イエス様との出会い

(教会に導かれたきっかけについて書いています。)

それは、大学4年の4月に突然やって来ました。 高校を卒業して以来一度も連絡をとっていなかったKIちゃんから電話がかかってきました。 自分が通っている教会で結婚式を挙げるから、その前に教会に来てみないかと言うことでした。 私は、好奇心もあったし何も抵抗がなかったので、いいわよと軽く返事をしました。

しかし、何故私は教会に行く気になったのでしょうか。特に何かに悩んでいたわけでもなく、 苦しんでいたわけでもありませんでした。18才の時に上京して来て一人暮らしをしていた私は、 非常に気ままな生活をしていました。専門学校を経て大学に入り直したわりには、 あまり勉強をした記憶がありません。塾の先生や家庭教師、不二家のウェイトレスなど、 色々なアルバイトをしていましたから、経済的な余裕も充分ありました。 私はいわゆる「優等生」だったので、親が電話を入れてチェックを入れるようなことは一度もありませんでした。 私は、かなり信用されていました。

一年間アルバイトしたお金で、一ヶ月ヨーロッパに行きました。親のお金で旅行に参加し、 親のお金でブランド品を買いあさっている他の子たちには、絶対に分からない私だけの充実感がありました。 ケンブリッジの街を一人で歩いていた時、私って何でも出来るじゃないと思ってしまいました。 親に干渉されながら暮らしている同級生に比べ、私は、アパートの鍵ひとつで、夜中に帰って来ても誰にも咎められず、何て自由なんだろうと思っていました。その反面、こんなんで良いのだろうか、許されるのだろうかとも思っていました。私は真面目なタイプなので、遊んでいたわけではありません。真面目であるが故に、自由でいられるのが恐くなったのだと思います。叱ってくれる人が側にいないのが不安だったのです。今だからわかりますが、私のたましいは精神面での指導者、神のようなもの、を求めていたのでしょう。

さて、初めて行った教会は、私が長年想像していた教会(何か荘厳で堅苦しいところ) とは全く違うところでした。カルチャーショックに近かったです。小さな町にあるわりには、 ずいぶん大きな教会でした。教会の信者さん達は、みな明るく生き生きしていました。 初めての私をとても暖かく迎え入れてくれました。厳かに讃美歌を歌うところを想像していましたが、 聖歌を身体を横揺れにしたり手拍子をしたりして歌っているのです。 驚いたのは、牧師先生の大きな声(昔軍隊にいたからか?)と、もの凄く気さくな人柄、 わかりやすく楽しいお説教でした。信者さん達は良く笑いました。これは漫談かと思いました。 当時は、先生が説教のあと、一人一人に声をかけながら握手をしてまわっていました。 300人と握手するのは大変だったことでしょう。初めて行った日、 先生は「よくおいでになりましたね。また来週もいらっしゃいね。」と声をかけて下さいました。 私はとっさに「はい。」と答えてしまいました。行かないと嘘つきになっちゃうなと思って、 次の週も出かけて行きました。

私が教会にそのあとも通っていたのは、もう一つの現実的な理由がありました。 それは卒論の為でした。ナサニエル・ホーソンの「緋文字」を選んでいましたが、 実は一度も読んだことがない本でした。以前読んだ短編が良かったので、 安易に長編を選んでしまったのが間違いでした。いえ、運命だったと思います。 この本のテーマは「罪」でした。最初日本語の翻訳を読み、愕然としました。 日本語で読んでも理解出来なかったのです。一番大事な「罪」の意味がわからなかったからです。 教会に行けば「罪」の意味がわかるようになるだろうと思い、 学校の講義を聞きに行くように教会に通っていました。こんな調子でしたから、 半年後に洗礼を受けてクリスチャンになるとは夢にも思っていませんでした。 本でも人でも、出会いとは不思議なものです。KIちゃんからの電話と卒論のことがなかったら、 私はイエス様にたどり着くことはなかったでしょう。それから少しづつ少しづつ、 私の価値観が変わっていくことになるのです。