Netaji Subash Chandra Bose



現在のオリッサ州出身のベンガル人であり、もとは国民会議派に属し、1938〜39年には会議派議長を務めた人ですが、「敵の敵は見方」ということで、大英帝国から独立を勝ち取るためにはナチスや日本の軍国主義との協力もやむを得ずとする言わば「武闘派」であり、非暴力主義を貫いたMahatma Gandhi、Jawaharlal Nehruといった国民会議派主流(=反ファシズム)とは一線を画した人物です。
Mahatma Gandhiとの意見対立により会議派議長を辞した後、1940年2月に突然インドから姿をくらましたChandra Boseは、陸路ドイツに向かい、翌年ベルリンに現われ、ベルリンからの短波放送を通じて、ドイツ・日本の支援を受けつつ反英運動を展開しインド独立を勝ち取るべし、とするメッセージをインド国内及び在外インド人に送りました。全世界のインド人に"Give me blood and I'll give you freedom"と呼びかけたこのメッセージは、インド国内はもとより、在外インド人にも少なからぬ影響を与えました。その後、Chandra Boseは、1943年2月に再び姿をくらまし、3ヶ月後潜水艦で東京に5月到着し、折しもシンガポールで日本軍主導で組織されていたインド国民軍を指揮し、インパール攻略戦では日本軍との共同作戦を実施しました。
彼は、"Chalo Dilli!"(「デリーに向かって進め!」)とか、"Jai Hind!"(「インド万歳!」今でも首相等の演説の末尾に使われることが多い)とか、"Netaji"(「われらが首領」という意味のChandra Boseに対する尊称・愛称)等のスローガンを巧みに利用したため、彼の演説は常に聴衆の熱狂的な反応を得ていましたが、このようなアプローチにナチスドイツの大衆操作手法の影響を見出すことも出来、これも彼の評価が中々定まらなかった一因なのかもしれません。
第2次世界大戦の終結・日本の敗北を受け、新たに「敵(英国)の敵」となるソ連の支援を取り付けるためにサイゴンから東京へ移動中、1945年8月18日、台北空港における飛行機事故で亡くなったとされ、実際、東京杉並区の蓮光寺には彼のお墓があります。
一方、特にベンガル人の間では、Netajiは未だ根強い人気を有するヒーローであり、カルカッタの街角では、ヒンドゥーの神々・マザーテレサ・ボリウッドの女優のポスターと並んで、Netajiのポスターが売られていますが、「実はNetajiは生き延びてソ連にたどり着いた」というまるで日本の義経伝説のような話が根強く信じられており、さすがに最近はないものの、20年程前までは、「Netajiを見かけた/Netajiに会った」という風説が流れることがあったそうです。
それだけ魅力ある人物だったということでしょうが、個人的にも、Mahatma Gandhi、Jawaharlal Nehru、Chandra Boseの内、誰か1人だけに会えるとしたら、Netajiに会ってみたいなぁと思います。

参考文献:


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