苦しい環境

(転職し仕事そのものには恵まれましたが、人間関係で初めて悩むこととなりました。 苦しみ、
神様が遠く感じられましたが、神様は決して私を見放したわけではありませんでした。)

二番目の会社に入ったあたりから、色々な厳しい試練が始まりました。物事全てが空回りしているようでした。私の人生の中で、こんなに絶望的になったことはなかったかも知れません。主は、私を成長させる為に、あえて嵐の中に投げ込まれたのです。自分との戦い、神様と世の中の現実の問題との板挟みで、本当に苦しい日々でした。それまでは、イエス様がいつもそばにいて下さって、身近な存在だったのに、イエス様がどこか遠くに行ってしまわれたように感じられました。それもそのはず、私は仕事の奴隷になり、世的な生活をするようになってしまったからなのです。自分の思いや我があまりにも強くなると、聖霊が静かになって働かなくなり、前面に出て来れなくなるのです。神様の御心を求める替わりに、自分で何でも決めてしまうようになってしまいました。

初めて人間関係で悩みました。それまでは、愛されることが普通だったような環境だったので、人に嫌われることも無視されるという経験もありませんでした。自分の言った言葉の全てが、好意的に受け取られるとは限らないことも初めて知りました。あまり大きい会社ではありませんでしたが、グループが出来ていて、ある人を中心に人が集まっている感じでした。私は、人にお世辞をつかったり持ち上げたり出来ない質なので、その中で自分は何か浮いているなと感じていました。私はみんなと仲良くしたかったのです。でも、ある女の子が意識的に神経を逆なでするようなことをしてきました。不愉快でしたし、人間的にも尊敬出来ず、好きになることが出来なかったのです。「汝の敵をも愛しなさい」とおっしゃったイェス様の教えに反することをしていることに苦しみました。何度も何度も涙を流して祈りました。「イェス様、私はどうしてもあの人を愛することが出来ません。どうして私には、イェス様のように愛することが出来ないのでしょうか。主よ、どうぞ、私があの人を愛せるようにして下さい。」と自分の胸を叩きながら祈ったこともあります。そのうちその人は、家族と一緒に遠くに引っ越すことになり、会社を辞めることになりました。

悩みが色々ありすぎて詳細を書くことが出来ませんが、私の心の隙間にサタンが忍び込み、 私の悩みを利用して滅ぼしイェス様から引き離そうとしました。あるクリスマスイブの日、 友達とその知り合いの中国人が通っている教会に出かけて行きました。 クリスチャンにとっては一番嬉しい日なのに、周りの人達が喜びで輝いている時に、 私だけは暗く沈んでいました。暗く寂しい気持ちになり、死んでしまいたくなりました。 イェス様は私を見捨てられたのかと思いました。何故そうなったのかは自分が良くわかっていました。 イェス様は、安全な右の道を行くようにおっしゃったような気がします。でも、私は自分の我で、 左を歩いていたのです。滅びに至る道だということも知らずに。

私は生きていることが辛くなり、 イェス様に「最後のお祈り」をしたのです。「イェス様。 今まで私を愛して下さってありがとうございました。我が儘言ってごめんなさい。 死んでしまったら地獄に行くのはわかっています。でも、辛くて耐えられそうにないんです。」と、 涙を流して祈りました。真剣に祈ったのは久しぶりだったかも知れません。私はとても惨めで、 価値のない人間だと思いました。すると、パッと上からの思いが、御言葉となって私の心に入って来ました。 「霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。 (ローマ人への手紙第12章12節)」と。私は、イエス様が、崖っぷちで片足を踏み出している私を、一瞬のうちに支えて助けて下さったのだとわかりました。イェス様は私を見放していたわけではなかったことを知り、涙が止まりませんでした。私の心はその瞬間に変えられました。絶望と悲しみの心が、喜びと感謝に変わりました。

年が明けて元旦礼拝の時に、いただいた御言葉のお年玉(封をされた封筒に入っている)は、先の御言葉と全く同じだったので驚きました。私は、イェス様が自分に求めておられるのは何かを知ることが出来、もう二度とイェス様を悲しませるのはよそうと思いました。