んで駐在して来た私であるが、このところインドの悪いところばかりが目立つ事件が引き続き起こっていて、居たたまれない気持で一杯だ。
- 1月24日(日)
- シンガポールから帰って朝日ネットをチェックしていたら、以下の記事を見つけた。
> === <990121-11> news.asahi/international, -(-), 99/ 1/21 19:45, 28行
> 標題: インド放浪旅行に警鐘、邦人殺人事件
> ---
> 静岡県出身の長崎大学生、鈴木卓馬さん(二〇)がニューデリー
> で惨殺体となって発見された事件は、若い人たちに人気のインド亜
> 大陸への放浪旅行が、決して安全とばかりはいえないと、改めて警
> 鐘を鳴らした。
> インドのクラナ観光相は十九日、インド観光週間の記念行事で「
> 空港で多発している観光客への犯罪を止めるため、空港内に観光省
> の事務官が常駐する事務所を開く」と明らかにした。鈴木さんがイ
> ンディラ・ガンジー国際空港を最後に行方不明になったことを指し
> たものとみられる。
> ニューデリーの日本大使館によると、空港からタクシーに乗る日
> 本人観光客を「あなたの予約したホテルは満室だ」とだまし、仲間
> のホテルに送り込んだうえ、翌日、タージマハール観光などに法外
> な料金で連れていく手口が多発しているという。宿泊も一泊二百ル
> ピー(約六百円)などの極端な安宿は避けるようにと言っている。
> インドに在留している日本人は二千人しかいない。年間の渡航者
> 約十万人のうち、かなりの人は観光とみられる。行方不明者の捜索
> は、日本大使館に届けがあるものだけで三件が継続中になっている
> 。
> インドに二十年以上住む僧りょ、中村行明さん(四四)は「猿岩
> 石のようなタレントの貧乏旅行番組には、カメラマンやスタッフが
> 同行している。決してひとり旅ではない。旅行誌に影響され、いか
> に安く旅をするかを競うのはやめた方がいい。東京に来た人が、地
> 元の人も避ける安宿街に泊まるだろうか、考えてほしい」と話す。
> <インド観光省の元次官、スンダラムさんの話>とくにデリーで
> 観光客相手の犯罪が多い。危険を避けるために、政府認定の旅行業
> 者を使ってほしい。タクシーは、おもな場所に窓口がある料金先払
> い式の車だけを使うように強く望みます。警察が運営していて、運
> 転手の名前が記録に残ります。鉄道駅周辺の安宿は泊まらないで。
当地日本人会を通じて、この事件の被害者となってしまった人の尋ね人広告が回って来たので、このページにも掲載して、情報を求めようと思っていた矢先の出来事。ご冥福をお祈りしたい。
この件に関連して、色々と言いたいことはあるのだが、このような事件を前にしてしまうと、中々考えがまとまらない。
僕は出張以外のインド国内の旅はずっと一人でやってきたし、基本的には「貧乏旅行」スタイルだ。これは今回赴任する前もそうだったし、赴任してからもそうだ。何がなんでも一人でなければいけない、ということはないし、貧乏旅行でなければインドは分からない、ということもなく、貧乏旅行には貧乏旅行なりの、金持ち旅行には金持ちなりのインドが見えるのだけれども、僕には貧乏旅行で見えてくるインドが一番インドらしいインドなのではないかと思えてしかたがない。また、学生時代のそういった旅の経験があったからこそ、今回駐在員という全く違う立場でこの国に暮すことになっても、その立場に縛られない色々な角度から「インドを楽しむ」ことが出来ているのだと思っている。
空港に到着したその足で殺されてしまったというこの事件は確かに悲劇だ。遣り場のない怒りを感じる。一方で、こうやればインドを安全に放浪できる、という完璧なマニュアルはない。僕の旅にこれまで大きな問題が無かったのも、単に運が良かった、と言うことなのかもしれない。
しかし、一人放浪旅行でも、無事に帰ってくる人たちの方が圧倒的に多いわけで、この事件のみを捉えて一足飛びに「インドは危ない」「インドへの一人旅は勧められない」という結論が引き出されて、それだけが一人歩きしてしまうのは、短絡に過ぎるような気がしてならない。
やはり言いたいことが良くまとまらない。
- 1月20-24日(水)-(日)
- 大したことのないシンガポール出張。いつもインドからシンガポールに行くと発病するSingapore Depression(?)に今回も罹ってしまう。言ってみれば東京と同じなんだけれど、なんか、シンガポールって、不自然に綺麗すぎていけない。空港に降り立つと、いきなり「禁煙:罰金500ドル」とか、「ゴミの投げ捨て禁止:罰金1000ドル」とか、兎に角息が詰まる。シンガポール人(中国系)の英語が聞き取れない。湿度が高い。暑い。雨が良く降る。チャイナタウンとか、リトルインディアとか、行きたいところに限って地下鉄がない。云々云々。
さて、シンガポール到着は早朝だったので、ホテルにチェックインしてから眠ってしまい、またSingapore Depressionだなぁ、と思ってごろごろとしているうちに夜になってしまったので、第1日は何もしなかった。
2日目、リトルインディアに行ってみる。ホテルから蒸し暑い中を歩いて約20分。
シンガポールのインド系住民の大半はタミルナドゥからの移民で、地下鉄の中の表示などにも、中国語、マレー語と並んでタミル語表記がある。東インド会社によってインドから囚人が最初に連れてこられたのは1825年。それ以来、南インド出身者を始めとする移民が相次ぎ、Serangoon Road一帯が「リトルインディア」として知られている。タミル系住民が圧倒的に多いが、ヒンディー語表示、ベンガル語表示、マラヤラム語表示なども所々にみられた。インド本国と同じで、ここでも甘味屋はベンガル系なのは面白い。
リトルインディアでしたことと言えば、ミュージックショップに行ってボリウッド映画のカセットを買って(インドでも買えるのに)、Mostafa Centreという、シンガポールに行くインド人は必ず立ち寄るディスカウントストア的なデパートに行き、Massiから頼まれた彼の娘用の腕時計と、罰金社会シンガポールをパロったTシャツを買ったことくらいのもの。すぐに暑さに参ってしまう。
それから、前回来た時に、今はシンガポールを離れてしまったロンドン時代の友達に連れていってもらったBanana Leaf Restaurantという、バナナの葉っぱにカレーを盛ってくれる南インド料理屋を探し回ったのだが、見つからず、諦めてリトルインディアの入り口にあった屋台街に行って、マレー料理風のアヤシゲな焼きそばを食べる。周囲には、マレーのイスラム教徒か、インド系の人々ばかりだった。この屋台街は、奥に市場もあって、大きなものなのだが、屋台はインド・マレー系と中華系の二つに分かれている。
焼きそばだけでは飽き足らなかったので、中庭のようなものでインド・マレー系とは隔離されている中華系の方に行ってみると、インド・マレー系にあれほど居たイスラム・インド系のお客は一人もおらず、ことごとく中国系の人々ばかりなのだった。中華では豚肉を使うから、豚を不浄なものとして忌避するマレー系とはそもそも相容れないからか。過密多民族国家シンガポールの縮図を見るような気がした。
暑くてかなわんので、ホテルに帰ることにする。途中でNational Museumがあったので入ってみる。展示の三分の一近くがLee Kuan Yu以降のシンガポールの政治史で、こう言うと申し訳ないが、歴史の浅い国家なんだなぁ、というのが実感。
夜、タクシーでBanana Leaf Restaurantに行き、待望の南インド料理(本場とはちょっと違うけれど)を満喫。
帰りのタクシー乗り場で、僕の前に小金持ちの娘風の若いインド人女性二人(ヒンディーを話していたのでインド本国からの観光客)がおり、僕の後ろにブータン人の男とパキスタンからの留学生がいた。僕はずっと黙っていたのだが、パキスタン人の男がブータン人に話し掛けており、わざわざ女の子達に聞こえるように、「シンガポールにいるインド人の女はみんなプライドばかり高くて、安物の(娼婦とでも言いたかったのだろう)みたいだよ」と繰り返す。間に挟まって聞いているだけでも不愉快で、止めろ、とヒンディー(パキスタン人にとってはウルドゥ)で言って半分ウケねらいで驚かせてやろうかと思っていた矢先、女の子の一人が、「ずっと聞こえてるけれど不愉快だから止めてくれ」と反撃、パキスタン男は負け犬のように黙ってしまった。インド女性強し。
3日目、日本語の本を置いてある本屋にいって、しこたま本を買う。午後、今回シンガポールまで来た目的を果たす。余り言いたくないのだが、何かと言えば、「日本食の調達」である。実に甘えた制度ではあるのだが、デリーのような日本食が手に入らないところに駐在する場合は、健康管理も兼ねて(?)、年に1〜2回シンガポールやバンコクに日本食の買出しに行くことが認められている。そこで手に入れた食材を後生大事に冷凍庫に保存して細々と食べ繋ぐ、というのが日本人駐在員の生活なのだ。と、いうことで、日本系デパートの食品売り場で物色。僕はそもそも日本食をそれほど必要としないので、この「買出し出張」は嫌いなのだが、情けないことに、食品売り場の圧倒的な物量に直面すると、いつも目の色が変わってしまうものなのだ。買い物の後、ホテルの部屋で軽い自己嫌悪に陥る。夜、Newton Squareという、観光客向けの屋台街に行き、シーフードを食べるが、60ドルという法外な値段を請求される。まぁ、旨かったから良いようなものの、いざ支払うとなると、それまでニコニコしていたオッサンが、映画で出てくるチャイニーズマフィアのような顔つきになったので、恐くなって素直に払ってしまった。海鮮類の計り売りの屋台には気をつけましょう。
4日目、午前中最後の買い物をして、午後の便でインドに帰る。空港からの帰り道、如何にもインド的な運転マナーの悪さ、混雑を見て、あぁ、帰って来たなぁと何となくホッとしたのだった。
- 1月19日(火)
- 1月7日の項に、対パキスタンのクリケットマッチがインド国内で予定されており、反対しているShiv Senaがデリーのクリケットグラウンドを荒らした、ということを書いた。その後、Vajpayee首相はこの暴挙を激しく批判、来印するパキスタンチームの安全を保証した。
昨日のことになるが、白昼Shiv Senaの一派と見られる暴徒が、ムンバイのBoard of Control Cricket India(BCCI: 全インドクリケット協会とでも訳すのだろうか)の本部を襲撃し、その際、1983年にインドが優勝したワールドカップのトロフィーも毀損されるという事件が発生した。一日経った今も犯人グループは逮捕されていない。
Shiv Senaはムンバイの襲撃とは無関係であるとの声明を発表したが、ほぼ時を同じくして、カルカッタ在住の国際クリケット協会の会長宅周辺で、Shiv Senaの運動家が示威行為を行い、逮捕されている。また、マハラシュトラ州Shiv Sena政権のスポーツ大臣は、パキスタンとのマッチがキャンセルされない限り、インドチームのメンバーの安全を保証しない、と発言した。インドナショナルチームは現在オーストラリア遠征中であるが、これらの一連の出来事を受けて、帰国先をムンバイから変更することとなり、インドチームの主要選手の周辺には厳重警備が敷かれ、マッチが予定されているデリー、カルカッタ、チェンナイ、バンガロールのクリケットグラウンドは24時間体制の警備下に置かれることとなった。南インドではShiv Senaの影響は少ないが、カルカッタでは、パキスタン戦をキャンセルしない限り爆弾決死部隊を送り込む、との脅迫もある由。
今までのところ、デリーのパキスタン大使館及びインド側クリケット関係者は、パキスタンチームのインド遠征は予定通り行われる、としており、BJP政権も暴徒を批判、マハラシュトラ州政府に対して暴徒の厳重な取り締まりを命じた、と報じられている。一方で、ムンバイのShiv Senaシンパのケーブルテレビ配給会社は、パキスタン戦の放映を行わないと発表。
冷戦下ではオリンピックの度に繰り返された言い回しだが、スポーツは政治から分離されるべきだと言われる。テレビなどを見ていると、今回の事件に関してもそういうことを言う人が多いのだが、今回のパキスタンチーム遠征は、出口がない両国関係の中で数少ない前向きな動きの一つであって、むしろ、両国政府とも全力を注いで成功へと導かなければならないし、BJP政権にとっても、政権の威信をかけて臨むべきイベントなのだ。
よい喩えではないが、今回の出来事が、「日本と某国との野球大会に反対し、来日する某国チームはもとより日本チームまで脅迫して憚らない某県の政権右翼党」という形で日本で起きた、というように想像してみる。もとより、インドの連邦制と日本の都道府県制とは全く性格を異にするし、日本にはインドにとってのパキスタンのような国はないのだが、このように考えてみると、昨今起きている事件の異常性、潜在的な危険性というものが分かろうというものである。
昨今の事件が、ムスリムの人々への攻撃に形を変えていくという、最悪の展開を見せないことを願ってやまない。そのためには、BJPも国民会議派もない、政治の力が必要なのだ。
- 1月18日(月)
- イスラム教では、ラマダンの一ヶ月間、日の出から日没までの間食べ物はおろか、水、喫煙まで禁じられているのは良く知られている。そのラマダン明けのお祭りがId-ul-fitr(通常Id(イード)と呼ばれる)だ。インドではIdの日は祭日となり、イスラム教徒はラマダン明けの大宴会(お酒は出ません)を楽しむ。多宗教国家インドでは、Idの日は国民の祝日であり、中央政府を始めとしてお休みとなる。
ところが、このId、毎年この日と事前には通知されるのだが、その直前にならないとその日が本当にIdになるのかどうか決まらない。インドで実際にIdになるかどうかを決定するのは、オールドデリーのChandi Chowkの裏にあるJama Masjidというインド最大のモスクのSyed Abdullah BukariというImam(イスラムの神官)であり、Imamが、ムスリム暦で定められた新月(陰暦一日目の月)を、予定されたIdの前の日に実際に観測できるかどうかでIdになるかどうかが定められる。と、いうことは予定された日の前日が曇りだった場合はId入りが一日伸びる訳である。
(この辺の仕組みは実のところ良く分かっていないので、ちょっと勉強して適宜修正予定。実はインドには暦が最低でも4つあるのだが、これについても別の機会に調べてみたい。)
今年は、1月20日がIdと予測されていたのだが、今日の夕方7時過ぎになって、とあるところから明日(1月19日)がIdになるかもしれないとの情報が入って来た。さて、困った。当然、我がオフィスも、Idの日はお休み、ということになっているのだが、明日は営業日ということを前提に予定を組んである。結局、明日はIdになるかも知れないけれど、良く分かんないし、予定も組んじゃったから、明日は通常通り働いて、明後日予定通りみんなで休みましょう、ということになった。イスラム教徒はインドの人口の12%程度を占めるが、僕の周囲の人は、仕事のカウンターパートを含めて、殆どがヒンドゥー教徒であって、仕事が休みになる、と言う観点からしかIdを見ていないのだ。
結局オフィスでは明日が本当にIdなのかどうか、分からず仕舞いである。家に帰ってテレビのニュースでやっと、今晩Jama Masjitで月が観測されて、Idが宣言された、との確認がとれた。
ところで、僕の周りの人々も含めて、多くのヒンドゥー教徒は、イスラム教徒に対して、不潔である(ヒンドゥー教徒にとってはシャワーを浴びたり水浴びして身体を清めることは日課だが、ムスリムはそうではないと信じられている)とか、ムスリムは皆パキスタンシンパだとか、ムスリムは皆ならず者だとか、多かれ少なかれ偏見を持っている。僕の少ない経験では、イスラム教徒がヒンドゥー教徒に比べて不潔だったとか、反インド感情をむき出しにしていたとかいうことはなく、紳士的な人も多いと思う(僕個人はヒンドゥー教徒の小金持ちが一番嫌いだ)。
先日の南インドへの列車旅行では、寝台車で中東への出稼ぎ帰りのムスリムのオジサン達と向かい合って座って2日半を共に過ごしたが、皆紳士的だったし、ラマダンを守って日中は飲食をせず、日没と共にお祈りをして断食明けの食事を楽しんでいた姿は尊敬こそすれ、到底見下すようなことは出来ない人たちだったし、皆実に親切だった。A'salaam aleikum!
こういう圧倒的多数のヒンドゥー教徒によるイスラム教徒に対する偏見については、歴史的な積み重ねもあるのだろうし、個々人を責める訳にもいかないが、インドで時々発生するCommunal Riotの根底にあるものでもあり、何とかならないものかなぁ、もう少し皆Open Mindでものを見ればいいのに、と思うのである。一方で、インドとパキスタンが分割された歴史を見てみると、インドがSecularな国家である、というのも偽善に満ちた主張である、という気がしてならない。
さて、今日はこんなに書いたのに、日記の更新が出来ない。電話がかけられないのだ。僕がエベレストに遊びに行っている間に電話会社から電話料金の請求書が送られて来たらしいのだが、うちには届いていなかったようで、先週、2ヶ月遅れで料金未納との通知があった。これを今日支払ったのだが、未納にも関わらず昨日まで何も問題無く使えていた電話が、今日支払った直後から着信しか使えなくなり、受話器を上げると、"Your line has been temporarily taken out of service, due to NON payment of the bill"という、NONというところをいやというほど強調した如何にも憎らしげなメッセージが聞こえるようになってしまった。一体どうなってんの?
- 1月17日(日)
- 午前8時という、日曜日にしては不可能に近い時間に起きて、事務所内装工事の監督にいく。眠い。監督が終わったら、夕方から映画を見に行こうと思っていたが、眠さの前に敗退。
Upamanyu Chatterjee,"English August", Penguin Book (India).を読み終える。青春モラトリアム小説とでも言おうか。平行して読んでいたArundhati Roy, "God of Small Things", Flamingo.にはぐいぐいと引き込まれてしまったが、この本は時々思い出したように続きを読む、といった感じで、"God of ..."に比べて薄っぺらい感じは拭えない。
なんとなくIASになってしまい(といって、簡単になれるものでもないのだが)、行政実地研修として送りこまれたインドの片田舎で、土地にも、周囲の役人にも常に居心地の悪さを感じている都会育ちの「現代っ子」の青年が主人公。上司のIASオフィサー達の挙動をシニカルに見つめている主人公が、途中から如何にもIASオフィサーらしい話し振りを始め(て自分自身でも驚い)たりして、最後はIASらしくなっていくのかなぁ、と期待していたのだが、結局はモラトリアム感覚の中で終わってしまった。まぁ、大半の都会っ子のIASオフィサーはこういうプロセスを経て一人前の(?)行政官になっていく訳で、そのまんまじゃぁ小説にならないでしょう、ということか(因みに、著者は現職のIASオフィサー)。でも、将来についての不安を拭い切れず、日々フラフラしている主人公の感覚は僕自身の琴線に触れるものがあったりして。それはともあれ、IASの実地研修の実態を理解するには良い参考書になるけれど、インドのことをある程度知らないと意味不明の本になってしまうかもしれない。
カルカッタとケンブリッジをベースにしている、Amit Chaudhuriの評判の新作、Freedom Song, Picador India.を読み始めるが、眠さが一日尾を引いて、2ページもいかないうちに投げ出してしまう。
やはり自然の摂理に背いてはいけない。今日は早く寝ることにする。
- 1月16日(土)
- JICA事務所の人たちを中心としたパーティー。何だか面白い話が百出で、ゲラゲラ笑い放しではあったが、途上国開発について熱い議論もあったりして、楽しい夕べとなった。「標準語」とは、静岡県中部地方で話されているイントネーションのことだそうだ。但し、同地方には「がらい」「なるい」という、東京圏育ちの僕には理解不能な言葉もあるようである。
- 1月15日(金)
- 朝から会議。インド人7人、オーストラリア人1名、日本人1名。インド人ばかりでビャービャーと喋っていて、中々割り込む機会がなく苦労するが、取敢えず言いたいことは言って一安心。
会議が早く終わったので、円借款で小企業支援を行っているSmall Industries Development Bank of India(SIDBI)に言って懸案について議論しようとしたが、生憎担当者は皆病欠との由。諦めて空港へ。
予約していたフライトは午後5時で、遅すぎるので、早いフライトに変更しようと思ったが、インディアンエアラインは5時までデリー行きがない、との由。そこで、Jet Airwaysのフライトに変えようと思ったが、Jet Airwaysは別のターミナルから出発するので、そのターミナルまでいかないとチケット発券も出来ないとのこと。仕方なく、30度を超えるかと思われる陽気の下、とぼとぼと第2ターミナルへいく。デリーから来た身には熱すぎる陽気だった。
Jet Airwaysの窓口で1時過ぎのフライトには空席があるかと聞くと、窓口のオネエチャンは、fair chanceがある、というので、取敢えずRQベースのチケットを発券してもらう。チェックインカウンターにいくと、Stand Byというカウンターがあって、そこに人だかりがしている。最初は何がどうなっているのか分からなかったが、RQベースのチケットの場合は、Waiting Listに加えてもらい、Waiting Numberを貰う必要があるらしいので、人垣を縫ってグッとチケットを差し出す。待ち番号10を貰った。
結局、ボーディングのコールが始まってから、呼び出しが始まり、無事ボーディングパスを手に入れられたのだが、RQのチケットの場合にはどうしたらいいのかということは発券の時にも教えてくれなかったし、何処にも書いていなかった。何も知らず、Waiting Numberを貰わなかったが故に、飛行機に乗れず仕舞いになってしまう人も多いのではないだろうか。
教訓。RQベースのチケットを貰ったら、速攻でStand Byカウンターに行って、番号を貰うこと。後は神のみぞ知る。
- 1月14日(木)
- 昨日のトタバタで、OCCPSの問題が片付かないまま出勤し、午前中でOCCPSの方は何とか片をつけつつも、いつもの如く出発寸前までバタバタして、四時過ぎに空港へ。
ビジネスクラスのチケットを持って、バスに乗るための列に並んでいると、係員が寄って来て、あちらにバスが待ってます、という。何とビジネスクラス専用のバスがあるそうだ。いいよ、飛行機まで行くだけだし、別に構わない。といって、エコノミークラス用バスの列に残ったが、バスに乗り込むまでの2分位の間、次から次へと3人の係員が、あなたはあちら、と言いに来た。その度に、いいよ、というが、3人が3人とも怪訝そうな顔をして去っていった。class consciousなインドらしい話ではある。
ムンバイへのフライトは1時間40分。着陸時のアナウンスで、「外気温は27度」と言っているのを聞いて信じられなかったが、タラップに出てみると、ムゥワァっと温風が吹いていた。1000km近くも南に下って来たのだから当然とはいえ、日中の気温が10度程度のデリーから来てみると、まるで別の国に降り立ったようだ。
いつもの如く渋滞もあって、ホテルについた時にはもう9時前になっていた。ムンバイには、カニの丸蒸しを食べさせてくれる、Lin's Pavilionという、海産物が手に入らないデリーの日本人の間では有名な中華料理屋があって、出張の度に寄っているのだが、今日はもう遅いし、明日の会議の資料を読まなければならないので、ホテル(Ambassador Hotel)のレストランで済ませることにする。
ここのレストランには、生ピアノ演奏があるのだが、ピアニストのオッサン、日本人を見つけると、どこで覚えたのか、「くちなしの花」を歌いだす。それが中々「枯れて」いて、結構いいのだけれども、何度も来ているので、またかよぉと思ったりもしつつ、部屋に戻って午前2時まで書類を読んで寝る。
- 1月13日(水)(くだらないお話です。読み飛ばして下さい。)
- 「人間は考える葦だ」という。また、「人間は学習する動物だ」ともいう(ことを言った偉い人がいたような気がする)。しかし、...。
それはOptionally Convertible Cumulative Redeemable Preference Share(OCCPS)という謎めいた言葉から始まった。
今晩は、パンジャブ地方を中心とする、Lohriというお祭り兼パーティーに招かれていて、それを楽しみにしつつ、明後日ムンバイで予定されているとある会議で議論されるペーパーを読んで論点を整理し始めたのだった。
そのペーパーは、我が社が支援しているインドの中堅企業支援スキームの一環で、とある小企業への出資の提案書なのだが、金融財務関係のテクニカルタームが百出で、大学時代に唯一、「簿記」をギブアップして以来その方面が苦手でならない僕にとっては、これを読み込んで理解するのは至難の技だった。数十ページある書類と格闘してるうちに、OCCPSが出て来て、唯でさえ分からないものが余計分からなくなってしまったのだが、これを理解しないことには、はるばるムンバイまで出張する意味が無い。困ったときのインターネット頼りで、言葉の意味から調べたりしているうちに、とうとうパーティーの時間も過ぎてしまい、事務所には僕の他に誰もいなくなった。
インターネットは偉大だ。OCCPSについても大体のことは分かってしまった。よし、これで後はペーパーの内容をまとめるだけだ、と思った僕は、気分転換に外の空気でも吸ってこようと事務所の外に出る。うちの事務所はオートロックなので、当然鍵も持って出る。一服の後、さぁ、一気に仕事仕上げちまおう、と思って、事務所に戻ろうとしたら、何と、キーホルダーには家の鍵や金庫の鍵はついているが、何故か肝心の事務所の鍵だけがない!さて困った。
ここから私の人生の流転が始まったのである(オオゲサ)。
守衛に頼めば、事務所のスペアキーが見つかるだろうと思って頼んでみると、鍵はすぐ出て来た。早いじゃん、チョキちゃん(=チョキダール=守衛)も中々やるじゃん、と僕は喜んだのだが、出て来た鍵には何故かバツ印がついている。嫌な予感、と思いつつ試してみると、これが全く使えない鍵なのだ。
ここに来て万事窮す。事務所から一番近くに住んでいる某上司の家まで行って、鍵を貰ってこようと決意した僕は、オートリキシャに乗ったのだった。ところが、背広の上着は事務所の中。ワイシャツ一枚だけでオートリキシャに乗ったものだから、デリーの冬の寒さを文字どおり身に染みて嫌というほど思い知らされたのだった。上司の家についたら、コートでも借りて、事務所に引き返そうと思った。
それで鍵が借りられてめでたしめでたし、ということならば、こんなつまらぬ話をだらだらと書くことも無かった。
やっとの思いで某上司の家に辿り着き、震えながらベルを押す。反応がない。祈るような気持で何回も何回も押した。もう身体の芯まで冷え切っている。ところが人一人出て来ない。後で分かったことだが、珍しく外で呑んでいたらしい。
ここに至って万事窮す(2回目)。諦めた僕は自分の家に帰った。キーホルダーに家の鍵がついていたのは奇跡ではないかと思いつつ。
そもそも鍵と僕とは余程相性が悪いらしい。子供の時に、じゃあお兄ちゃん鍵上げるから先に家に帰って玄関開けといて頂戴、と親から預かった鍵束を、ぐるぐる振り回しながら歩いていたらどぶ川に落としてしまい、一家揃って泥棒まがいのことをやって自分の家に入っていったこともあった(家族の間では、20年以上経った今もこの話は蒸し返され、その度に僕は「穴があったら入りたく」なるのだ)。また、デリーに来てからも、今回とは逆で、家の鍵を部屋の中に置いたまま玄関をロックしてしまい、行き所が無くて事務所で一晩過ごしたこともあった。
こんなことを繰り返しているのに、全く学習効果のない私なのである。一体私には人間の資格があるのでしょうか?おお神様!
朝、今日は結婚記念日だといって、おすそ分けのお菓子を嬉しそうにくれたMassiには、Lohriのパーティーに行くつもりで、晩飯は要らない、と言ってあったので、家に帰っても何も食べるものがない。あぁあ、Lohriにも行けなかったし、やりかけの仕事も事務所の中に残して来てしまったし、何とも散々だなぁそもそもOCCPSが悪いんだよなぁ、とOCCPSのせいにしつつ、昨今の馬鹿の一つ覚えオニオンスープを作って暖まって寝ちまおうと、タマネギを刻み始めたのだが、泣けて泣けて仕方がない夜なのであった。
(今日はLohri特集のつもりだったのに、実につまらん話になってしまった!)
- 1月12日(火)
- 夕刻、核実験後の対インド制裁の影響をもろに受けてしまう可能性のある、とあるプロジェクトの責任者と協議。真摯にプロジェクトを進めようと日々努力している彼らと核実験とは全く関係がないが故に、実に長くて我々にとってもつらい会議となった。
インドでは核実験はもう過去のことだけれど、我々はまだまだその衝撃波の真っ只中にいる。ここで言いたいけど言えない、書きたいけど書けないことが多すぎる。あぁ〜つらい。
デリー在住日本人の間で静かなブームを呼んでいる、「アガスティアの葉」について山本由紀子さんから頂いた原稿を掲載。僕もこの間の旅行の最後に行って来たのだが、本当の占いだとしたら出来すぎだし、トリックだとしたら巧妙に過ぎる。でも妙にアトを引いてしまうのが不思議なもの。
僕自身の結果は「南インドエセ貧乏旅行編」でご紹介予定。
- 1月11日(月)
- 昨日の夜から今朝にかけてVSNLが、「ダイアルアップは出来るけれどもサーバーが全然反応しない」、という状況に見舞われて、昨日一昨日分の日記の掲載が遅れた。Help Deskに文句の電話をかけたら、いつものつっけんどんな対応と違って、随分と丁寧な受け答えだったので、感心した。民間業者が参入してきたからかなぁ、と希望的に観測する。
当地マダム約二名及びその旦那約一名と、バラタナティアムを学ぶためにインド通いを続けているという女性とお昼をご一緒する。色々お話して、山登りの経験も無いのにいきなり5,000mの山に登ってしまった話などを聞き、ラダックに行って高山病でへたってしまった自分と比べて、キョウビの女性のパワーには敵わないという結論を独り導いた私であった。
「人間以外の生き物全般の医者」(=獣医)の資格(D.V.M.)を有し、INAマーケットの肉市場もヘッチャラな(というか、本人曰く「好き」なんだそうな)、「ハンドルネーム、あきよん(akiyom)って呼んでね!」というマダムが、インド生活あれこれというホームページを開設した由。ホームページ開設と共に名刺まで作ってしまったという力の入れ様(何とミドルネームまであるようだ)。当ページの強敵出現である。
(名刺をクリックするとマダムあきよんのページに飛びます)。
- 1月10日(日)
- お昼過ぎにとあるパーティーに出席する。知った顔、知らない顔と沢山の人に会えたのだが、途中から沢山来ていたインド人のニイチャンネエチャンを中心としたディスコ(これが、皆、手と腰と脚を別々に動かす「インド踊り」が上手い)に化けてしまい、ニイチャンネエチャンと余り話す機会がないうちに退席、休日中も続けられている事務所の内装工事の監視にいく。
8時半過ぎに今日の作業が終わり、監視役も解かれて、近くのマーケットまでタマネギを買いに行った。調子にのって、昨日のオニオンスープをもう一回作ってやろうという腹である。
タマネギ500g(Rs10。高い!)を買って、八百屋を出ると、今更のように寒さを感じたので、思わず「おぉっ寒い寒い」と独り言をいうと、如何にも寒そうに丸く蹲っていた野良犬が「ナンダナンダ?」という感じでむっくりと首を上げたのだった。
- 1月9日(土)
- 修理工場でウィンカーを直してもらってから、久しぶりにINAマーケットへ行く。特に目的も無くいったのだが、ふらっと寄った魚屋でエビ(結構大きいのだけれど、何エビって言うのか知らん)を見たら、塩焼きにして食べたくなり、5匹買う。140ルピーである。コーチンとかゴアの方から氷詰めにして持ってくるのだというが、如何せん高い。インド人のお客が殆どエビを買わないのも当然か。
マーケットに行く途中、Jelebi(小麦粉を水で溶き、グルグルグルと輪を描くように油に落として揚げたものをシロップに浸けて食べる甘いお菓子)の屋台が出ていたのを見かけて、久しぶりに食べたくなったので、エビを買った後、マーケット内の菓子屋で20ルピー分買う。揚げたてが旨いので、マーケットを出てすぐの赤信号の間に一つ食べた。噛みしめるとジワッとシロップが染み出してきて、火傷しそうなくらい熱いのだが、このところ大気汚染と乾燥ですっかりやられている喉には実に優しい甘さで、少し幸せになる。
エビの塩焼きはやたらと煙が出て、家中がエビ臭くなってしまって困ったが、まぁまぁの味。殻をとって焼いた方が旨かった。ミソは今一つ頂けない。やはり新鮮さに欠くのだ。
エビを5匹も食べたら腹一杯になったのだが、昨今やたらと冷え込むので、暖まろうと思って、生姜入りオニオンスープを作る。タマネギをきつね色になるまで炒め、そこにチキンスープをざっと注ぎ込み、最後に塩胡椒と生姜の絞り汁を加える。我ながら結構旨くて感動する。トレッキングの間、キッチンスタッフが作ってくれたジンジャースープを思い出した。
何だか食い物の話ばかりの一日であった。
- 1月8日(金)
- 僕は朝に弱い。最近は頓に弱い。毎晩このヨタ日記を、ああでもない、こうでもない、と書いているうちに寝るのが遅くなってしまうのも一因ではあるのだけれど。
朝8時にコックのMassiがやってくる。彼は大人しく礼儀正しい性格でもあり、玄関のベルを一回だけ鳴らすのだが、大抵はこれで目が覚めていた。ところが最近は中々目が覚めず、申し訳ないことに、彼は寒い中、何回かベルを鳴らしつつ、じっと玄関の外で待っていることが多いようだ。
昔はもっと早く起きていた。と、いうよりは起こされていた。それも、Massiにではなく、ミルク売りのオッサンにである。
前の住人は牛乳を怪しげなオッサンから買うような人ではなかったので、僕がここに住み始めた当初、オッサンは来ていなかったのだが、ずっと前、社内報に当時のデリー駐在員夫人が書いた文章に、毎日ミルクマンが牛乳を売りに来る、というのがあったのを思い出し、それも楽しそうだと思い、毎日ミルクマンに新鮮な牛乳を持ってこさせるように、とMassiに頼んだのだった。それから、オッサンは毎日何処からともなく来るようになった。
最初のうちは、Massiが出勤してから八時過ぎに現れ、ミルクパン一杯分の牛乳を置いていったのだった。一ヶ月200ルピーである。
オッサンは毎日こんな姿で現れる
ところが、半年もすると、オッサンの来る時間が段々早くなっていき、ひどいときには朝六時半過ぎに現れることすらあった。そんな時間には当然のことながら僕は深い眠りの底にあるのだが、オッサンはひるまずに、「リン」とベルを一回鳴らしては待ち、中から誰も現れないのを見ると、それが、「リンリン」、「リンリンリンリン」、「リンリンリンリンリリリリリリリり....」と乱打になって行く。そうなると流石の僕も目を覚まさざるを得なくなり、Tシャツにルンギ(ムスリムを中心とした労働者が来ている腰巻)姿でベッドから出て、眠い眼で台所からミルクパンを探し、何やらブツブツ言っているオッサンに、「オッサン、いくらなんでも早すぎるぜ」と文句を言いつつ牛乳を受け取ったものだった。余りにも早い来訪が続いたので、Massiを通じて、八時以降に来るように、と頼んだのだが、それでも毎朝七時半過ぎには、「リンリンリンリン...」というベルで起こされ、牛乳を受け取ってからベッドに戻り、Massiが来るまでの三十分間寝直すという毎日が続いていた。目覚めが昼過ぎにしかやってこない週末でさえ、この有り難迷惑な目覚し牛乳配達は続いたのだった。
インドで売っている牛乳は街をウロウロしている野良牛から採ったもので、野良牛は街中でごみでも何でも食べているから、重金属などが混じっているかもしれない、よってシンガポールなどから買ってきたロングライフ牛乳しか飲まない、という人もここの日本人の中にはいるそうな。三十年以上食品添加物だらけの日本で過ごしておいて、今更重金属云々なんかで騒ぐことなかろう、そもそもこの「牛の国」まで来ておいて、わざわざ不味いのに高いロングライフ牛乳を飲むなんて、もったいない話だと思いつつ聞いた話ではあるが、実際、このオッサンが何処から牛乳を持ってくるのか、見たことがないので、オッサンの牛乳が絶対に安全だという自信は無かった。また、インド人からも、ミルクマンの牛乳は水で薄められていることがあるから気を付けた方が良い、と言われたこともあったので、いつか早起きして(!)、このオッサンの牛乳の源を突き止めてやろう、と思いつつ、二年以上の月日が過ぎていった。
ところが、去年のディワリを過ぎたころから、オッサンがパタリと来なくなってしまい、僕の目覚しは専ら八時過ぎにMassiが「リン」とお行儀良く鳴らすベルまで訪れないことになった。
一旦来なくなってみると、あのうるさいベルの乱打も懐かしく、Massiと一緒に、オッサンどうしたのかなぁ、と心配しているのだが、暖かくなったらまた来てくれるのではないか、と期待しているところなのだ。
- 1月7日(木)
- 今日は一日何をしていたのかさえ思い出せず、何も書くことがない。たまにはこういう日もあるものだ。
13年ぶりにパキスタンのクリケットチームがインドでプレーすることになっている。何があったのか良く知らないが、この13年間、インド国内でインド対パキスタンのマッチが行われたことはなく、両国チームの対戦は専ら海外で行われてきたらしい。
ところが、マハラシュトラ州を基盤とし、元風刺漫画家で、「民主主義を信じていない」と公言して憚らないBal Thakerayというオッサンを党首とするShiv Senaという極右地方政党(ここも参照)がパキスタンチームがインドにやってくることに反対しており、Thakerayは、そもそもそういう計画が無いにも関わらず、「パキスタンチームがボンベイでプレーすることは絶対に認めない。実力で排除する」と言っているのだ。Shiv Senaはクリケットチームのみならず、パキスタン出身のGhazal歌手などがマハラシュトラで公演することや、パキスタンの画家などが展覧会を開くことも排除すると言っている。
今回のマッチはデリーで予定されているのだが、何と昨日、Shiv SenaのActivist(活動家とでも訳したいところではあるが、実態はチンピラまがいのガキども)が、デリーまで押しかけてきて、クリケットグラウンドに潜入し、グランドを掘り返して無茶苦茶にしてしまった。
BJPとShiv Senaは、そもそも拠って立つ思想が近いことから、マハラシュトラで連携関係にあるのだが、BJPは今回の事件を受け、このような蛮行は許されない、とする立場を明らかにし、パキスタンチームの完全なる安全を保証する、と表明した。最近Shiv SenaとBJPとの間からは様々な形で不協和音が聞こえてきているが、今年末に予定されているマハラシュトラ州議会の選挙に向けてどのような展開を見せるのか、興味深いところではある。
因みに、このThakerayというオッサン、政党としては、マハラシュトラ至上主義、インド至上主義、ヒンドゥー至上主義を唱えているにも関わらず、やはり根は漫画家なのか、ディズニーの大ファンである。
前回州議会選挙の結果、Shiv Senaが州の政権につき、前国民会議派政権の下で与えられていた外国企業による発電所案件への許可を取り消したことがあった。結局許可撤回は取り消され、この発電所建設は再スタートを切ったのだが、その際、この外国企業のトップはThakarayのところに日参し、ディズニーの新作ビデオなどを贈ってご機嫌をとったと言われている。まるで漫画のような話である。
- 1月6日(水)
- 珍しく朝から雨が降ったお蔭で、空気が若干済んでいる。今日はアンバサダーの「乗り初め」である。
以前から、運転しているとキリキリと何だかボディーが軋んでいるような変な音がしていたので、旅行中に件の修理工場で見てもらったら、今日は雑音がしない。ブレーキを踏んでみると、随分と固く、効き易くなっていたので、よしよし、頼みもしないのにブレーキも調整してくれたのか、えらいえらい、と感心しつつ、オフィスまで辿り着く。
サイドブレーキを引こうとしたら、何と、ずっとサイドブレーキがかかったまま運転していたことに気が付いた。どおりでブレーキがかかり易かった訳だ。サイドブレーキのインディケーターは全く点灯しておらず、気が付かなかったのだ。また、ウィンカーを出そうとしたら、点灯はするものの、点滅してくれない。
あの修理工場に持っていって、どこかを直してもらうと必ず別のところがおかしくなって帰ってくるのだ。あぁ、またか、あの工場だめだな、と思うが、同時に、いや、工場が悪いのではなくて、そもそもアンバサダー自体が悪いのかも知れない、という思いも湧き起こってきてしまう。
ラダック旅行記、トレッキング旅行記と何も手がついていないにも関わらず、南インド旅行記も書かなければいけないので、取敢えずトレッキングの日記帳を起こすことを始めた。まだ見易い形にはなっていないが、作業途中の形で先行公開してしまおう。本当は、一緒に行ったオーストラリア人、イギリス人、レバノン人のTrek Matesにも読めるように同時平行して英訳化も進めるつもりだったのだが、それは夢のまた夢。
もう2ヶ月以上経ってしまったが、当時の日記を見ながら書いていると、あの充実した日々がつい昨日のことのように、というよりも昨日の記憶よりも鮮明に甦ってきて、また行きたくなってしまった。やはり懈怠の中で過ごす毎日よりも、身体で感じた記憶の方が、確実な手応えを持っている。
- 1月5日(火)
- 南から帰ってきて、デリーの空気が悪いせいか、それとも加湿器無しで暖房を一晩中かけたまま寝てしまったせいか、すっかり喉がやられてしまった。おまけに鼻もやられてしまい、匂いも味覚も減退気味である。
南に遊びに行っている間に、当方指示通りにMassiとPushpaが家中でバルサンを焚いておいてくれたお蔭で、ゴキブリがすっかりなりをひそめてしまって、却って寂しい感じがする。
仕事を持って帰宅するが、例によって関係のない本を読み始めてしまったりして、全く手がつなかい。こういうのは、学生時代試験勉強をしなければいけないときに限ってヨコのことを始めてしまったころから変わっていないので、死ぬまで直らないのだろう。新年早々後ろ向きの仕事が多いのも癪に障る。
加湿器代わりに、Pushpaがアイロンがけに使っている霧吹きで寝室に水分を補給して寝てみることにするが、気休めにしかならないだろうなぁ。
- 1月4日(月)
- 仕事始めである。ここでは"Happy new year!"とお互いに言い交わすだけで、職員全員を集めての新年の挨拶のようなものはやらない。また、女性も特に晴れ着を来てくる訳ではない。そもそも、1月3日まで休んでいるのは日本人位のもので、インドの役所は1月1日も通常通り仕事をしている。
何故女性だけなのか、何故正月だけなのか、良く分からない、「仕事始めの振り袖姿」であって、出自ははなはだ怪しいものだが、一応「俳人」の端くれたる僕にとっては、都会のオフィスの「仕事始め」を構成するものとして、NHKの「行く年来る年」で除夜の鐘を聞きながら新年を迎えることと並んで、「正しい正月」の一部なのだ。
と、いうことで、仕事で電話をかけた東京本部に、今年の仕事始めはどうだったかと聞いてみると、もう昨年一昨年位から、晴れ着を着てくる女性は殆どいなくなっているとの由。不景気の中の「一億総自粛」の一環なのかも知れないが、たった2年しか日本を離れていないのに、隔世の感がある。
今日は、シク教の10代目にして最後のGuru(注)であり、現在のシク教団の基礎を作ったGuru Govind Singhの誕生日で、Guru Govind Singhがシク教団の再構築を行ってから300年目に当たるため、盛大なお祭りが一日中続いた。ターバンを巻いたシク教徒達ばかりが数千人もパレードを繰り広げるのは中々壮観だった。
(注) Guruの地位を巡っての教団内部の抗争が絶えなかったため、Guru Govind Singhによって、11代目のGuru(尊師)はシク教の聖典の、Shri Guru Grant Sahib Maharajである、と定められ、これ以降、実在の人物がGuruの地位についたことはない。
因みに、シク教徒(男性)の、「カラーと呼ばれる鉄の腕輪の着用」、「キルパンと呼ばれる短剣の携帯」、「カッチャと呼ばれる短パン状の下着の着用」、「ケシュと呼ばれる頭髪及び髭を切らないこと(ターバンの着用も含む」、「コンガーと呼ばれる櫛の携帯」、は全てKで始まるため、「five Ks」と呼ばれているが、これらと並んで、Singh(男性)、Kaur(女性)という命名等、現在シク教徒の生活規範はGuru Govind Singhによって定められたもの。
- 1月3日(日)
- 12月23日から10日間かかった南インド(ケララ〜タミルナドゥ)の旅から帰ってきた。デリーの気温は5度。日中の気温は30度近くになるチェンナイから一っ飛びで帰ってきてみると、改めてインドの広さを身体をもって実感する。
霧でデリー空港が閉鎖になって、チェンナイから帰ってこられなくなると、4日の仕事始めに間に合わなくなる、それは上司にも同僚にも合わせる顔がないなぁ、と思っていたのだが、運良く空港閉鎖になるほどの霧にはならなかったようだ。
だれが待っている訳でもないが、デリーのアパートに帰ってくると、そこには冷暖房完備の快適な空間がある。旅の間、毎日宿探しから始めなければいけなかった毎日との較差が大きくて、何とも複雑な気分だ。
さて、この日記を読んで下さっている方々へ、あけましておめでとうございます。今年もこのヨタ駐在員のヨタ日記を宜しくお願いします。
トレッキングの日記同様、一体いつになるのか分からないが、この南インド旅行についても、別ページで紹介する予定にて乞うご期待。