- 7月29-31日(木-土)
- シンガポール出張。(以下取敢えず備忘録)
Soldier
タミル運ちゃん
中華街・地下鉄
超級豆乳、超級仙草凍
ドリアン事件
Sim Lim Square
手入れ
Little India、Paan、テープ
Moustafa Centre
Hindustan Ki Kesam
ホーカーズ
買出し
Chachi420
再びSoldier
シンガポール良いとこ?
- 7月28日(水)
- 出張前なので、午前中バタバタ仕事をしてから、昼はPushpaの家へ。今日はHari Ramが亡くなった日から数えて13日目、日本でいう初七日のような法事が営まれる。僕が参加したのは、儀式が始まる前に参列者全員に食事が振る舞われる部分だけだったが、その後坊さんを呼んできて、Hari Ramの写真の前でお祈りをしてから、長男(親を亡くした長男は後頭部の一つまみ程の毛を残して丸坊主になる)の頭にターバンを巻く儀式を執り行うとの由。
このところ、2週間程続けて腹の調子が良くなく(痛みもなく、苦しくもないので何だか良く分からないのだが)、昼食は余り沢山食べるつもりはなかったのだが、小雨が降る雨の中、簡易テントで木の葉を固めた使い捨ての皿に振る舞われた、サブジ、ダール、チョーレ(ヒヨコマメ)などどれも旨く、ご飯とプーリと一緒に結構腹一杯食べてしまったのだった。食事の中にはチキンカレーも含まれていた。恐らく上位カーストの者は目をひん剥いただろうが(葬式の後の食事にノンベジなど言語道断!)、当然野菜よりはチキンの方が高いので、遺族の心尽くしの顕われと思って有り難く頂いた。
前々任者から頂いたHari Ramへのお香典をPushpaに渡す。一緒に行ったMassiから、「Hari Ramの息子達は全然貯えがなく、今回の葬式にも全く金を出していないので、彼らの目の前で金を渡すとPushpaが後でたかられるかも知れないので、そっと渡すのがよい」とのアドバイスがあったので、物陰にPushpaを連れて行ってから渡したのだった。「あの息子達は全く何もしてくれない。今回の葬式が出来たのもSahabのお蔭だ」とPushpaは言っていた。実は息子達はHari Ramの実の息子だが、Pushpaは後妻としてHari Ramの家に入ったので、その辺の問題もあるのかも知れない。Pushpaは今の家を出て妹の家に寄宿することになるという。遺産相続争いがあるとは思えないが、息子達が彼女の老後の世話をキチンと見てくれるかどうか心配だ。
実は今日の夜の便でシンガポールに行く。以前行ったのと同様、日本食の買出しが主目的である。最後のシンガポール出張、丁度ドリアンが旨い季節だと思うので、ドリアンを腹一杯食って酔っ払い状態になってからリトルインディアに行ってこようかと思う。
- 7月27日(火)
- 夕食を同僚駐在員夫妻と、彼らを通じて知り合ったバラタナティアムの踊り手(日本人)と彼女の友達のインド人男女二人とご一緒する。
インド人の内、女性は日本語ペラペラ。実に会話が自然なので、本当に驚いた。アメリカの大学で日本語を勉強したあと、日本の文部省の交換プログラムの一環で札幌の中学校で英語を教えていたとの由。もう一人の男性は、彼女のいとこで、日本語は出来ないが、MBAを目指して勉強中のナイスガイであった。ベチャベチャベチャと日本語・英語を交えてのおしゃべりは十一時位まで続いたのであった。
実のところ、この三年足らずの間、心構えはともかく、生活のリズム、付き合いの範囲は典型的な日本人駐在員のそれであったので、インド人との交友範囲というのも、仕事の範囲に限られていて、「仕事を離れたインド人の友達」というのは極めて少ない。仕事に関して言えば、随分深い信頼関係を築くことの出来た相手が多いと自信をもって言うことができるのだが、今日彼らと楽しい時間を過ごしつつ、それ以外の交友関係を広げる努力を怠ってきたことを心から後悔した次第。
- 7月26日(月)
- Pushpaが出勤してきた。前任者から託ったHari Ramへのお香典を手渡すと涙一杯になってしまった。明後日の昼、日本でいう初七日のような簡単な食事会があるので是非来てくれとのこと。
Hari Ramの死からバタバタしていて「政治日記」が更新出来ていなかったので、まとめて更新した。新聞を見て書いたら何だか情報過多になってしまった?
カシミール紛争関連
- インド陸軍作戦部長、記者会見にて、今日までに全地区で武装侵入集団の撤退が完了したと発表。但し、LoC越えの双方砲撃は今も継続。
- 7月25日(日)
- 昼過ぎに起きだし、私がボリウッドの女優No1(この言い方も多分にインド的ではある)だと思っているTabuの出演したVirasatとMaachisがテレビ放映されていたので見た。Tabuの美しさを再確認した次第。この2本の映画は日本でも紹介されてしかるべきだと思う。それ以外は、何にも、本当に何にもしなかった一日。やはり先週月曜日のハリドワール往復が堪えているのか、身体から疲れが抜けきらない。
インターネットの新聞記事などで、「土用の丑」というのを見た覚えがあったのと、掲示板の方にも「本物のカツ丼うな丼」という書き込みを頂いたので、秘蔵していた鰻の蒲焼きをとりいだし、鰻丼を作った。旨かった。
インドを去るのは嫌だが、日本に帰ったら、温泉にでもいってゆっくりしたいものだなぁ、と思ったりもする今日この頃。帰ったら帰ったで忙しく、そんなことをする暇はないのだろうけれど。
- 7月24日(土)
- このところ会食づいているが、今日は国際交流基金の所長さん宅で、交流基金の駐在員の方とサバティカルでインドに滞在しておられた某助教授の送別パーティー。遅れて行ったのだが、会場に入るなり、某教授から、a salaam aleikum(ムスリムの挨拶)といわれ、何かと思ったら、何だか髭面にクルタ姿の私はインドムスリム染みてきた(!?)との由。喜ぶべきか、悲しむべきか。
今日という日に限って停電になってしまった所長さん宅のリビングは30名は居ろうかという参加者の熱気で蒸し蒸し。呑んだビールもすぐに汗で抜けてしまう。堪らなくなって窓際に場所を移すと、日本語を大学で勉強し、この間まで日本企業の事務所で働いていたというインド人青年がいたので、一頻り話し、Shashi TharoorのThe Great Indian Novelはインド人によってインド人のために書かれたインド民主主義の物語だから、絶対読めと強く薦める。実に穏やかな青年だったので、どっちがインド人なのだか良く分からなくなってきた。
カクテルパーティーの常、色々な人と色々話した。又暑さに堪らなくなり、ベランダに出ると、交流基金の駐在員の後任の人がおり、また一頻り話す。彼もインドフリークで、希望してインドの地にやってきたとのことで、3ヶ月程ヒンディー語の研修を受けているとの由。意を同じくする者として、すっかり意気投合した。
彼はその後、新任者としてのスピーチをなんとヒンディー語でやったのだが、実に立派なものだった(実をいうと、私には分からない単語が2つ程飛び出したので、「じゃぁ、H君日本語に訳して!」と言われた某助教授のリクエストには応えられなかったのです!)。彼はこれから3年はインドに駐在するわけで、実に羨ましい。インドを十二分に楽しんでもらいたいし、日本とインドの架け橋として活躍されることを期待したい。私が去った後、この駐在日記の続編を引き継いでもらおうかなぁとも思ったりして。
- 7月23日(金)
- 同僚駐在員夫妻を通じて知り合った自動車販売関係で駐在されているご夫妻のお宅で夕食を御馳走になる。文字通りの心尽くしの御馳走で、大切な鰹の叩きなどまで頂いてしまい、満喫させて頂くとともに恐縮。
途中からお酒の勢いもあって、アンバサダーの話(「日本に持ってかえるのは良いけれど、壊れたらそれまでだから運転するのはオススメしません」と言われてしまった!)、宗教の話、インドという国は共同幻想なのかという話など、話も弾み、食事のみならず、実に充実した宴となった。ご主人は10年前にもカルカッタに駐在されていたというインドベテランで、今回もその時に雇っていたコックに会うためにカルカッタに行こうかと思っておられる由。
日本人だけで集まると、勢いインドとインド人の悪口ばかりになってしまい、独り不愉快な思いをすることが多い中で、今日は実に楽しい夕べとなった。ホストご夫妻に感謝。
そういえば、Hari Ramが亡くなってから一週間たったのだった。
- 7月22日(木)
- 色々とカッカとくることは多いが、それを除けば大して書くことのない一日(=要すればいつもどおり)。やはりオフィスの中に閉じこもっているといけない。早くどこかに出張しよう。
夕刻、以前にもお会いしたことのある、このヨタ日記を読んで頂いている方が出張でデリーにお出でになったので、食事をご一緒する(また御馳走になってしまい、有難うございました)。アンバサダーの「非安全ガラス疑惑」や、インドの鉄道の話など、楽しい夕食ではあったが、何だか半分近くは、インドを去るに当たっての私の脈絡のないぼやきを聞いて頂いたようなもので、誠に申し訳なく。
政治は微震が続いている。政治日記の更新をしなければならないのだが、今日もサボって寝てしまう。
- 7月21日(水)
- 昨日のことだが、普段は左翼連合政権側と、非政権側、そして自治権拡大を求めているゴルカ国民戦線などがいがみ合っている西ベンガル州の州議会が、全会一致で一つの決議を行った。州都カルカッタをコルカタ(Kolkata)と改名し、西ベンガルという州の名前もバングラ(Bangla: ベンガル)と改名するというもの。コルカタも、バングラも、カルカッタ、ベンガルのベンガリ語発音である。
これまでにも、ボンベイがムンバイになり、プーナがプネーになり、バローダがヴァドダラになり、マドラスがチェンナイになり、トリバンドラムがティルバナンタプラムになり、というように「より正式であり、植民地時代の名残を拭い去るもの」として、インド中で町の名前が変更されてきた。そして、カルカッタもそれに従うこととなったというわけである。
ムンバイなどは政治側のイニシャティブで改名されたものであり、まだまだボンベイと呼んでいる人も多いが、今回のカルカッタの改名は、政治よりはカルカッタ出身の文化人による運動に端を発しているという。ベンガル地方はTagore、Satyajit Rayを始めとした文化人・芸術家を輩出した地である。現在活躍している作家にもベンガル人が多く、カルカッタは「インドの文化の都」と呼ばれることもある。ベンガル人はベンガリ語に関して誇りをもっており、国境を挟んだバングラデシュがパキスタンから分離独立したきっかけの一つになったのも、(西)パキスタンによるベンガリ語排除、ウルドゥー語強制政策への反対運動の過程で若者達が命を落とした事件だった。
ところが、最近、隣のビハールや、インド各地からの人口流入で、州都カルカッタでベンガリ語を話す人口が60%を切ったとの調査報告もあり、ベンガリ語、ひいてはベンガル文化の衰退の兆しが見えてきたとの危機感から、町の名前、州の名前をベンガリ語発音に沿ってに直すべきだという運動が文化人達によって起こされたのである。
このコルカタという新しい名前、実際に人々が使い、本当に定着するかどうかは様子を見てみる必要があろう。少し前に知り合いのベンガル人に聞いて見たところ、「あんなのは一部の物好きが言ってるだけ」と一顧だにしない答えが返ってきた。手続的には、コルカタへの改名は州の権限にて行うことが出来るが、インド憲法に記されている「西ベンガル州」の「バングラ」への改名は憲法改正を必要とするため、9月から10月にかけて予定されている下院選挙後まで待たなければならない。
「復古主義」「植民地時代の負の遺産の払拭」で名前を変えていくのもよいが、他にもっとやるべきことは沢山あるのではないか、と思わない訳でもない。
- 7月20日(火)
- 事務所主催で、円借款の手続に関するセミナーがあり、インド中から約80名が参加した。この手のセミナーはこれまで日本人駐在員主導で行ってきたのだが、今回はほぼ全てが現地スタッフの手で企画され、セミナーの講師も現地スタッフが勤めた。当日、私は端で見ているだけで、一寸ハラハラさせられることもあったが、質疑応答も盛んに行われ、成功を収めたといってよいだろう。
事務所の実質的な仕事の大半が現地スタッフに移っている一方で、日本人駐在員の役割も変貌を遂げなければならない時期に来ている。
ここ3、4日の間カシミールや政治向きで色々なことがあったので、書かなければいけないのだが、昨日の疲れが抜けず、珍しく12時前に寝てしまった。
- 7月19日(月)
- 朝5時起きで、ハリドワールまで片道約200km、5時間の道のりを往復してきた。こんなに長く運転するのは生まれて初めてで、ホトホト疲れたが、給料を払うだけで何もして上げられなかったHari Ramの最後の旅路の船頭役が出来たと思えばどうということもない。(ハリドワール行きの詳細は後日まとめて)
バラナシに引き続き、ハリドワールのガンガでも沐浴してきた。色々な思いのこもった沐浴となった。
- 7月18日(日)
- 明日は一日休みをもらって、Hari Ramのお骨をハリドワールのガンガに撒きにいくので、今日は午後から出勤して一仕事片づける。
その後自動車修理工場に行って、またしても壊れてしまったスピードメーターを直してもらう。さて、このアンバサダー、日本に持って帰るべきか、それとも売っ払うべきか。時間切れが近づいているというのにまだ悩んでいる。
- 7月17日(土)
- Hari Ramのお葬式。(以下後日まとめて)
午後は先生のお嬢さんを紅茶屋、マーケットに案内した後空港まで見送る。空港の帰途、携帯電話が鳴って、「まさか飛行機に乗れなかったのか」と思ったら、何と日本の先生からの電話なのだった。まるで見送りに行ったのをみておられたかのようなタイミングで、驚かされる。
昨日今日と、色々なことが一気にやってきたので、ぐったり疲れる。
- 7月16日(金)
- 我が家のメイドのPushpaの旦那で、Sweeper(床掃除人)を務めてくれていたHari Ramが亡くなってしまった。突然のことで、最初に聞いたときは何かの間違えだと思った。
(以下、一寸突然のことで、色々あったので、後日まとめて書く)
先生のお嬢さんは、(恐らくチケットを手配した私の手違いで)ジャイプールからの帰りの列車を逃してしまった。しかしそこは立派なもの、すぐに代替のバスの手配をして、明日早朝デリーに戻るとの由。インド初心者と思って色々おせっかいしすぎたと思って少し反省。
- 7月15日(木)
- 今日も真面目に働いた。正直言って、九月に帰るという内示をもらってから一週間程、働く気力が萎えていたのだが、そうも言っておられない。まぁ、誠心誠意、一生懸命働いても、長い長いトンネルの先の明かりが見えてこないのが現下の情勢ではあるのだが。
デリーのモンスーン入り宣言があってから既に3週間近く。ところが、日中まともに雨が降った日は殆どない。今日も青空が広がっていて、気温は36度程はあったのではないか。雨が降らないのに、湿度だけは一人前に高く、80%程度あるので、蒸し暑いことといったら堪らない。天気予報を見ると、どうやら雨が全く降っていないのは、デリー周辺のみのようで、ウッタルプラデシュ東部からビハールにかけてはモンスーンの影響でガンガが増水し、洪水地帯が広がっている。
Shuba Mudgalという女性歌手がいる。北インドの伝統声楽の正統派でありながら、様々な実験に取り組んできた彼女が"Ab ke Sawan"(「モンスーンがやってきた」(「Sawan=モンスーン」ではないので、相当意(誤)訳?)というアルバムを最近出した。主題曲のAb ke Sawanはロック調の曲にあわせて、力強い声の彼女が雨期の到来の喜びを歌い上げる、楽しい曲だ。
この曲のプロモーションビデオは、インドの何処にでもある地方都市にモンスーンがやってきて、突然の雨に濡れてしまった人も、窓越しに雨の到来を喜んでいた人も、最後は皆雨の中に飛び出してきて、モンスーンの到来を祝って踊りだし、一大ミュージカルシーンになってしまうといったもの。雨の中、原色系の色彩が溢れて如何にもインドらしく、見ていてこちらも楽しくなってくるし、インドの人々が雨期の到来を如何に心待ちにしているかが伝わってくるビデオだ。独立50周年を記念して発売されたA R RahmanのMaa Tujhe Salaamのビデオと並んで、出来れば手に入れたいものの一つである。
「政治日記」更新。
カシミール紛争関連
- Brijesh Mishra安全保障内閣顧問は、16日早暁とされた武装侵入集団の撤退について、1、2日猶予を与えることも可能と発言。
- 7月14日(水)
- 若い某インド人同僚が、どこかの友達からメールで送られてきたらしい、「アメリカ化したインド人が、ラーマヤナを知らない弟にディワリとは如何なる祭りであるかを説明するした話」というジョークを事務所の中に流した。どんなものかというと、「大昔にさぁ、綺麗なネエチャン(Sita)がいて、それとRamaってぇまぁ、これもかっこいい優男と相思相愛でいっしょになったてぇわけだ。そこにRavanaってぇ男が横恋慕して、ネエチャンを誘拐したからたまらねぇ...」といった具合で、アメリカの俗語を使ってラーマヤナを説明するというものだった。ヒンドゥーではない我々にとっては、とりたてて可笑しい訳ではないが、まぁ、ラーマヤナのポイントは押さえているし、アメリカ化したインド人だったらこんな会話をするんだろうなぁ、といった感じだった。
ところが、もう一人の若いインド人同僚が、「こんなものは可笑しくも何とも無い。我々の神をこんな形で侮辱して欲しくない」と、抗議のメールを返したのだ。
このジョークを送ったのも、抗議したのも若いヒンドゥー教徒であって、送った方にも「神を侮辱する」という意図は無かったと思う。特にその後このやり取りを巡って喧嘩になった訳ではないが、端で見ていて一寸緊張したやり取りではあった。
先生のお嬢さん無事バラナシより帰還。「いいところで、もう一回行きたい」との由で、却ってこちらが驚く。
「政治日記」更新。
カシミール紛争関連
- 昨日来、スリナガル近郊の国境警備隊の官舎を武装ゲリラが襲撃し警備隊幹部4名を殺害、家族12名人質に立てこもるという事件が発生したが、本日早朝対テロリスト部隊が突入し、ゲリラを殺害するとともに、人質を解放した。
カルギル地区の武装侵入集団の撤退(16日の夜明けが期限)がほぼ完了したと言われる中、カシミール内でのテロ活動が激化していく傾向にあるのかもしれない。一方、インドは、パキスタンとの交渉再開の条件として、1)カルギル地区からの撤退、2)LoCの不可侵性についての再確認、3)国境を超えたテロリズムへの支援停止、を求めている。2)についてはパキスタン側としても呑む可能性があるが、3)については、これまで関与を否定してきているだけあって、簡単に呑むわけには行かないだろう。
- 7月13日(火)
- 今日も忙しかった。
「核実験後の経済措置」の影響を真っ向に受けているデリー地下鉄プロジェクトの責任者との協議。毎度のことであるが、明るい話はあまりない。私にとっては、デリーに駐在してからずっと付き合ってきた案件で、実施機関の高い士気・プロジェクトに真摯に取り組む姿勢が光っているプロジェクトなのだが、今の出口のない状況は非常に辛い。
お互い腹を割って、率直な意見交換となった。こちらが継続支援について前向きなことが言えない一方で、先方はプロジェクトを予定通り完成させるために一日も無駄にせずにプロジェクトを推進することに一生懸命で、議論は噛み合わず、中々辛い会議となった。疲れた。
インド人の絶対楽観と日本人の絶対諦観。そもそも噛み合わないのは当然かも知れないが、日本に帰ったら、こういう、言いたい事をキリキリするまで言い合うようなやり取りも中々ないのだろうなぁ、と思ったのだった。日本人同士のやり取りは兎に角はっきりしないことが多くて困る。あぁ、いやだいやだ。
- 7月12日(月)
- 久しぶりにやるべき仕事はしたかなぁと思える一日であった。
夕刻、先生のお嬢さんをニューデリー駅まで送っていく。夜行列車でバラナシまでの旅。インドの駅は、いたるところに列車を待つ人が座っていたり寝ていたり、赤シャツ(日本でいう赤帽)が頼みもしないのに寄ってきたり、乞食も沢山居たりと、慣れない人にはギョッとするところだ。また座席予約の確認も分かりづらいので(一回経験すれば何ということはないのだが)、水先案内人として同行したというわけである。
用心して19時過ぎに駅に着くと、20時発のMagadh Expressは既に11番線に入線していた。ビハールのパトナまで行くこの列車は優に二十両はあろうかという長い編成で、目的のAS2という二等AC車両を探すのに若干骨が折れた。長い列車に沿って、延々と歩いていくと、AS1という車両が見つかったので、あぁ、やっと見つかった、次がAS2だと思ってばかりいると、隣の車両の予約表を見ると探せど探せど名前がない。何とAS2は五両先だという。夕方だというのに、湿度が高く不快指数200位ではないかという中、若干うんざりしながら、大きな荷物を頭にした赤シャツや、親に手を引かれた子供たちなどの人ごみを縫っていくと、果して五両先にAS2があり、入り口の横に貼られている予約表にはキチンと予約が確認されていた。
二等AC車両の中は(インドの基準では)極めて清潔で、運のよいことに予約できたのは上の寝台。隣りも品のよさそうなインド人の家族連れで、列車に乗っている間は取敢えず安心だな、と送り出す者としても胸をなで下ろす。お隣さんと、車掌にインド初心者の一人旅なので宜しくといって、列車を見送る。
インドの大きな駅の雑踏は、その圧倒的な混乱に疲れさせられるものだが、好きな所の一つである。乞食もいれば、赤シャツもおり、座席予約無しの自由車には網棚の上にまで人がいるかと思えば、その百倍近くの料金を払ってFirst Class AC車両に乗る人もいる。これらの人々が皆それぞれに目的の車両を目指し、また到着した車両から降り立つ風景は、インドの社会の縮図のようなもので、それが何故かインドの駅に惹き付けられる訳なのかも知れない。
ほぼ定時発。長い列車はゆっくりゆっくりとニューデリー駅のプラットフォームを滑り出していった。見送りながら、もう一回で良いから気長な列車の旅をしたいものだなぁ、と思ったのだった。
カシミール紛争関連
- インド外務省、インド・パキスタン双方の軍が協議し、地区毎に撤退完了日を定め、武装侵入集団の撤退が開始されたと確認。Batalik地区の7月16日を最後として、撤退は完了する見込。地区毎の完了日まではインド軍は空爆、砲撃など攻撃の一部を緩和するが、それが満たされない場合には空爆も含めて徹底的な排除行動を起こすこととなる。
- 7月11日(日)
- 今日は早起きをしてタブラの学校に行ってみようとしたが、敢無く寝坊。時間切れが近づいているというのに、生活態度は一向に改まらない。
夕方、高校時代からお世話になっている先生のお嬢さんをデリー空港に出迎え。一週間のインド自由旅行である。出迎えた足で、ニューデリー駅前のメインバザールと呼ばれる、バックパッカー御用達の安宿街で一緒にホテル探し。10年前の卒業旅行の時には、一泊10ルピーのドミトリーに泊まったところなので、ある程度の土地鑑はあるつもりだったが、駐在で来てからは殆ど足を踏み入れたことが無かったので戸惑う。すると、予想通り、あのホテルが良い、これのロッジが良いと話し掛けるニイチャンが現れ、彼の後をついていって宿を3、4件見てまわる。エアクーラー(エアコンではなくて水冷式の冷風機)付きのシングルルームがRs200というのが相場のようだ。割高感があるが、部屋の方はインドの水準から言ったら上出来といったところか。しかし、インド初心者の彼女にとっては結構冒険なのではないか。今日の宿探しは手伝うことが出来たが、明日以降、悪名高きバラナシ、アグラ、ジャイプールなどで、スムーズに宿が探せるかと思うと一寸心配ではある。
総選挙の日程が発表された(詳細は「政治日記」参照)。最後まで見届けられないのが悲しい。
カシミール紛争関連
- インド政府、カシミールの武装侵入集団が撤退し始めているとの観測を発表。撤退の完了までに1週間程度はかかるとの見通し。一方、パキスタンとの対話は撤退の完了まで再開しない方針。
- パキスタン外相、パキスタン軍とインド軍が武装侵入集団の撤退について具体的な協議を開始し、地区毎の部分停戦に合意した旨発表。
- 7月10日(土)
- 残り少ない駐在期間を出来るだけ有効に過ごそうと思うが、仕事もあって、中々難しい。そこで、出来るところからやることにした。とりあえずは料理から。
普段は週末使用人は休みにしてしまっているのだが、今週からMassiに来てもらって、私の目の前でインド料理を作ってもらい、それを覚えて帰ろうという訳である。
今日は基本的なチキンカレーの作り方。そのうちレシピが溜まってきたらwebにも掲載することとしよう。
夕刻は、当地に一時滞在して研究を行っている米国への留学生と、国際機関の当地事務所に勤務する方と食事。これまで行ったことのなかった日本料理屋へ行く。
デリーに限らず、在外の日本料理屋というのは、日本人の掃き溜めみたいなところがあって、その雰囲気は好きではない。だから、といっては何なのだが、今日はクルタにドーティーという純粋インド人姿で行ったのだ。
トンカツなどをつつきながら、日印関係などについて激論(?)を交わし、楽しい食事となったのだが、何と予想に反して周りに居るお客さんは殆どインド人、そして殆どが洋服を来ているのだった。インドの日本料理屋で、インド人客よりもインド人らしい服装をしていた私は一体何者なのか?
- 7月9日(金)
- いつものように帰宅して昼飯を食べたあと、さぁ、事務所に戻ろうとしたら、また、Pushpaオバサンから、「日本に帰るなうちの子になれ」との声、コックのMassiからは、「日本でインド料理屋やらないか」との提案(?)。
いっそのこと、インド料理屋やるのもいいかなぁ、と思ったりもする。
カシミール紛争関連
- パキスタン内閣国防委員会、「カシミールの聖戦士」(=武装侵入集団)に対して、「カルギル問題の解決を助ける」(=「撤退」という言葉を使わずに「撤退」を意味する)ことを求める(パキスタン軍の関与についてはこれを否定)決定。「彼らの勇気ある行動により、カシミール問題が国際的な注目を浴びた」ことを評価。
- インド軍、LoCの北部戦線であったBatalik地区で、武装侵入集団の占拠していた高地を99%奪還したと発表。
- 7月8日(木)
- バタバタバタバタと仕事して(余り能率は良くない)、夕方から当地日本人の勉強会へ。
今日のお題は、「コソボ」。何と国際赤十字の救援活動のため、サバティカル中のインドからコソボに行かれた某助教授のお話。「コソボ」というのは、セルビア語の発音で、「コソヴァ」もしくは、「コソヴォ」というのが、コソボ(ではなくて、コソヴァもしくはコソヴォ」で話されているアルバニア語の発音との由。日本では「コソボ」と表記されているから、無意識の内に、セルビア側の発音を取ってしまっていることとなっている。
救援活動のお話も興味深かったが、考えさせられたのは、ユーゴスラビアの歴史の部分。ユーゴスラビアは元々他民族国家で、言葉も宗教も異なる6つの共和国と、コソボのような共和国内の自治領がモザイクのように組み合わさって連邦を構成していた。それぞれの地域、民族には対立を含めて長い歴史的な関係があるのだが、Nehru首相と並んで「非同盟諸国の雄」であったTito大統領の指導力の下、本来バラバラな民族が一つにまとまっていたもの。90年代に入ってからのユーゴスラビア連邦の崩壊は、彼の死後、比類する指導力を持った指導者が現れず、セルビア出身のMilosovic大統領が大セルビア主義を掲げたことが原因と言われている。
さて、何を考えさせられたかというと、インドのことである。ユーゴの多様性、民族間の対立の歴史とは異なるかもしれないが、インドも多様な国であり、何といってもユーゴとは比べ物にならない広大な国土を有する。Nehru、Indira Gandhiの死後、インド全体をまとめあげるカリスマ性を持った政治指導者は現れていない。それなのに、この国をまとめあげているものは一体何なのか。同僚などに聞くと、それはヒンドゥー教だという。イスラム教徒やキリスト教徒には呑めない理屈だとは思うが、本来ヒンドゥー教の持つ寛容性、そして異教を呑込みつつ自らも変貌していく力(以前にも書いたことがあるが、現在のヒンドゥー教徒の生活規範、文化の中にはイスラム教の影響が色濃く見える)は、現在のインドをまとめている力の一つだということは間違えないだろう。
しかしながら、それだけで全てを説明するのには無理がある。Salman Rushdieは、以前、「インドという幻想」というエッセイを書いたが、インドが一つの国だというのは巨大な「共同幻想」に過ぎないのかも知れない。
- 7月7日(水)
- 何だかバタバタしているうちに終わってしまった一日。今週も半分を過ぎてしまった。
昨日、会社を早く退けて本屋に行った。そこで何と1,500ルピーも本を買ってしまったのだ。病気である。そう、私は本屋に行くと、両手に抱える程の本を買わないことには気が済まないという病気なのだ。
日本に住んでいた時も、週末になると何はせずとも本屋には行って、五千円、一万円と散財していた。色々な本を読むのだが、ひどいときには通勤用一冊、トイレ用一冊、風呂用一冊、寝る前用一冊といった具合に、同時に四五冊の本を読んでいたことがあった。ところが、読書病よりも、購書病の方が勝り、インドに赴任してくる時点で、買ったけれども読めていない本ばかりとなってしまった。お蔭で、引越し荷物の半分以上が本になってしまったのだ。
こちらにきてから、高さ1.8mの本棚を二つ、家具屋で作ってもらい、はるばる日本から連れてきた本を納めたのだが、最近この本棚も溢れかえっている。病はインドにきても直らず、時々思い出したように本屋に行っては山のように本を買ってくるからだ。買うだけでなく、きちんと読めばよいものを、幸か不幸かインドで手に入る本は全て英語なので、いきおい読書のスピードも落ちる。それでも反省せず、また本屋に行っては散財し、ということの繰り返しである。
昨日買ったのは、以前に書いた、The Great Indian Novelの著者であるShashi Tharoorが独立50周年にあわせて出版した、India - From Midnight to the Millennium、India Today誌で辛口のコラムを連載しているTalveen SinghのLollipop Street、そしてこの二冊をレジに持っていったら薦められたNirraja Gopal JayalのDemocracy and the Stateの三冊である。どれも、小説ではなくて、インドの社会、政治を採り上げた本だ。取敢えず、Talveen Singhの本から読み始めたところ。
なんだかこの二三日、まとめに入っているような気がするが、インドに来てから一層興味が増したのは、インドの誇る民主主義と官僚制であって、その一環としてインド政治ウォッチも続けてきた。今一番興味があるのは、「インドの地方行政の現場において、民主主義がどう機能しているのか、途上国開発の業界では常識となった、「参加型開発」と高級官僚(IAS)を中心とした行政機構は上手くマッチしていけるのか」ということで、その関係で猟書しているところだ。
インドに興味を持ち始めてからもう15年以上。これまでに読んだインド関連本は数知れない。お蔭で、周りのインド人からも、「インドについて自分よりも良く知っている」などとお世辞を言われることもある。知らないよりは知っている方が役に立つことが多く、色々読書をしていて良かったと思うこともあるが、結局は本の上の知識。ヒンドゥーの神話や神々の名前を沢山知っていても、それは信仰には直結しない。知識として神の名前を百知っていても、その中の一柱を自分のものとして信仰している文盲の民には到底敵わないのだ。
「書を捨てよ町へ出よう」ではないが、今興味のある地方行政とか、政治などについても、実地で目の当たりにしないと、本当のところは何時まで経っても分からないだろう。その意味で、これまで三年近く、折角の機会を無駄にしてしまったという思いが強い。
- 7月6日(火)
- 何をどう書いたらよいものか、結婚の話である。と、いっても残念ながら私自身のことではない。
とある国に、何かにつけてライバル意識を持つP家とQ家という二つの家族があった。そもそもQ家は遠い昔P家から分家した家系であるが故にライバル心もひときわである。
ある日、神のお告げで、とある世話焼きがこの二つの家族の間に縁談を持ち出した。大家族のP家が由緒ある家系で、家業の方も臨機応変に拡大縮小して時代の流れに対応してきたことを誇りに思っている一方で、どちらかというと少子の家系である新興のQ家は、家業が急速に拡大してきたことを誇りに思っている。そこに持ち上がった縁談である。
世話焼きは縁談を持ち出しておきながらも、まぁ、急ぐことはない、お互い納得いくまで待とう、縁組みはゆっくり考えればよいのだから、と言って、取敢えず縁談を持っていったことに満足して去って行ってしまった。残されたP家とQ家は、自分達から望んだ縁組みではないのと、元来のライバル意識が邪魔をして、お互いとまどいがちで、縁組みの相談は中々進まなかった。
そうこうしているうちに、月日は流れてゆき、思い出したかのように、あの世話役が戻ってきた。両家の長老を呼んで、さぁ、もうそろそろいいだろう、結婚式の日取りを決めよう、と言った。この世話役は、最近いくつも縁組みを世話しており、鼻息が荒い。さぁ、神様から、早く日取りを決めて結婚の中身を決めるべしというお告げがあったぞ、と言うのだ。両家で決められないのなら、日取りは俺が決めてやる、x月y日に式を挙げるように、それから式次第も俺が決めてやる、と言って再び世話人は去っていった。
神様のお告げとあってはいたしかたなく、P家とQ家は結婚の段取りを相談し始めたが、大家族のP家は何かにつけて声が大きい。新婚家庭のしきたりは、伝統のあるP家のものに合せるべきだという。Q家はというに、そもそも小家族である上に、最近家業に翳りが見えてきているのか、どうも元気がなく、そうはいっても、うちにはうちのやり方がある、と反論するのが精一杯だ。結局、両家の協議は始終P家ペースで進んでいく。x月y日はもうすぐである。
さて、この花嫁花婿の顔が全然見えてこない結婚、幸せなものになるのだろうか。因みに、この国の法律では、離婚は認められていない。
以上、全くインドとは関係のないお話。私は疲れています。
- 7月5日(月)
- 何とも元気の出ない一日。会社にいるのがつらくなって、5時過ぎに帰宅。
このところ、仕事にしても、何でこんなものやらなきゃいけないんだ、といったものが多く、それも基本的な考え方レベルで理解できないものが多く、そもそもそれをやることの必要性について議論してみても妥協点がないものばかり。
どうも会社の水が合わなくなってきているような気がしてならない。このままでは、日本に帰っても使いものになりそうにない。
原稿が一応仕上がって取敢えずほっとする。
カシミール紛争関連
- Clinton米大統領とSharif首相の協議の結果、シムラ協定・LoCを遵守すること、ラホール宣言を尊重すること、などが共同声明として発表される。実質的にはパキスタンの支援を受けた武装侵入集団の撤退へ向けての具体的的ステップが合意されたものと見られる。
- インドは同声明を歓迎しつつも、第三国の調停は受け入れないこと、武装集団の完全撤退が実現するまでは攻撃の手をゆるめないこと、を発表。
- 7月4日(日)
- 夕方、ちょっとした買い物があって、ニューデリー駅の方まで出掛ける。その後、久しぶりにSarojini Nagar Marketにいって、果物を買おうかと思ったが、何だか高いのでやめた。折角マーケットに来たのだし、インドのマーケットを見るのもあと2ヶ月、と思ってぶらぶら歩く。モンスーンが来て、一番暑い時期に比べると気温は10度程度下がったが、それでも優に30度はあるわけで暑い。何だか喉が乾いたなぁ、と思ったら、丁度食べたかったものが見つかった。Pani Puri(もしくはBhel Puri)と呼ばれるものである。
これは、卵大のプリ(油で揚げて中を空洞にしたチャパティーの類)をカリカリに揚げたものに穴を開け、茹でたジャガイモなどを刻んだものを入れて、そこにマサラの効いた冷水を注ぎ込んで食べるもの。出店にはプリが山のように詰まれており、その横にマサラウォーターの入った鍋がある。まずは小さな皿が渡され、そこにマサラウォーターに満たされたPani Puriが乗せられる。それをためらうことなく一気に口に押し込んで、マサラウォーターと一緒に流し込むのが流儀である。一つ食べたら皿を店番に突き出せば、また一つ盛ってくれる。
う、旨い。外国人がPani Puriを食べるのは珍しいと見えて、店のニイチャンは興味深げに僕のことを見ていたが、視線を気にせず、5個6個とPani Puriを注ぎ込む。随分食べたし、腹もタプンタプンになりそうなので、もういいやというと、もう一個ということで、全部で10個食べた。10ルピーなり。
このPani Puri、街角で見かける夏の風物詩である。マサラが入っているが、涼しくなる効果があると言われている。マサラウォーターの味が絶妙で、思い出すだけでもよだれが出そうだ。
実に旨い清涼剤なのだが、これは旅行者や、慎重な駐在者には薦められない。水はどこからものか分からないし(このマサラウォーターは火を通していない)、鍋の中には水よりも出所不明の大きな氷が浮いているからだ。また、供してくれるオニイチャンも、お金を触った手を鍋の中に突っ込んで、Puriにマサラウォーターを満たしている始末。
インド化した胃袋でのみ楽しめるPani Puri。これも日本に帰ったら楽しめなくなるものの一つである。
カシミール紛争関連
- インド軍の発表によると、戦略上の要害、Dras地区のTiger Hill(標高4950m: カシミールを東西に結ぶ国道1Aを見下ろす位置にある)を武装侵入集団から奪取したとの由。
- パキスタンのSharif首相、Clinton米大統領との会見のため、急遽米国へ。武装侵入集団の撤退に向けての提案が行われる可能性がある。
- 米大統領はVajpayee首相もワシントンに招いたが、Vajpayee首相は、現在は協議する時期にあらずとして断ったとされる。
- 北朝鮮からパキスタンへミサイル関係部品を輸送中と見られる貨物船がグジャラートの港で拿捕される。
- 7月3日(土)
- 残り2ヶ月を切ってしまったという焦りがあり、残りの時間を如何に有効に過ごそうかと思案している。懸案のタブラを習いたいとか、まだ行っていないここそこに行こうとか、色々考えるが、一方で仕事の方もこれまでサボってきたのがたたり、相当重いものが残ってしまっている。また、一人身で気楽なものではあるのだが、日本に帰り、後任者が来るとなると、家や使用人の引継ぎを始めとして、面倒な手続きが沢山あるものだ。取敢えずは引き継ぎ書なるものを作らなければならず、一体何を書いたものかと思案するが、一向に筆は進まず。そうこうしている内に何も出来ずに一日が終わってしまったのだった。
さて、残りの2ヶ月、仕事と遊びとどちらを採ったものか。自分で決めるというよりも、周囲の状況が答えを出してしまいそうだが。
さて、6月17日の項に書いたカシミールでの紛争を巡る日本の見解について、Outlookという雑誌に興味深い記事(無断転載で著作権違反だが、昨今の日印関係を象徴するような記事であるにも関わらず、数週間経つとweb上から消えてしまうので、敢えて転載したもの)が載っている。6月17日には書かなかったが、「核実験後の制裁について快く思っていないインドがキチンと日本側に説明をせず、日本はヘソを曲げているのではないか」と思っていたのだが、どうやらそのとおりのようだ。核実験後、このように感情的ともいえるしこりから、日印相互が距離を置くような関係になってしまっているのは残念でならない。
この問題については、思うところ沢山あり、書き出すと長くなるので、時を改めて書くこととしたい。
- 7月2日(金)
- 朝、いつものように身支度をして、さてどの靴を履こうかなぁ、というところで、メイドのPushpaオバサンが感極まった調子で、「アンタは息子みたいなものだから、日本には帰らないで、うちの子になりなさい」という。そんなとんでもない、と答えたが、こちらもジンとくるものがある。コックのMassiも、家族に話したら、大層悲しがったと言っており、おまけに「日本に連れていってくれ」と言い出す始末。午前の仕事を終えて昼飯を食べに帰った時も、同じような会話の繰り返しで、モンスーンが来たからという訳ではないが、我が家は急に湿っぽくなってしまったのだった。
日本に帰ることを告げてしまったのを少し後悔。毎日こんな会話を繰り返すことになるのだろう。
夕食は某5スターホテルで当地高級官僚と。こういう連中と話しているのも面白いのだが、これだけがインドでは決してない。
カシミール紛争関連
- パキスタンが和平案を用意していると報じられるが、インド外務省スポークスマンはかかる和平案については知らないとしつつも、正式に提示されれば検討すると述べる。
- 7月1日(木)
- 寝坊していつもに増して遅れて着いた事務所では、上司から開口一番「東京から電話があったので折り返し電話するように」との由。そして東京に電話をすると、案の定、あのことだった。
そう、今日は7月1日。来るべきものが来たのだ。
書いてしまってよいのかどうか知らぬが、9月一杯をもって日本に帰ることと相成ったのである。
いつか来る日だと頭では分かっていたのだが、いざ帰ることになってみると、振り返ってみて何も出来なかったという思いに駆られるし、「インドの素顔」に接して来なかった自分を責めたくなる。インドを去らなければならないのは悲しい。
さて、残り2ヶ月どのように過ごそうか。まぁ、どのような形にせよ、インドにはまた戻ってくるつもりではあるのだが。