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9月28日(月)
9月27日(日)
日本でチェックインするときに、ナンヤカヤ詰め込んだ預入荷物だけで30Kgあったのに加えて、容量80リットルのアタックザック・手鞄・パソコン鞄の機内持ち込みで認めてくれたJALのお姉さんに感謝。幸運なことにデリーに着いてから税関の赤外線検査を受けたときにも、アタックザックに秘匿していたフィルムスキャナーは見つからなかったのだった。
真夜中過ぎまでかかってパッキングする。80リットルのザックがすぐに一杯になってしまう。余計なものは置いて行くこととするが、それでも容積も重さも余り減らない。困ったものだ。
9月17日(木)〜9月27日(日)
9月15日(火)
Vineetが熱を出して昨日からお休み。みんなで、「彼はガンガで沐浴しなかったからだ」といって笑う。
9月14日(月)
9月13日(日)
大統領官邸の背景に広がった夕焼けが綺麗だったので、デジカメで撮ってみた。アンバサダーのフェンダーミラーが映り込んでしまっているのはご愛敬。

9月12日(土)
夕刻、高校時代の同級生で、JALのパイロットの友人と食事。何でも、ロンドンへのフライトの準備をしていたら、デリー便に予定されていたパイロットに不都合が生じて、急遽呼び出しがかかってデリーに飛んでくれ、と言われた由。ロンドンとデリーじゃ落差激しいよなぁ、と同情する。
9月11日(金)
夜は突発的にちょっとした宴会を我が家でやった。2時過ぎまで呑んだ。こんなに遅くまで呑むのは久しぶりだ。
9月10日(木)
9月9日(水)
9月8日(火)

沐浴は実にあっけなかった。周りで洗濯をしている人を横目に、ルンギ(腰巻)に着替え、階段を伝わって水の中へ。水は濁っているが、生暖かく、気持ちよい。取敢えず、首まで浸かってみる。写真はVineetに撮ってもらったのだが、どうしたことか、妙な色彩になっている。

この後、インド人がするように、バシャバシャと3回続けて頭まで潜る。途中、一瞬水の中で目を開けてしまったが、濁っていて、何も見えない。これで終わり。
水から上がると、風が強くて、寒かった。もう一回水に入りたくなったが、沐浴しないVineetとMr Sethiを待たせるのも悪いので、そそくさ着替える。その間も風が吹きすさび、実に寒かった。
この後、Vishwanath Mandirという、シバ神を祀った黄金寺院へ。案の定、ヒンドゥー教徒以外は入ってはいけない、といわれ、僕だけ外で待たされる。相当程度ヒンドゥーの神様を信じてしまっているのに、ガンガで沐浴しても中には入れてもらえないのか、と少し悲しくなる。ヒンドゥー以外の宗教では、イスラムにせよ、シークにせよ、一定のルールを守り、その宗教への敬意を保てば、モスクやグルドワラ(シークのお寺。入るときには頭を布で覆わなければならない)には異教徒でも入れるのだが、ヒンドゥー教のお寺では、こういう、「異教徒厳禁」というところが多い(特に南インド)。ヒンドゥーの寺はヒンドゥーの神に祈りを捧げるところであり、神への祈りに関係無い者(ヒンドゥー教徒以外)は用が無いはずだから、入るべきではない、と言うことなのだろう。その外、ヒンドゥー教特有の浄・不浄の観念もあるのだろう(牛食って酒呑みまくってるような異教徒は不浄(注)の極み)。
(注) 貧乏旅行者の間では、バラナシと言えば、Manikarnika Ghatという、火葬場に行って、火葬の模様をボォッーと眺めているのが「定番」だが、インド人にとっては、それは考えられない「不浄」の行為。火葬場に行ったら、身を清めないと家には帰れない、という。(葬式の後、塩で御清めをするのと似ている)
お祈りを済ませたVineetとMr Sethiが出てきた。ブツブツ文句を言っていて、「原さんいかなくてよかったですよ」という。寺の中のPandit(坊さん)が、彼らに、こういうお祈りをしろ、ああいうマントラを唱えろ、と五月蝿く、それに従っていたら、「(御布施として)501ルピーよこせ」と言い出して絡まれたらしい(御布施でも、結婚式の御祝儀でも、縁起を担いで必ず1ルピーを載せる)。「バラナシのPanditはボる」というのがインド人の間でも常識らしいが、参詣者の中でも圧倒的に小綺麗な格好をしていた彼らがターゲットになってしまったのだろう。
空港への途上、Bharat Mata Mandirに立ち寄る。9年前に来たときにも寄ったところだ。このお寺の本尊は、15メートル四方はあろうかという、インド大立体地図。他のお寺と一寸違うので、人ごみもなく、静かな空間。バラナシの喧騒に疲れたらここに来てみるのもよいだろう。
帰りのフライトは、バラナシ〜カジュラホ〜アグラ〜デリーという、典型的なホッピングフライトで、まっすぐ飛べば1時間一寸のところを3時間近くかかってしまった。
9月7日(月)
さて、昼食の後、今晩の宿泊地、バラナシへ向けて出発。バラナシ出身で、我々と同じ世代の若いエンジニア、Mr Sethiが同行してくれる。
途中、休憩を兼ねて、Dhabaと呼ばれる道端の食堂に立ち寄る。そこに、焼きトウモロコシ売りがいた。迷わず注文する。

焼きトウモロコシ(Bhutta)売りは7月から9月に道端でよく見かける(デリーではもう季節が終わってしまったのか、最近見かけない)。炭火をバタバタ煽いで、その上に皮を剥いだトウモロコシを置き、程よく焦げが出来はじめた位のところで引き上げる。塩(硫黄分を含んだKala Namakであることが多い)とチャートマッサラというサラダなどにかけて使うスパイスを、半分に切ったレモンで摺り込んだだけのものだ。まことに造作ない食べ物ではあるのだが、去年の夏、JICA事務所の所長さんに薦められてからというもの、すっかり虜になってしまい、去年は「なじみのBhutta-wala(トウモロコシ売り)」が出来たほどだ。そのBhutta-walaは今年は現れなかったが、発作的にトウモロコシが食べたくなるという中毒症状は続いている。このトウモロコシ、日本のもののような、柔らかい湿り気のあるものではなくて、飽くまでも固いが、これをしっかりとかみ締めて食べると甘みが出てくる。でも、2本も続けて食べると顎が疲れてガクガクになってしまうというなんともワイルドな代物ではある。
バラナシには夕方8時頃到着。街の中に入ってからの方が長かった。バラナシは学生のときに来てから10年ぶりだけれども、ゴミゴミとしたこの喧騒・猥雑は変わっていない。変わったのはこちらの方で、前回は数十ルピーの安宿(今となっては場所も定かではない)に泊ったが、今回はTaj Bengalという、この街になんとも似つかわしくない5スターホテルである。チェックインの後、サンダルを買いに出かける。周りの店では見つからず、どうしようかと思っていたら、サイクルリキシャ引が声をかけてきた。行き・帰りで10ルピーだというので、彼のサイクルリキシャでサンダルを探しに出かける。約10分後、サンダルを発見、帰途に着く。なんと、そのままサイクルリキシャでホテルの車寄せまで入っていったのだった。5スターホテルにサイクルリキシャが入れるなんて、何てバラナシらしいんだろう、と感心する。
さて、なぜ私はサンダルを買いに行ったのか?それは、「明日ガンガで沐浴するときのため」というのが答だ。前回バラナシに来たときは、貧乏旅行の中盤で、体調が最悪だったので、沐浴とBhang Lassiという半分麻薬のような薬草エキス入りの飲み物はお預けとなっていた。それを今回やろうというのだ。
それに先立って、悩んでしまったのは、「沐浴の前の晩は断食しなければいけないのではないか?断食しないまでも、肉食やビールはだめなんじゃないか?」ということだった。ヒンドゥー教徒は、お寺に行く日には、断食するか、菜食のみとし(ビールなんぞは問題外)、参拝の前に必ず身体を清めるのだ。私、結構マジにそれに倣おうと思ったのです。Vineetに聞いてみたら、前日の晩については特に問題ないはず、とのことだったので、安心して、ビールとタンドリチキンを食べる。
晩飯を食べながら、日本の天皇の役割についてVineetから聞かれたので、現在の天皇には政治的な権能はないこと、歴史的にみても、天皇家は、他の国の王家とは異なり、そもそも武士階級ではなくて祭祀を基本としてきていることから、政治的な権能の欠如というのは当然のことである、と説明する。マハラジャ(=武士階級)の後裔である彼には非常に興味深い話だったようだ。
9月6日(日)
アンパラ発電所までの道のりは快適だった。ADBの資金により、IRCONというインド国鉄系の建設会社により建設された州道だという。アスファルトではあるが、しっかりした舗装で、我々を載せたアンバサダーは時速100km近くで快走した。
アンパラ発電所には7時過ぎに到着。取敢えずゲストハウスの部屋で2時間位休憩して、朝食の後、発電所の視察に出かける。
アンパラ発電所はA発電所(210MW×3器)とB発電所(500MW×2器)からなる、合計出力1,630MWの石炭火力発電所であり、UP州の電力需要の約3分の1を担う、基幹発電所である。このうち、B発電所及び関連施設の整備に円借款が使われているもの。
午前中はB発電所内部を視察。B発電所は1994年から商業運転を行っており、発電機・ボイラーは日本の東芝・三菱重工業製で、高い効率で運転されている。視察時には、505MWの出力で運転されていた。その外、ボイラー、ESP(電気により、排気から石炭燃焼後の灰分(注)を除去する設備)、石炭のデポなどを視察した。
午後は4時過ぎから発電所から10km程離れた灰捨場の予定地を視察に出かけるが、途中から降り始めた大雨の影響で、灰捨場予定地内の移転予定住民を訪問することは叶わなかった。
その後、発電所に隣接した灰捨場を視察するが、日没が迫ってきたのと、雨がまた激しくなってきたので、すべてを見て回ることは出来なかった。
(注) インド産の石炭は灰分が高く、約40〜60%にもなる(通常の輸入炭だと %程度)。そのため、石炭を燃やして発電するのは、電気と共に灰を作り出しているようなものであり、灰を回収し、捨てるか再利用(セメントやレンガの原材料とする)するための設備の整備が不可欠であるが、再利用は商業ベースでの採算が中々取れないので、回収された灰の殆どは、水と混合され、貯水池のような灰捨場に廃棄される(灰は沈殿し、水は排水される)。
この日はVineetの御祖母様の命日に当たるため、彼は一日菜食のみで通していた。
5分位の遅れはあったが、ほぼ定刻にラクナウを発つ。
近くの座席の人が世間話を始める。何と、2日前のこの列車は、途中アラハバードを超えた辺りで、Dacoitと呼ばれる略奪団(Phoolan Deviがメンバーだったのもその一派)の襲撃を受けたらしい。それも、金持ちの乗っている、AC車両のみを対象としたものだそうだ。その話を聞いて、一緒に乗っているVineetと青くなる。
また、何と、大雨の影響でアンパラ付近の鉄道橋に不安があるため、この列車はアンパラには行かず、その80km手前のチョパンというところ止りになるという。そのような中途運休はここのところ1ヶ月位のおくて機話だというが、つい一昨日デリーで発券されたチケットには何処にもそんなことは書かれておらず、デーヴァナガリ文字でしっかりと「アンパラ」と書いてある。UPSEBにはアンパラ駅までの出迎えを依頼しているが、もしも誰もチョパンの駅に現れなかった場合には、我々はそこからタクシーやバスで80km先のアンパラに辿り着かなければならない。タクシーもバスもない場合にはヒッチハイクしなければならないかも知れない。また、Vineetと共に不安になる。
まぁ、自由な旅行中の身なら、「なんとでもなれ!」ということに出来るのだが、一応仕事で来ているので、そういう訳にもいかない。とはいうものの、チョパンという町からアンパラまで鉄道以外にどんな交通手段があるのかさえ、よく分からない。周りの人と話していると、アンパラの近くに別の発電所を持っている、NTPCの人が同じ車両に乗っていて、もしもチョパンの駅からの交通手段がない場合には、車に載せていってくれるというので取敢えず一安心。
僕らのブースは、母親に連れられた小学生位の男の子が乗っている。何やら勉強しているらしく、ノートを見ては何かを暗誦している。見せてもらったところ、理科のノートらしく、例えば「日食とは何か?」「接ぎ木とは何か?」などの一問一答形式になっている。この答えの部分を暗誦していたのだ。試しにこの接ぎ木について質問してみると、ノートに書いてある(英語)ことをほぼそのまま答えてくる。他の質問についても同じだ。す、すごい(ちょっと末恐ろしい)、と驚いて、君はクラスで一番なんだろう、というと、いいや、五番なんです、との控えめな答えが返ってくる。将来は何になりたい?IASオフィサーか?と聞くと、意外にも、戦闘機のパイロットになりたい、という答えが返ってきて、それがいかにも普通の男の子がパイロットに憧れるのと同じような答えだったので、なんとなくホッとした。

さて、夕刻になっても期待していた弁当売りは来ず、アラハバードの駅で売っているサモサを買おうと思ったら、衛生的でないとVineetに止められ、結局ポテトチップとバナナだけの夕食となった。
時間はもう午後9時過ぎ、ベッドを仕立てて横になる。寝心地はそれほど悪くないので、うつらうつらするが、突然列車が止まる。ここが駅なのか、それともどこか駅間なのか、上体を起こして見ても窓が曇っているので分からない。諦めて横になると、Thiik hai, chalo chalo(大丈夫だ、それ行くぞ!)というささやき声が車内で聞こえ、窓の外には何やら人が動き回る気配がある。ゲッ!Dacoitに襲われてるんじゃないか?と思い、身を固くするが、数分後に列車は何もなかったように動き始める。どうやら駅だったらしい。
と、いうようなことが何回も続き、効き過ぎの冷房ともあいまって、余りよく眠れない旅となった。
9月4日(金)
そのような背景があるので、今でもラクナウの人は丁寧というか、呑気というか、焦らず急がずというか、そういう気質を有するものと見られていて、ラクナウの笑い話として、
「とある鉄道の駅で、あるNawabともう一人のNawabが同じ列車に乗ろうとした。ところが、お互い、"Aap pehele."(あなたお先にどうぞ)と言って譲り合っているうちに列車は行ってしまった」
というのがあって、何かと人と順番を譲合うようなことがあると、「ラクナウのNawabみたいですね」とよく言われる。
さて、今日の午前中は特に会議の予定が入らなかったので、ラクナウの市内を見てまわった。まず、Nawabが造成したImambaraと呼ばれる、イスラム教施設兼城塞にいった。例に従い、何処からともなくガイドと称するオッサンが現れ、色々説明してくれた。彼によると、東インド会社軍に追いつめられた最後のNawabの側近達は、Imambaraからカルカッタ、アグラ、ファリダバード、デリーにまで繋がっている地下道によって、Nawabを脱出させようとしたが、Nawabは召使がいないと「旅」には出られない、といって、地下道の入り口でぐずぐずしているうちに、東インド会社軍に捕まってしまったそうだ。
一方で、多大な富を有していたNawabは、Imambaraの建設に当たって、救恤を目的として、「日中作った建物を夜間壊し、また日中立て直す」(=そうすることによって、雇用が確保される)ことをしたらしい。
午後になって、以前から申し込んでいたUP州電力庁(UPSEB)との会議のアポが取れて、5時頃から電力庁との協議が始まり、結果的に夜8時すぎまで続いたのだった。いずれにせよ、ラクナウの人々は呑気過ぎる。
9月3日(木)
14時15分デリー発のサハラ航空で約1時間のフライトの後、ウッタルプラデシュ州の首都ラクナウへ。ミッションリーダーの不破次長の鞄持ちで同行したインド発出張の加古くんは、スチュワーデスがすごい美人だった、もっと飛行機に乗っていたかった、といっていた。
ラクナウの空港につくと、UP州政府の人たちが出迎えてくれたのだが、空港からホテルまでは、何と、4人もの護衛警官がのったパトカーの先導つき。サイレンを鳴らしながらパトカーがいくと、自動車もオートリキシャも自転車も道をあける(牛は退かないけれど)、角々に立っている警官が交差点を通行止めにして我々の通行を確保する、トランシーバーで次の交差点に連絡する、次の交差点はすっかり交通止めになっていて、我々の進むところ何ら障害なし。僕は、赤いフラッシュランプつきのアンバサダー(VIP用)に載せられて、道行く人が「一体どんなVIPが乗ってるんだぁ?」と覗き込むのを恥ずかしく思 いつつもつかの間のVIP気分に浸ったのであった。
この日の夕方6時から州政府の官房長官にあたる、Chief Secretaryと会議。円借款で支援しているUP州のプロジェクトの実施機関関係者が20名近く集まった会議だったが、午後6時からというのはなんとも遅すぎる始まりで、色々な議題について、とてつもない駆け足での会議となった。
その後、午後7時30分からKalyan Singh UP州首相(BJP:注)との面談。不破次長及び僕は英語で話すが、先方はヒンディー語のみで応える。僕には少しは分かったが、同席していたVineetによれば、彼にも分からないような古風なヒンディー語を多用していたとの事。州首相からは、円借款によるUP州のプロジェクトへの支援への感謝と共に、今後の継続支援への要請があった。
最後に、同席していた顔見知りの州政府の人が州首相に僕のことを、「この人はヒンディー語が分かるんですよ」と言った。それを聞いて、僕から「いやいや、ほんの少しだけです」と反射的にヒンディー語で言ったら、州首相から、「ヒンディー語で彼が言ったのが分かったのなら全部分かってるってことですな。ハハハ」と言われ、和やかな雰囲気のうちに会談が終わったのだった。
(注) Kalyan Singh州首相はBJPの中でも右派で知られ、イスラム教徒(ムガル帝国初代皇帝のBabur)が建立したモスクを、そもそもはRama王の生誕地を祀る神殿を破壊して作られたものだとして1992年にヒンドゥー教徒が破壊した、Ayodhiya(UP)の地にRama王を祀った寺院を建設しようという計画の推進者。尚、UP州議会は、BJP勢力が辛うじて過半数を占めている状況で、1996〜1997年のBSP(Bhahujan Samaj Party)との連立政権が崩壊した後、州議会で国民会議派やその他政党を取り崩して勢力を固めた、という経緯がある。議会での売票活動の過程で、「大臣の座」をダシに使ったため、結果的にUP州には「大臣」と呼ばれる人が何と95人もいる、という結果をもたらしている。
9月2日(水)
一般旅券に対しては問題無く入境許可が出るが、一般旅券は日本に残してあるので、「インド→日本(一般旅券で出国)→インド→ネパール→カイラス→ネパール→日本(Official Passportで出国)→インド」と、日本まで2往復しなければ、いけなくなる。
このOfficial Passportなる代物、行き先も制限されていて、実際チベットに行くためには「渡航先追記」なる手続きをして、行き先に「中国」を加えてもらう必要がある。全く以って厄介な代物だ。持っていて良い思いをしたことは一回もない。(関係者へ: これあくまで個人的な意見ということでよろしく)
と、いうことで、ほぼカイラスは諦め(といっても諦めきれないのだけれど)、エベレストベースキャンプへのトレッキング(15日間)に切り替えようと思う。でも、その場合、10月20日のDiwaliにぶつかってしまうのだ。どうしよう。
明日から8日までウッタル・プラデシュ州に出張。
9月1日(火)
あの国は一体何を考えているのか、と思うが、それよりも不可解なのは日本の対応だ。と、いっても、インターネットで新聞のページを見ているだけなのだけれど、まずよく分からんのが、一体だれが実験だといったのか?どういう確証があって実験だと断定できるのか?
また、「大気圏外を飛行していた場合(=よく分かっていないってことかっ???)には領空侵犯には当たらない」ってのもよく分からん。そういう問題じゃないでしょ。自国領を超えてアフガニスタンを攻撃したアメリカのトマホーク(大気圏内だったのだろうけれど)に対して抗議したパキスタンを見倣ってほしいものだ。
そもそも、大気圏外であろうがなんだろうが、他の国の領土を跨いでミサイルの実験(?)を行う、と言う行為自体が、歴史上実例があるのだろうか?
日本は馬鹿にされているのです。平和ぼけというか何というか。怒らなければいけないときにはしっかり怒るべきなのだ。結局右顧左眄しているうちに、北朝鮮の焼け太りで終わるのではないか。
そういう意味では、インドの方がよっぽど独り立ちした立派な国だと思う。核実験やってみたり、その後パキスタンのこと煽ってみたり、外交がそんなに上手いとは思わないが。