祖父のお葬式

(信じて疑わないお祈りによって、偶像崇拝から完全に守られ天候も守られた驚くべき奇跡。)

日本のクリスチャンが一番神経を使うのは、仏教や神道の儀式に出なくてはいけない時でしょう。 私達が拝むことが出来るのは神様だけですから、死んだ人や動物、 物などを祭ってある場所に行って拝んだり、人が作った偶像(注1)を拝むことは出来ません。 旧約聖書の「十戒」(注2)にも出ていますが、偶像を拝むことは神様がもっとも嫌うことです。

日頃、偶像崇拝の間違いと恐ろしさを学んでいた私は、祖父のお葬式の時はとても神経を使いました。 ですから、そのお祈りも切羽詰まった必死なお祈りとなりました。お祈りのポイントは、 「偶像崇拝から完全に守られるように」と「良いお天気が与えられるように」の二点でした。 変に大人になってしまうと、お祈りも「御心ならば」というのが頭にありますが、 初心者の頃にはそれが全くありませんでした。子供のお祈りが良く聞かれるのは、 彼らが全く疑うことなく神様を信じているからなのです。当時の私も、「お祈り=必ず願いは聞かれるもの」と思っていました。

お葬式の前夜のことです。テレビも電話の天気予報でも、明日は雨、 それも大雨だと言っていました。母はウンザリしていました。 父方の祖父の時はお天気が悪くて大変だったからです。私は母にこう言いました、 「大丈夫よ、お母さん。明日はお天気になるから。」と。母は信じられないと言った顔をして、 「そんなわけないよ。天気予報でああいっているんだから。」と言いました。それは当然のことでしょう、 晴れるという確かな保証は何にもないのですから。でも、私にとっては、 お葬式の時にみんなが不自由しないようにお天気になるのは、神様の御心だと信じて疑いませんでしたから、 「イエス様がお天気にしてくれるんだから、"絶対に"大丈夫だから安心して。」 とキッパリと母に言えたのです。

翌朝、5時頃目が覚めました。そしたら外は小雨が降っていました。でも私は、 「何でも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。 そうすればそのとおりになるであろう。(マルコ11章24節)」と信じていましたので、 「イエス様、私はお天気にして下さるようにお願いしました。今小雨が降っていますけれど、 お葬式の時には必ず晴れにして下さいましたから感謝です。」と"先付け"で、 感謝のお祈りを捧げました。6時台になっても状況は変わりませんでしたが、同じお祈りを捧げました。 (うちの教会では、このようにして下さった(=英語でいう現在完了形)とお祈りする人が多いです。)

さて、午後になり母の実家に出かけて行きました。午前中は、今にも降りそうな空でしたが曇りでした。最も気がかりだったことは「偶像崇拝」です。当時下の姪が生まれたばかりだったので、私も一緒にお葬式に出席せずに母屋の離れの二階で待機していることになりました。不思議なことに、誰も式に出ろとかお線香をあげろとか言う人がいなかったのです。暫くして、私達が母屋に戻ったときは、お葬式が終わった後でした。あとは、親戚一同がお墓に列を作って歩いて行くだけでした。お墓に向かいながら、雨はとうとう降らなかったなと思って空を見上げました。すると、確かに周りは曇り空なのですが、私達の上だけまるくうっすらと光がさして来ました。私は、「見事だ。」と、驚きました。お墓に行ったら、お線香をあげたりお花を供えたりするのが普通ですが、どういうわけかチャンスがまわって来ませんでした。

偶像崇拝から完全に守られたことと、お天気が守られたことは、本当に大きな喜びでした。私は母にいいました、「ね、言ったとおりでしょ。イエス様はお祈りを聞いてくださる方なのよ。」と。次の日は嵐のように、強風と大雨でした。お天気を一日ずらすこともいとも簡単に出来るのは、さすが創造主だなと感心しました。

(注1)

*偶像

下記は偶像のむなしさが書かれている箇所です。

彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。それは口があっても語ることができない。 目があっても見ることができない。耳があっても聞くことができない。鼻があってもかぐことができない。 手があっても取ることができない。足があっても歩くことができない。また、 のどから声を出すこともできない。これを造る者と、これに信頼する者とはみな、 これと等しい者になる。(詩篇115篇4-8節)

木の細工人は線を引き、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、 それを人の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。彼は香柏を切り倒し、 あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、 雨に育てさせる。こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、 またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。 その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、 「ああ、暖まった、熱くなった」と。そしてその余りをもって神を造って偶像とし、 その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。 (イザヤ書44章13-17節)

(注2)

*十戒(下記はその一部です)

あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。 あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、 また地の下の水の中にあるものの、どのような形をも造ってはならない。それを拝んではならない。 またそれに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、 わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて三、四代に及ぼし、わたしを愛し、 わたしの戒めを守る者には恵みを施して千代に至るであろう。(申命記5章8-10節)