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3月31日(水)
眠い眠い。昨日の宴の後、性懲りも無くLinuxに取り組んでしまい、寝たのは空が白み始めてから。でも、苦労の甲斐あって、無事X-Windowが立ち上がった。これから日本語環境の整備、インターネットへの接続を済ませれば、取敢えずの作業は完了である。

さて、3月ももう終わり。インドも年度末である。事務所でも、本日をもってMr Gaurが定年退職、Deepaが結婚退職。二人とも取敢えずご苦労様でした。

Mr Gaurは引き続き嘱託の形で事務所に残るが、Deepaは4月22日にチェンナイで結婚式の後、フィアンセの勤務先であるシカゴに行ってしまう。

彼女の結婚式への招待状を貰った。事務所の何人かは列車(当然二等寝台!)でチェンナイまでいくことも考えているという。至極魅力的なアイデアなので、僕も絶対乗るよ、と言ってはみたものの、時刻表で調べてみると、デリーからチェンナイまで片道36時間かかってしまうので、往復列車(=移動だけで丸々三日かかってしまう)というのは無理そうだ。飛行機で行って、帰りに列車を使うということになりそうか。南インドの結婚式というのも未経験だし、今から楽しみである。


3月30日(火)
日中は血圧が上がるようなことばかりだったが、夕刻は楽しいひとときとなった。

高校時代の同級生で、某航空会社のパイロットがいて、前回デリーに来たときに、「もうデリーもこれで飛び納め」(なんだかかっこいいなぁ)と聞いていたのだが、やはりインドの吸引力は強いのか、本人の意志に関わらず、また飛んできたのだ。

今晩は、彼と食事を一緒にしようということになっていたのだが、そこに、掲示板の常連で、丁度インドに来ているべこりんさんとその父君に加わって頂き、我が家でMassiのインド料理を食べたのだ。

電話で連絡したときに、べこりんさんから、「僕オフ会って初めてなんですよ!」という興奮気味の答えが返ってきて、あぁ、そうか、これって言ってみれば「オフ会」(= ネット上だけで知っている人達が実際に集まって顔を合わせること)なんだなぁ、と気が付いたのだった。

顔ぶれから、自然と飛行機の話が多くなった。デルタがどうのとか、レーダーシステムはどうだとか、端で聞いていると何のことだか分からないが、なんかかっこよさそうだなぁ、といった符丁が飛び交った。僕にも良く分かったのは、「インドの空は危ない」ということ。相当原始的なシステムで管制されているらしい。管制官のストも頻発しており、飛行機での出張の度に寿命が縮まる思いをしているのだが、勝手な思い込みでは無かったらしい。くわばらくわばら。

べこりんさんと言えば、「インドへの怨念」だが(笑)、やっぱり思ったとおり、言うほど「怨念」は感じなかったのですよ。

僕がインドと初めて遭遇したのも、今の彼と同じ位の年齢の時。インドとの付き合いも15年以上になる。「怨念」とかいっていても、それがインドへの深い愛(?)に変わっていくことを期待してますよ、べこりんさん!


3月29日(月)
出張から帰って、張り切って出社しようとしたら、いつも迎えにくるマイケルが来ない。おかしいなぁ、と言いつつ、アンバサダーで出社する。事務所には誰もいない。何と今日はお休みであった。ジャイナ教の教祖Mahavirの誕生日兼、イスラム教のId-ul Zuhaというお祭りが偶然(?)同じ日になったのだ。(出張中、25日がMahavirの誕生日だと誤解していた。実際はRamaの誕生日。RamaとMahavirを取り違えるとは情けない。僕の「ヒンドゥー教徒度」もこの程度のもの。)

このId-ul Zuhaは元々犠牲に関係ある祭りなので、イスラム教徒は所々で羊(実際はヤギ)を屠殺し、お祝いの食事にする。実際に見に行った訳ではないが、イスラム教徒が多く住む地域では、そこら中で犠牲が行われているのだろう。絶対非殺生を教義としたMahavirの誕生日と犠牲の祭りが重なってしまったのは暦(ヒンドゥー(+ジャイナ教)は太陽太陰暦、イスラムは太陰暦)の皮肉か。

少しだけ仕事をしてから帰って、またもLinuxに吸い込まれてしまうが、これではいけないと、サイドブレーキとハイビームのインディケーターが点灯しなくなってしまったアンバサダーの修理に行く。

修理の兄ちゃんがパネルをこじ開けて、仕事を始めたが、結構時間がかかりそうなので、道端に置かれたロープを張った簡易ベッド(palangと呼ばれる)に座って仕事が終わるのを待っていた。道を挟んで反対側の、広場というには小さすぎる駐車場で子供たちがクリケットをやっている。何処に行っても見かける光景だ。本格的なクリケットは芝生のグラウンドの真ん中に三和土(たたき)のように平らに固めたピッチと呼ばれるところでプレーされ、ボールは野球の硬球よりもずっと固くて重いものを使うのだが、街中では大抵でこぼこの広場で、テニスボールを使ってやっている。

例に違わずこの子供たちもテニスボールでプレーしている。彼らの「ピッチ」の真後は道路で、傍目に見ていて危ないのだが、打球が往来を行く自転車やリキシャにぶつかって跳ね飛ばされて、それがFour(エンタイトルツーベース)になってしまったり、バットマンの走り方も無茶苦茶で、何故か一つのウィケットで2人同時にアウトになってしまったりして、都合1時間位観ていたのだが飽きなかった。インド中でこのような子供のクリケット遊びを見かけるのだが、こういうのを見ていて、「うーん、健やか健やか」と思ったりするのである。

修理工場から帰って、Massiが作っておいてくれた、とてつもなく量の多い日本食(今日は中々旨い)を食べてから、パソコンの修理にかかる。ラップトップパソコンなのだが、特定のキーが反応しくなる一方、突然押してもいないのに動き出したりする症状が見られるので、ばらしてキーボードの掃除をしようというわけである。小1時間程かかっただろうか。本当にバラバラになってしまった。

子供の頃から、時計やラジオの「お腹」を開けては壊してきた遍歴があるので、分解してしまってから、今回も同じ事になったらどうしようか、折角Linuxも始めたし、壊してしまっては日記の更新も出来ないではないか、と一時は元に戻せるかどうか途轍もなく心細くなったが、こうして日記を書いているということは、何とか復元できたということ。

さて、分解及び復元の結果。キーボードは直らなかった。一体何のために分解したのだろうか。しかし、調子が悪かったディスプレーと本体のヒンジの部分は、バカになってしまったネジの代りにくぎを打ち込んで固定。世の中広しと言えども、くぎを部品にしてしまったパソコンはこれ一つであろう。おまけに全部復元したはずなのに、収まり所のないネジが8本。無茶苦茶だ。

子供の頃からの癖というものは恐いものだというお話。


昨晩の地震は、震源がウッタルプラデシュ州北部Chmoli地方、マグニチュード6.8。震源地は昨年Kailash巡礼が巻き込まれた大規模地滑りが起きたところにも近い、ヒマラヤ山麓の急峻地帯であり、中々情報が入ってこないようだが、死者は150人を超える見込で、1997年に起きたマディヤプラデシュのJabalpurの被害を上回る。この一帯はヒマラヤ造山活動の影響で地震の巣になっているが、マグニチュード6.8というのは、94年ぶりの大地震だそうだ。被害の詳細は、このページ参照。

Jayaオバサンがデリーにやってきて、また一悶着起こしているが、あぁまたですか、という感じ(但し、今回はトラブルメーカーSubramaniamswamy主催の「お茶会」でSonia Gandhiに会ったのが特記事項)。BJP政権が本当にひっくり返りそうになったらフォローすることとしたい。それにしても、このオバサン、テレビで話しているのを見ていると本当にニクタラシイ。BJP連立政権もう一人の「爆弾女」Mamata Banerjeeには何となく可愛さを感じるが、Jayaオバサンには可愛さは微塵もない。感じるのはニクタラシさだけ。自分で今回のデリー訪問を、Political Earthquakeと称して見たり、流石元女優、ヒール役を見事に演じきっている。


3月28日(日)
Linuxに捧げた一日。不十分ながらもX-Windowが立ち上がったのはよいものの、一日ディスプレーを見ていたので、目がちかちかする。お蔭で、出張中の日記の作成が出来なかった。

表紙の絵を出張の際に手に入れたJagannath様のものに変更してから、日記には何をかこうかなぁ、と思っていたらフラフラしてきた(29日午前零時三十分頃)。眠いけれど、フラフラするのはおかしいなぁと思ったが、天井のファンもガタガタいっている。そう、地震だ!すぐに外に飛び出すが、中々ゆれは収まらない。最大震度3強で二分間程ゆれていたのではないか。アパートの向かいのオバサン(偉い人らしい)とその使用人も飛び出してきた。オバサンに聞くと、デリーで地震など、彼女にとっても生まれて2度目のことらしい。

震源がどこなのか、被害が出ているのかなどはこれを書いている時点では分からない(24時間ニュース専門を売り物にしているStar News Channelもこの時間は収録済ビデオの繰り返しである)。

日本では地震など日常茶飯事だが、この2年半の間、全く経験が無かったので、すっかり動転してしまった。オバサンも言っていたが、このアパート自体、耐震設計などにはなっていないだろうから、建物と一緒にお陀仏になってしまう可能性すらあるわけで、くわばらくわばらである。部屋に戻ると、畏れ多きことには、神社の御札、ヒンドゥーの神神、仏様、ダライラマ、サイババの写真などをごちゃごちゃに祀って神棚代りにしている棚から、鶴岡八幡宮の御札とJagannath様が床に落下していた。

それにしても、飛び出したときの僕の格好はTシャツにルンギ姿。こんな格好で被災者になったら、日本人駐在員Saabとしては結構恥ずかしいことなのかもしれない。その辺フラフラしていたら、「お前何やってんだ、手伝え!」とか言われたりして。


3月27日(土)
郵便配達のベルで目を覚まされると、何と午後3時。その後ぐずぐずしていて、暗くなってから休日出勤して出張中の書類を片づける。

Linuxの方はX-Windowが一端立ち上がったものの、XF86Configの設定をいじっているうちにまただめになってしまう。X-Windowのみならず、日本語環境の整備、インターネットへの接続などを済まさなければMS-Windowsに決別することは出来ず、前途多難である。Linuxは日本でも流行だという。インストールに必要な殆どの情報がインターネット上にあることがLinuxの強みだが、これを調べ始めるとすぐに一時間位は経ってしまう。こんなことに時間を割いている暇はないはずなのだが、一端始めてしまうと目鼻が付くまでは投げ出せない。当面睡眠不足とともに、オタク的な世界にどっぷりつかることになりそうだ。


3月26日(金)
デリーに帰ってくると気温は25度。ほっとした。

帰ってきたのは良いが、出張中に買ったパソコン雑誌にCD-ROMでついてきたLinux(RedHat)のインストールを始めてしまった。Linux本体のインストールは簡単だが、X-Windowシステムのセットアップが中々出来ない。寝たのは空が白み始めてから。つかれたつかれた。MS-Windowsの呪縛から解かれたい一心で始めたのだが、いつになったらキチンとX-Windowが使えるようになることやら。


3月22日(月)〜26日(金)
デリー〜ブバネシュワール〜ムンバイ〜デリーの出張(別ページに作成中)


3月21日(日)
昼過ぎまで寝て、夕方仕事に出かけるという、先週と全く同じパターンの日曜日。

書くことがないので、掲示板の方で話題になっている、Netaji人形を公開しよう。小さい画像を「クリックポン」すると、大きな画像が現れる。

Netajiマハトマ・ガンディーインディラ・ラジブ親子

このNetajiとマハトマの素朴というか、ヘタウマ(「下手なんだけれども、何とも上手い」の意)な顔の表情に何とも言えない味があって好きなのだ。インディラとラジブは、ヘタウマを通り越して、一体この人達は誰でしょう、といった感じではある。随分善人のような顔をしているが、この人達はもっと悪人面だぞ!。それにしても、ラジブが妙に猫背なのがおかしい。この人形はカルカッタ製。オベロイグランドの中の土産物屋にある。Netajiに一番力が入っているように見えるのは気のせいか?


明日から26日まで、デリー〜オリッサ〜ムンバイ〜デリーと三角出張。テレビによると、今日、オリッサの州都ブバネシュワールで気温42度を記録し、熱波に倒れる人が出始めているとの由。オリッサ州は北東部を除く「インド本土」で行ったことのない3州(オリッサ、ヒマチャルプラデシュ、パンジャブ)の一つだったので、今回の出張で「インド征服」に一歩近づく訳だが、熱波にやられてしまっては元も子もない。精々気をつけることとしよう。

と、いう訳で、日記は26日までお休みです。


3月20日(土)
この春から我が社で働くことになった学生が、友達と共に訪ねてきた。とあるNGOのスタディーツアーでインドまでやってきたのだ。事務所(休日だから殆ど誰もいないが)を見せてから、コンノートプレースのアルカホテルのベジタリアンレストランへ。

色々話している中で、「インドにいて、何が一番楽しいですか」と問われた時、すぐに答えが出なかった。インドにいること自体がとても楽しいのだが、ではその中で何が、と問われると一寸困ってしまう。仕事も楽しいし(?)、インド政治も楽しいし、マーケットに行くことも楽しいし、と挙げていけばいくつでもあるのだが、ではその中で一番楽しいことは、と問われると答えに窮してしまうのだ。結構漫然と2年半を過ごしてしまったのかもしれない。

さて、10年前の丁度この頃、貧乏旅行でインドに来ていた僕も小汚い格好でデリーのOECF事務所を訪れた。当時の駐在員宅に呼ばれて御馳走になり、大変お世話になったのだった。気がつけば10年。そして今度は僕が新入生をデリーで迎える立場になっている。


今日、オリッサの試験場から、射程40kmの短距離ミサイル(テレビではrocket launcherと言っていた)の発射実験が行われた。午前中のニュースで簡単に触れられただけで、大きなニュースとはなっていない。


3月19日(金)
朝、とある方から、「特別寄稿」の素材を預かる。その名も「インド鉄ちゃん物語(仮称)」。そのうち一挙公開予定。

事務所のファイル整理を行った結果、古いコンピューターアウトプットを大量に捨てることとなった。計数類なので、そのまま捨てる訳にも行かず、ドライバー諸氏にシュレッダーにかけるように頼んだのだが、何日かかっても終わらない。そのうち、シュレッダーから焦げたような匂いが漂い始め、これは危ない、ということになって、どうしようか、と相談していたら、燃やしちまえばよい、ということになった。

早速、MichealとSheetalを伴って、事務所ビルの裏へ。壁際で燃やすことになった。紙だから簡単に燃えるのだが、完全に燃やすのは難しい。束になったところなどは、ひっくり返してやらないといけない。Sheetalが車の中から何やら棒を持ってきた。どれどれ、といって火をかき回す。熱くて仕方がなく、汗がだらだらと流れてくるが、これはこれで楽しい。高校生までボーイスカウトをやっていたこともあり、たき火については、少しうるさいのだ。

汗だくになって火をかき回している僕を見かねたMichealが「替りますよ」と言ってくれる。最初の内は、「こうやってるのは好みだから」といって譲らなかったのだが、じきに飽きてしまい、Michealに代ってもらい、「ここひっくり返して」「今度はあそこ」といって、結局口ばかり出す羽目になった。

「こんなのモノの5分ですよ」と言っていたMichealの言葉とは裏腹に、結局一時間位かかった季節外れのたき火となったのだった。


3月18日(木)
気がついたらもう木曜日だ。今日は一日、頭を使う仕事には力が入らず、「右から左へ」的な仕事をこなして一日終わってしまった。それでも一日終わってしまうから不思議なものだ。

帰ってくるとテレビでVajpayee首相のインタビューがかかっていた(と、いうとまるで落語でもやっていたようだが)。明日でBJP連立政権も一年。この一年で最も大きな出来事は、との問いに対して、ポカランの核実験、という答。また、首相は決断力がない、との指摘があるが、どう考えるか、との質問にも、「決断力が無かったら核実験など出来なかったはず」との答が返ってきて、核実験後の後始末に追われているこっちは極めて複雑な気持である。首相がいうには、国際社会からどのような反応が返ってくるか、全て計算した上で、国家安全保障のためには最良の選択肢であり、実験後、地域の安定が高まった、とのこと。もう一つ大きな出来事は、ラホールへのバス訪問との由。

確かにどちらも「歴史的な」ことには違いないが、どちらもはっきりとした後始末がついていない。Vajpayeeさんがいつまで首相でいられるのか、よく分からんが、どちらも「歴史的な」という枕詞に見合うように、しっかりカタつけて欲しいものだ。


3月17日(水)
事務所のDeepa(どうもこの子は写真映りが悪い。実物はもっと美人です)が結婚するとの正式発表があった(これまでみんな知っていたけれど、一応伏せてあったのです)。

お相手は某航空会社(インド系ではない)のシカゴオフィスに勤務との由で、4月22日チェンナイで挙式、彼女もシカゴに行ってしまう。彼女は南インド系の出なので、「交差いとこ婚」(= 南インドで最も良い組み合わせと言われる、父親の姉妹の子供もしくは母親の兄弟の子供との結婚)かと思ったが、聞いてみたところ、お見合い結婚との由。現代っ子の彼女もお見合いか、ということで少し驚く。

全く違う環境での生活になるが、新天地で末永く幸せに頑張って欲しい。


以下備忘録。

  1. ビハール州議会でRabri Devi(RJD)政権が信任を得る。一時は危ぶまれたが、投票直前に、Samata Party(BJP中央政権に参加)の4議員が分派し、RJDは余裕を持って過半数を達成することが出来た。国民会議派は棄権し、実質的にRJD政権を支持。
  2. オリッサで火曜日に起きたキリスト教徒部族民部落への襲撃は、当初報告されていた12家庭のみならず、全体で200家庭に及んでいる由。襲撃者は一様に、Jai Ramとの喚声を挙げていたとのことであり、ヒンドゥー教過激派の可能性が高い。
  3. 昨日、デリー〜ラホール(パキスタン)バスの営業運転が開始された。今のところ乗客は両国国民に限定されているとの由。
  4. Badalパンジャブ州首相(Akali Dal)とインドのシク教の取りまとめを行う(?勉強不足にて良く分からん)Shiromani Gurdwara Parbandhak Committee(SGPC)のTohra総裁の対立は、Tohra氏の辞職、それに伴う初の女性SGPC総裁選出という結果をもたらした。Tohra氏はAkali Dalから分派するとも言われている。


3月16日(火)
なぁ〜んも書くことがない日。

夕方仕事を終えてビルを出ると、日没後だというのに、随分と暑い。一日一度。確実に暑くなってきている。

掲示板の方で、サイババの罰当たり云々という書き込みがあったのだが、いつも見ているRediff On the Netというページに、こんな記事を見つけた。僕のサイババ体験とその感想もこれに近い。神か、シルディのサイババの生まれ変わりか、「物質化」は本当か、など、疑問は沢山あれど、やはり何かある、あの人には。


3月15日(月)
昨晩、デリーのヤムナ川沿いのスラム地域で火事が発生。折からの強風に煽られて、約2000家庭が焼きだされ、30人以上が死亡した。今朝新聞を見るまで全然知らなかった。

朝、ニュースでこの惨劇を見る。焼き出された人々がインタビューに答えている。ヒンディー語らしいが、訛りが強く、何を言っているのか分からない。コックのMassiを呼んで、なんだこれは?、と聞くと、デリーの火事のニュースだということを知らなかった彼は、ビハールで火事があったようだ、と答えたのだった。同じヒンディー語でもビハール訛りがきついと僕にはもう分からない。

どうやら、焼き出された地域(マハトマ・ガンディーなどの火葬場跡とヤムナ川の間に位置する)は、ビハール、ウッタルプラデシュ東部からの流入者、バングラデシュからの難民などが住んでいるところらしい。3月7日の項に書いたように、デリーではこれら貧しい地域からの人口流入が続いている。川沿い、鉄道沿線などの土地(政府所有地)には、自然とこれらの人口が集まり、スラムと化している。スラムの細い路地に消防車が入っていけなかったこと、また、これら住民の多くがゴミ処理を職業としており、山積みされていたビニール袋などに引火したことから、今回の惨事は拡大したとのこと。火災と煙から逃れようとした人々が殺到したモスクでは、一酸化炭素中毒で多くの人が亡くなったという。

焼き出された人々はどうするのか。他に選択肢はなく、同じところに戻ってきて、また小屋を立ててたくましく生きていくのだろう。デリー政府は被災者への資金援助、代替地の提供などを早急に検討する、というが、そうしている間にも、デリー駅には職を求める人々がビハールなどから到来するのだ。


3月14日(日)
待ちに待った日曜日。憑かれたように眠る。昼過ぎに起きだして、飯を食ってからまた眠る。先週は土日も働き続け、辛い協議などもあったので、無茶苦茶疲れたのだ。

とはいえ、やらなければいけない仕事があるので、夜7時を過ぎてからやっと起きだして会社に行く。いくつか仕事を片づけて、帰宅したのは11時過ぎ。

さぁ、また寝よう。


3月13日(土)
昨日の夜、やらなければならない仕事に取り掛かるころには午前一時を回り、眠くなってしまったので、30分位横になろう、と思ってベッドに横たわった。寒くて目が覚めたら、何と午前五時半。予定以上に寝てしまった。

それでも、仕事に行くまでには時間が充分にあるので、パソコンに向かって昨日の会議の記録づくり。気がつくと七時過ぎ、隣の金持ち屋敷から音楽が聞こえてきた。そう、サイババのお出ましが近いのだ。やりかけの仕事をとるか、サイババをとるか一瞬悩んだが、仕事はいつでも出来るがサイババにはいつ会えるか分からない、と割り切って、シャワーを浴びて身を清めてから、昨日のカードを持って隣屋敷に飛んでいく。

屋敷の広い庭の中には、既に300人以上のサイババ信者が揃っていた。信者の多くはごく普通の会社勤め風の人々である。男女に分かれており、男性の方の末尾の方に加えてもらう。クリシュナ、ラーム、ヴィシュヌ、シバといった神を讃える歌を歌って、待つこと約30分、8時10分過ぎにサイババがいつものオレンジ色の服に包まれて現れた。途端に、信者達は手を合わせ、サイババを拝む。サイババに自分の方を向いて貰いたいかのように、合わせた手を頭上高く上げる。Jai Saibaba(サイババ万歳)とでも叫ぶ人がいるのかと思っていたのだが、皆静かで、一心に拝んでいるといった感じだった。サイババは思ったよりも小柄である。気のせいだろうか、オーラというか、後光が射すというか、サイババの姿からはとても不思議な印象を受けた(表現力不足!)。残念ながら、カメラは持ち込み禁止にて、写真はない。

サイババは、5分程間程、行列の先頭の方にいた人々に話し掛けたり、子供の頭に触れて祝福を与えたりしてから(遠かったので良く見えなかったが、多分、「物質化」はやっていなかったと思う)、車に乗り込み、Darshan大会の開かれるNehru Stadiumへと向かっていったのだった。ほんのあっという間だったが、尋常の人ではない、という感じは分かった。VineetとMr Singhの分も含めて、サイババの写真を三枚貰ってきた。

事務所に行って、先に来ていたVineet(休日出勤)にサイババの写真を渡す。羨ましがられた。少し後にやってきたMr Singhからは、「おめでとうございます」と言われた。何のことかと聞くと、「サイババに会えたことですよ」とのこと。彼にも写真を渡すと、恭しく拝んでから受け取ったのだった。

午前中は、昨日までの辛い協議の続き。辛い辛い。

昼食はとある研究機関主催のインフォーマルなランチ。そこで出会ったCERC(Central Electricity Regulatory Commssion)の総裁に、先日TRAI(Telephone Regulatory Authority of India)が決定した電話料金改訂とそれを批判する国会の議論について、コメントを伺ったりして、初めて会う人ばかりであったが、有意義なランチだった。

その後、地下鉄事業のサイト視察。ヤムナ川をまたぐ鉄道橋の建設が思ったよりも進んでいて、驚いた。この部分はインド側の自己資金で行われているもので、円借款資金ではない。それ故に、インド側が頑張ってやることをやった後に、円借款が出せなくなって、「土台(インド側自己資金)は出来たけれど肝心の車両と電気・信号部分(円借款)が出来ない」といったことになりそうな雲行きであることが哀しい。核の問題を巡って見解の相違はあれど、日本とインドの間には、基本的な友好関係の底流があるはず。それを確認するためには絶好のプロジェクトなのだが...。実施機関の人達と記念撮影。

さて、今日は、当地日本人会で落語の会があるのだ。サイト視察から帰ってから、会場であるホテルに急行。

何とか、最後の落語には間に合った。三笑亭夢楽師匠で、お題は「青菜」。その後大喜利などもあり、大いに笑い、楽しいひとときを過ごさせて頂いた。

サイババから落語まで、何とも盛り沢山の一日であった。


3月12日(金)
今日も地下鉄事業の実施機関と辛いネゴが続いた。言葉を尽くして当方の置かれている状況を説明したら、最後に、「いやぁ、君は外交官のように、自分の言いたいことと相手の状況を行ったり来たりしながら喋りますなぁ」と誉め言葉なのかどうか良く分からないお世辞が返ってきた。

さて、夜、帰宅すると、玄関のドアの下に何かカードが滑り込んでいた。

よくあるタクシー会社の宣伝カードかと思って放っておいたのだが、後で良く見直してみると、

なんと、明日の朝、隣の金持ち屋敷でのサイババとのDarshanへの招待状であった。

これも何かの縁。明日も仕事があるが、早起き出来たら行ってみようかなぁ。


3月11日(木)
楽しいことも悔しいこともあった一日だった。本当にばっかやろうだが、その理由は書かない(ストレス発散、ストレス発散!)。

朝、出勤してきたMassiが淹れてくれたコーヒーとフレッシュライムソーダをのみながら、インターネットに接続して昨日の晩のうちに到来したメールを受信していると、隣の金持ち屋敷から、何やらやかましい音楽が流れてきた。どこかで聞いたような音楽だなぁ、と思って、Massiに聞いてみると、なんと隣の屋敷にあのサティア・サイババ(アフロエアの聖人)が逗留するという。

サティア・サイババは、日本でも青山某の著書などを通じて知られるようにようになった聖人で、サイババツアーなるものも組まれていると聞いている。サイババの手から聖なる灰(ビブティー)や、宝石、時計などが、「物質化」されるという話が有名だ。何故かサイババの手から出てくる時計は須らくセイコー製だ、というまことしやかな噂もある。

ややこしいのだが、サティア・サイババは、前世紀末から今世紀初頭に実在し、全ての宗教の合一を説いたシルディーのサイババが化身したものだということになっていて、今回のデリー訪問も、シェルディーのサイババの寺院の裏に、「サイババインターナショナルセンター」をオープンするためのものだという。シェルディーのサイババの寺院は、「サイババの曜日」とされる木曜日には多くの参拝者で賑わっている(そういえば、今日も木曜日)。

さて、話は朝に戻る。サイババが逗留していると知った僕は、急遽Massiを派遣し、Darshan(神様や聖人を見る・見られることを通じて功徳をつむ行為)が可能かどうか確認させた。残念ながら、隣の屋敷でDarshan賜るためには、特別の身分証明書が必要だという。ただ、サイババのデリー滞在中、Nehru Stadiumという競技場で、Darshan大会(?)が開かれることになっているという。

今日の仕事は、デリー地下鉄建設事業の実施機関事務所での議論である。哀しいことに、この大事業は、実施機関のやる気がぴか一という、インドでは貴重な存在で、個人的にはどんどん進めていきたいプロジェクトなのだが、核実験後の経済措置(要すれば対インド制裁)の影響をまともに受け、日本からの継続支援が危ぶまれている案件で、余り前向きな話はない。

それはさて置き、この実施機関の事務所は、当のサイババ寺院の目の前で、Darshan大会が開かれるNehru Stadiumにも至近の距離にあり、行き帰りには、多くのサイババ信者達が溢れかえっていた。道には大きな俄作りのゲートが設えられ、「歓迎 サイババ様」というメッセージが掲げられていた。また、サイババ信者の奉仕団が、青いスカーフを首に巻いて、歩行者と車(いずれも大半はサイババ信者)の交通整理を行っていた。サイババは南インドの出身であることから、信者も圧倒的に南の人が多いのだろうと思っていたが、デリーにもこれほど多くの信者がいるとは驚いた。

事務所に帰ってから、ローカルスタッフにサイババの話をして、サイババを信じているか、と聞いてみたところ、話をした5人のうち、Mr Natarajan, Deepa, Mr Rajasekharan(2月から当事務所に加わった期待の新人)の3人(南インド出身)は、一様に「あんなのは子供だましの手品師みたいなもの」という反応だったのに対して、北インド出身のMadhuは、「子供の時にサイババ会ったことがあって、不思議な感じを受けた。機会があればもう一回会ってみたいが、Nehru Stadiumは混みすぎているので、行かないと思う」との由。しかし、信心は深いけれど基本的にはModern Boyで、Mr Natarajan達のように、「サイババなんて」と言うと思っていたVineetが、一言力強く、「信じている」とのこと。

10年以上前に、彼の母君が内臓系の疾患を長患いし、ボンベイの病院で「これは手術するしかない」と言われた時、何かの弾みで彼の父君母君はサイババの生地であるPuttaparthi(アンドラプラデシュ)に行った。群集に混じってDarshanを受けている時に、彼の母君は、突然サイババから話し掛けられ、「あなたは内臓を病んでいるが、大丈夫、手術無しで直ります」と言われたという。その後、母君は今日現在まで、全く手術無しでご健在であり、このDarshanの後、サイババの信者になったという。そして、サイババの写真を家に飾って、Bhajan(神への賛歌)を歌う会を催していると、彼の写真からビブーティとアムリタ(聖なる蜜)が出てきたというのだ。彼からは、機会があったら是非サイババに会いに行くべきだ、と強く推されてしまった。

「精神世界の国」インドには、「聖人」と称される人が数多く存在する。僕自身、サイババを信じている訳ではない(と思う)が、これだけ多くの人を惹きつける彼には何らかの力があるはずだ、と言われても反論出来ない。しばしサイババの隣人とさせて頂く訳だが、何ぞ御利益ありや?


3月10日(水)
昨日の日記を読み返すと、何だか「てにをは」がメチャクチャである。

某元駐日大使と夕食をご一緒する。現在はパキスタンに大半が属しているシンドのご出身であり、在外シンド系インド人を中心とした銀行の役員を務められている。

北インドでは、「シンド人と毒蛇を見つけたら、シンド人を先に殺せ」と言われる。要すればシンド人は抜け目がなく、ずる賢いという意味。一頻りシンド人の話が続いたので、「この話を申し上げる前に謝ってしまいますが、」と前置きを置いて、ぶつけてみる。流石は外交官、「ははは」と高笑いされた後、「君も相当インド化しているね。それはパンジャブ人がシンド人についていうことですよ。パンジャブ人とシンド人は色々な面で似ているので、お互い悪口を言い合うんですな。」との由。

名前の語尾に-niとつくのがシンド人の特徴。BJP政権で、「第2のSardar Patel(「鉄の国務相」と呼ばれた初代国務相。Nehru首相のライバル。)」を志向する、L K Advani国務相もシンド出身である。


3月9日(火)
大して仕事をしなかった、というか、色々なことがあって仕事が手に付かなかった一日だったが、ぐったりつかれて8時半過ぎに帰宅。コックのMassiには昼飯の時に、「今晩は日本飯」と頼んでおいた。

最初のうちは、「これとこれを作って、付け合わせにあれを作って」と細かく指示していたのだが、次第に面倒になり、「今晩のご飯は?」と聞かれる度に、「日本飯」「インド飯」としか言わなくなってしまったのだ。また、当初は、僕の帰宅後、飯を出してもらうまで待たせていたのだが、毎晩帰りが遅くなり、一々、「遅くなるから今日は帰ってもいいよ」と電話をいれるのも面倒臭く、9時過ぎになって、Massiから、「もう帰ってもいいですかぁ」と泣きの電話が入るようなことが続いたので、「どうせ遅いから、飯を作ったら帰っても良し」ということにしたのだ。だから、帰宅後、Massiが作っておいてくれた飯を電子レンジにかけて温めて食べる、というのが日課になっている。

さて、Tシャツとルンギのくつろぎ姿に着替えて、何が出来ているかと楽しみに台所へ入っていくと、何やら大きな器に汁物が入っている。参った。時々出てくる「あれ」である。

Massiのインド料理は絶品だ。事務所に料理を持ちよる機会毎に彼の作ったインド料理を持っていくが事務所スタッフからも好評だし、以前は上司の家でインド人を招いたパーティーの毎に仕出し屋稼業もやっていた。彼の作った野菜カレーを食べつつ、日本に召喚されるようなことになったらこれが食べられないのが一番悲しいことかも知れない、と独り至福の時に浸ることもある。彼は男だが、彼の作るインド料理は僕にとって、「インドおふくろの味」なのだ。

ところが、彼の日本食はそれほどではない。まぁ、形にはなっているのだが、極めて単純である。アジの干物にオクラのかつお節がけとか、焼き鳥らしきものに海草サラダとかいったもので、それに味噌汁とご飯というもの。勿論それ以外にもレパートリーはあるのだが、献立という概念がないのか、アジの干物にはオクラ、焼き鳥には海草と行った具合のセットメニューになっているので飽きる。最初のうちは、キチンと出汁を取った味噌汁の作り方などを指南していたのだが、自分で三度の飯を作ったことがないものだから、「献立」というものについてまでは手が回らなかった。

と、いうことで、勢いインド飯の回数が増える。実際旨いのだから仕方がないのだけれど、インド飯ばかり食べていると太るので、最近は、日本飯とインド飯で大体半々といったところか。

そして、今日の「あれ」である。何だか味噌汁のような、コンソメスープのような怪しげな汁物で、中には大き目に切ったジャガイモとニンジン、そしてタマネギが見える。電子レンジから取り出して、ラップをとると、案の定、魚臭い匂いが広がった。「あれ」は何処で覚えてきたのか、野菜と魚のスープなのだ。もしかしたら、週末に時々僕が作るタイ(シンガポール調達)の潮汁などを見ていて、真似しているのかもしれない。また、一回、同僚の家の良く出来るコックの下に「修行」に出したので、その際のうろ覚えで作ったものかもしれない。

ただ、Massi風潮汁(と書くと旨そうだが)は、どんな魚を使っているのか分からないが、出汁といったものではなくて、魚臭さが料理全体に広がって、全然旨くない。これまでも3回位食べさせられたのだが、いつも、残しては彼に悪いとの一念でやっと食べおえる、といったもので、決して望んで食べたいものではない。今日は、電子レンジから取り出した時点ですっかり食欲が失せてしまったが、これまで文句を言わなかった僕も悪いので、一応申し訳程度に箸をつける。やはり食べられたものではなく、結局、殆ど食べずに残す。

お口直しにと、熱くしたフライパンにごま油を張って、高菜炒飯を作る。これは間違いなく旨くて、やっと飯を食べた気になれたのだった。

彼のように日本人の家で働いたことのあるコックにとっては、何処まで日本飯ができるか、というのが「商品価値」である。その意味では、僕がインド飯を頼みすぎて、彼の商品価値を下げてしまった側面は否定できない。僕もいつかは日本に帰る身、後任者、もしくは他の日本人に彼を引き続き使ってもらえるよう、精々彼の日本食教育を心がけることとしよう。もう、二度と「あれ」は食べたくないけれど。

色々あったので、極めて重い気分なのだが、「あれ」のお蔭で書き過ぎてしまった。結構、この日記を書くことがストレス発散になっているのかもしれない。


ビハールではRabri Deviが州首相に復帰。10日以内に開かれる州議会での信任投票の結果が注目される。下馬評では、RJDが辛うじて過半数を取って辛勝する見込みである。


ミサイル実験は今日もなかった。このまま何も起きなければよいのだが。


3月8日(月)
ホリを過ぎたばかりだというのに、もう暑い。夜も部屋の中が薄ら暑いので、天井についているファンを回すが、少し経つとカチカチカチという音がするようになり、うるさくて眠れない。しかたなくエアコンを点けるが、今度は寒くなりすぎて眠れない。そのうち神経が研ぎ澄まされてしまい、眠るどころではなくなった。とうとう観念して、パソコンに向かって本来なら明日(といってももう今日)片づけるべき仕事を一寸やる。そんなこんなで結局眠りについたのは、外が白んで小鳥が鳴き始めてからであった。それにしても、つい3日前まで羽毛布団を被って寝ていたのに、恐ろしい季節の変節ではある。ホリの後は、一日一度ずつ気温が上がっていくと言われる。あの暑い季節ももうすぐそこだ。

大統領直轄が下院は通過したが上院でBJP政権が敗北することが必至のビハール問題は、昨日、Vajpayee首相がSonia Gandhi国民会議派総裁の翻意を促し、上院での賛成もしくは棄権を求めたが、拒否された結果、今日の議会でビハールへの大統領直轄の取り下げが発表された。BJP側としては、下院通過で充分政治目的は果したとしたもので、この結果、ビハール州にはRJD政権が復活する。但し、州首相としてRabri Deviが復活するのか、それともLaloo Prasad Yadav(Rabri Deviの夫)が返り咲くのかは未定である。今後、ビハール州で、国民会議派がRJDへの緩やかな支持を継続するのか、それともRJDに真っ向から反対していくのかが見物であり、わざと大統領直轄を取り下げることにより、国民会議派を困った立場に置くことが目的とも言われている。

早速州都パトナに凱旋したLalooは、そもそも今回の政治劇の発端となったJahanabad地域の政府所有地を15日以内に土地無し農民に分配すると気勢を上げた。(少なくとも今のところ)州首相でもない人がそのような発表を行ってしまうのだから、おかしなものだ。また、そんなことが15日以内に出来るのだったら、何でもっと前にやらんのか、と首をかしげざるを得ない。そんな弥縫策で選挙民の歓心を買えると思ったら大間違いではないか。


3月7日(日)
インド空軍の輸送機がデリー空港に着陸する途上、空港から2km程のところで墜落、乗員18名と共に、付近で建設作業を行っていた作業員及びその家族が死傷した(うち一人は1歳の乳幼児)。この事故が発生したのは午前8時過ぎだというが、24時間ニュースだけを流しているSTAR Newsでも事故が報じられたのは午前11時過ぎ。その遅れにも驚いたが、乗員以外の死傷者が発生したことについての空港関係者の発言は、「あの地域は既に空港当局から危険地域として指定されていた(ので、そこにいた方が悪い)」というものであって、これにはカチンときた。

事故が発生した地点では、水道タンクが建設されていたという。デリーの空港の周辺には、荒れ地が広がっており、殆どが軍用地であるが、デリーへの人口集中の結果、これらの地域にも宅地が広がりつつある。宅地建設のためには当然建設労働者が必要である。これらの労働者の多くは、ビハール、ウッタルプラデシュ州東部、マディヤプラデシュなど貧しい地域からの出稼ぎであり、家族連れで建設現場の近くに粗末なテントを建て、男女問わず泥塗れになって働いている。中には、賃金前借りで、実質的な無賃労働を強いられている、所謂Bonded Labourerもいるという。

そのような労働者に被害が出たのだ。ある意味では発生すべくして起きた被害だとも言えるのだが、上述の空港関係者の発言は、政府の役人にありがちな余りにも冷たい発言であり、「そんな労働者のことなんか構っていられるか」とでも言いたげであった。これが、事故発生地点からほんの数キロ離れたところにある、VIP居住地域での出来事だったら、彼はどのように発言したのだろうか。


空軍の演習は実施されたが、ミサイル実験はまだ行われていない。


3月6日(土)
Netaji氏を案内してデリー市内を回る。Khan MarketでNetaji Subhash Chandra Boseの本を買い込み、その後INAマーケットへ。INAマーケットは前にも書いたが、第二次世界大戦後、Indian National Armyが英国軍への反逆の疑いで捕らえられ、収監されていた跡地である。その後、INAに対する裁判は、Jawaharlal Nehruという最強の弁護士を得、裁判に反対するインド全土のストライキも展開された結果、訴因取り下げに至ったのだが、その跡形さえ残されてはいないとはいえ、Chandra Boseに従ったINAのメンバーが収監されていた地を訪れたNetaji氏は感慨無量といった様子であった。

昼食は、Khanna Market内にある、New Madras Hotelというレストランへ。南インド料理のターリーである。一人30ルピー。そもそもドライバーに教えてもらった極めて庶民的なレストランで、5スターホテルに比べると薄汚いが、費用対効果は抜群。Netaji氏もご満足の模様。結局御馳走になってしまった。

Netajiの人形が欲しい(僕の持っているのを懇願されたが、頑と断った)という、Netaji氏(ややこしい)をJanpathにあるインド政府の土産物デパートに連れて行く。館内を探し回るが、見つからず。売り場の女性に、「この人はNetajiの大ファンで、Netajiグッズを探しているのだが、どこかにないか?」と聞く。「NetajiのDevotee(注)なのか。それはそれは。でも残念ながら、この館内には多分ないと思う。カルカッタならばともかく、デリーではねぇ。」との答え。その後、西ベンガル州の経営している別の土産物屋であれば見つかるかと思って行ってみるが、残念ながら閉まっていた。
(注) Devoteeというのは、普通宗教のコンテクストで使われる。崇拝者という意味で、「結構キテル」ということ。

夕刻には何やらお楽しみのプログラムが予定されていて、そわそわ始めたNetaji氏をホテルに落としてから、事務所に行って来週に予定されている一連の会議の資料づくり。気がつくと12時過ぎになっていた。

INAマーケットで、Chyawanprashという怪しげなアユルベーダの薬(?)を買った。この薬を初めて調合したという、Charakaという4,000年前の聖人がパッケージに描かれている。能書には、毎日朝晩スプーンに一杯ずつ続けて摂れば、身体の抵抗システムが強化される、という有り難いお言葉が述べられている。見た目は八丁味噌のようなもので、見様によっては、どす黒く、ひどく汚らしいものだが、味は主成分であるレモンの酸味が効いていて、まぁおいしい。何にどう効くのか良く分からないが、4,000年前の聖人を信じて、続けてみたいと思う。


今日までのところ、ミサイル実験は行われていない模様。このまま終わると良いが、一端言い出した手前、何も無しでは引けないのではないか。インド空軍は明日、核実験の行われたPokharan砂漠で大演習を行うという。演習に関する事前通報がパキスタンに対して行われたのかどうか、良く分からないが、イスラマバードの事務所によると、パキスタン国内には事前通報がない、として、「ラホール宣言」違反であるとの声も上がっているという。両国とも、国内の強硬派を抑えながらの和平への道であることは変わりなく、ラホール宣言といってみたところで上手くいくのかどうかはゆっくり腰を据えて見守る他ないようだ。


3月5日(金)
任務を完了したNetaji氏と事務所の上司・同僚夫妻と晩飯。久々に御酒を過ごして、すっかり酔人の激論(?)を交わした。話題は今年10月に予定されている、我が社と日本輸出入銀行の合併について。「多勢(輸銀)に無勢(我が社)」か、それとも「行政改革の本意に従い、比較優位を活かした合併」か、というので、議論が分かれたのだが、「望まない結婚」であることには変わりが無い。

普段から、組織には縛られないで生きたいと考えてはいるが、気がつくとサラリーマン生活も10年を超えなんとしている。あまり無責任なことを言えなくなってきたことを自覚しなければならないと思うと共に、真綿で首を締め付けられ始めたような気がする。


3月4日(木)
今日から衣更してサファリスーツで出勤。インドの衣更については。以前書いたことがあるが、僕も同じ気分である(と、いって、仕事しなくなるわけではないので、念のため)。

さて、今日は、密命を帯びて来印中の自称Netaji氏が任務を無事完了。記録的なスピード解決である。ごくろうさまでした。

さて、今日の朝日ネットから。

> === <990304-13> news.asahi/international, -(-), 99/ 3/ 4 19:44, 42行
> 標題: 米政府が対印パ外交で包括方針、核実験後の「現実」重視
> ---
>  米国務省のインダーファース次官補(南アジア担当)は三日、下
> 院外交関係委員会で、インドとパキスタンに対する米政府の外交方
> 針を明らかにした。次官補は、両国が核保有宣言をした以上は、核
> 実験前の状態に戻すよう「呪文(じゅもん)」を唱えることはせず
> 、「両国の安全保障上の要求に合致した現実的な目標」を掲げなけ
> ればならない、と語った。この関連で、タルボット国務副長官は最
> 近、「両国の核開発競争を最低限の水準で安定させることが短期的
> な目標だ」と指摘し、インドのいう「最小限の核抑止力」と、自ら
> の追求する核不拡散外交の接点を探りたい考えを示唆した。
>  米政府は、両国を核不拡散条約(NPT)の核保有国クラブのメ
> ンバーとは認めず、「核エネルギーの平和利用に対する国際支援な
> どNPTの非核国が持つ特権も認めない」(タルボット氏)方針だ
> 。五大核保有国でつくる国連安全保障理事会の常任理事国にインド
> がなることにも反対する。これは、核実験に「政治的な報償」は与
> えない、との考えに基づいている。
>  ただ、「こちらが頼めば両国が国防計画を変える、とは思わない
> 」(同氏)として、核実験後の「現実」を認める姿勢を示した。大
> 量破壊兵器封じのために軍事力のむちを駆使したイラク外交とは対
> 照的に、懲罰的な外交には訴えない姿勢を鮮明にしたものだ。
>  むしろ、世界銀行の融資容認に見られるように、包括的核実験禁
> 止条約(CTBT)の署名▽兵器用核分裂物質の自主的な生産禁止
> ▽ミサイル開発の自制▽核関連物質の輸出管理▽両国間の対話――
> の五点に進展があれば、制裁を解除するという柔軟姿勢を前面に出
> した。両国から譲歩を引き出し、不拡散体制の枠組みに近づける交
> 渉に重点を置いたのが特徴だ。
>  次官補は議会証言で、「両国の国益を重視しなければならない」
> と述べ、とくにインドと、インドが脅威視する中国との対話を働き
> かける意向を示した。また、「米国と印パ両国の関係は、核不拡散
> という狭い問題を超えた幅広いものでなければならない」と強調し
> た。さらに、パキスタンがアフガニスタンのイスラム原理主義勢力
> の影響を受けるのは好ましくない、として、「パキスタンを西に向
> けさせる」ため、米国によるパキスタン軍の訓練を再開したい、と
> 述べた。
>  ブルッキングス研究所のハース外交政策研究部長は「米政府は、
> 米ロなど『NPTによる核保有国』と、印パ両国の『核兵器を持つ
> 国』とを区別しているが、これは核保有国の事実上の認知だ」と指
> 摘し、制裁のいっそうの解除を求める。米政府は原発支援や核管理
> 協力などには踏み込まないことで、二種類の「核保有国」の線引き
> をしている。だが、世界の核秩序に挑戦した印パ両国を「NPTに
> 加盟させ、NPTを普遍体制にする長期目標」(タルボット氏)の
> 実現に、何の確信も持てないところが、米政府の印パ外交の限界で
> もある。

アメリカという国はどうも好きになれないのだが、現実主義というのか、プラグマティズムというのか、こういう所は立派だと思うし、インド・パキスタンときちんとした「対話」を図ろうとしているのではないか。「唯一の被爆国」という「呪文」に縛られている某国政府もよく考えて欲しいものだ。まぁ、結局はアメリカについていくのだろうけれど。(核実験が行われた98年5月の日記を参照。)

と、今日は手抜き日記の典型。


3月3日(水)
ホリから一日明けた今日、日中はスーツ姿では暑さを感じるようになった。

一応、二国間関係に関係するものとして、現在の日本とインドの関係は、...。と、書こうか、と思ったが、止めにしておく。実に悲しい状況である、とだけ言っておこう。

僕は僕なりの信念を持って仕事に取り組んでいる。微力ながらも日本とインドの関係を良くするために働いているつもりだ...。やっぱりやめた。何と書いてみても空しい。

今晩のStar Newsによると、今週末にインドはミサイル発射実験をやるかもしれないという。パキスタンと信頼醸成などといって対話を始めたばかりだというのに、一体何を考えているのかと思う。

「核実験もそうだったように、やってみたいのは分かるけどさぁ、そんなことやられたら僕らが今、それこそ血相変えて取り組んでいる仕事は全部パァだぞ!おい、インドよ、お前が国際社会で孤立しないように願うばかりだよ、お前はそれを孤高と呼ぶのかも知れないが、そんなこと分かってくれる人は少なくとも日本にはいやしないんだ」、と言ってやりたくなる。

日本に、そして僕に出来ることとは一体何なのだろう?「可愛くないインド」に対して日本が出来ることが、援助を凍結することだけだとしたら悲しすぎる。

(昨日は色が良く分かるように背景を黒にしてみたが、今日の項を書いてみると余りにも暗いので、背景を元の白に直した。)


3月2日(火)
10時過ぎに目が覚める。アパートのベランダから中庭を見下ろすと、やってるやってる。少し心の準備をしてから、水をかけられても良いように短パンに履き替え、寝間着のTシャツのまま外に出る。「俺もホリに加えてくれよぉ」というのも照れくさいので、すぐ近くの売店に買い物に行く振りをして中庭に出ると、使用人・チョキダール軍団が寄ってきて、顔にベチャっと色粉を塗ってくれた。お返しに、こちらもベチャっと塗りたくって、Happy Holi!と言い交わす。皆、写真を撮ってくれ、というので、家に引き返してカメラを持参。みんなで記念写真を撮った。

僕も入って写真を撮ってもらったが、みんな朝から呑んでいるのか、酒臭い(笑)。

野良犬もホリ。

金持ちの犬もホリ。因みに、この大男のコック(?)は、身内に不幸があったとかで、ホリ遊びには参加していなかった。日本の「喪中」のようなもの(それとも「喪中」はインドから来たもの?)

アパートの前の道には、酒だかBhang(注)だかに陶酔した若衆が歌を歌いながら通り過ぎてく。この間30分程。アパートの住人で使用人とホリ遊びしていたのば僕だけだった(金持ちの女の子が使用人と遊んでいるのは見た)。途中、住人の西洋人が車で出かけていったが、何とも冷ややかな視線を受けてしまったのだった。
(注: Bhangというのは酩酊作用のある植物成分。麻薬ではないと言われるが、マリファナなども入っているのではないか)

粉をかけるだけの「ドライホリ」で、且つみんなやはり使用人とマスターといった感じで僕に遠慮しているのか大人しく、何となく飽き足らない感じがしたので、危ないかも知れんが何とかなるだろう、と決め付けて、アンバサダーに乗ってMr Vの家を目指す。道は空いているが、途中如何にも酔っ払ってフラフラのオッサンとか、20人位の若衆などとすれ違った時には結構緊張した。結局何事もなくV家へ。

ホリでは、近所周りをして、それぞれの家で色の粉を掛け合ったりして、春の到来を祝い合い、お菓子やお茶が振る舞われる。Mr Vも、とあるお宅にお邪魔しているところだったので、そこに合流。その途中、小さな公園にはテントが張ってあり、パコラ(インド風天ぷら)などが振る舞われている。ご近所が皆集まってきて、粉掛けたり、水掛けたり、大騒ぎしていた。屋上からは子供が自転車の空気ポンプのような大きな水鉄砲で水攻撃。おぉ、これぞホリ!

訪問先のMr Gのお宅では、突然、見知らぬ日本人が来たのに、お茶とお菓子、そして色粉で歓待してくれた。ベチャベチャとおしゃべりをひとしきり。春の日に、ゆったりとおしゃべりに興ずるのもいいものだ。

ディワリの後、冬が来て、ホリの後に春が来る、というのが北インドで良く言われることで、二つの祭りは一年の節目になっているが、おしゃべりの中で面白かったのは、「ディワリ(夜の祭り)だと、『昼間は何にもないんだから、会社に来て働け!」って言われることがあるけど、ホリの場合は昼間のお祭りだし、『服もビシャビシャだし、会社になんて行ってらんないよぉ〜』って言えば良いからホリは良いよねぇ」ということ。

近所の広場に戻ると、とあるオジサンが日本語で話し掛けてきた。銀座通りの「アショカ」レストランの下にある、インド政府観光センターで働いていたという。息子さんは今も日本にいて、日本人と結婚して大学で教えているそうだ。

さて、Mr Vの未だに命名されていない息子、仮称Mickeyにとっては初めてのホリになった。彼の頭もピンクの粉で色づいている。(早く名前つけてやれよなぁ〜!)

僕は仕事があるので、会社に行かなければならない(残念ながら、濡れてしまった服もこのころまでには乾いてしまった!)。最後にMr Vと子供達の写真。Kriti(愛称Cherri)は、2年前のホリでは水を怖がって泣いてばかりいたが、このところ急にお姉さんぽくなってきた。

シャワーを浴びてから会社にいくと、会社の警備員のニイチャン、オッサンも、ホリ(= ウィスキーとBhang)を充分に楽しんできたようで、何を聞いてもニタニタしていて、呂律が回っていないのだった。ホリに免じて許すこととしよう。

春が来たぁ〜、というのをインド流に、時には過激に楽しむホリ。色々な人がそれぞれの楽しみ方で春の到来を祝うのだ。


3月1日(月)
今日から3月。明日はホリである。気の早い人達は、明日を待ちきれないらしく、街のあちらこちらにピンク、緑、紫などの色に染められた人が歩いていた。

2年前のホリにはMr Vの家族とばか騒ぎをしたものだが、去年はカルカッタ出張中で、カルカッタの勝手が分からなかったので、ホテルで寝ていた。さて、今年のホリはというに、肝心のMr Vと連絡つかず。明日の朝彼の家に押しかける、ということもできるが、車で行くと、襲われる可能性がある、といっても大概は色水や色のついた粉をかけられたりする程度だが、中にはどさくさまぎれで石を投げる輩もいる、と言われるので、彼の家に行くのは止めにする。明日はアパートの金持ち家庭の住み込みの使用人とか、チョキダール(警備員)などとホリを楽しむことにしよう。

普段は我々に仕えることばかりの彼らにとっても年に一回の無礼講の日だ。僕にとっては恐らく最後のホリになるが、普段何かと世話を焼いてくれる彼らと楽しむのも悪くない。