最近の日記 - 98年6月

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6月30日(火)

今日も朝から雨。日中はむしろ薄暗いくらいだった。取り敢えず、ラダック行きのチケットをアレンジしてもらう。金曜日一日休暇を貰い、月曜の朝にデリーに帰還ということになりそうである(休暇を認めてもらえたら)。この頃色々あって、現実逃避が必要なので、是非行きたい。今日は上司に言い出せなかった。あしたこそは。

(実をいうと、6月18日以降の日記をまとめ書きしたので、疲れてあまり書けないのです。取り敢えず、一挙に掲載します。)

6月29日(月)

今日は朝から雨が降り、久しぶりにモンスーンらしい日になった。暑さも一段落で安心する。

週末に本を買ったらおまけでくれた地元情報誌を見ていたら、ラダックのHemis Gompaという僧院で年に一度のお祭りが7月4-5日にあるという。それを見て発作的に行きたくなった。カイラス山行きの計画もあり、高度に慣れるのもいいなぁと思い、勝手に行くことに決める。休みを一日はとらなければいけないが、まあ、いいか。

6月28日(日)

今日は僕の誕生日だ。と、いって特に予定はなかったのだが、武貞夫妻から、Amitabh Batchanの新作映画(26日封切り)"Major Sahab"を一緒に見に行こう、とのお誘いがあり、チケットの調達を買って出る。既に50歳を超えているAmitabh Batchanは前作(若い女優相手のロマンスもの)が大外れだったが、今回は「年相応」の役で、新たな境地を開拓できるのではないか、全般的に不調なBollywood映画を盛り上げることが出来るのではないか、と期待されているものだ。

今日の昼過ぎの回のチケットを買おうと思い、多分長蛇の列だろうなぁ、と思いつつ映画館に行ったのだが、何と誰も並んでいない。聞いてみると、今日も明日も明後日もすべて完売、とのこと。どおりで誰も並んでいないわけだ。

映画はあきらめて、夕食を武貞君宅でご馳走になる。暖かいご配慮に感謝。何とMajor Saabのテーマ曲のCDまで頂いてしまった。これを聞き込んでおいて、本チャンで見るときに盛り上がれるように備えて置こう。

6月27日(土)

こんな新聞記事があった。どっちもどっちかなぁーと思う。特にインド側は大人げない。ここでこの援助を受けて、「核実験を巡って日本との意見の違いはあるけれど、その他はbusiness as usualだし、こういう善意は有り難く受けることとしたい」として置けば、「点数」も上がったというものなのに。極めて「インド的」な対応だと思うし、誇り高いのは良いが、核実験後の状況はもっと上手く、Shrewdに振る舞うべきだと思う。一方で、インドには「災害救援には外国援助を受けない」という不文律もあったのではないか」とも思う。

> === <980626-22> news.asahi/international, -(-), 98/ 6/26 17:40, 26行
> 標題: インドが日本のサイクロン災害援助を断る
> ---
>  駐インド日本大使館が26日明らかにしたところによると、イン
> ド政府はサイクロンによって1073人の死者が出たグジャラート
> 州の災害に対して日本政府が提供しようとした約4000万円相当
> の緊急援助を拒絶した。インド核実験後の日本外交に反発を示した
> 可能性も出ている。
>  大使館側の説明によると今月9日に発生したサイクロンで予想以
> 上の大規模な被害状況が判明した今月12日、平林博駐インド大使
> はソムパル国務相(農業担当)に日本政府が緊急援助をする用意が
> あることを伝えた。
>  ソムパル国務相は大変喜んで、バジパイ首相にも伝え、同首相も
> 喜んだという。日本大使館はグジャラート州政府に連絡をとり、援
> 助計画を伝えた。同州政府からは発電機や毛布、水貯蔵タンクなど
> 、緊急援助物資のリストが日本大使館に提出された。日本政府は、
> 必要な手続きを特別に簡略化したうえ、約4000万〜5000万
> 円相当の緊急援助品を現地へ送る手はずを整えていた。ところが、
> 24日になって、ソムパル国務相から日本大使館に連絡が入り、「
> 申し訳ないが、政府が日本政府からの援助は望まないと言っている
> 」として受け取りを拒否してきた。
>  いったんは歓迎された日本の援助が急に拒絶されたいきさつにつ
> いて、日本大使館のある高官は「核実験後に日本が経済制裁をした
> ことまではインドは仕方がないと考えている。しかし、その後、日
> 本がカシミール問題で仲介を買って出たり、国連安保理事会でイン
> ド制裁決議の先頭に立ったことなどが、インド政府の反発を買った
> と考えられる」と見ている。
>  平林大使は「緊急人道援助まで拒否されるとは心外だ」と話して
> いる。

いずれにせよ、この記事を見た一般の日本人はインドに対して反発を強めることになるのだろう。今、東京では、インド映画が予想外の人気を呼んでいるとのことだが、そもそもインド独立50周年を記念して公開されることになっていたものの、当局からのお達しで、宣伝も抑え目にしていたという。我々「インド好き」にとっては、何とも哀しい状況ではある。

6月26日(金)

今日は日中非常にムシャクシャすることがあった。チクショウめ!(因みにインドやインド人に怒っているのではありませんので、念のため)余りカッカときてはいけない、とは思いつつも押さえ切れない怒り。

今晩は朝日新聞のF論説委員と夕食会。例によって、調子に乗ってベラベラとインドのことを喋っていたら、Fさんから、「いやぁ、Harashoさんは論が立ちますねぇ」と言われ、大変恐縮する。

夕食会の後、自宅テレビではWorld Cupのチャンネルだけが何故か良く写らない、というT夫妻、O首席、M次席と共に、お酒を飲みながら我が家でジャマイカ戦を観戦する。これまでの2試合よりも「残念度」が低いような気がする。T君(=阪神ファン)曰く「まるで阪神ファンが阪神の負け試合を応援しているような」Oサッカー部キャプテン(=阪神ファン)の観戦振りに感心する。冒頭と終わりに出てきた解説のおじさんはターバン姿でした。

6月25日(木)

朝、思い立って、出勤前にTilak Margにある運転免許交付所に行く。項目を埋めたまま、半年以上ずっと手元にとってあった仮免許申請書にパスポートの写しとか、大使館の証明書、免許交付所前の超簡易青空病院(!)(ターバン姿がお医者さん)で作成してもらった健康診断書なども添付して窓口に提出する。窓口のオッサンは、申請書を精査することも無く、申請手数料の50ルピー受け取ると、即座に「交通法規のテスト場に行け」という。テストを受けるまでの間、行列しなければいけないのではないか、と覚悟していたので、この間約2分足らず。この余りにテキパキした対応に取り敢えず感動する。仮免取得のためには実技試験はなく、交通法規のテスト(みんなは簡単だと言っている)に合格すればよいのだ。

テスト場は、小さな小屋だった。「コンピューターのテスト」と言われていたので、一人一台コンピューターのスクリーンに向き合ってテストを受けるのか、インドにしては進んでいるなぁ、すごいなぁ、と思っていたのだが、「コンピューターのテスト」というのは、マークシート方式のことだった。小屋の中で改めて申請書を提出すると、パーンをペッと吐き出した試験官が、厳かに「では少し外で待つように」と言った。小屋の中は狭く、試験官の執務机を囲んで椅子が5、6脚置かれており、受験者が真剣にマークシートに向かっていた。

一端小屋から出て、木陰に置かれた椅子に座って再度呼び込まれるのを待つ。一緒に待っている人を見ると、皆「交通規則教本」みたいなものを熱心に読んでいて、中にはマジメに線を引いたりしている人もいる。ここで私は激しく不安になった。「運転教習を受けた時(97年)には、交通法規なんか誰も教えてくれなかった。日本でさえ免許を持っていない俺が全く準備もなしにインドの交通法規の試験を受けようなんて、無謀じゃないのか?そもそもあんな教本があるなんで誰も教えてくれなかったじゃないか?」と精神が動揺し始めたら、急に腹の調子が悪くなり、激しくトイレに行きたくなったが、グッと我慢する。「付け焼き刃で勉強したって、どうなるわけでもなく、えいままよ、どうにでもなれ!」、と腹を括ったら、腹の調子も収まった。現金なものだ。

1時間くらい待たされるのかなぁ、と思っていたら、10分も経たない間に小屋に呼び込まれ、マークシートの用紙を渡される。全20問、うち14問以上正解で合格、と書いてある。さて、問題の設問だが、はっきりと憶えていないのが悔やまれる。当然、問題用紙はその場で回収されてしまった。以下憶えている範囲で:

問:右車線(追い越し車線)を順調に運転している車がある。
   貴方はその後ろにいるが、どうしたら良いか。
1.クラクションを激しく(violently)鳴らし、道を開けさせる。
2.いつでも左車線から抜いて良い。
3.反対車線にはみ出して抜いて良い。
4.そのまま巡航速度で後をついていけば良い。

問:貴方の車の方向指示器は壊れている。どうしたら良いか。
1.気にする必要はない。方向指示器なんてどうでもよい。
2.気の向いた時だけ、Hand Signを使えば良い。
3.完全に修理が終わるまで、運転してはいけない。
4.常にHand Signを使って運転しなければならない。

問:クラクションはどのような時に使うのか。
1.道を行く貴方の友達を見つけたとき。
2.前を行く車に道を開けさせ、速く運転したいとき。
3.信号が変わった時に出来るだけ速く発進したいとき。
4.自車の存在を知らせ、未然に危険を回避するとき。

試験時間は20分。半分くらいはこの手の、如何にも「インドにおける運転常識」の裏をかくような設問ばかりで、答を書きながら、吹き出しそうになってしまった(でも廻りの受験者はすっごく真剣)。日本人なら、車を運転したことの無い人でも、常識で回答できそうな問題ばかりで、僕は5分も経たない内に終わってしまい、試験官に回答を提出する。奥の方に一台だけあったコンピューターのスキャナーにマークシートを伏せ、スキャンすると、ものの10秒も経たないうちに、「合格」ということになった。「マークシートの確認でまた時間が掛かるんだろうなぁ」と思っていたのだが、ここに至り「コンピューターテスト」の威力を思い知らされる。その場で、申請書に添付した写真をスキャナーで刷り込んだ仮免許が発行された。試験官は「合格」とも言わず、極めて事務的に「はい、これあなたの仮免」といって渡してくれた。何はともあれ、めでたしめでたし。

仮免は6ヶ月有効で、その間は正規免許所持者を横に座らせること、車の前後にL(=Learner)字のマークをつけること、が条件となっている。1ヶ月後に本免許の試験を受けることが出来るが、もう、法規の試験はなく、実技のみとのこと。それも、窓口で、「今日ここまでどうやってきました?」と問われて、「自分で運転してきました」と答えればその場で免許が発行されることもあるらしく、良く言えばフレキシブル、悪く言えばいい加減な試験らしい。

さて、やっとこれで、3ヶ月位続いていた「全くの無免許運転」状態から解放される。何とも言えない安心感(まだ早いって!)。うれしくて、事務所でお茶の時間にラスマライ(牛乳から作った甘いお菓子)を皆に振る舞い(インド人は身内でお祝い事があると、良くお菓子を振る舞う)、正式免許が取れた暁には、アンバサダー購入時からペンディングになっている我が家でのパーティーに皆を招くことを約束した。

6月24日(水)

夕方からとある会議に出席。それにしてもインド人は良く話す。それに早口。あの早口は何処からくるのだろう?同じ人でも、英語を話している時の方がヒンディー語を話している時よりも断然早口だと思う。インド人が大勢の会議の中で我々日本人が存在感を示すためには、こちらも負けないくらい喋り、時には人の発言中に割り込む位のことをしなければいけない。流れについていけなくて、自分の言いたいこと、聞きたいことについての議論が終わってしまったあとでも、敢えて議論を振り出しに戻してでも、言いたいことは言うべきだ。

但し、机を叩いたりとか、やたらめったら怒鳴り散らす、というのは厳禁。「インド人は手強い相手だから、強く出なければ」というので、この辺のことを誤解している日本人が結構多いらしい。

でも、議論好きは良いが、議論ばかり延々としていて、物事が遅々としてしか進まないのがこの国。それでも遅々たる歩みであっても前に進んでいるだけましか?

6月23日(火)

デリーに向かうJet Airwaysの座席は向かって右側の窓側。このルートは右側(逆方向では左側)の座席に限る。ヒマラヤが見えるのだ。カルカッタから雲の中を段々高度を上げていき、バラナシ上空にかかると、ドーン!とヒマラヤが見えてくる。まともな地図を持っていないので、どれがエヴェレストで、どれがアンナプルナなのか、ハッキリとは分からないが、なんか得したような気分。降下を始めるところまで山が見えたので、子どもみたいにずぅーと窓から外を見ていた。隣りの妙にツンツンした白人のオッサンに訝られる。

モンスーン入りしているのだから、カルカッタよりは涼しいだろう、と期待しつつデリーに降り立ってみると、豈図らんやカンカン照りで、カルカッタよりも暑い。聞いてみると、モンスーン入り宣言があったにも関わらず、きちんとモンスーンしてくれたのは、最初の2日間だけで、後は気温40度の毎日に逆戻りし、湿度も上がってしまったので、帰って過ごしにくい毎日だったそうだ。あついあつい。勘弁して欲しい。

6月22日(月)

午前中プロジェクトサイトを見て、同行の電力庁の人々と昼過ぎにTATA Nagarに向けて出発。アンバサダーの中で、すごく蒸し暑いのに自分でも呆れるくらい「爆睡」して汗ダクになる。それにしても、あのアンバサダーはいくら飛ばしても速度計が60km以上に上がらなかったような気がしたのは気のせいだろうか、それとも夢だったのだろうか?早目についたTATA Nagarの駅で1時間位時間をつぶす。良い天気だったのに、瞬く間に真っ黒な雲が出てきて、ザーザー降りとなって、随分しのぎ易くなった。

ホームで列車を待っている間に、ヨーロッパ人連れのインド人が、寄ってくる乞食達にすごい剣幕で怒鳴りつけていた。外国人を連れているからといってあそこまで怒鳴る必要はないのに、と思う。何であんなにカッコつけようとするのだろうか?

17:00発のShatabdi Expressに乗り込む。後は極楽極楽、Shatabdiの夕食はこれまた旨い。この晩はカルカッタ泊。

6月21日(日)

この日は朝6:00ハウラー駅発のShatabdi Expressに乗って、西ベンガル州電力庁が実施しているプルリア揚水発電所建設事業のサイトを訪れる。4:30位に起きると猛烈な雨雨雨。タクシーでハウラー駅へ。普段5〜60ルピーのところ、150ルピーと言われ、100ルピーだけ押し付けて雨の中ケンカ別れで逃げる。

Shatabdiという大都市近郊特急は実に快適だ。First Classでは冷房の効いた客室に着席すると、まず一人一本ミネラルウォーターが配られる。引き続きその日の朝刊が配られ、紅茶、ビスケット、果物、オムレツ、トースト、再び紅茶と朝食がフルコースでサービスされる。

さて、インドの日曜紙の名物、それは何といっても「結婚広告」だろう。良く知られていることだが、全面を埋め尽くす、「花嫁募集」とか「花婿募集」という奴である。「個人的にも」非常に興味深いトピックであり、これについては、別途どこかで書きたいと思っているが、Shatabdi Expressの中でカルカッタの新聞を読んでいたら、こんな記述があった。

Grooms Wanted
WB Mukherjee foreign bank's
highly placed officers only issue 26/5ft 1inch
Darjeeling Loreto graduate,
computer diploma (NIIT)
fair, good looking, homely, pretty.
Established suitable groom desired.
...

また、

Brides wanted
EB Dhaka Tili, Kashyap,
Devari-gan, only son, 29/5 ft 10inch
BSc, computer programmer,
emplyoed in foreign company,own house in Calcutta
Fair, good looking graduate,homely, tall
within 28 bride wanted
...

というのもあった。ここで気になったのは、WBとか、EB Dhakaという記述だ(Mukherjeeとか、Tili, Kashyapというのはカースト)。WBは西ベンガル、EB Dhakaは東ベンガル(=バングラデシュ)のダッカのこと、というのは分かったが、まさか、国境を越えた結婚を求めている、ということなのだろうか?同行者のMr Dasに聞いてみたところ、そうではなくて、家族の元々の出身地のことだそうだ。ベンガル人の間では、西ベンガル=文学・芸術・情緒的、東ベンガル=科学的・女性は料理が上手い、というのが一つのステレオタイプになっているそうだ。それぞれが出身地に誇りを持っているらしく、結婚の時にもそれが大きな要素になるらしい。デリーの結婚記事では見掛けない、如何にもベンガル州らしい記述だ。

さて、列車は隣りのビハール州TATA Nagarに着く。ここはTATA製鉄の企業城下町。ここから国道沿いに約2時間半、西ベンガル州に向かって折り返していく。段々ベンガルに近づいていくにつれ、街の看板も日頃親しんでいるヒンディー語のDevnagari文字からベンガル文字に替わって行く。この辺りは1950年代の州境再確定作業の際に、ベンガルに帰属するか、ビハールに帰属するか、結構もめたらしい。さて、州境を越えると、途端に国道の整備状況が悪くなる。国道の整備、維持管理もそれぞれの州の公共事業局に任されているので、州によって力の注ぎ方の違いが如実に現れる。

暑い暑いドライブ(クーラーなんかないアンバサダー)が終わり、そうこうする間にプロジェクトサイトに着いた。それにしてもアンバサダーは強い。馬力はそんなにないはずなのに、到底普通の乗用車なら走れないような山道・あぜ道のようなところをガンガン行ってしまう。車がすごいのか、運転手がすごいのか、分からなくなってきた。

それにしても暑かった。特にトンネルの中は湿度が高く、堪らない。あれでは、キチンとした換気装置なしでは仕事が出来ないだろう。

サイト視察の後、夕食時にMaghuaという花から作った地酒を飲ませてもらう。樹に咲く花で、蜜が濃く、発酵し易いので、ゾウが食べてフラフラ酔っ払っていることもあるそうだ。肝心の酒の方は、匂いがきつく、少々苦目で、薄めた焼酎のような味がする。ミネラルウォーターの空き瓶に詰めてもらい、マニプール焼酎のライバル出現!ということで、デリーに持ち帰ることとする。これからも、出張先の地酒を集めてみることとしよう。

6月20日(土)

さて、この日はサイト出張までの間、一日開いてしまったので、カルカッタ市内を廻ることにした。昼前にホテルを出て、タクシー(カルカッタの神、血と力の女神Kaliがまつられている)でまずNetaji Bhawan(Netaji Subash Chandra Boseが住んでいた家)に行くが、1時半まで昼休みといわれ、丁度お腹が空いてもいたので、タクシーの運ちゃんに何処か安くて旨い店に連れて行け、といったら、近くの食堂に連れて行かれた。これが外見は全く食堂らしくなくて、なんか薄暗い汚いところだなぁ、と思って入っていくと、そこが食堂で、一層薄暗く、汚いところなのであった。壁にドゥルガ(ベンガル地方で人気の高いヒンドゥー教の女神)と並んでNetajiの写真が貼ってあったりして、写真を撮ろうかなぁ、と思ったが、楽しげもなくただ黙々と飯を食べている、如何にも貧しげな人達から何となくdesparateな感じを受けて、写真は遠慮した。運転手と向かい合って座り、出てきたのはマトン、川魚、野菜のカレーにダル(豆カレー)に山盛りのご飯。ベンガル地方は米どころで、魚もベンガル人の食卓からは欠かせない。これらをごちゃごちゃと手で混ぜて食べる。因みに、ベンガル風の手の使い方は北インドの手の使い方に比べると豪快だ。手の平の真ん中くらいまで使ってご飯とカレーを混ぜて口に運んでいる人が多い。決して衛生的とは言えない食堂だったが、どの料理も旨かった。腹一杯食べて、運転手と僕とで合わせて60ルピー也。ホテルなどで食べて如何に無駄な金を使わされているか、思い知らされる。

さて、改めてNetaji Bhawanに行く。Netajiが1940年にベルリンに向けてインドを陸路脱出する寸前まで住んでいた家で、今は記念館になっている。中にはNetajiの遺品や、写真などが展示されている。Netajiは1943年隠密裏にベルリンをがUボートで出発し、マダガスカル沖の公海上でUボートから日本の潜水艦に乗り換え、東京に向かった訳だが、その際の日本の潜水艦上の記念写真や、インパール作戦でのINAと日本軍の共闘の写真も展示されている。また、印象的だったのは、Netajiの自由インド仮政府が発行した切手だ。この地図では、今のインドとパキスタンとバングラデシュが一つの「インド」としてあらわされている。実際、Netajiが戦後も生き延びて、インド独立運動に別の形で加わっていたら、存外、この切手通りの形で「インド」が独立出来ていたのかもしれないなぁと思った。ナチスドイツとの関係や、日本の軍国主義との関係で、毀誉褒貶色々ある人だったのだろうが、やっぱりかっこいい人だなぁと思った。円借款のプロジェクトでも対象交差点の一つに、五叉路のど真ん中に大きなNetajiの銅像が建っているところがある。交通の便、という観点からは当然取り除いてしまったほうがよいのは事実だが、計画段階でそのようなアイデアは捨てざるを得なかったそうだ。

展示物を一通り見た跡で、庭の大木から何か採っているところに出会った。何かと思ったら、ライチーを二廻りくらい小さくしたような木の実を採っている。そのまま眺めていると、僕にもいくつか分けてくれた。食べてみたら、甘いけれど、ライチー程の瑞々しさ、味わいはない、言うなれば「鄙びたライチー」といった味がした。木の実の名前は聞いたのだが、忘れてしまった。残念。

(因みに、Netaji Bhawanは写真厳禁だそうです。撮ってしまってから言われたので、そそくさ逃げてきてしまいました。)

次にRabindra Saraniという狭くて、トラムも走っていて、モスクもあって、常にがやがやしている、結構「濃ゆい」通りに面しているタゴールハウスに行く。ここはタゴール一族が暮らしていたカルカッタの家だ。Rabindra Saraniの喧燥からほんの少ししか離れていないのに、ここには静寂があった。恥かしながら、Tagoreのことは余り良く知らないので、展示の中にも良く分からないものもあったが、捉えどころのないような文化の巨人、といった印象を持った。Tagoreのことを勉強したらまた行ってみよう。

この後、Hoogly川の対岸にある、ラーマクリシュナミッションにいった。ここも、ラーマクリシュナという宗教家とその弟子であるVivekanandaというSwami(聖人)のゆかりの地だ。この二人についてもここで語るほどのことは知らない。勉強する必要がある。ここも、同じカルカッタ(厳密にいうと対岸のハウラー)とは思えないくらい、静かで、また川風のせいか、街の中よりも涼しかった。

その後またRabindra Saraniに戻り、クルタを購入。よくよく考えてみたら、9年前にインドに来たときにもこの通りでクルタを買ったのだった。この辺の商人はイスラム教徒で、ウルドゥー語を話している。聞いている分には殆どヒンディー語と同じなので、(一方的に)親密感を感じる。

さて、この晩はワールドカップ対クロアチア戦。急ぎホテルに帰り、観戦する。惜しかった。ところで、インドにおけるサッカーのメッカ、それは西ベンガル州だ。何と、ナショナルチーム11名の内、8名はベンガル人だという。カルカッタの郊外には、サッカー専用スタジアムもある。クリケットスタジアムはインド中で見かけるが、サッカー専用スタジアムはめずらしい。デリーで見るワールドカップ中継の合間に入るCM(コカコーラ?)でも、カルカッタの街中での草サッカーを題材に取上げたものを見かけたことがある。雑誌の記事でも、「ワールドカップを3回連続観戦し、ハットトリックを達成したMr Pranab Mukherjee(典型的なベンガル人の名前)」というジョークが掲載されていた。聞くところによると、インド亜大陸を挟んで反対側のケララ州でもサッカーが盛んらしい。この二州の共通点といえば、何といっても「世界でも希な、民主的に選ばれた共産政権」だが、共産主義とサッカー、何か関係があるのだろうか?

6月19日(金)

昨日マニプール養蚕事業のサイトからの帰途、カルカッタに到着した種田首席と西ベンガル州政府の要人との会見に同席する。西ベンガル州政府の中央庁舎はWriter's Buildingという、東京駅(丸の内口)のような煉瓦造りの建物だ。これは、大英帝国時代に東インド会社の本部があったビルだそうで、非常にクラッシックなリフトがある。外見は厳めしく、以前仕事で一緒になった英国人は「あのposhなビル」といっていたのだが、中はposhどころかやはり典型的なインドの役所。何をしているのか、何を待っているのか良く分からない人々が廊下の至るところに佇んでいるし、ガラスのコップをガチャガチャ言わせながら歩いているどう見てもChild Labourだとしか思えないチャイ屋の小僧もいる。そのような中で、IASオフィサーの権化のようなChief Secretary(州の首席次官)等との面談に臨むがその場だけは別世界。正に州の行政の全権を握る高官だ。面会中もひっきりなしに電話が飛び込む。

その後、電力大臣や発電公社(バクレシュワール火力発電所建設事業を実施中)、電力庁(西ベンガル州送電網整備事業等を実施中)との面談があったが、話は一挙に夜に飛んでしまう。ベンガルの地はノーベル賞を受賞した詩人且つ総合芸術家のタゴールの出身地であり、そういう文化的な背景を誇りに思っている人達が多い。この晩は、電力庁主催の夕食会があったのだが、まず、州電力省の次官(73年Batchの立派なIASオフィサー)が北ベンガル民謡のプロの歌手で(レコードも出しているし、コンサートもやるらしい)、彼が先鞭を切って、色々な人達が次々と自慢の喉を披露していった(カラオケなんかないですよ)。それも、Ghazalと呼ばれるもので、聞いているこちらが圧倒された。当方は種田首席がこれまた自慢の喉を披露、一時は私にお鉢が廻ってきそうで、冷や汗タラタラだったが、首席のおかげで恥をかかずに済んだ。

さて、歌に加えてすごいなぁ、と思ったのは、誰かが歌を歌っていると、それに合わせてタブラを叩き始めた人(勿論タブラはその場にないので、テーブルをタブラのようにトントンドシドシ叩く)がなんとインド側出席者11人中4人もいたこと。皆それぞれ自分の息子や娘にも同じようにタブラとかシタールなどの古典楽器をたしなみとして学ばせているという。以前、「インドの政治の中心は、デリー。金融商業の中心はボンベイ。文化の中心はカルカッタ。ヨーロッパの文化の中心はパリだから、カルカッタをパリ並みにしなければ」と主張している人に会って、面食らったことがあったが、その実像を垣間見たような気がした。

6月18日(木)

朝4時半に起床。2時半くらいまでナンダカンダいって仕事をしていたので、殆ど寝ていない。6時30分デリー発のJet Airwaysでカルカッタに向かう。Jet Airwaysは国内航空民営化の尖兵であり、90%以上の時間通りの運行をウリにしている。また、スチュワーデスが若くて、スカートをはいているのもウリである(Jet Airwaysの競争相手であるIndian AirlinesやAir Indiaのスチュワーデスについては、ここご参照)。カッキリ定時デリー発。2時間後、定時にカルカッタ着。

カルカッタはムシムシしている。空港についたその脚で、円借款で実施中の「カルカッタ交通基盤整備事業」の対象となる交差点を現地に張り付いて案件の実施促進を行っておられるコンサルタントのHさんと巡る。カルカッタは市街地に占める道路の面積が約6%と極めて低く(通常は30%程度)、至るところで渋滞が発生している。これを改善するために、フライオーバー(高架橋)を7箇所に建設し、平面交差点の拡幅・改良を3箇所実施するものだ。それにしても暑い。汗をダラダラ流しながら、全ての交差点を廻る。至るところで道路に突き出して作られてしまっている(違法)建築物がこの人口過密都市でのプロジェクトの難しさを物語っていた。因みに、"The Pride of Calcutta"と言われる、今のところインドで唯一の地下鉄(全長約17km)は、何と25年間の工期を要したし、フグリー川に架かる第二フグリー橋(全長400m: ガイドブックはアジア最長の斜張橋というが?)も10年以上かかったそうだ。まぁ、それでもどちらも何とか完成させた、というのがインドらしいところかもしれない。

交差点巡りの際に、Hさんから面白い話を伺った。「東南アジアなどではバラバラなステップを良く見掛けるのに、インドの階段はステップの高さがキチンと揃っていて感心する」というのだ。言われてみれば、確かにステップがバラバラになってしまっている階段はあまりみたことがない。こういう基本的なところで、その国の土木技術の差みたいなものが見えてくることもあるらしい。

6月17日(水)

今朝も雨が降っていた。朝刊が来て、昨日デリーがモンスーンに入ったことを知る。このところ、ケーブルテレビ(CNN、BBC、MTV(インド版)を含めて30チャンネルくらいある)が何故かStar News(インドのニュース専門チャンネル。30分おきに英語とヒンディー語のニュースを24時間流し続ける画期的なチャンネル)の配給を止めてしまったので、この手の話は朝刊で初めて知る、ということが多くなってしまった。

さて、デリーのモンスーン入りは例年では6月29日、今年の予想もそうだったのだが、去年は実績が7月10日だったので、今年もあと3週間位はこの暑さが続くのだろう、と観念しつつも、一日も早くモンスーン入りしないかなぁ、と淡い期待をしていたのだが、こうもあっけなくモンスーンが来てしまうと拍子抜けしてしまう。

6月16日というのは、1901年に観測が始められて以来の最も早いモンスーン入りの記録だそうだ。これまでの記録は1925年の6月17日だったそうだから、一日更新したわけだ。

モンスーン入りした途端に、最高気温も30度に届くかどうか、という水準にまで下がる。昨日までの理不尽な暑さがまるで嘘のようだ。今年の夏は無茶苦茶に暑かったけれど、暑いとむしろモンスーンも早く来る、なんてことがあるのかもしれない。

因みに、本日からRadheyが復帰。流石に神妙にしている。

午後、大蔵省に行く。我々のカウンターパートのMr Bhaskar(IAS)は、ヒンドゥー教徒、チベット仏教徒にとっての聖山、カイラス山への、インド/中国二国間協定に基づく巡礼団の引率役として(!)、来週1ヶ月の旅に旅立つことになっている。うらやましい。それにしても、上手くやったものだ。恐らく彼のBatch Mateか何かを通じて、色々と工作して、引率役の地位を手に入れたのだろう。

さて、明日から23日まで西ベンガル州出張。インドの中でもウェットなことで知られるベンガル人。また色々なことがあることだろう。

6月16日(火)

今朝は朝から雨。アンバサダーで出勤。雨の日はブレーキが利きにくいような気がする。路面が滑るとかそういうのではなく、ブレーキ自身から、ギュルギュルと変な音がするのだ。考えてみたら、雨の中で運転するのは生まれて初めてだった。そこら中に水溜まりが出来ていて、タイヤに絡み付いた水が車の中に入って来るような気がする(今のところ気がするだけで入っては来ない。今のところは。)。また、今のところワイパーもきちんと動いている。(今のところは。)

一時はKiller Busとも呼ばれ、事故を多発し、一旦は乗客側からボイコット運動が起きたブルーラインバス(路線毎に運営されていた民間のバス)が昨日限りで廃止された。その影響で道路が込み合うかと思ったのだが、余り影響はないようだ。その代わり、緑と黄色のDTCのバスがやたらと増えたような気がする。

今日も持ち帰りで報告書原案へのコメント作業の続き。読むものの難しさと眠気の襲ってくる速さは正しく比例する。赤鉛筆握ったまま危うくソファーで寝てしまうところだった。

6月15日(月)

今日は久しぶりに暑かった。今日は仕事を結構持って帰り、結構マジメにやった。人の書いたものにコメントをつけるという作業は、つまらないようでいて楽しくて楽しいようでいてつまらない。真っ赤にコメントを書き込む場合でも、地の文を書いた人とフィーリングがあうかどうかで、同じこと書いていても面白いこともあれば、つまらないこともある、ということ。

今週半ばからまたカルカッタ出張予定。何かこのところ西ベンガルづいていて、「腐れ縁」になりそう。何は兎も角出張の準備しなくては。

6月14日(日)

今日はまず、Radheyのお見舞いに行く。

病院の受付でRadheyの名前を言うと、すぐに部屋を教えてくれた。丁度看護婦さんがRadheyの点滴の調整をしているところだったので、聞いてみると、入院したときよりはずっと調子が良いそうだ。Radheyによれば、早く退院して仕事をしたい、といっているが、見た目まだ弱々しい。医者からは、もうこれ以上酒を飲むと「すぐ『上の方』に行ってしまう」といわれたらしく、もう絶対に酒は止める、と言っている。当方半信半疑で聞いている。

Radheyは、見舞いに来てくれてどうもありがとう、と泣きそうな声で言っている。かと思うと、急に「その後ご両親はお元気ですか?」と聞いてくる。いつも日本から帰ってくると、同じことを聞かれていたのを思い出した。こいつは本当にいい奴なんだなぁ、と思う。

医者からも話を聞く。やはり諸悪の根源は酒だとの由。この点Radheyにしつこいくらいに念を押して病院を去る。

その後、件の成り金インド人で溢れているスポーツクラブに行き、帰途マンゴーを買いつつ、ワールドカップに間に合うように帰宅。

丁度ワールドカップが始まり、アルゼンチン国歌が流れているところに間に合った。しばらく試合を見ていたが、何か映りが悪いなぁ、と思っていたら、突然コマーシャルが始まり、アラビア文字の広告が現れた。でも、喋っている内容はヒンディー語に近い。何と、ケーブルテレビでパキスタンの国営放送を見ていたのだ!流石にインド国営放送に切り替えたら、映りも良くなったが、実況が中立的だったので、見ていて盛り上がらなかった。淡々と終わってしまった、と言う感じ。日本の実況中継で見ていたら結構盛り上がったんだろうなぁ、と思った。それだけテレビを始めとするマスコミに煽られている、と言うことなのだろう。それにしても、日本ではチケットが足りなくてツアーがキャンセルされて騒ぎになっているという。何とも呑気なことだ。

6月13日(土)

本日は、ピーコックという、当地日本人若手駐在員のゴルフの会。アンバサダーを自ら駆って、朝8時デリーゴルフクラブに乗り込んだ私を迎えたキャディーのオニイチャンの第一声は、「ゴルフやりに来たの?」だった。私は、「俺はドライバーじゃない!」といってやったが、デリー広しと言えども、アンバサダーを自ら運転してゴルフやりにくる外国人は私くらいのものだろう(そもそも、この国ではゴルフをやるような人種は須らく運転手の一人や二人は雇っているものなのだ)。

さて、ゴルフの方は、暑かったこと、そもそもデリーのBコースは狭くて、「広角打法」の私には向いていないこと、等により(何を言ってみても所詮言い訳)、散々だったが、すごかったことが一つあった。これだけは忘れられない。

第2ホール。今日が最後のピーコック出場となるHさんの第1打は左ドッグレッグの曲がり切った辺りに飛んで行った。私の第1打は100ヤード程先の右薮に入り、ロストボール。引き続き私の第4打は普段よりも40ヤード程手前に切ってあったテンポラリグリーンの手前20ヤードくらいまで届く。既に他の3人(HさんYさん、Tさん)はグリーンの廻りに立って何かを眺めている。遅れてきた焦りもあり、私は何も考えずに7番アイアンで転がしてグリーンに乗っけようとしたが、打ってから気が付いた。誰かのボールがピンに引っかかっている。どうやらグリーン廻りで待っていた3人は、このボールをどうしたものか悩んでいたらしい。何気なく打った私のゴロゴロボールは、この時に限って何故かピンに向かって真っ直ぐに進んでいく。

そして、な、なんと、私の第5打は、ピンに引っかかっていたボールにぶつかり、二つともホールインしてしまった!

ピンに引っかかっていたボールはHさんの第1打で、ボールは当然「インプレイ」だったので、Hさんは私の「アシスト」付きの「ホールインワン」を達成。後で、「あれで、二つともホールインしたから良かったようなものの、Hさんの玉を弾いちゃってたら、目も当てられないよなぁ」という話になった。危ない危ない。

さて、この「ピーコック」なる会、10年以上前に我々の先輩駐在員達が作ったらしいが、命名の由来はゴルフ場の至るところにいるクジャクだ。ゴルフ場にはこんな看板もある(肝心のクジャクの写真は撮り忘れました)。クジャクはインドの国鳥であり、クリシュナ神の髪飾りにもクジャクの羽があしらわれているが、ゴルフ場にいるクジャクの泣き声は頂けない(何処のクジャクも同じだと思うけれど)。何というか、「(カラスのカァカァ)-(人を小馬鹿にしたような響き)+(なんとなく情けないような叫び)」といったような感じで、全く姿にそぐわない。もっとすごいのは、時々オナラのような音も出す。黙ってりゃいいものを、とはまさにこのことである。 今日の参加者は私も入れて8名。優勝者は、Sさん、第2位がHさんでした。宴はMさん宅で。最後にプリヤのネタで盛り上がりました。幹事のY夫妻ご苦労様でした。

6月12日(金)

事務所開設以来のお茶汲みでRadheyが月曜日からずっと休んでいたので、Shashiに彼の家まで様子を見に行ってもらう。夕方になってShashiに連れられてRadheyはオフィスに来たが、衰弱している。先週末親類の家か何かで結婚式があり、そこでしこたま飲んで食った後、調子が悪くなって月曜日から何も口に出来ず、家で臥せっていたという。取り敢えず入院させて検査を受けさせようということになり、金持ち相手で有名で外見はまるでホテルのようなApollo Hospitalはどうか、という相談をしていたら、どういう訳だか、Radheyが「Apolloだけはいやだ。あんなところに行ったら死んでしまう」という。仕方がないので、別の病院に行かせ、取り敢えず検査してもらったところ、血圧が以上に高いと言われ、入院することになった。そこでも、Radheyは入院することを嫌がり、「家に一旦帰って家族と相談して、家族が一緒に泊ってくれるのなら、入院してもよい」と主張、仕方がないので、好きなようにさせて、結局夕方8時前になってやっと素直に入院したそうだ。

彼の病気の原因ははっきりしている。「酒」だ。6月4日の項にも書いたように、インドには色々な酒があって、彼がどんな酒を飲んでいるのか分からないが、はっきりいって彼はアルコール依存症だと思う。Radheyといい、Ashokといい、何が彼らを酒に駆るのか、良く分からない。Ashokに至っては、何で飲んだのか問い詰めた時に、「娘が高熱だから」という説明をしたが、その「神経」は未だによく理解できない。僕らなら、娘に熱があれば、心配で酒どころでない、ということになるのだが、「人生いいことねぇしよぅ、娘まで熱出しちまぇやがって、もう酒でも飲んでなけりゃぁやってられねぇやこのやろっ!」ってなことなのだろうか?結局は貧しさなのだろうか?

6月11日(木)

今日も涼しい。夕方などは、まるで秋のようだった。このまま涼しくなってくれればいうことないのけれども。そうは問屋が卸さないのがインド。理不尽な暑さがあと一ヶ月弱で終わり、その後に蒸し暑さが2ヶ月位続くのだ。

サイクロンでは、500人以上の人が亡くなったらしい。その多くはグジャラートの沿岸で塩作りをしている人々だという。日本の新聞では「製塩場」と報じられている。これは間違いではないし、被害を受けた現地に行ったことはないので僕自身間違っているかもしれないが、この「製塩場」というのは、海岸沿いの塩田地帯で、場所によっては地下水も塩水で土壌も塩混じりなので農耕目的には全く適さず塩を作るしか選択肢のない、貧しい地帯のはずだ。そのようにして、恐らく何千年も変わらない製法で作られてきた「塩」は、手紡ぎ・手織りの布(Khaadiiと呼ばれる)と並んで、マハトマ・ガンディーの非服従・独立運動の象徴的なアイテムだったが、今では近代製法にとって替わられつつあると聞く。去年の2月にタミルナドゥ州の塩田から塩を貰ってきたのを思い出す。日本みたいに「自然製法の塩を見直す」ような余裕はこの国にはありません。

この間、最貧州のオリッサを襲った熱波といい、今回のサイクロンといい、自然災害が直撃するのはいつも貧しい人達だ。一方で、僕の入っているスポーツクラブ(年会費6万ルピー(約20万円))にいる成り金連中(この国の本当の金持ち、本当にハイソな人達は別のところにいる。いつか紹介できればいいなぁ)なんぞを見ていると、これが本当に同じ国の人なのか知らん、と思ってしまう。でもどっちも立派にインドの人なわけで、成り金連中が成り金であるからといって、それ自身が倫理的に悪であるわけではないし、彼ら自身を責めることはないのだが。。。

それにしてもこのところ、災害が続いてあまり明るい話題がないなぁ。

6月10日(水)

グジャラート、ラジャスタンを襲ったアラビア海からのサイクロンの影響か、今日は夕方から雨が降り、比較的(インドの基準で)涼しい夕方となった。

今日聞いた話、その一

同僚某君が仕事を家にもって帰ったところ、何かAmbassador of Japan(日本大使)と書いた紙が奥さんの目に触れた。奥さんは、「え!アンバサダーって日本にもあるの?」とのたもうた由。

今日聞いた話、その二

同僚某君が当地インターネットプロバイダー(VSNL)のパスワードを失念したので、再発行してくれ、とプロバイダーに電話したところ、如何にも国営会社らしく、さんざたらい回しにされた挙げ句、「100ルピー払えばパスワードを再発行する」と言われた由。袖の下とかそういうのではなく、所定の手数料らしいが、「申請に当たって特定のフォームはない。とにかく早く100ルピー持って来い」ということらしい。ということは、特定の人のアカウント名さえ分かっていれば、100ルピーさえあればパスワードを再発行(変更)してもらうことが出来る、ということではないか???年会費が15,000ルピーであることを考えると、100ルピーで15,000ルピー分のアカウントを詐取することも出来るわけで、すごいシステムだ。(因みに僕が1年前くらいにパスワードを失したときには、電話一本で変更してくれた。手数料が要らなかったのは良いが、考えてみると、こっちの方がすごいかも知れない。)

インドのプロバイダーのアカウントが欲しい人、100ルピー持って今すぐVSNLに走れ!、とかいておいてから、自分のアカウントも危ない、ということに気が付いた!危ない危ない。

6月9日(火)

今日は暑かった。「気のせいか暑さが引いてきた」なんてことを書いたから却って暑く感じたのかもしれない。

昨日書き残した新聞記事。5月28日に書いたように、核爆発の威力については、勉強不足もあって、「大変な破壊力」、「大量殺人兵器」という、印象的な捉え方しか出来ていなかったのだが(でも、日本でも大抵の人がそうではないか?)、昨日の新聞でインドの核実験反対派グループが作成した核兵器の威力に関する資料が紹介された。

それによると、被害が及ぶ範囲(半径)は以下の通り。

TNT火薬相当10キロトン10メガトン20メガトン
蒸発0.5マイル2.5マイル8.75マイル
完全破壊1マイル3.75マイル14マイル
爆圧1.75マイル6.5マイル27マイル
熱風2.5マイル7.75マイル31マイル
火災及び熱風被害3マイル10マイル35マイル

因みに、広島の原爆はTNT15〜20キロトン相当、長崎のは21キロトン相当だというから、ここに挙げられている10キロトン相当の倍近い威力を発揮したことになる。インドが実験した核兵器は、0.2キロトン〜45キロトン(熱核装置)と発表されている。

原爆の被害については、広島市のこのページに詳しいが、この新聞記事は、"It is probably better not to survive a nuclear blast..."として締めくくっている。

6月8日(月)

当地の新聞や雑誌を読むのは楽しい。色々な記事があって、時々とんでもないのが見つかる(それらについては別途ご紹介予定)。昨日、溜まってしまった2週間分の新聞に目を通し、仕事関係やその他面白そうな記事の切りぬきを今日事務所で作ってもらった。その中から2,3件ご紹介。

その一: 今年も平年並みのモンスーン(Hindustan Times: 5月26日)

インド気象庁によると、今年も例年並みのモンスーンが予想され、エルニーニョの影響は殆どないだろう、とのこと。各地のモンスーン入り予想日は、

  • ムンバイ:6月10日
  • カルカッタ:6月15日
  • デリー:6月29日
とのこと。

その二: エアインディア スチュワーデスの定年引き上げ?(Hindustan Times: 6月7日)

BJP政権がアナウンスした、公務員定年の58歳から60歳への引き上げの影響を受けて、国営航空会社であるエアインディアもスチュワーデスの年齢上限を現行の50歳から58歳もしくは60歳にまで引き上げざるを得ないことになりそう。エアインディア経営陣としては、同提案には反対だが、インド政府民間航空省の指示により致し方なく受けざるを得ないだろう、とのこと。

因みに、アジアの殆どの航空会社ではスチュワーデスの年齢上限は40歳であり、シンガポール航空では一期3年一回限りの契約更改しか認めていない。また、パキスタン航空(PIA)も年齢制限は40歳であり、キャセイ航空に至っては出産した女性は妊娠前の体型を取り戻さない限り、職場復帰できないらしい。こういった状況下、エアインディアの競争力低下は避けられない、との由。

一応、マジメな理由としては、サービスの質とか、緊急時の対応が若い女性の方がすばやい、ということが挙げられている。

エアインディアの年齢上限は当初30歳だった(!)が、裁判所からの指示や、出産後の女性の復帰を認めたこともあり、徐々に引き上げられた結果、現状の50歳に至ってしまった、とのこと。口さがない人達は、「最初は母親達からの圧力だった。今ではおばあちゃん達からの圧力に負けつつある」といっている。

確かに欧米の航空会社では40歳以上のスチュワーデスもいるが、欧米はアジアに比べて技術で勝負しており、アジアの航空会社はサービス勝負であること、また、欧米のスチュワーデスは自ら"groom themselves better in terms of physical fitness and appearance"だけれども、インドのスチュワーデスは"... are not so particular in this aspect."だ。(なにか、understatementのような気がするのは私だけだろうか)

エアインディアの経営陣はかかる政府からの介入に反対するつもりではあるが、国内便のIndian Airlinesでは既にスチュワーデスの上限は60であり、何で国際便は違う扱いをしなければならないのか、という意見もあるそうだ。(←早く民営化しませう!)

もう一件書こうかとも思ったが、もう眠いので、今日はここまで。

6月7日(日)

6月2日の項で、「暑さ」について考えてみた。今日は「夕涼み」について考えてみよう。「納涼(スズミ)」とか、「夕涼み」という季題がある。歳時記などでは、

橋涼み温泉客の皆出でて		虚子
おもはずの人に逢けり夕涼み	如風
橋の名に涼み提灯かざしみる	晴子
つつましく親子更けゆく門涼み	辰生

などの句が例句として挙げられている。

ここでデリーの夕涼みである。ニューデリーの中心にRajpathと呼ばれる通りがある。Rajpath("ラージパットゥ"と発音する)とは「統治者の道」とでも訳すことの出来る言葉であり、大英帝国時代の総督官邸(現在の大統領官邸)と、第1次世界大戦に大英帝国兵士として参戦し、命を落としたインド人兵士達を顕彰するためのインド門(India Gate)とを結んで東西に走る全長約2kmのひたすら真っ直ぐな道であって、共和国記念日などにはパレードが行われる大通りだ。このRajpathを中心としてほぼ線対称にインド政府各省庁が庁舎を構えており、計画都市ニューデリーのまさに中心地である。因みに、Rajpathの中間点を南北に横切るのが、Janpath(=「人民の道」)である。

Rajpathの両側は幅約100mにわたる芝生となっていて、中には腰くらいまでの深さしかないけれども池があって、ボート漕ぎを楽しむ人も見受けられる。もっとも、今の季節は日中暑すぎてボートを楽しむどころではなく、むしろ貧しい少年達が水遊びをする格好の溜り場となっているようだ。芝生にも日中は誰も居ない。所々にある木下闇で昼寝をしている人々がまれに見られるくらいだ。如何せん暑すぎるのだ。

さて、デリー市民の夕涼みのメッカはここRajpathの芝生である。午後7時を過ぎ、日が落ちると、ぼちぼち人が集まってくる。日中はガラガラだったRajpath沿いにマルチ800のような小型車を始めとしたファミリーカーがそれこそ鈴なりに駐車されるようになり、ちょっとした交通渋滞が生ずる。大抵は子供と一緒の家族連れだ。停電も日常茶飯事だし、家にいても暑いから、外に出かけてくるのだろう。ところどころにある街灯以外、照明はなくて、真っ暗に近いのだが、まるでピクニックにくるような感じで、家族ごとに車座になって思い思いに楽しんでいる。子供たちはそこら中を走り回っている。物干し竿のように長い竿に大きな風船をいくつもぶら下げた風船売り、緑色の蛍光燈をつけて30mおきに点々と並んでいるアイスクリーム売り、車座の間を縫って歩くスナック売りなど、日中はぐったりしていた物売りたちもここぞとばかりに商売を始める。何と、恐ろしいことは、殆どが子供連れにも関わらず、こんな情景が真夜中1時くらいまで続くということだ。

随分、歳時記の例句から感じられる日本の「夕涼み」からは違うけれど、これはインドなりの「夕涼み」。俳句で上手く表現できるのか?取り敢えずやってみよう。

車座に親子座つて夕涼み			昌平
夕闇のそこここで売る氷菓子		昌平
日暮れるを待ちをる売り子氷菓子		昌平

「氷菓子」というのはアイスクリームのこと。僕の俳句がへたくそなこともあるが、やっぱり、「デリーにて」という説明なしでは良く分からない俳句になってしまうのではないだろうか。因みに、とある新聞によると、デリーでのアイスクリームの売上げは圧倒的に冬が多いらしい。理由は?「夏だとすぐ融けちゃってゆっくりアイスクリームを楽しめないから」との由。

6月6日(土)

今日は夕方、アンバサダーを駆って、INAマーケットに行った。マーケットの一番外側には果物屋が並んでいる。因みに、果物屋と八百屋ははっきりと区別されているようだ。果物とも呼べそうなもので、八百屋で売っているものはレモンとジャック・フルーツ程度のもので、後は果物屋で売っている。

この時期の果物屋の主役は何といってもマンゴーだろう。デリーでは(よく憶えていないけれど多分)3月末頃くらいから出回り、7月末位までインド各地のマンゴーが見られる。最初に出てくるのは小振りの黄色いマンゴーで、カルナタカ州など、南の方から来るらしい。その次には、緑の地に少し赤みが入った中型のもの(これも南から?)が出回り、5月中頃くらいから、「アルフォンソ」と呼ばれるムンバイ周辺で採られる「Export Quality」の高級種が並び始める。ムンバイから出張で帰ってくると、アルフォンソマンゴーの箱詰めをお土産に持って来る人達をよく見かける。因みに「Export Quality」というのは、要すれば、「高級」ということで、マンゴー以外にも良く見かける表示だ。他の国でこういう呼び方をするのかどうか知らないが、なんとなくインドのもつ「外国コンプレックス」を顕しているようだ。

さて、アルフォンソと並行して通常種の黄色のマンゴーが主流となり、7月に入ると、ウッタル・プラデシュ州で採られる、俵型をした、熟れ熟れのマンゴーが見かけられるようになる。これが出回り始めると、長かったマンゴーの季節もやっと終わりかなぁ、という感じだ。

マンゴーにも好き好き色々あって、「やっぱりアルフォンソマンゴーが一番」という人もいるが、私は 毎年2番目に出回る、一寸若い感じのする、酸味が強いマンゴーが「旬」という感じがするので一番好きだ。 熟れ熟れのマンゴーの皮をむく前にゴロゴロ転がして、中をジュース状にしておいてから、チューチュー啜るのも結構いけるけれど、見た目御下品かもしれない(インドにはこういう食べ方もあるし、そういうマンゴー早食いコンテストもある)。いずれにせよ、これだけの長い期間、国内各地産の色々な種類のマンゴーを楽しめるのは、インドならでのことだろう。皆、「おらが村のマンゴーが世界一番」と思っているようだが、それは以前仕事をしたことのある、バングラデシュでも同じだった。

この時期のマンゴー以外にはライチーがある。ライチーは5月中頃から1ヶ月くらい出回る。大体1キロ単位で枝付きのを束にして売っている。何故かライチとは関係ない木の葉っぱを必ず飾りにつけて売られているのが面白い。また、盛んに水をかけて出来るだけ新鮮そうに見せようとする売り子もいる。奇麗に赤く色づいた、一粒一粒に張りがあるのを選ぶのが肝心。結構当たり外れが大きい。今日INAマーケットで買ったら1キロ50ルピーといわれた。去年は1キロ25〜30ルピーだったので、値切ろうかなぁ、と一瞬思ったが、他にも沢山お客が居たし、面倒なので素直に50ルピー払ってしまった(結構後悔)。

今年はそれほどでもないが、去年は「ライチー中毒」になってしまった(大袈裟)。毎週末、マーケットに行って1〜2キロライチーを買ってきては食べていた。新鮮なライチーは本当においしい。去年は、まだ運転手を雇っていたので、毎週マーケットの帰り、運転させながら、後部座席でライチーを食べ始め、皮と種を次から次へと外に放り投げる、という行儀の悪いことをよくしたものだ。今日も長い信号待ちがあったので、4、5個食べてしまった。

あとはスイカ。見た目は日本のもののような「ジグザグ模様」はあまりはっきりといなくて、形も楕円形だが、味は日本のものと変わらない。むしろ日本のよりも甘いかもしれない。マーケットでも売っているが、面白いのは、新潟などで良く見掛ける「国道沿いの臨時スイカ屋」をこちらでもよく見かけること。スイカ屋目当ての車が急停車したり、スピードを落としたりするので、危なくていけない。

スイカで良くあるのが、「スイカジュース」。まぁ、スイカそのものを食べるのも、汁を吸っているようなものだから、ジュースにして何が悪いのか、という感もなきにしもないが、結構変わった飲み物ではある。パーティーなどで、誰かがトマトジュースを飲んでいるので、「あれと同じ物をくれ」といって頼んで、トマトジュースのつもりで一口飲んでみたら全然違う味でびっくりした、という経験が何度かある。

長くなってしまったが、今日は実はプリヤの追跡調査をするつもりで、製造元のAkhi Tissueを訪れるはずだったのだが、昼間うちでぐずぐずしているうちに夕方になってしまったので、INAマーケットでの追跡調査に目標を変更した。その結果はプリヤのページを御覧頂きたい(とは言ってみたものの、すいません。まだ反映してません)。

6月5日(金)

気のせいか、「ケララでモンスーン入り」のニュースを聞いてから、デリーでも心持ち暑さが引いた感じがする。とはいっても飽くまでも「心持ち」で、40度を越えていることは変わりない。

6月4日(木)

今日は宿酔で一日中調子が悪い。こんなにひどいのは久しぶりである。昨日の晩、日本に帰任される大使館の書記官とその後任として赴任されてきた方の壮行・歓迎の宴を我が家でもたせて頂いた。そこでコックのMassiのインド料理に加えて、マニプール州の焼酎をしこたま飲んだ。お客さんに振る舞いつつ、実は自分が一番沢山飲んでいた。これがいけなかった。

マニプール(「宝石の国」という意味)州(ここも参照)は、インドの東北部、ミャンマーとの国境地帯に位置し、Seven Sistersと呼ばれる東北部7州(アッサム、メガラヤ、マニプール、ナーガランド、ミゾラム、トリプラ、アルナチャルプラデシュ)の一つである。元来、民族・文化・言語的にチベット・ビルマ語圏に近いところで、人々の顔立ちも我々日本人に似ていて、主食は米で、納豆も食するし、件の「焼酎」も米から作っているらしい。私はまだ行ったことがないが、日本人にとっては随分と郷愁をそそられるところらしい。また、第二次世界大戦の際、日本軍とSubhash Chandra BoseのIndian National Armyが共同で実施し、劣悪の環境下多数の死者を出して惨敗した「インパール作戦」の地でもある(マニプール州の州都がインパール)。一方、インド東北部は「民族の坩堝」であって、マニプール州内でも反政府活動が活発であり、外国人の入境は未だに厳しく制限されている。

さて、OECFはマニプール州で 養蚕事業を支援している。州政府養蚕局のおじさん(本当に日本のその辺のおじさんと同じ顔をしている)は、養蚕プロジェクトの協議でデリーに出てくるたびにお土産として、件の「焼酎」を持ってきてくれる。どうやら日本人の酒好きを良く知っているらしい。

この「焼酎」は、米焼酎らしいが、度数は(恐らく)40度以上の強烈な奴で、若干匂いもあって、沖縄の「泡盛」に一寸似ている。傑作なのは、この焼酎が入ってくるボトルだ。何と、いつもミネラルウォーターの空き瓶に入ってくるのだ。また、一回だけだが、軍(上述のような事情もあり、軍のプレゼンスは大きい)の配給品のウィスキーの空き瓶と思しき瓶に入ってきたこともあった。要すれば、「自家製造酒」なのである。いや、「密造酒」といったほうが正しいかも知れない。実際、何回か持ってきてもらった焼酎の味・度数には大きなばらつきがあって、如何にも手作りの酒、といった感じのする、「鄙びた」酒なのだ(マニプールだけでなく、インド中至るところでCountry Liquorと呼ばれる密造酒が様々な材料(サトウキビ、トウモロコシ、ヤシの花芽等)作られていますが、これが違法なのかどうかは分かりません)。

そのせいか、飲んだ後、宿酔になるかならないかもボトルによって異なる、という、何とも厄介な酒なのだが、忘れた頃に思い出し、なんとなく手が伸びてしまうという、不思議な酒なのである。

6月3日(水)

昨日砂嵐が吹き荒れたせいか、今日はそれほど暑くならなかった。とはいえ、40度くらいまでは達したのだろうか。

インドは今、夏休みシーズンだ。我が家の目の前にあって普段は朝7時過ぎから登校してくる生徒で賑わている小学校もひっそりとしている。こんな暑さの中で、冷房もない教室で勉強しろ、っていわれたってそりゃ所詮無理だわな!

デリー周辺からは、ヒマラヤ山麓の避暑地に遊びに行くのが「中流から上」の人々の夏の過ごし方のようだ。「居を移してしまう」というのが、本来の「避暑」なのだろうが、給与所得で食っている所謂中流階級(とはいっても、全インド的に見れば、最も裕福な階層)にとっては、そんなことは到底無理なのだ。

これらの避暑地を"Hill Station"と呼ぶ。インド独特の言葉ではないかと思う。大英帝国時代に、各地方の行政府がこれらの避暑地に「夏の都」を置いたのがそもそもの始まりらしい。我が事務所のインド人同僚も、Himachal PradeshのShimla(海抜約2,200m)や、Uttar PradeshのNainital(海抜約1,900m)に行ったりと、それぞれ一週間程度の休みをとっている。この他、名高い避暑地としては、Srinagar(Jammu & Kashmir)、Mussorie(Uttar Pradesh)、Manali(Himachal Pradesh)、Darjeeling(West Bengal)などがある。残念ながら、今のところ僕はこのどこにも行ったことはないが、イスラムの匂いの強いSrinagarを除いて、どこもチベット文化圏内、もしくはそれに限りなく近いところであり、普通の北インド人(「インド人」の顔をしたヒンドゥー教徒)にとっては、「エキゾチックな雰囲気を味わいに行く」、という効用もあるのではないか。時折、ヒンディー語圏の(北)インド人からは、「自分達がインドを支配しているのだ」という優越意識を感じることがある。

ところで、僕らの仕事相手である、大蔵省のMr Bhaskarが以前、「プロジェクトを早く進めろというのは分かるが、インドでは、マジメに働く、というよりもマジメに働くことができるのは、モンスーン明けの10月から暑くなる前の3月一杯までなのだ。この間にやるべきことを一気に片づけないといけない」と言っていたのを思い出す。確かに、彼を含めた役人達は、晩秋から初春にかけてはキチンとネクタイをして、スーツを着ているが、それ以外の時期、丁度今のような季節には、中央官庁の次官級の人々でさえ、開襟シャツとか、日本の基準で言えば「普段着」(というか、遊び着?)の範疇に入りそうなシャツを着て仕事をしているし、来客にもその姿で対応している。僕らのように、冷房完備の環境で仕事をしている人達の方が圧倒的に少数であることを考えると、Mr Bhaskarのいうことも良く分からないではないような気がするし、それが人間としては当然なのだろう。

今まで述べてきたことと全然関係ないかも知れないし、余り科学的な理由もないのかも知れないが、北インドでは、結婚式は晩秋のDiwali以降、初夏のHoli以前に行うべし、とされている。この期間中であれば、余り暑くないので、花婿がキチンとスーツ姿で婚礼に向かうことが出来るから、との説もあるし、もっと意味深長な説もあるようだ。

6月2日(火)

そもそも、この日記は、小難しいことを書こうと思って始めたのではなく、むしろ、僕も俳人(どう変換しても、「廃人」が先に出てくる!)の端くれなので、インドのそれぞれの季節の風物詩などを折りに触れて書いてみようと思ったのがきっかけなのだった。今日はそんなことを書いてみよう。

今年の北インドは本当に暑い。新聞でも報じられているように、相次ぐ熱波の襲来で、何百人もの人が亡くなっている(貧しさも影響しているのだろう)。

歳時記では、ものすごく暑いことを「極暑」として、

蓋あけし如く極暑の来たりけり	星野立子
鹽舐めて極暑に耐ふる沈金師	山崎美白

といった例句が挙げられている。どちらの句からも如何にもじりじりと暑そうな夏が想像される。しかし、これは日本の暑さのことだ。暑いことは暑いのだが、デリーのこの時期の暑さとは違うものを感じさせる。

北インドの夏は4月中旬から、モンスーンが来る6月末までだ。緯度の関係もあるのだろうが、丁度、北半球で地球が太陽に最も近づく季節に最も暑くなる、という誠にもって素直な気候だ。(逆に冬は冬至の前後が一番寒い)

こちらの暑さは、日本と違って湿度が極めて低いけれども、何といっても暑さの桁が違う。日中一瞬外に出るだけで、体中が熱に包まれる。まさに太陽が近づいてきた感じがする。熱風が吹きすさび、まるでエアドライヤーの吹き出す風の中にいるようだ。運悪くクーラーの付いていない車に乗る時には、窓を開けてはならない。最初の内は、暑い風でもないよりはまし、といった感じだが、その内に皮膚が乾燥してきて、感覚が麻痺しはじめ、最後には痛みを感じるようになる。デリーからラジャスタンの砂漠地帯まで、200kmくらいしか離れていないのだから、この暑さは砂漠の暑さなのだ。まさに、今日は夕方から熱風が吹きすさび、砂嵐に近い状態だった。

さて、この暑さを何と呼べば良いのだろうか。「極暑」であることには違いないのだが、どうも、「極暑」というと、日本の、暑くて湿気も高い夏、けれども偶には夕立が来てほっとすることもあるような、そういった暑さが想像される。でも、ここの夏の暑さは、言うなれば、「逃げ場のない暑さ」なのだ。「極暑」以外には「酷暑」という言葉はすでにあるが、「烈暑」というのはどうだろうか?

ニュースによると、今日、インドの南端、アラビア海に面したケララ州で今年のモンスーンの到来が観測された、とのこと。モンスーンが来ると、湿度も上がり、日本の夏のようになるけれども、最高気温が摂氏30度程度まで下がるのだ。これから、丁度日本の「桜前線」のように、日に日にモンスーン前線が北上してくる。乾ききった大地にモンスーンでしっかり雨が降ってくれるかどうかにより、多くの人々が日々の糧を得ている農業が大きく左右される。そういったこともあり、インド各地の人々はモンスーン前線の到来を首を長くして待ち続けるのだ。