最近の日記


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そもそも生まれてこの方日記などつける習慣の無かった私ですが、インドというところは何か人をして(何でもいいから)書きたい気持ちにするようで、徒然なるままに思ったことを書きたいと思います。

役人じみた言い訳で恐縮ですが、ここ及び私作成の他のページに書かれている見解、価値判断、論評、言い訳、ぼやき、等々については、全て私個人のものであり、私の雇用者とは関係がありませんので、念のため。

コメント、ご意見等大歓迎です。掲示板のほうに宜しくお願いします。

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7月22-23日(土-日)

諏訪の「南アジア研究集会」に参加。33回目だという。

それぞれの専門分野での研究成果の発表。うらやましい。

その後、I君と共に、諏訪大社下社秋宮・春宮、上社本宮・前宮をお参り。

帰りの「スーパーあずさ」は満員。座ることもできず、八王子でリタイア。

炎天下歩いたのと、汽車で座れなかったので、疲れた。


5月14日(日)
本の整理・惜春の原稿書きなどで半日をつぶした。


5月13日(土)
インド女性、またしてもMiss Universeに。これで1994年以来のダブルタイトル。http://www.the-hindu.com/stories/01140005.htm


5月12日(金)
Hrithik Roshanの「原」を確認。http://www.rediff.com/entertai/2000/may/11hri.htm




5月1日(日)


4月29日(土)
ちょっとしたことで、新聞の切り抜きを用意するために出勤せざるを得ない羽目に。休日ということ(午後だったからか)で、地下鉄の売店が全部閉まっていて、結局東京駅までいって、主要各紙を入手、会社に戻って切り抜きを作ったころにはヘトヘトになっていた。

と、いうことで、2ヶ月ぶりに行くはずだったインド通信の会はリタイア。


4月28日(金)


4月27日(木)


4月26日(水)


4月25日(火)
オソロシイ二日酔い。胃洗浄状態。

ダブルブッキングにて句会に出られず。


4月24日(月)
羊のしゃぶしゃぶ(「龍水楼」)。神田。千駄ケ谷。なぞの美人。


4月23日(日)


4月22日(土)


4月21日(金)
弟の結婚式。


4月20日(木)


4月19日(水)


4月18日(火)


4月17日(月)


4月16日(日)
蓼科。八ヶ岳。


4月15日(土)
雨。甲府。高遠。蓼科。


4月14日(金) 


4月13日(木)


4月12日(水)


4月11日(火)


4月10日(月)


4月9日(日)
何も出来ないなんだか疲れが取れない週末。

日が随分と傾いてから、桜の名所と言われている近くの川の土手に自転車で行った。桜の花は軽やかな色をしているが、満開のそれは何だか重そうだった。この土手に植わっている桜は大木なのだが、そこに至るまでに通った用水路のようなところや、小川の土手には、ここ数年の間に植えられたと見える桜の若木が花を咲かせていて、風の強かった今日は、既に散り始めていて、それはそれで美しかった。

着地して転がり初める落下かな
横丁に吹き込まれ来し落花かな

このところ、在原業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」ではないが、何だかいつ桜が咲くのか、咲いたら咲いたでいつ満開になるのか、そしていつから散り始めるのか、などと、気になって仕方がない日々が続いていたのだが、夜桜見物一回のみにも関わらず、若干食傷気味である。と、いうのも、例えば朝の出勤中に電車の窓から何気なく風景を見ていると、視界に桜が全くない時間というのは、30分電車に乗っているうちに、ものの5分とないのだ。それでも、咲き初めの頃は、あそこの桜は他よりも早いなぁなどと、面白かったのだが、ここニ三日のように、どこでも満開ということになると、「猫も杓子も」のようでつまらない。用水路沿いの桜の若木もその「猫も杓子も」の一部であって、つまらないから他の樹木にしたらどうかとも思う一方、若木がけなげに花を咲かせている姿もよいものだなぁ、と思ってしまったりもする。

食傷気味なのは、桜そのものではなくて、「どこにいってもソメイヨシノしかない」ということなのかもしれない。どこにいっても「猫も杓子も」「馬鹿の一つ覚えで」ソメイヨシノなので、飽きてしまったということだ。


4月8日(土)
友達のうちに花見に誘われていたのだが、このところの疲れがたたって、なかなかおきることが出来ず、起きてからもグズグズしていたので、結局花見の段はスキップして、友人宅に場所を移した飲み会に参加した。

旨い料理と旨い酒で、すっかりリラックスしたのだった。


4月7日(金)
次から次へと難問が沸き起こって無茶苦茶忙しく、一部が片付いたことによる達成感と片付いていない難問についての悲壮感・不安感の入り混じる一日だった。


4月6日(木)
インドから一時帰国している私の後任の駐在員がお土産にと、ナムキーン(スパイス味のスナック)と、何と、生のカレーの葉を盛ってきてくれて、大感激であった。カレーの葉は、先週の土曜日に作ったサンバルなど、南インド料理を作るのには欠かせない材料である。

夕刻、千鳥が淵にて夜桜見物。敷物を敷いて花見をしている側と、花を見に来たつもりでも、半分はそうしている花見客を見物に来た側とがあって、気がついたら、見られる側に立っていたのだった。今晩は少し寒かったが、水銀灯に照らされた満開の桜は見事であった。

寝転べば天蓋花に満ちてをり

ぐっと色気のある花見の場面から、なぜだか知らないが、餃子を食べに行く羽目に陥り、すっかりニンニクくさくなって帰宅。


4月3(月)-5日(水)
新人を迎え、私もちょっぴり偉くなって(でもそのお陰でしっかり仕事も増えて)、新年度の新体制であるが、息をつく間もなく、バタバタと働きつづけた三日間であった。

木曜日に花見にいくからというわけでもないのだが、白幡洋三郎「花見と桜 - <日本的なるもの>再考」(PHP新書)を読んだ。「貴様と俺とは同期の桜...」といった文脈で語られる「桜」と、「花見」の対象としての桜の違い(=必ずしも「すぐに散ってしまう」「はかない」ということが原因で皆が花見に駆られるわけではない)、「花見」が日本固有の文化であること、などは良く分った。ただ、では日本人はなぜ花見にこうも駆られるのか、については、もう少し掘り下げてくれればなぁ、と思ったのであった。


4月2日(日)
ちょっとだけ出勤。明日からは新体制で新年度を迎える。少し緊張。


4月1(土)
やはり二週間分の疲れがたまっているのか、死んだように眠りつづけた。夕食には、トマト、ナス、オクラ、タマネギ、ダル豆を使って、南インドでは「味噌汁」のような存在であるサンバルを作った。手持ちのダル豆は大きすぎて、且つ沢山入れすぎてしまって、何だか「北インド人が作ったちょっと間抜けなサンバル」といった感じになってしまったが、味の方はまぁまぁの出来か。家人には辛すぎるといって不評だったが、大量に作ったので保存してもらう。


3月31日(金)
「インドにおけるマイクロファイナンスの可能性」について、現地調査などを行った専門家をお招きした昼食会。お二人とも、僕がインドから帰国する前、熱を出していた頃にお会いして以来であった。

我々のような、開発援助屋、それも、政府の立場から物事を見勝ちな立場にいる者は、とかく、政策誘導をするための道具としてマイクロファイナンスが使えないか、と考え勝ちであるが、今日のお話を伺って、マイクロファイナンスはそういうものではなく、共同体がまだ残っている社会で、それを活かして住民の生活への外的ショックを緩和するためのファイナンスの仕組であるということがよく分った。要すれば、所得の低い階層に対する金融手段の不完全性を共同体的な仕組で補うものであって、マイクロファイナンスのみで一定以上の所得層に属するグループの生活水準の向上が満たされるわけではなく、一方で、マイクロファイナンスのみでは最貧層への支援としてはそもそも不充分であって、直接的なキャッシュサポートが必要になるかもしれないということ。

インドの養蚕案件などでは、本格的な養蚕事業が開始される前の段階で、マイクロファイナンス的な共同組合を作っているが、これは資金の融通もさることながら、資金の融通を仲介として、組合組織を作っていくというものである。


3月29(水)-30日(木)
春の異動で、新人が入ってくる、他の部に異動する、外国から帰国する、退職する、と色々あるようだが、我が身には特段変化なく、特にインドに関係のある仕事が出来るわけでもない。良いことなのか、悪いことなのか。


3月28日(火)
夜に惜春の夜句会があり、兼題は「耕」「彼岸」だというので、昨日今日と、朝の電車の中から、耕したばかりの畑などを見ながら、句を作ったりしていた。地下鉄に入ってしまう寸前に大きな鉄橋を渡るのだが、その下の河原をふと見ると、青いシートに包まれたダンボールハウス(というには随分大きかったが)があって、その前に、小さな畝が三本ほど切ってあって、その内の一本にネギがニ三束植わっているのを見つけた。

だからといってどうという訳でもなく、それで何か俳句が出来た訳でもないのだが、なんだか新しい発見をしたような気分である。通勤者の中にあの小さな畑に気づいている人は何人いるだろうか。といって、ホームレスのおじさん(と仮定する)とて、誰かに見てもらいたくて畑を作っているわけでもあるまいが。

夜句会での句。言うまでもないが、三句目はインドの情景。

耕して盛りあがりたる畑かな
耕して力湛へし土の色
瘤牛も人も愚直や耕せる

夜句会の恒例として、呑みに行こうかと言う話が出たのだが、雨が降っているのと、句会をやっている最中から何だか寒くなったので、呑みもせずに帰宅。


3月27日(月)
不思議と、ワシントンから帰ってきた、「逆時差」は余り感じずに仕事。

今晩からタバコを断つ。


3月25日(土)-3月26日(日)
帰国便の中では、語学留学だか、何だか知らんが、アメリカにいってきた女子大生らしい一団が、前後左右の席をまたがって、どこの国から来た誰が格好良かったとか、誰がいやらしかったとか、そんな話をしている。仕事で疲れて、眠るでもなく、ただ単に静かに休息を取りたいと思っているのに、公害もいいところだ。恥を知れ。と、言って、正面きって注意するのも気が引ける。あと10年、いや5年たてば、「お嬢さん達、ここはキャンパスじゃぁないんだし、休みたい人も多いんだから、ちょっと静かにしてくれないかなぁ」といえるような気もする。

と、機内に居たときにパソコンに書きこんだのだが。彼女達も最後には、お互いの住所を交換したり、日本でも会おうね、じゃぁ、東京だ、いや関西人も多いから、中を取って名古屋だ、といった会話をしていた。よくよく考えてみると、僕も、大学2年生の時に、同じような団体旅行で中国に行ったのだが、帰りの飛行機の中は同じようなものだった。そのように思うと、許してしまう。

成田について、いつものようにリムジンバスに乗り込むと、いつものように高速道路沿いの景色が広がった。成田の周囲の風景というのは、田畑と、雑木林に包まれた小高い丘とが入り混じっていて、どの季節でも、帰ってきてこの風景を見ると、あぁ、日本に帰ってきたんだなぁ、とほっとするのだ。


3月24日(金)
アポイントメントがキャンセルになってしまったので、午前中は休憩。眠る眠る。

昼は事務所近くのインドレストランに連れていってもらう。どうやらシク教徒の家族が経営しているらしく、ボーイもマネージャーもサルダルジなのだった。こちらは、インドにいるようなつもりで、タンドリチキンも、シャンミカバブも手で食べていたのだが、食べ終わってフィンガーボールはないのかと聞いたら、ターバンのニイちゃんは、ニヤニヤしながら、「ここはインドではないんで、フィンガーボールはないんです」との由。

午後の面談後、時間があったので、ポトマック河畔の桜を見に行く。日本のソメイヨシノに比べると、随分と白っぽい色だが、丁度満開、人出も多い。ただ、寂しいのは、人は沢山いるのに、大半が歩いていたり、写真を撮るのに立ち止まったりといった程度で、日本的な「花見客」が見当たらなかったこと。サンドイッチをかじっている程度の人はいるが、飲酒や歌や踊りはともかく、お弁当を広げて、といったグループはいない。でも、すごかったのは、インド(およびパキスタン・バングラデシュ・スリランカ?)人(もしくは南アジア系アメリカ人)の数。こちらがそぞろ歩きをしていると、前から後ろから、右から左からと、サリーやサルワルカミーズに身を固めたインド人の家族連れが、乳母車を押したり、孫の手を引きながら、といった形で沢山現れた。別にこちらがインド系の人々を惹きつけているわけでもないのだが、不思議な感じであったとともに、「これだけインド系の人が居るんなら、ワシントンも思ったより悪いところじゃぁないなぁ」と勝手に思ったりした。。

夕食は、ワシントン勤務の以前の上司と。指定されたイタリアンレストランの場所が分らず、どう考えてもライバルとしか思えない別のイタリアンレストランに場所を尋ねる。間抜けなり。


3月23日(木)
今日は朝食を、OECFを辞めて世界銀行に転職した某君と食べる。メールのやり取りは時々あるものの、直接会って話すのは久しぶりである。昔は世銀と言えば、途上国開発のプロの集まる総本山的なイメージが強く、是非将来は世銀で働いてみたいものだと思っていたが、彼の話や、諸々の情報を聞いてみると、世銀もそれ程良いところではない(= 「プロ」の集まりにもドロドロした組織内政治があって仕事そのものよりもそちらの方が大変)という、ここ数年の思いが裏付けられるようだ。

午前中に一件インタビューをこなして、昼はまたしても、現在世銀に出向されている以前の上司とご一緒。裏話を沢山。

午後インタビュー二件。眠い眠い。3日目なのだから、時差が直ってもよさそうなものなのに、全く調子がでない。

夕食は他の出張者や事務所の方々と。

ホテルに帰ってから、インターネットに繋いで、(なぜかワシントンに来ていながら)、HinduとHindustan Timesのページをチェック。私達がわざわざワシントンに来ているというのに(!?)、クリントン大統領はインドに行ってしまっている。その模様をチェックしようというつもりなのだが、アメリカは大統領訪印中に未臨界核実験を行うし、インドはインドで(民用とはいえ)ロケットの試射をやったり、インドでは大変な歓迎ムードだったらしいが、一体両国とも何を考えているのやら。(米国の未臨界実験については、インターネットで調べた限り、インドの新聞には報じられていないようだ。何か、この辺、意図的なものを感じる。)


3月22日(水)
朝9時からアポイントメント。相手は、何と、ロンドン時代にごく短期間だが一緒に働いたことのあるアメリカ人。しかし、極めて失礼なことに(こちらのインパクトがなかたのかもしれないが)、相手はこちらを全く覚えていない。

それはそれとして、アメリカ人たるもの、何でこんなに話すのだろう。どう考えても、こっちが一聞くと、最低でも五、放っておくと十五くらいは話続ける。それが内容的に詰まっているのであれば、良いのだが、はっきりいって、三分の一位はどうでもよいつけたしである。インド人も良く話すのだけれども、アメリカ人のような高圧的な感じはしない、と思うのは私だけだろうか。まぁ、サービス精神旺盛だということなのかも知れない。

今日は結構忙しく、朝二つ、午後二つのインタビューを行ったが、時差で、午後は実につらい。今日も帰ってすぐ寝る。途中で目覚めるが、今日は記録を書く気にもなれない。


3月21日(火)
今日から26日までワシントン出張。

自宅6時発、TCAT経由成田へ。渋滞でヒヤヒヤするが、結局余裕で間に合う。

朝11時に成田を発ち、ワシントンまで14時間も飛びつづける飛行機は揺れに揺れて、眠れず。このところ、飛行機で眠れたためしがない。死ぬのが怖いから?

暖かいと聞いていたワシントンに着いたのは朝9時。気温は何と摂氏8度。寒い。おまけに雨まで降っている。機内アナウンスメントでは、明日は温かくなって20度くらいまでいくだろうとの由。名物の桜も楽しみにしてきたのだから、暖かくなってほしいものだ。

空港からタクシーに乗る。いきなり、アメリカサイズの車で、ゆったり。運転手はアラブ系なのか、携帯電話で怪しげな会話をしながらの運転。

ホテル(5年程前に2回ワシントン出張した際と同じところ)についてみると、喫煙者用の部屋は、清掃中でまだ空いていないという。Coffee Houseでコーヒーをガブガブ飲み、サンドイッチを食べて時間を潰す。そのとき、することもなく窓の外を見ていたら、雨の中、白人のおばあちゃんが通った。

春雨や真つ赤な傘の老婦人

そんなことをしながらも、フロントに何回も足を運んで急かしたのだが、2時間以上経って、午後のアポイントメントの時間に近づいても部屋が空かず、ブリブリ怒りながら、一緒に出張した上司の部屋で着替えさせてもらう。

この処置、どう考えても、日本人に対する差別(か、喫煙者差別)である。午後から、アポイントメントがあり、苦情を述べている時間はなかったが、本当に頭に来た。このホテル(Madison)は二度と使わないつもりだ。

午後のアポイントメントをこなしてから、ホテルに戻り、(さすがにその時間までには準備できていた)部屋に入ると、ベッドに直行。但し、深い眠りにはいたらず、途中で目がさめてしまって(日本時間では午前中なのだから仕方がない)、今日の会議の議事録など書く。貧乏性は困ったものだ。


3月20日(月)・春分の日
朝勝浦発。

南紀4号。気動車にしては軽やかな特急。よく寝る。

大玻璃の特急列車春麗

尾鷲から乗ってきた五十絡みのオジサン。何やら歌詞カードを見て何かうなっている。ちらっと盗みみると、なんと、サザンのTSUNAMI。結局、多気で降りるまでの2時間あまり、ずっとウォークマンでTSUNAMIを聞きながら、静かに歌詞を唸っていた。

名古屋の駅で執念のきしめん。ちょっと純関西のうどんとは違う。

あっという間の「のぞみ」。寝るが、なぜか富士山の正面で目がさめる。

出勤すれど、旅の昂揚感が抜けず、なかなか仕事が手につかず。出張用のノートパソコンを購入したり、なんとかしつとも、何とか片付けるべき仕事を片付けて、帰宅。


3月19日(日)
朝、8時過ぎに宿を建ち、一路熊野大社本宮へ。

巫女

大斎(おおゆの)原・堤防

湯の峯温泉 あずま屋

野中 一方杉 継桜王子 虚子・立子句碑 秀衡桜 清水

車中狂ひ寝

白浜・昼食 うどんを逃す

雨の潮岬 望楼の芝 橋杭岩

勝浦のみなと湯 深くていい湯

夕食・句会・宴会・浴衣姿で買い物へ。寂れた温泉町。


3月18日(土)
朝8時に紀伊勝浦港着。残念ながら、海上からも見ることが出来るということで、楽しみにしていた那智の瀧は、次の寄港地の高知に向けて勝浦港を出航した後に見えるのだという。勝浦の市内からレンタカーを借りてきて、一行は早速那智の瀧へ。

神にませばまことうるはし那智の瀧    虚子

虚子先生の句碑もある、那智山の飛瀧神社には、社殿がない。御神体は、那智の瀧そのものであって、瀧に向かって鳥居が建っていれば、それで充分なのである。確かに、この瀧には、美しさと激しさ、繊細さと豪快さが微妙なバランスで備わっていて、引き込まれてしまう。二十分程の間、瀧を見つめていただろうか。自然と、拝む気持ちになってきた。

見つめゐてやがて拝(オロガ)む那智の瀧   昌平

本来、「瀧」や「瀧見物」は夏の季題なのだが、虚子先生が「神にませば」の句を作られたのも、昭和八年四月に那智を訪れた際のことだった。私の句は、本井先生に一部手を入れていただいたもの。

瀧に後ろ髪を引かれる思いで、隣接する青岸渡寺へ。ここは西国札所一番であり、なんと、インドから来たともいわれる、裸形上人が開祖とか。元は、これも隣接する那智大社の神宮寺だったものを、明治時代の神仏分離令により、青岸渡寺として、分離したものらしい。秘仏である本尊観音菩薩は公開されていなかったが、「オンバラタハンドメイウン」という観音菩薩の真言が記されていた。チベット仏教の「オンマニパドメフン」と似ている。チベット仏教も、ダライラマを観音菩薩の生まれ変わりとする観音信仰であるから、恐らく源は同じマントラなのだろう。

昼食は、勝浦市内の魚屋に隣接した食堂で、海鮮丼と、一皿100円の小皿を取るマグロのブツ、そして、クジラの握り寿司。期待して食べたクジラであったが、一同同意したのは、「まぁ、馬刺しみたいなもんだなぁ」という感想。あまりクジラらしくなかった。と、いうよりも、生で食すべきものではないのではないかと思った。マグロブツはどこかのマグロの切り落としに違いないが、脂が乗っていて美味かった。

午後は、新宮市の那智速玉神社へ。思っていたよりも、アッケラカンとした神社ではあったが、気になっていた牛王(ごおう)の護符を購入。神武天皇の東征の際、熊野に上陸した神武天皇を導いたと言われる三本脚の八咫烏(やたがらす)をあしらった護符である。昔、起請文を書く際に、この牛王の護符が用いられ、約束事を相手が破れば、約束させた者に烏が訪れ、そのことを告げてくれるという。

速玉神社をあとにして、志古へ。虚子先生が辿った熊野川〜瀞(ドロ)峡〜熊野大社本宮の川旅の足跡を辿ろうというわけである。熊野川一体は、水深があまりないため、通常のプロペラ船を用いることが出来ず、われわれが乗ったのは、ウォータージェット船というもの。水を取り入れて、船の後部から噴出すことで推進力を得る。虚子先生がこられた昭和初期には、このような「ハイテク船」はなく、なんと、「空中プロペラ船」が「発明」されて、熊野川で用いられていたという。船乗り場には空中プロペラ船の模型も展示されていた。虚子先生の紀行文には、プロペラ音がやかましくて、会話が出来ないといったことが書かれているが、模型をみて、さもありなんと思った。

時折ガリガリと船底が川底に触れる音がしつつも、ウォータージェット船は快調に熊野川を遡り、本宮から流れてくる十津川との合流点を過ぎてまもなく、瀞渓谷に入った。実をいうと、その間、心地よい揺れに身を任せて、船の中で船を漕いでしまったので、渓谷に入る前の景色はよく覚えていない。

渓谷に入ると、今までの瀬音が消えて静かになり、川は長くて深い池のように姿を変えた。ウォータージェット船内では、テープに録音されたガイド嬢の説明と、実際に船とテープを操作するオジサンの補足で、次から次へと左右に現れる奇岩が紹介される。なるほど、と思うものもあるが、こじつけかなぁ、と思うものも多くて、それはそれで面白いものだった。

そんな説明を聞きながら、15分程度瀞渓谷を遡っていくと、淵が広くなった中溜まりのようなところがあって、その右岸の崖の上に、古そうな家が建っていた。虚子先生が昼食を取られた「瀞ホテル」である。瀞ホテルが建っているところが、奈良県、瀞渓谷の支流の渓谷に跨ったつり橋を渡った別館(招仙閣と書かれていた)があるところが和歌山県、瀞渓谷の対岸で、虚子先生が訪れた際に、ホテルの女将が、船にのって山菜を取りにいくといっていたところが三重県であり、三県の県境にあたる。船着場でわれわれを待ち構えていた出店で買った甘酒を片手に、階段を上っていくと、瀞ホテルの正面に出た。ひっそりとしていて、宿泊客があるのかどうかわからないが、毛筆で記された「ルテホ瀞」と、古い看板も掛けられていて、虚子先生が訪れた時代を彷彿とさせる。その時代に、この鄙びた田舎のその奥に、「ホテル」と称する宿があったのも、驚きではある。

再び川を下って、志古から一路宿へ。勝浦市内、漁港に程近い民宿である。夕食前に十句出句、夕食後、民宿に引き込まれている温泉につかってから句会、句会の後にそのまま宴会に突入するという、慶大俳句お定まりのコースであった。


3月17日(金)
脱兎の如く仕事を終えて、有明ターミナルへ。フェリー。前後左右に結構揺れる。酒呑んでさっさと寝てしまう。船の旅もなかなかよいものだ。特に、和歌山に行くためには、時間が有効に使えるので、便利である。


3月16日(木)
昨日遅くまで呑んでいて、疲れているというのに、今日も2時半すぎまで仕事。出張前だというのに、明日から3日間遊ぼうというのだから、仕方がないが、仕事だけで何にも書くことがない。


3月15日(水)
以前に書いた、ヒンディー語を勉強しはじめた若者は、もう既に、自分の名前をヒンディー語で書けるようになった。昨今はどうか知らないが、以前のインドの識字・文盲の基準は、「自分の名前を書けるか否か」だったという話をきいたことがある。と、いうことで、はれてヒンディー語の識字人口の拡大に貢献したT君の御親筆(ペイントブラシ製)を公開。

ちょっとtaがvaに見えたり、koがkiに見えたりするが、ご愛嬌。仕事が終わった後に、講義を受けているだけなのだから、大した進捗具合だ。

さて、今日は久しぶりにだらしない呑み。気がついたら3時近くまで。


3月14日(火)
体調がすぐれないにも関わらず、真夜中過ぎまで仕事。家に着いたのは(15日の)午前3時半過ぎ)。

この日記を読んだ、伊豆旅行に一緒にいった会社の仲間から、

>あの楽しい旅のことが一行でつづられていて、ひどい。
>インド料理があんなに長いのに、どうして1泊2日
>があんなに短いんだ!
>え?でも原さんはあの旅で心踊らなかったですか?ワニや桜やサル回し、
>伊豆の>踊り子、と見るもの尽きず、それにあんなに試食しまくった旅行なのに。

とのコメントを頂戴したので、お詫びとともに掲載させていただく(読者は大切にしなければ)。
(まぁ、このヨタ日記、特にテーマはありませんが、一応、「東京にいてもこんなインド生活を送っている」というのが、いってみれば一つの柱なわけで、どうしてもインド料理には力が入ってしまうわけですが。)

思い返せば、ご指摘の通り、ワニにしては珍しくバナナを主食とするおとなしいワニがいる「バナナワニ園」に行ったり、山容美しい大室山に登って遭難しかけたり、デパートの食品売り場に行って嬉々としている子供のようにお土産やで試食ばかりしたり、「城ケ崎ブルース」の「小指」は誰の指なのかを巡って小雨の中記念碑の前で10分以上議論したり、「水揚げ」「落籍」等花街言葉について伊藤博文と貞奴の物語も織り交ぜつつ熱く語ったり、ヨッチャンイカの匂いが車中に充満したり、等々、色々なことがあったものだなぁ。そういえば、電車に乗り遅れた奴もいたなぁ。

と、いうことで、内輪ネタで誠に恐縮ながら、旅の記録と致します。


3月13日(月)
全く体調すぐれず。熱もあり、5時半過ぎ早々に退社。まっすぐ家に帰るが、食欲もない。寝る。


3月11日(土)-3月12日(日)
11日は、逗子の先生宅へ伺うつもりだったのだが、なかなか目覚めず、グズグズしているうちに、一日寝て過す羽目に陥った。日曜日も同じようなもの。週末、出かけないときには、インド料理でも作ろうかと思っているが、タイミングを逸してしまう。

TaalのCDを聞きながら、先週一週間の日記を書いた。何もしなかった2日間なので、せめて日記が書けてよかった。


3月10日(金)
昼食は、同僚某君(狂信的Netaji信者)と、神保町近くにある「櫓」へ。ベンガル人のお兄ちゃん(まだ名前を聞いていない)、いつものとおり、「マイド!お久しぶりですねぇ。元気ですか?」と爽やかに迎えてくれる。ダールマトンカレーを食べる。「本格インドカレー」と言うわけではないが、懐かしい味。月に何回か足が向いてしまう。

同僚某君が、熱心にNetajiの話をするものだから、レジのところで、「今度ゆっくり話聞かせてくださいよ」と誘われた。 ベンガル人にNetaji講義をしようというのだから、大したものだ。

夕食はJICAの面々と。インド時代に、お隣の事務所におられて帰国された方、僕のゼミの先輩後輩のJICA職員の方々、そして、我が社にJICAから出向でお出で頂いている方、そして、Netaji信者の某君と、僕、という、6名で、四谷のリトルインディアというインド料理店で夕食をご一緒したのだった。

普段から思っていることだが、「井の中の蛙」になってはいけないということ。今日のように、他の機関の方々と対話する機会というのを大切にしなくてはいけない。

さて、今日行った、リトルインディア。アットホームな雰囲気で、料理も旨く(デザートのクルフィーは、クルフィーらしくなかったが)、いい感じであった。ボーイのお兄ちゃんは、アラハバード出身、支配人のオジサンはデリー出身との由で、こちらが片言のヒンディーで話し掛けると喜んだし、こちらもうれしかった。と、いうことで、ここで、リトルインディアの宣伝をしておこう。


(クリックすると、リトルインディアのページに飛びます。)

随分遅くなって、さて、精算して帰ろうか、とレジにいくと、レジの向こう側の席には、何とインドが広がっていた。というのは大げさだが、20名くらいはいただろうか、インド人の若者のグループがワイワイガヤガヤ楽しんでいたのだった。聞いてみると、東京のとあるソフトハウスで働いている同僚で、インド料理を楽しみにきたのだそうだ。みな、20〜30代くらいの若者で、ターバン巻いたシク教徒のお兄ちゃんもいた。インド人が、それも若者があれだけ多く集まっているのに東京で出会うのも初めてなので、こちらも気後れしてしまったが、(日本語で)「ヒンディー語はできますか?」と聞かれる。皆、静かになったところで、(ヒンディーで)「すこしだけ」というと、ワッと盛り上がったのだった。もう少し一緒に過しても良かったが、連れもいたし、随分遅かったので、後ろ髪引かれる思いで、リトルインディアを後にしたのだった。

と、いうわけで、リトルインディア通いが続きそうである。


3月9日(木)
夕刻、日本におけるパキスタン・インドの農業経済の大家でおられるH教授、来日中のデリー大学経済成長研究所のS教授、そして、デリー時代の元の上司の会に加えていただいた。経済学からは離れてしまっているが、色々と興味深いお話を聞かせていただいて、多いに刺激になった。Chandrababu Naiduアンドラプラデシュ州首相の評価を巡って、畏れ多くも初対面のS教授に議論を吹っかけたが、最後に、「デリーに来たら、是非寄ってくれ」とおっしゃったので、安心したというか、有難い。

夜は早く眠りにつかれるというS教授をお見送りしてから、H教授と喫茶店へ。予想に反して(?)、甘党だとおっしゃるH教授とケーキを頂きながら、色々とお話させていただいた。やはり、私のように、3年程度インドに住んでいた程度で、インドのことを分ったような顔をしている若造と、30年間も南インドの農村の現実と向かい合ってこられた先生とでは、全く勝負にならない。いつもお会いするたびに、新鮮な刺激を与えていただいている。


3月7日(火)-3月8日(水)
三重県津市に出張。県庁改革を推し進める三重県庁の方々に政策評価情報公開についてお話を伺う。政策評価にしても、情報公開にしても、教科書的な世界では分っているつもりでも、実際に取り組まれている方々のお話を伺うとヴィヴィッドに伝わってくる。お忙しい中、様々な取り組みについてご教示頂いた、県庁職員の皆様、ありがとうございました。

帰途、元津市住民の某先輩から紹介頂いた、洋菓子の老舗「九カドー」のシュークリーム(これは旨い)と赤福をお土産に帰京。何年かぶりに乗った新幹線。以前乗ったときには、「のぞみ」はなかったが、「のぞみ」はあくまでも速く、名古屋から1時間半で東京駅に。


3月6日(月)
出張前に仕事が勃発。深夜2時半まで働く羽目に。


3月4日(土)-3月5日(日)
会社の仲間と伊豆への小旅行。満開の神津桜や菜の花を楽しむ。


3月3日(金)
夕刻呑みに行くことだけが楽しみで過した一日。

呑みに行って、カタルシスを得るというのも、健全なのか、不健全なのか。


3月2日(木)
なんだかなぁなんだかなんだよなぁ、という一日。つかれた。

そのような一日が終わりに近づき、そろそろ帰ろうかなぁと思っていたとき、抜けるような青空の下に、白亜の建物が光っている美しい表紙写真をあしらった雑誌が回覧ボックスに入っていた。きれいな写真だなぁ、フロリダとか、スペインの海岸沿いあたりにありそうな街だよなぁ、なんとも親しみの持てるというか、もしかしたら行ったことがある街かもしれないなぁ、と思ってぼうっとみていた。目次を見てみると、「景気拡大中のインド経済」なる記事が掲載されていたので、おぅ、インド経済にも再び脚光があたりつつあるのか、いいぞいいぞ、とパラパラ記事を読んだ。

そして、次の人に回そうと思って、また、表紙をみて、きれいな街だよなぁ、と再び思った。なんだか言いようのない郷愁を感じつつ。

そう、フロリダか、スペインかと思ったのは、何とデリーのコンノートプレースの写真なのだった。良く見ると、懐かしいオートリキシャが映っていて、改めて見とれてしまった(実物(雑誌の)は、もっときれいな透き通った空色なのだった)。

と、いったことで、インドも結構身近にあるじゃぁないか、コンノートプレースもこうやって上手い写真家に撮ってもらうと、随分とキレイじゃないかと、なんだかなぁなんだかなんだよなぁ、という一日の終わりに少しうれしくなったのだった。

宮本常一「塩の道」(講談社学術文庫)を読んだ。どんな山中に住む人でも生きるために不可欠な塩をどのように手に入れてきたのか、塩を手にいれることを通じて発生した交換・流通の発達とそれに伴う街道(インフラ)の整備の歴史が物語られていて、経済地理学のケーススタディーのようで、実に面白かった。


3月1日
お約束(?)なので、今日から日記を再開。いつまで続くことやら。

デリーに駐在することとなった、某後輩が、赴任前にヒンディー語の研修をはじめた。うらやましい限りである。本人はじめてみると、熱心に勉強しているみたいで、今後の活躍が期待される。本当にうらやましい。

昔の出向先で一緒に働いていた某君と昼食。全く違う仕事の人と話をするのは色々な意味で刺激になる。ありきたりな言い方だが、「人脈を大切にする」ということの大切さをやっとこのごろになって実感している。社会が思わぬスピードで流動化している中、出来るだけ広い視野を保つことが大切だと、心底から思う今日この頃。

インドについて調べものをしている社内の人から意見を求められた。「インド人は放っておくと延々としゃべりつづけるから、事前に十分勉強して、質問事項は最低限に抑えるようにするべき」などと語りながら、自らインド人と化してしゃべりすぎてしまったと反省。

一昨日には、インドの予算編成の前提分析となるEconomic Survey、昨日にはインドの2000-2001年度(予算年度は日本と同様4-3月)予算が発表された。大蔵大臣が国会で演説を開始するのと同時にインターネットに掲載される。すごい世の中だ。(と、いうか、日本は出遅れている。)

一方、オリッサ、ハリヤナ、ビハールの各州で先週末にかけて州選挙の結果が出揃った。国民会議派の失政に加えて、先のサイクロン災害のミスマネージメントが弱り目に祟り目になったオリッサでは、National Democratic Alliance(NDA: BJP連合)が、元々NDA系のOm Prakash ChautalaのIndian National Lok Dalが政権を取っていたハリヤナでは、選挙前の予想通り、NDAが勝利した。一方、Mandal勧告以降の現代インド政治が生んだ鬼子とも言えるLaloo Prasad Yadavが実行支配し、汚職・非効率・貧困・失政の象徴とも言えるビハールでは、Laloo一派(Rashtrya Janata Dal)と、NDA勢力が拮抗。但し両者とも過半数は取ることが出来ず、カギを握るのは、第三勢力となった国民会議派。さて、Sonia Gandhiは、またしてもLalooを支持して評判を落とすのか、それとも、RJDとNDAの双方を分裂させて、政権のリーダーシップを握ろうとするのか。いずれにせよ、苦渋の選択が迫られている(先に行われたUP州の州議会補欠選挙では、国民会議派は惨敗しており、低落傾向は明らか)

それにしても、ビハールはともかく、BJP勢力の一人勝ちの感がある。ヒンドゥー未亡人の悲哀を扱うWaterという映画に対するRSSの反対運動などを見ていると、BJP勢力の一人勝ちがインドにとって本当に望ましいことなのか、良く分らない(一方で、昔のままの国民会議派が復活してくるのも、もううんざりではあるし、インドにとって良いことでは決してない)。


1月6日(未完)
デジカメを会社に持っていって、昼休みに机の上に飾ったクリケットカードを撮った。「ニューデリー事務所のローカルスタッフの机の上」という標題がついても、誰も疑わないだろう。

大晦日から読み始めた、河口慧海の「チベット旅行記」(講談社学芸文庫 全5巻)が通勤時の楽しみになっている。河口慧海は、 年、チベットという国がまだ閉ざされていたころ、仏法を極めんとこれまた閉ざされていたネパール経由ヒマラヤを超えて密入国(未だにどのルートをとおったのか解明されていない(注))し、カイラス山を右撓し、ブラマプトラ河に沿ってチベットのラサに入った。日本を出てから実に3年を要している。

自ら戒律を厳しく守り、肉食・飲酒・妻帯をしているチベットの僧侶を批判しつつも、盗賊かも

なかなか抜け目のないところを見せている。カイラス山周辺の記述など、現在にいたるまで余り変わっていないものと思われ、

口述筆記であるため、そんな慧海の人柄が滲み出していて、読んでいて飽きない。


1月5日
さすがに、4時過ぎ就寝が2日も続くと、眠くて倒れそうだ。ふらふらしながらなんとなく一日仕事。事務所の同僚駐在員夫妻から、インドのクリケット選手が飛び出す新年カードが送られてきてうれしい。早速机の上に飾る。

Accessを使った住所録データベースが何とか出来上がった。あとは、7桁の郵便番号データベースとリンクするだけ。こんなことをしていて、一体いつになったら、年賀状が出せるのだろう。


1月4日
特に年始の雰囲気もなく、一日が始まった。

昼は、神保町にある「櫓」へ。ここは夜は普通の居酒屋なのだが、昼はここで夜働いているカルカッタ出身のインド人青年二人が、カレーを出している。780円なり。辛さも5段階あって、なかなか旨い。今日で3回目。もう顔なじみになった。

一日なんとなく仕事をして6時前に退社。秋葉原にいって年賀状に貼る宛名ラベルを買おうを思って、千代田線の新御茶ノ水駅で下車。そう言えば、まだ初詣していなかったなぁ、と思い、神田明神に行く。仕事始め帰りの会社員のグループが多い。おみくじを引くと、末吉だった。

今日も住所録データとの戦い。4時までかかって何とか扱えるデータの形になった。


1月3日
年賀状に未だ着手せず。今年の干支にからめて、Vishnuの絵を使おうと思っていたが、Vishnuの大蛇(アナンダ竜王)は龍というよりもどちらかというと蛇。蛇というとどちらかというとVishnuよりもSivaだが、...と考え出すと、デザイン決まらず。結局、おめでたければ何でもよいかということで、背景にGaneshaをあしらったデザインに決めた。

古いZaurusに記録されている住所録データを、これまた古い(とはいっても、インド時代には日記作成に活躍した)Mebiusに赤外線で転送し、それをcsv形式に変換してAccessに読みこむ。形式が上手く合わずに、午前4時過ぎまでかかって結局投げ出した。


1月2日
叔父夫妻来。飲み食いに明け暮れる。叔父にインド本を進呈。


1月1日
恒例の年越しパーティーをやった友人夫妻宅から昼過ぎ帰宅。妹夫婦来。年明け早々ビフテキを食べる。ウォッカのみ過ぎ。

インドでは、ハイジャック事件が一応の解決を見る。インド政府の対応まずし。