洗礼を受ける

(受霊後に見た不思議な夢が正夢となって、洗礼を受けることになりました。)

神様は、聖霊は受けても洗礼を受けていなかった私を、優しく導いて下さっていました。最初の頃は、不確かな信仰しか持てませんでした。日曜ごとに一時間以上かけて教会に通うのは少ししんどかったし、20年以上の自分の習慣や価値観を変えるのは簡単ではないからです。毎月洗礼式が近づくたびに、献身者のSさんが「洗礼を受けませんか。」と勧めるので、逃げ回っていました。納得がいかなければ、洗礼を受けることは出来ないと思ったからです。片足を世の中に、もう一方の足を教会につっこんでいる生活が半年間続きました。

4月に聖霊を受けてから洗礼を受けるまでに、不思議な事ばかり起こりました。今は,イエス様は私がイエス様を信頼していることはわかっていて下さいますから,ご自身の存在を知らせる為だけに「しるし」を見せることはありません。洗礼を受ける前は,イエス様が存在していらっしゃるかどうかと悩んでいるような低いレベルだったので、私にたくさんの奇跡を見せて,「私はここにいるよ。」とわからせて下さったのだと思います。実際私は、あれだけ見せられると,「不思議だ,これは単なる偶然ではない。神様が生きて働いておられるのだ。」と思わざるを得ませんでした。

10月になって,献身者のSさんから,「今月の洗礼式が今年最後の洗礼式ですから,洗礼を受けませんか?」と叉勧められました。今は一年中洗礼式をやっていますが、当時は10月が最終だったのです。私は,依然として決心がつきませんでした。私は,十二指腸潰瘍が出来やすい体質(占いの罪からもきている)で、しばらくは症状が落ち着いていたのに,洗礼式の10日くらい前から急にみぞおちが痛くなりました。私は変に辛抱強く,そのままで病院には行きませんでした。でもその痛みは日に日に増すばかりでした。こんなに痛いのは何か理由があるのだろうと考えました。色々と心の葛藤がありましたが、聖霊によって自然に洗礼へと導かれたのです。でも、この痛みがなかったら洗礼を受けなかったかも知ません。病気を通して救われるのも、つくづく感謝だったなと思います。

洗礼式の日の前に、ふと、6月に見た短い夢のことを思い出しました。”あたりは暗闇でした。空には月も星もなく、広い砂漠のようなところでした。何千人何万人もいる、数え切れない程大勢の人達が、何かに追われるように一方に逃げていました。私とボーイフレンドもその中にいました。私達は何か見たこともない白い衣服を着ていました。そして、手を取り合って走っていました。私は、疲れて空を見上げると、金色に光り輝く十字架が見えました。私が右手を挙げると、私達だけが、空高く引き上げられました。”その時は、変な夢だなと思っていただけでした。

洗礼式の前日、二人の共通の友人に電話して、翌日洗礼を受けることを伝えました。それから、不思議な夢のことも話しました。私は、「ねえ、不思議でしょう?あの夢は正夢だったのよ。洗礼を受けてクリスチャンになるという。でも、洗礼を受けるのは私だけだから、半分は当たったわよね。」などと話していました。

10月14日の洗礼式がやってきました。礼拝の後、名古屋から見学に来ていた彼に、「洗礼服に着替えてくるから、待っててね。」と言って着替えに行きました。直ぐに戻って来ると、そこには、白い洗礼服を着た彼が座っているではありませんか。教会に来たのがまだ2回目くらいだったはずなのに、私が着替えている間にいったい何があったのかわかりませんでした。うちの教会の洗礼は、略式ではなく全身水につかるやり方です。床を開けると下に洗礼漕があるのです。洗礼とは、生きたままのお葬式です。罪を告白しイエス様を救い主として受け入れると、洗礼によって、古い自分が死んで新しい自分に生まれ変わるのです。私の番がやってきました。牧師先生が支えて下さって、後ろにザブーンと倒れ直ぐに起こされて、お祈りが始まりました。何か短いようで長く感じました。

洗礼式が無事終わり、彼に理由を尋ねました。S副牧師先生が、「正しいことをするのは、とても勇気のいることなんですよ。」とおっしゃった、たったその一言で洗礼を受ける気になったんだそうです。恐らく、その日に受けたばかりの聖霊(彼は受けたとき、もの凄く心がすっきりしたと言っていました)に導かれたのだろうと思います。ハレルヤ!何か二人とも、穏やかで、静かに沸いてくる喜びと、満たされた気持ちで一杯でした。その状態はずっと続きました。これが神様の平安なのかなと思いました。ふと気がつくと、洗礼の直前まであんなに痛かったみぞおちの痛みが、すっかり消えて無くなっていました。とても驚きました。病気は罪から来ていました。イエス様が罪を許されたので、病気が癒されたのだと思いました。こうして晴れてクリスチャンとなったのです。

*追記

あの夢は、「世の終わりの夢」だったのです。恐かったです。新約聖書の終わりにある、ヨハネの黙示録を読んで、似ていたので驚きました。もう一つ驚いたのは、夢の中で着ていた白い衣服は洗礼服だったのです。その時は、洗礼服がどういうものかも知りませんでしたし、見たこともありませんでした。