最近の日記


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そもそも生まれてこの方日記などつける習慣の無かった私ですが、インドというところは何か人をして(何でもいいから)書きたい気持ちにするようで、徒然なるままに思ったことを書きたいと思います。

役人じみた言い訳で恐縮ですが、ここ及び私作成の他のページに書かれている見解、価値判断、論評、言い訳、ぼやき、等々については、全て私個人のものであり、私の雇用者であるOECF及び日本政府の正式の見解とは関係がありませんので、念のため。

コメント、ご意見等大歓迎です。メールはここまで。もしくは掲示板のほうに宜しくお願いします。

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9月25日(土)
今日は買い物デーである。まずは、Khanマーケットに行って、頼んでおいた複製スーツを受け取りに。

出来上がったスーツは、元となった日本製スーツを忠実に写したもので、鏡に写して満足仕掛けたところだったが、一寸すると、何だか変なところがあるような気がした。目の錯覚かと思ったのだが、良く見てみると、ジャケットの三つボタンの真ん中のものがどうも下側についている。これはボタンが間違えて付けられているので、ボタンホールの方はキチンと上下の中点にあるのだろうと思って、ボタンをかってみるが、残念ながら、ボタンホールの方もボタン同様下にずれているようだ。大方1センチ強のずれか。言われなければ分からないようなずれであり、ボタンは兎も角、ボタンホールの方はやり直す訳にも行かないので致し方ないが、ほぼ完璧にコピーできたいただけに残念である。オヤジさんと二人で店を切り盛りしているニイちゃん(インドでのこの業界の例にもれず、ムスリムである)は、申し訳ない 、職人達に厳重注意しておく、といいつつも、日本に帰ってしまうのであれば、「このテーラーは上手いのでオススメ」との推薦状を書いてくれと抜け目ない。良く見ると、在印アメリカ大使などの推薦状が壁に貼ってある。このテーラーではこれまでにも、サファリスーツやバミューダパンツなどを作ってきて、大体満足していたのだが、最後の最後、肝心のスーツで失敗を犯したので、推薦状を書くかどうかは保留、残念デシタといったところ。

その後、Jagannath様の額縁を受け取る。此方はしっかりした出来で安心。

昼飯は、以前担当していた某地方電力案件の実施機関の人達と。水力発電プロジェクトの話、インド音楽の話、オオカミ、ジャッカル、ヒョウ、ゾウ、トラ、サイなど、インドの野生動物の話など。楽しい昼食であった。出発地が洪水で、残念ながら一人空港まで辿り着けなかったため、デリーにくることが出来なかった人が一人いたのが残念だったが、まさかと思って、"Don't tell me you came to Delhi only to have lunch with me?"と問い掛けたら、まさにこの昼飯のために2時間かけてデリーまで飛来された由であり、大いに恐縮したとともに有り難い気持で一杯になった。

その後、お土産の紅茶を大量に購入してから、同僚某駐在員と落ち合うことになっていた事務所へ。地下駐車場にアンバサダーを下ろしていきながら、あぁ、この螺旋通路を下っていくのもこれが最後かもしれないなぁなどと考えていたら、バンパーを通路の壁に一寸だけぶつけてしまった。その後何が起きたのか?突然エンジンが止まってしまった。もう一つ階下に下りて行かなければ行けなかったのだが、何か変だと思ったので、地下2階で一旦車を停める。

エンジンをかけ直そうと思って、イグニッションキーを回す。セルがキチンと回って、一旦エンジンが始動するのだが、アクセルを一寸押すと止まってしまう。そんなことを繰り返しているうちに、今度はキーでスイッチをオンにした途端に、車の後ろの方から、キュルキュルキュル...という音が聞こえてきたのだった。

ここに至って僕は事態の深刻さを悟った。どうやらさっきぶつけたときに、どこかのパイプか何かが曲がってしまって、それでエンジンがかからなくなってしまったらしい。問題が複雑なのは、それが路上で起きたのではなくて、地下2階で起きたということであって、レッカー車を連れて来る訳には行かないということだ。また、いうまでもないが、僕は明日インドを去る身で、今日だけとってみても、まだやらなければならないことがいくつかある。ただでさえ、日本に連れて帰れなくなってしまったアンバサダーをこんな惨めな形で地下駐車場に残していかなければいけないのか、もしかしたら永遠に直ることなく、駐車場に留め置かれるのか、この可哀想なアンバサダーは、と思ったら、目の前が真っ暗になった。

取敢えず、事務所で落ち合うことになっている同僚某君に助けを求めよう、少なくとも何が起きているのか教えてもらおうと、上の階に上がっていくと、はたして彼が待っていた。事情を話すと、「うちのドライバーが来ているから、彼に見せてみてはどうですかぁ。もしも直らないようだったら、駐車場に置いておけば原さんがインドを発った後にでも何とでもしますよ。アンバサダーも置いていかれるんで、すねてるんじゃないですかねぇ。ははは。」とのなんともクールなお答え。

あいつ何か冷たいよなぁ、と若干思いつつ、彼のドライバーを呼んで再び地下駐車場へ。何回かエンジンをかけるがやはり始動しない。後方から聞こえて来るキュルキュルキュル...はますます大きくなっていき、心配が募った。

すると、ドライバー氏、原因は良く分からないが、念のため燃料タンクを開けてみましょうと言い出す。蓋を開けると、何やら中を覗き込んでから、やおら車を揺すり始めた。揺すっては蓋のところに耳をつけて、中の音を聞いている。しばらくすると彼は、ニヤリとして、"Fuel katam hogya"と一言漏らしたのだった...。と、いうことで、その脚でガソリンスタンドに行って、ガソリンを4リットル程買ってきて、地下駐車場に眠るアンバサダーに注ぎ込んだところ、始動時のキュルキュルキュル...は次第に小さくなっていって、やがてエンジンが始動した。

確かにメーターは燃料切れを示していたが、以前友達から、燃料計の針が振り切れてからも10kmや20kmは走れるものだという話を聞いたことがあったので、余り心配していなかったのだ。とはいえ、友達が話していたのは飽くまでも日本車のことだったのだ...。ということで、最後の最後まで人騒がせなアンバサダーなのだった。

バタバタしながらも、その後粘ってコンノートプレースのPalika Bazaar(地下ショッピング街)にいって、ボリウッド映画のビデオを10本程買込む。どれも海賊版のようなものなので、一本一本画像品質を確かめるのに時間がかかって、予定の10分が40分になってしまった。

夕食は今晩寄宿させてもらうこととなったクールな某駐在員宅でのお別れパーティー。インド化が激しい変な日本人駐在員のよき理解者の皆さん(?)御一同がお集まり頂いた。会話の中で思わず飛び出してしまう、すっかりインド人化した僕の身振り手振り(首振りや手首ひねり(?)など)を指摘され、帰国後の日本人とのコミュニケーションに一抹の不安(?)を感じる。夜遅くまでワイワイガヤガヤ。一寸呑みすぎたかも知れない。


9月24日(金)
朝、昨晩から泊めて頂いているお宅でしっかりした朝食を頂いて、ゆっくり会社へ。午前中は残務処理などしながら、ヒマチャル旅行の感想などをおしゃべり。昼食は事務所の上司同僚と。

午後、世話になった実施機関(国道公団・火力発電公社)などの挨拶回り。自分でアンバサダーを駆って回ったのだが、不覚にも道を間違えてしまい、国道公団についた時には、予定の時間から一時間以上遅れてしまった。ここでは挨拶先に会えたので良かったのだが、火力発電公社の方は大幅に遅れたせいで相手は既に外出済。彼の代りに、彼の部下の人達が出迎えてくれて、色々な案件についての思い出話などを一しきり。何はともあれ、インドに駐在して来た当初、道路や発電プロジェクトについて殆ど何も知らなかった僕が色々なことを教わった相手であり、帰国前に挨拶が出来て、義務を果した気持であった。

夕刻、東京よりハッピーでない情報(=東京での配属先)きたる。

夕食は寄食先でのお別れパーティー。実に凝った美味しいイタリア料理と、楽しい会話を満喫させて頂く。


9月16-23日(木-木)
8日間のヒマチャルプラデシュ旅行(別途作成予定)。


9月15日(水)
午前中、引越し荷物が最終的に荷詰めされる前に、ボリウッド映画のビデオなどを大量に購入しようと思って出掛けようとするが、肝心のお金がない。金がないならば銀行の小切手があるから良いと思ったら、これも見つからない。どうやら昨日、机の上に置いておいたら、他の書類と一緒にパッキングされてしまったらしい。結局荷物の搬出に来た引越し業者のオジサンが、それらしい箱を開けて小切手帳を出してくれたので、事無きを得たのだが、一時は大騒ぎになった。このお蔭で、ビデオを買いにいくことが出来なくなってしまったのだった。

昼食は事務所スタッフ一同とのFarewell Luncheon。幸か不幸か、日本人の上司達が出張中で居らず、出張中のスタッフなどもいたので、こじんまりとした会になった。恒例のスピーチをやったが、5分近く話していたのではないか。どんな話をしたか良く覚えていないくらい、随分と長いスピーチになってしまった。懸念していた落涙はなかったが、Mr Gaurから、「何時、どんな場合でも、皆あなたの友達である」といった話があったとき、ホロっとしてしまった。

午後事務所で残務処理の後、使用人に最後の給料を払う。彼らの借金も精算する。後任者が引き続き雇用してくれることとなるが、仮にクビになった場合に備え、「何某は3年間私に立派に仕えた」旨の証明書を作ることにする(当地使用人社会では当然の手続)。

夕刻は仕事でお世話になった大使館関係者に壮行会を開いて頂いた。「禁断の」アガスティアの葉の話になって、また葉っぱをみたいという人を数名増やしてしまったのだった。

明日の朝から、「最後っ屁旅行」でヒマチャルプラデシュへ行って来る。デリーには23日の午後に戻って、最終的には26日のJAL便で離印の予定。ヒマチャル行きには1300ドルも取られたので、せいぜい楽しむこととする。


9月14日(火)
朝、家と使用人(そして未定なれどアンバサダー(?))をそのまま引き継ぐことになる後任者を家に招いて、家の中のこと、使用人のことなどについての引継ぎを行う。その後、MassiとPushpaが妙に力を入れて作ったインド料理で昼飯。

後任者はいたくMassiのインド料理が気に入ってくれたらしく、私としても嬉しい。この分でいくと、後任者も日・印半々位の食生活を送ることになりそうである。

午後3時頃から引越し業者が来て、パッキング作業が始まった。私は、事務所の方で色々とバタバタと残りの仕事を片づけなければならず、その他事務所内で色々な出来事(詳細は記さず)があったので、取敢えず電話で、本の方からパッキングを始めてくれ、と指示。結局、本だけで段ボール箱10箱程度になり、船荷の殆どが本になってしまった。業者は色々経緯があるのだが、結局、中国系インド人(珍しい存在)がコンノートプレースでやっている店に頼んだのだが、瀬戸物など、小物についても、一つ一つ丁寧に包んでくれたようだった。

引越しとはいっても、所詮は一人暮し。持って帰る家具もここで作った頑丈な本棚2つだけであり、衣料も含めてパッキング作業は3時間程度で終わった。終わってみると、机などを残して、「自分のもの」と言えるものは殆ど無くなっており、これまで3年間「自分の家」と思って暮してきたこの家が、実は「借り物」であったのだということを急に思い知らされたのだった。

夕食は当地JICA事務所との懇親会。久しぶりにお会いした某夫人が大活躍されたのだった。

それにしても、政治や社会的に色々なことが起きているのだが、離任に当たって余裕が無くなってしまって、全然何が起きているのか把握出来ていない。


9月13日(月)
後任者と挨拶回り。昼食はインド大蔵省のカウンターパートの面々と。いつも身近に働いてきた人達であるが、あたたかい送別の言葉をかけてもらい、恐縮する。

午後も挨拶回り。後任者もインド駐在を希望していたことが話題になり、驚かれる方もいる。おかしなものだ。

夕食は、事務所に一番最近加わった同僚が自宅に招いてくれた。南インド出身の彼とは年齢が近いこともあり、気が合うし、能力も高いので、もう少し長く一緒に働きたかった相手なのである。夕食にはムンバイでコンピューター関係の仕事についている彼の弟も加わった。

さて、彼の結婚はインドの常で、両親が決めたらしい。結婚が決まった際に、彼がやったことが変わっている。何と、料理を一生懸命勉強したという。何故かというに、結婚相手の料理が下手な場合に、自分で好きなものを食べるためだったとの由。随分と食いしん坊なので、さもありなんといった話であるが、結果は、やはり南インド出身の彼の奥さんは美味しい南インド料理を作ってくれる(僕も今晩堪能させて頂いた)ので、結婚前の懸念は全くの杞憂に終わり、彼が覚えた北インド料理を奥さんに伝授することで結婚後の食生活はさらに充実し、彼は目にみえて「立派」になっているのである。


9月12日(日)
アンドラプラデシュから無事帰ってきた。文字通り旧交を温めることができ、「義務」を果してきたような気持である。早起きが続いたので、一寸疲れたが、本当に行ってきて良かったと思う。

そして、とうとう今晩、私が去った後の新駐在員がインドに到着した。明日から挨拶回り、家の引継などでバタバタする。そしてそのバタバタが終わったら、それで私の駐在員としての仕事もお仕舞いである。


9月10-12日(金-日)
アンドラプラデシュへの旅行。(別途作成予定)


9月9日(木)
今日も色々な書類を処分したが、書類を捨てるような訳に簡単にはいかないのが、アンバサダーの処理である(処理というか、「処遇」という言葉を使いたくなってしまう)。

昼食時、とある月例の日本人昼食会で離任のご挨拶を行う。挨拶のあと、「さて、」と切り出して、早速アンバサダーの話をした。「私がインドに帰ってきた暁には即時明け渡すとのオプション付きで、格安にお譲りしたい」云々と話し始めたら、何となく「引き」を感じた。話しながら、きたきた、これはしめたな、と思ったのだが、案の定、会が終わると、「引き」を感じた御当人が寄ってきて、他に買い手がいないのであれば、是非、とのお話。これで何らかの形で手を挙げて頂いた方が約3名。

日本に一緒に帰れないのは哀しいが、我がアンバサダー、お蔭様で奇特な在デリー日本人どなたかの手の中で、大事にして頂くことになりそうで、ありがたい。

明日から12日の夕べまで一寸デリーを離れる。委細は戻ってから。


9月8日(水)
今日は事務所でも家でも「捨てる」ことに専念した。忙しいからコピーを取っておいてあとでゆっくり読もう、とか、これは将来使えそうだからコピーを取っておこうとかいった具合にため込んだ書類の山と闘ったのだ。家に帰ってからも、引き出しの中のため込んだ年賀状・クリスマスカードの類の整理、面白そうだ、「日記」のネタに使えそうだ、と思ってため込んだ新聞の切り抜きの山の整理、何だか随分と多い支払い領収書の整理など。

あとからみてみると、何故とって置いたのか良く分からないような書類や、そもそも誰から貰ったのかさえ分からないクリスマスカーなど、何故後生大事にこんなものを捨てずに取っておいたのかというものが多い。そういったものをバサバサとごみ箱にほうり込んでいくのは、本来掃除好きの僕に取っては気持がよいものだが、その一方で、何だかインド生活の総仕上げに入ったようで、寂しくもある。


9月7日(火)
夕刻、月例の勉強会に出席。ピザを囲んだ懇親会では、アンバサダーをどうするのか、という話になった。引き取る、もしくは借入れることを希望してもよい(?)という奇特な方が約2名。アンバサダーはコンピューターを使っていないから、2000年問題フリーだとか、インド中何処にいっても修理できるのはアンバサダーだけだとか、「売り」になる口上を並べたつもりだったのだが、実際のパフォーマンスの話になると、どうも正直にものを言い過ぎるのか、やれ切返しの時にハンドルが重いとか、ロングドライブをすると肩が凝るとか、実にアンバサダーらしいのだが全然「売り」にはならないことをしゃべり始めてしまい、「原さん商売下手ですよ」と言われてしまった。おっしゃる通りである。正直者は損をする。「日本に持ってかえって改造するのに150万円かかるのであれば、そのための募金をすればよいではないか」との案まで出たが、50円位しか集まらなくても困る。

随分とビールが回ったとき、某所長さんが、「新宿中村屋カレー物語」と題した日印合同映画を作りたいと宣うた。日本に滞在しつつ、当時日本と同盟関係にあった英国の追求から逃れ、匿われた先の新宿中村屋の娘相馬俊子と結婚したインド独立の闘士Ras Behari Boseと、彼が中村屋に遺したカレーの物語だ。Ras Behariは、Subash Chandra Boseが在外インド人の指導者として浮上する以前は、日本、東南アジアを中心とするインド独立運動の中心的指導者であった。両者は混同されることがあるが、ともにベンガル人であるということを除いてれっきとした別人である。

さて、相馬俊子役の女優は所長さんの好みで決まっているそうだが、R B Bose役が決まらない。Shah Rukh Khanではどうかとか、Anil Kapoorでどうだとかいったのだが、どれも「高すぎる」ので、もっと安い俳優にしたらどうか、という話になったのだった。


9月6日(月)
昨日の選挙の投票率は50%を超えたとかで、選挙委員会としては取敢えず満足といった様子。しかし、首都デリーの投票率は恐らく50%を切ったものと見られる。昨日は、Sonia Gandhiが立候補し、その当て馬としてBJPがSushima Swarajを立てたカルナタカのベラリ選挙区でも投票が行われた。残念ながら、今回の選挙では選挙委員会によって出口調査の実施・その結果の発表が禁止されているため、昨日の投票結果については憶測の域を出ないが、Indira Gandhi以来のNehru家の伝統を背負って出馬したSonia Gandhiと、元来のスピーチ能力に加えて土地のカンナダ語を操り、「Videshi(外国人)かSwadeshi(愛国)か」という選挙活動を繰り広げたSushima Swarajiの闘いはどちらが勝つにしても僅差の争いとなるものと思われる。

さて、今日は昨日の夕方から失せ物が突然出てきたように降り始めたモンスーンの雨が続き、涼しい一日だった。出勤して残務処理。引越し業者(本邦系)から見積りが送られてきていたが、残念ながら高すぎて、移転費として支給される手当てを大幅に上回ってしまうので、他の業者を当たることになった。明日荷造り+積み出しの予定で、その後は綺麗さっぱりするつもりだったのだが、残念である。新たに現れたのはなんと中国人(国籍はインド人だそうだ)で、これまで我が社の駐在員の引越しを一手に引き受けていたという。インドで中国人の世話になるというのも中々ない経験である。

出張者が来ているので、昼・夜と連続して大蔵省のカウンターパートと食事。もうお互い、「インドではこうだけれども日本ではどうなのか」「日本ではこうするのに何故インドではああするのか」といったやり取りから卒業しても良いのではないかと思ったのだった。


9月5日(日)
昨日も遅くまで話し込んでいたので、今朝もゆっくり起きればよいかなぁと思っていたら、8時半にMassiとPushpaが出勤してきた。なんといっても、25人分の料理を6品も作らなければいけないので、大騒ぎである。そのうち、「テント屋」も現れ、椅子15脚と、グラス、フォークとスプーンなどを持ってきた。料理に励む二人に何か手伝うことはないかと聞くと、大丈夫大丈夫全部キチンと出来るから、との返事。もう一回聞いたら、じゃぁ、マーケットに行ってお菓子を買ってきてくれということになったので、暫し同居中の同僚とともにKhanマーケットへ。

このマーケットでも例に漏れず、甘味屋は、Bengal Sweet Shopと銘打っている。何故だか知らないが、甘味屋を見たらベンガル人だと思え、というのは常識らしい。確かに、甘いシロップに浸かったラスゴラなどは、ベンガル地方産のものが有名だが、街中の甘味屋がBengal Sweet Shop(同じ店名だからといって、必ずしもフランチャイズというわけではないと思う)なのもおかしなものである。

Massiに指定された、ラスゴラとグラブジャモンを買っていると、店先でパニ・プーリをやっているのを今更のように発見。早速食べたくなった。このところ、潜在的には下痢体質なので、一瞬逡巡したが、パニ・プーリが食べられるのも残りあと何日かと思うと食べたい気持に歯止めが聞かなくなり、「10ルピー分ちょうだい」と頼んでいたのだった。

旨い旨い。一緒にいた同僚にも一つすすめてみたが、こんなものの何処が旨いのかといった顔をしている。この旨さが分からないとは可哀想な奴である。残りは私が独占させて頂いたのだった。

パーティーが始まるまで時間があったので、コンノートプレースに行きたいという彼を送ってから、パーン屋に行った。気を利かせて、「食後の口直し」に女性用の甘いパーン(ミタパーン)と男性用のパーン(サダパーン)を調達するためだ。それぞれ10個ずつ(日本の寿司のように、2つペアで作るサダパーンは都合20個)作ってもらったので、随分時間がかかった。パーン屋というところは、リキシャこぎから金持ちまで、パーンやタバコを嗜む色々な人が集まるので、世間の噂話とか最新情報が集まり、広がっていくポイントなのだ。実は今日、デリーでは総選挙の投票日。何人か現れたお客の左手人差し指をじっと見てみたが、5、6人来たお客のうち、誰も投票してきたことを示す特殊インクの印は無かった。一人に聞いてみると、「Indira Gandhiがいたら投票するけどよぉ、Sonia Gandhiじゃぁわざわざ投票所にいく期にも慣れない。何せ、彼女のヒンディー語はひどい。あんたの方が上手い位だ」とお世辞半分の回答が返ってきたのだった。

パーン屋に支払う金額としては異様に大きな額を払って、家に帰った。昨日から仕込んでいた甲斐あってか、料理の方は大方終わっていた。しかし、一部の料理がまだ出来ていないようなので、どうするのか、と聞いたら、もう出来ているという。でもどこにもないじゃないか、どこにあるんだ、と更に聞くと、隣の家の使用人に頼んでオーブンを借りており、見当たらないパニールティッカ(インド風カッテージチーズにスパイスをつけてあぶったもの)とシークケバブ(羊肉の粗挽肉にスパイスを混ぜたものを棒の周りにつけて焼くもの)は何と隣の家で作っているという。当然隣家の御主人(金持ちのオバサン)は預かり知らぬところ、使用人同士で話を勝手につけたのである。

ありがたい話だ、終わったら何か上げなければ、と思っていたら、どこからともなく、車輪付きの綺麗なトレーテーブルまで現れた。あれ、こんなのテント屋に頼まなかったよなぁ、というと、これも隣の家から借りてきたものだという。このアパートの中には、人の良い使用人が沢山いるが、家の隣の使用人(Amitabh Batchanと同じBatchanという名前)は特に良い奴だ。今日は大変世話になったので、パーティーが終わってから、余った食事の一部、飲みかけのスコッチウィスキーのボトル、缶ビール2つを、勿論先方の御主人には内緒でお礼に渡したのだった。

そうこうしているうちに、段々事務所の同僚が集まり始め、最終的には老若男女・子供も合せて、部屋の容量一杯かと思われる25人が集まってくれた。最初のうちは、(真面目な)お酒を飲まない人達ばかりで、クリケット(対West Indies)中継を見ながら大人しく会話していたのだが、その内に次々と呑兵衛たちが到着し、わいわいガヤガヤが始まり、何時クリケット中継が終わった(インドの大敗)のかさえ分からなかった。僕はこんなに多くのお客さんを迎えたことが無かったので、やれ飲み物だやれ氷だ、やれグラスが足りなくなったと右往左往していた。そのうちスナックとしてパコラ(インド風天ぷら)とパニールティッカ、シークケバブが出てきたのだが、その頃になると、何でも僕一人でやるのは無理だということに気が付いて、皆に申し訳ないけれど、セルフサービスでやって下さいとお願いした。恐縮したことには、皆スナックを食べおわった後、各自がお皿を台所に持って行ってくれたのだった。後から振り返ってみると、上司の家でパーティーをやっていた時には、何人か「ベアラー(bearer)」と呼ばれるお給仕専門の使用人を2人か3人用意していたことを思い出すのだが、慣れないパーティーを思い付きでやったものだから、ベアラーの手配までは気が付かなかったのだ。まぁ、気心の知れた同僚同士のインフォーマルな会だったから、みんなが助けてくれたのは助かったし却って良かったかも知れない。

一頻り話してから、食事。今日はMassiとPushpaの作ったチャナ豆のカレー、マターパニール(グリーンピースとパニールのカレー)、チキンカレー、ライタ、プラオライス、サラダ、プーリに、同僚駐在員の家の日本食の得意なコックが作ってくれた純粋ベジタリアン太巻きと鶏肉団子、そして、事務所のMr Natarajanが作ってきてくれた特製サンバルの豪華メニューである。インドでは、「酒は食事の前に呑むもの」という風習なので、一部の酔っ払い達は随分あとになってから食事を始めたが(僕は今日も涙を呑んで禁酒である)、それまでに何ラウンドかした人もおり、大盛況であった。皆口々にMassiの料理を誉めてくれて、雇い主としても鼻高々である。

デザートの後、本日のメインアトラクションであった、エベレストへのトレッキング(98年9-10月)のスライドを上映した。ずっと皆に見せると言っていたものなので、やっと義務が果せたという思いであった。

6時前になってスライド上映が終わり、お客さんが皆帰ると、何だか疲れがどっと出てしまった。気を利かせてくれて、一寸出掛けるという一時同居人を送り出してから、2時間程横になった。

9時過ぎになって一時同居人が帰宅した。パーティーの前に彼をコンノートプレースに落としてから、彼が帰って来るまで随分時間があったのだが、彼によると、何気なく時間潰しにヒンディー映画でも見てみるかと思って入ったTaalという映画(と、主演女優のAishwarya Rai: 元ミスワールド)にすっかりはまってしまい、途中休憩で出て来るつもりが、3時間フルに見てしまったのだという。映画好きの彼によると、どちらかというと暗い物語が多いスリランカの映画に比べて、典型的なラブストーリーで、映写・音響技術も格段に上との由。

彼はMassiの料理を殊のほか気に入ってくれて、空港へ向けて発つ直前になってもう一回カレーが食べたいと言い出し、残り物のカレーを掻き込んでいったのだった。午前3時という、隣国への便にしては極めて不自然な時間のフライトに乗る彼を空港に送っていって、長い一日が終わったのだった。


9月4日(土)
昨晩すっかり遅くまで話し込んでいたので、今朝は10時過ぎにMassiが明日のパーティー用の仕込みのために出勤してくるまで寝ていた。

ぐだぐだしながら、昨晩到着した彼と朝食を取り、またグダグダしていると、もう時間が無くなって、一寸した寄り道のあと、出張中の同僚某駐在員の奥さんもピックアップして、昼飯に招かれていたPushpaの家へ。

Pushpaは元々南インド出身なので、今日は本格サンバル(南インドの人にとっての「味噌汁」のようなもの)と、マサラドーサ(米と豆の粉を水で溶いたもので作ったクレープ状のものでジャガイモのカレーを包んだもの)を作ってくれるという。作り方を学びたいので、僕らが到着してから作りはじめてくれと頼んでおいた。一通り、サンバルとマサラドーサの作り方を見学して、取敢えず作り方の分かるインド料理がまた二品増えた。

Pushpaはこの他、ワダ(もしくはワラ)という、豆の粉で作った揚げドーナツのようなものと、米と豆を砕いたものから作ったイドゥリという蒸しパンも作っておいてくれた。どれも実に旨い。プロというか、本場の味がした。僕は一時期、一週間に一回はサンバルとマサラドーサを食べないと気が済まない中毒症状に罹ったことがあったのだが、今日は久しぶりの旨いサンバルで感激した。

帰り際、やはりというか、予想通り、Pushpaは「Saabが居なくなるのは堪らない」といって泣き出して困った。みんなで記念撮影をした。

その後、ひとときの同居者をレッドフォートの観光に送り出してから、家に戻り、引越しの準備。家中に散らばっていた本を本棚に集めたり、机の引き出しを整理したり、船便で送る冬物と航空便で送る夏・秋ものを分別したり、結構忙しかった。

夕食は近くのホテルで食べ、家に戻ってから、昨日と同じように、ああでもないこうでもないと議論。10月以降の新たな環境に関する不安など。話は尽きない。結局3時間位話し込んでから、寝ることとした。


9月3日(金)
今日はJamasthami、ヒンドゥーの神神の中でも一番のヒーローであるクリシュナ神の誕生日である。国民の休日。

昼過ぎにクルタパジャマを着てラクシミナラヤン寺院にお参りに行った。クリシュナはヴィシュヌ(=ナラヤン)の化身であり、毎年Jamasthamiの日には、インドでも代表的な財閥であるビルラ家が建立したこのお寺が賑わう。今年も寺の周囲は交通規制が布かれており、少し遠いところに路上駐車してから歩いてお寺まで。普段は寺の中に靴を預けるのだが、今日は150m程離れたところに臨時の靴預かり所が出来ており、そこにサンダルを預けてから裸足でお寺まで歩いていった。

お寺の中は込み合っていた。ここは都会の開けた寺だからか、貧富もカーストも問わず、様々な人がお参りに来ている。やっとラクシミナラヤン像(ラクシミはヴィシュヌの配偶者)の前に来てから、ちょっとした失敗に気が付いた。車を降りる時に、御布施のために10ルピー冊を何枚かポケットに入れてきたのだが、1ルピー玉を持って来るのを忘れたのだ。インドでは、お寺の御布施とか、結婚式の御祝儀などは、「割り切れない」ということからなのか、必ず11ルピーとか、501ルピーといったように、まとまった額に1ルピーをつけるのが普通。以前観た、Hyderabad Bluesという映画でも、アメリカ帰りのインド人がお寺に行ったときに、御布施を50ルピーだけ出して、一緒に行った親に咎められるというシーンがあったが、今日は僕が同じことをしてしまう羽目になった。周りの人に1ルピーもらおうかとも思ったが、それも気まずいので、申し訳ないと思いつつ、10ルピー札を賽銭箱に押し込んだのだった。

インドでも神様を拝む時には手を合せる。その他、神殿の前の床にひれ伏したり、両手を交差させて耳に触れつつちょっと膝を折ったりと色々な形はあるが、基本型は手を合せるものだ。面白いのは、日本では仏様を拝んだり、神社で柏手を打ったりする時には、目をつぶってお願い事をするものだが、ここインドでは、手を合せながら神像を見つめている人が多い。勿論、目をつぶってお祈りをしている人もいるが、僕の見たところでは、見ている時間八に対して目をつぶっている時間二といったところか。ダルシャンといって、神や高貴な人を「拝み見る」ことを通じて功徳を積むという伝統がある訳で、神へのアプローチの仕方も色々だと思う。キリスト教徒の場合はどうなのだろうか?

このお寺は神様の殿堂であって、ラクシミナラヤン、ドゥルガ、シヴァと次々に参拝したあと、本日の主役、クリシュナが祭られているお堂へ。ここも人だかりがしている。クリシュナの像は手が届く距離に祭られているので、皆拝みながら足元に触れて敬意を表わしていた。ここでも申し訳ないと思いつつ、10ルピー札を賽銭箱へ。このお堂に隣接したところに、小部屋があって、普段はクリシュナの誕生像・幼少期の像が祀られているのだが、クリシュナは今晩誕生したことになっているからか、今日はこの部屋は閉じられていた。恐らく今晩深夜に再び開帳されることだろう。

お寺から出ると、路上の出店で子供の姿のクリシュナの小さな泥人形などが売られている。子供のいる家庭などでは、こういった人形は飾り物を集めて、クリシュナの誕生、幼少期の物語を再現する箱庭のようなものを作る。クリスマスの際に、教会にキリストの誕生物語を再現する小さな小屋のようなものが置かれることが多いが、あれと良く似ている。

その後事務所に行って少し仕事。来週末に予定しているアンドラプラデシュの知り合いを訪れる旅について、先方から快諾のメールが来ていて安心。

夕刻、お世話になった方に御自宅にお招き頂き、送別会を開いて頂いた。幻の焼酎などが供されて、酒を呑めない僕には目の毒であったが、色々な話が出て楽しい夕べ。御子息が僕の通っていた慶應志木高校に通っておられたので、先生の話など、極めてローカルな話で盛上ったのだった。

長い一日である。送別会の後、自宅に戻り、テレビをつける。国営ドゥールダルシャンで、Jamasthami恒例のマトゥラからの実況中継を見るためだ。今年も無事にクリシュナ神がお生まれになって、良かった良かった。

今日はまだ続く。クリシュナの生誕を見届けてから、再び家を後にして、空港へ向かう。スリランカはコロンボの駐在員事務所にいる同僚が、「原昌平インド駐在事後評価ミッション」と称して、デリーに遊びに来てくれた。彼の到着便は何と真夜中の1時着。久しぶりに行ったデリーの空港は、到着客の出口が分かり易くなっていて、随分良くなった感じがする。

彼を家に迎えて、3時過ぎまでつもる四方山話をした。随分遅くまで話していたものだが、言わば同好の士であり、話が尽きない。


9月2日(木)
今朝はとうとう引越しの準備に着手。とはいえまだ何も手をつけていないのだが、運送業者に来てもらって、どれくらいの量になりそうか、見積りを作ってもらうことになった。まぁ、恐らく荷物の大半は書籍で、あとは衣類ばかりなので、大した量にはならないと思う。

その後、すぐに「テント屋」が来た。「テント屋」というのは、結婚式や大きな宴会などの時に、大きなテントを張って、その中で食事のケータリング一切を請け負う業者のこと。日曜日に予定しているパーティーのために、椅子、グラス、皿、スプーンなどを借りるのだ。普段一人暮しで、お客さんを呼ぶといっても、これまでは5、6人が上限だった。半分思い付きで、20人近く(20人を超えるかも知れない)を招くことにしたのは良かったが、よくよく考えてみると、椅子が足りず、お客さんに床に座ってもらわざるを得なくなることに気が付いて、急いで「テント屋」を呼んだのだ。椅子だけでなく、色々借りることになって、結局借り賃約3,000ルピー也。

その後、Massiと一緒に買い物に出掛ける。取敢えずビールの調達と思ったのだが、何と今日からDry Day(アルコールの売買、供用が禁止される日)が始まってしまったという。インドでは、選挙投票日をはさんで一週間程度が禁酒日となる。酒に酔った政治運動家(というか、チンピラども)などが暴動や選挙妨害などの行動に出ることを抑えるための規則なのだが、デリーの投票日は9月5日なので、早速今日から禁酒期間が始まってしまったとMassiが言う。

それは困った、だからDry Dayが始まる前にビール買っとけと言っといたじゃないか、とMassiに言うと、"Koi baat nahin, saab. Aaaj bhi beer to mil jaega"(ノープロブレム。今日だってビールは手に入りますよ)との答え。訝りながらも取敢えず彼の言葉を信じて、INAマーケットへ。迷路のようなマーケットのその奥の奥の暗がりに間口の狭い闇酒屋があるのかなぁ、と思ってMassiについていくと、何と表通りに面した、全くアヤシイところのない、あっけらかんとした明るい食品雑貨屋にすたすたと入っていく。Massiが店員の耳元で、ビールは手に入るかとささやくと、店員は静かに首を横に振ったのだった(因みに"Yes"の意)。ハイネケンビールがあるという。結局その店でビール以外に色々なものを買うことになり、物色しているうちに箱に詰められたビールが出てきた。

Dry Dayなので、あからさまにビールが入っていると分かる箱を運んでいるとお縄になる。一体どうするのかなぁと心配していたのだが、何と、「ペプシコーラ24缶入り」と書いてある箱が、何故か7Upのテープで封印されて出てきた。勿論中にはハイネケンビール。なるほど、ここはインド、Dry Dayの白昼堂々、ビールを買おうとする方も売ろうとする方も、蛇の道は蛇だなぁ、と妙なことに感心したのだった。出勤してから、パーティーに招いている某インド大蔵省のカウンターパートから電話があったので、この話をしたら、「お前も本当のbadmaash(悪い奴、悪智恵の働く奴)になったなぁ」と呆れられてしまった。

その後カーンマーケットに行って、オリッサ(まだ書いていない)で買ったJagannath様の絵(このイメージとは違ってシルクの上に描いた大きな絵)を納めるための額縁と、スーツ(日本で買ったものをサンプルとして持っていって、コピーする)を作ってもらう算段をした。どちらも日本で作るよりはずっと安いのだが、お金に羽が生えたように消えてゆく。

久しぶりに政治のことでも書こうかと思ったが、今日も何だかつまらぬ身辺雑記になってしまった。


9月1日(水)
9月1日である。発令の日だ。熱を出してからというもの、ゆっくり目に出勤していたのだが、今日は何となく改まった感じで定時に出勤。人事から電話があるのか、ファックスが送られて来るのか良く分からなかったので、出勤と同時にファックスは来ていないか、電話は無かったかと聞いてまわるが、まだ何も来ていない由。何だか不安になった。実は今日では無かったのではないか、もしかしたら何かの間違えだったのではないか。

本当はインドから去りたくないのに、何故だか首を長くするようにして待っていたら、10時半頃になってやっと一枚のファックスがやってきた。

「...原昌平について、平成11年9月1日付で以下の通り発令されたので通知する。
帰国を命ずる...」

というものである。

何となくほっとしたというのが取敢えずの正直な感想だ。仕事の方は昨日も書いたように大晦日の大掃除直後状態なので、ほぼ綺麗さっぱり。丁度ペーパーワークのサイクルと、発令のタイミングが上手く合ったのか、実施機関などから送られてくる要処理事項が底をついた(勿論溜まっていたものをシャカリキで処理したのだが)ところで、発令を迎えることが出来たのだ。

昼前に毎週定例の事務所内ミーティングがあったので、簡単に挨拶する。正式な挨拶は15日に予定されている新旧駐在員の歓送迎会の席上でするつもりなので、今日は飽くまで簡単に、微笑みながら話したつもりだったのだが、不覚にも涙が出そうになった。誰も気付かなかったとは思うが。

ちょっとしたトラブルがあった事務所出入りのコンピューター屋を電話で叱り付け、「これまでは俺がシステムの面倒を見てきたけれど、日本に帰っちゃったらアンタ方だけが頼りなんだからしっかりしてくれなければ困る」と言ったら、帰国するとは知らなかった、その前に是非挨拶をしたいといって、雁首そろえて飛んできた。叱り付けながらも、何だか嬉しい気分ではあった。

その後、9月後半に予定しているスピティ旅行の手配のためにエージェントに来てもらい、一頻り相談。僕一人にガイド、ドライバー、コックがついてテントに泊まって回る大名旅行で、相当費用も掛かりそうだが、「最後っ屁」は最後っ屁、散財してやろう。楽しみ楽しみ。

と、事務所にいながらもすっかりリラックスモードに入っていたら、午後になって一つ仕事が持ち上がり、最後の仕事と思って丁寧に仕上げる。何ともよい気分である。

仕事関係の方々を中心に以下のメールでこのような挨拶を送った。

> 本日、帰国発令を頂きました。

> 

> 希望して赴任したインドで丁度3年を過ごしたことになりましたが、

> この間には政権交代あり、核実験ありで良い意味でも悪い意味でも

> 色々な経験ができました。

> 

> 微力ながらもインドと日本の間に立って尽くしてきたつもりではあ

> りますが、個人の力ではどうしようもないことも多く、昨今の対イ

> ンド円借款を巡る環境は必ずしも順風満帆とは言えません。

> 

> このような環境の中で、やりかけの仕事も多く、知れば知るほど分

> からないことも増えてきたインドを離れなければならないのは正に

> 断腸の思いではありますが、これも潮時と割り切り、10月以降の新

> しい環境の中で、一体自分に何ができるのか見極めてみたいと考え

> ております。

> 

> 在任中にはいろいろお世話になりました。ここで御礼を申上げると

> ともに、数々のご迷惑をお掛けしたことをお詫び申し上げます。

> 

> インドからの離任は9月末を予定しております。帰国後の配属は未定

> ですが、できれば何らかの形で引き続きインド及び南アジア地域に

> 携わって行きたいと考えております。

> 

> 以上簡単ではございますが、離任のご挨拶に代えさせて頂きます。

「断腸の思い」というのは大袈裟ではあるが、真情である。

夕刻、今日もお世話になった方々が送別会を開いて下さった。私は「潮時」などといい加減なことをいってインドを去ることになるが、円借款プロジェクトを巡る環境が厳しい中、引き続きプロジェクトに携わっていかれる方々には頭が上がらない。

以前担当していたとある地方案件の実施機関の人がデリーに出て来る機会があるので、是非送別の食事をオファーしたいとの申し出があった。残念ながら、他の日程と重なってしまっているので、延期せざるを得なかったが、有り難いことである。また、我が事務所(もう「我が」ではないのだが)に一番最近加わった同僚からも、帰国前に是非自宅に招きたいとの申し出があった。彼は優秀且つ中々のナイスガイで、出来るだけ長く一緒に働きたいものだと思っていた相手なので、とても嬉しく思った。

色々な人々に支えられてこの3年間を過ごしてきたものだ。