最初の試練

(一緒に洗礼を受けたBFとの結婚は、周囲の反対に遭い泣く泣く断念。
神様の御心がわからずに苦しんだ日々・・。)

このことは非常に個人的なことなので、少し書くのをためらいましたが、やはりここを避けて通ることは出来ません。神様は、いつまでも私を甘やかして赤ちゃん扱いをしていたわけではありません。私に必要なことだと判断すれば、あえて厳しい試練をお与えになる方です。今でこそ、神様はいつどんな時でも最高最善のことをなさっていると信じられるのですが、最初の頃はよく分かりませんでした。苦しみの中にある時は、試練を感謝だと思う余裕がありませんでした。何年も何年も試練の意味が分からずにいても、いつかその意味を理解出来る時がやってくるものです。

それまで全てのお祈りを聞いて下さっていたイエス様でしたが、どんな願いよりも私が一番聞いて欲しかったお祈りを聞いて下さらなかったのです。神様の御計画は私の抱いている計画とは違うのだと、その時初めて知りました。神様は確かにお祈りを聞いて下さる方です。でも、そのお祈りが神様の御心にかなっていない場合は、何万回祈っても聞いてはいただけないのです。一時的に熱狂的な信仰を持っても、一度試練の中に自分が入れられると、神様の存在すらも否定し始め、自分の思うようにならないと本当に信仰を捨ててしまう人がいます。信仰の浅かった私も、最初の大きな試練で信仰を捨てかけたのです。でもこうして信仰を捨てずに今までこれたのは、決して私の努力ではなく、神様のあわれみと御愛によるものです。

一緒に洗礼を受けた、当時遠距離恋愛をしていた彼とはいずれ結婚するつもりでいました。かゆいところに手が届くような人でしたし、一人の人間として尊敬していた、とても気の合う人でした。教会の人達も私達が結婚すると思っていました。私自身もそう信じて疑わなかったのです。会社も2年くらい勤めて、彼のところにお嫁に行くつもりでした。幸せの絶頂の中にいた私が、突然地獄に突き落とされたような出来事が起こりました。あるクリスマス感謝礼拝の時でした。日曜日にやってくるはずだった彼が、いくら待っても来ませんでした。約束をすっぽかすことはあり得ないので、こちらから初めて遠距離電話をかけました。彼の家はプライベートな電話も会社の経費で落とされていたので、私からかけることはありませんでした。私はその時初めて、結婚を反対されていることを知りました。その理由は、私が商売向きの性格ではないからということでした。私はまだ若かったので、お互いの愛情がありさえすれば乗り越えられると信じていました。彼は私に黙って、親を説得し続けていたようでした。

二人で頑張りましょうと励まし合ったものの、だんだんと電話の回数が減り、とうとうかかって来なくなりました。私は、そっとしておいた方が良いと思って、教会のメッセージのテープと週報を送っていました。牧師先生にも相談しましたが、そっとしておきなさいとのことでした。会わなくなって半年近くたった時、又、牧師先生に電話しました。先生は、「姉妹、テープを送るのはもう止めなさい。豚に真珠だよ。」とおっしゃいました。私は彼の心変わりを信じられなかったので、「先生、私彼に会いに行って気持ちを確かめて来ます。」と言いました。すると、「ノーアンサーが答えだよ。本当に好きだったら、飛んででもこっちに会いにくるでしょう。」とのことでした。私は先生に傷つくだけだから行くなと止められたのですが、彼を説得して御両親に会ってもらうことにしました。

後にも先にも、牧師先生の御指導に逆らったのはこの時だけでした。彼の気持ちは変わっていませんでした。御両親にも好印象を与えたようでした。特に反対していたお父さんが、私のことを、控えめで可愛い子だねと言っていたと彼は喜んでいました。牧師先生には、正直に話して謝りました。私達は希望を持って頑張ろうと励まし合いました。ところが、一ヶ月もたたなかったある日、彼から電話がかかって来て、これから車で東京に行くと言ったらお父さんに止められたということでした。結局行き着くところは、私が商売向きじゃないということでした。彼も絶望して泣きながら、「跡継ぎではなく普通のサラリーマンだったら、家を捨てて東京に行ってもいい。でも、会社の従業員50人とその家族の生活を考えると、自分たちの幸せだけを考えていてはいけないんだよ。」と言いました。私はそういう考え方が信じられず、「じゃあ、私達は人の幸せの為に犠牲にならなきゃいけないってことなの?」と言いました。「ああ、そうだ。」とはっきりといわれてしまいました。私も、人を不幸にする結婚は自分たちも不幸だと、理性ではわかっていました。私達は生木を裂かれるような思いで、泣く泣く別れる事を決心したのです。

涙を流さないで眠る夜は、一日たりともありませんでした。私はそれから、まるで反抗期の子供のようにイエス様にひどいことを言っていました。毎日のお祈りはつぶやきと文句になっていました。「一緒に洗礼を受けたのに何故なんですか?こんな苦しみに合うのなら、洗礼なんか受けなくても良かった。」と。あんなに奇跡をみせられ、お祈りを聞いて頂き、どれだけ愛されているか分かっていながら、ひどいことを言っていたのです。命がけで私を愛してくださっているイエス様は、どれだけ傷つき悲しい思いをされたことでしょう。今考えると、本当に信仰のレベルが低かったのです。

逆らってはいたものの、日曜日の礼拝と水曜日の祈祷会には休まずに出かけて行きました。本当にすがるような気持ちでした。一人ぼっちになるのが怖かったのです。少し落ち着いて来たとき、イエス様にお祈りをして、「私はどうすればいいのですか。」と聞きました。主は静かに聖書を通して語られました。「全てを捨てて私のもとに来なさい。」と。私は、ふっと我に返ったような気がしました。私は、これが主が私に求められていることだとわかりました。反抗することを止めると、さびしい気持ちはあったものの、何か心に平安が戻って来ました。それから何年間かは、どんな人に告白されても彼と比較してしまって興味を持つことが出来ませんでした。

自分の考えで"絶対"と思っても、所詮一分先のこともわからない人間なのです。神様は、もっと先を見ておられます。私にとってマイナスとなることは、決してなさいません。私は初めて思いました、「神様が曲げて造られたものを、自分が真っ直ぐに伸ばすことは出来ない。」と。自分の小ささと神様の偉大さを痛切に感じました。完全に立ち直るまでには時間がかかりましたが、潮が少しずつ引いていくように、彼に対する思いは消えて行きました。今でも、あの時は良く耐えられたなと思います。随分たった今では、神様の御判断は正しかったとはっきりと思います。