自分の傲慢さについて、最近神様から教えていただいたことがあります。 ネット生活するまでは、というかつい最近まで、ペンテコステ派のうちの教会は一番だと思っていました。 一番神様から祝福されていて一番素晴らしい牧師先生で一番信仰的な兄弟姉妹だと。ネットを通じで、渇いているクリスチャンからメールを頂くことが多かったりするので、なおさらそう感じていました。 聖霊のバプテスマを受けて異言を語るのが普通の私達から見れば、聖霊を受けていない人達は、 霊ではなく頭だけの信仰を持ち、聖霊体験がないのだから本当の神様のことを知らないのだと思っていました。でも、これが傲慢につながっていました。
10年前に会社の傍の教会に行った時に、異言のお祈りをしてそこの牧師先生に咎められた(「牧場」参照)ことが、 自分でも気がつかない心の傷になっていたのかも知れません。 目の前で見て聞いた「事実」を否定し批判した牧師先生が、私には理解出来ませんでした。聖書に書いてあることなのに何故認めないの?と素朴な疑問を持ちました。 私自身の体験や他の兄弟姉妹の聖霊体験の証しは真実なのだから。あまりにもショックで悲しく、その後、その牧師先生=よその教会全てはペンテコステ派には批判的なのだと思ってしまったのです。 それが、自分でも気がつかなかったのですが、私達御霊のクリスチャンが差別をされてきたのと同じように、私も逆差別をしていたのかも知れません。
しかし、ここ10年でずいぶん変わってきたようです。確かに異言に関しては教派によって色々考え方があるようですが、世の終わりが近いということもあると思いますが、カトリックでも他の教派の教会にも聖霊が下り始めています。 そして、リバイバルは聖霊の働きなくしては起り得ないと思っている人達が大勢いるのです。昔は異言を語る信者を教会の外に放り投げたなどという信じられない話も聞きました。 最近、日本基督教団の「聖霊刷新協議会」というホームページを知り、さっそくそこのリーダーである先生にメールを出しました。私は教派を問わず一人でも多くの方が聖霊を受けていただきたいことを切に願っていることを書きました。 先生はそのことを良く理解して下さいました。
先日、生まれて初めてよその教会(福山バプティスト教会)の日曜礼拝に出席し、歌の奉仕をさせていただきました。当たり前のことなのですが、うちの教会と同じように日曜礼拝を守り、うちの教会と同じように讃美をしている。異言のお祈りはなかった。でも、何か嬉しかった。 初めて会った人達が暖かく迎えて下さった。初対面だったのに、主にあって「兄弟姉妹」なのだと心から思った。土曜日の讃美会の時、私が歌の前に証しをしている最中に、牧師先生は「アーメン。アーメン。」と言って下さっていた。それがとても嬉しかった。又、讃美会の後の歓談の時も、「姉妹は証しがたくさんあるんですね。」とにこやかにおっしゃった。 10年前の会社の傍の牧師先生とは違っていました。福山の先生は、私がペンテコステ派だと知っても、変な目で見ることはなかった。私はそれが、涙が出るほど嬉しかった。
私は、最近色んな教派の人達との交わりが多くなっています。そして、異言を語らなくてもとても信仰の厚い兄弟姉妹がいることを知りました。そういう人達から学ぶことがたくさんありました。 日本のリバイバルを願うのはみんな一緒でした。カルロス・アナコンディア師が著書の中でおっしゃっていましたが、教派を超えた協力なくしてはリバイバルは起らないと。あのアルゼンチンの大リバイバルは、同じ神様を信じているという一致した心と協力によって起ったのだから。 私達は同じクリスチャンなのだから、○○派だ△△派だなんて言っている時ではないと思っています。人間が皆一人一人違う性格を持ってユニークな存在であるように、聖書を割り引きも割り増しもしないで教えている教会ならば、色々あっても良いのではないかと思っています。 神様は、どんな人間も分け隔てなく愛しておられ、どの教会も等しく愛しておられるのだと知りました。
私の心の中にあった、10年前の古傷を主が癒して下さり、私の心の中にあった他の教会の人達との壁のようなものが音をたてて崩れていくのを感じています。 とても、心地よく優しい気持ちになっている自分に気がつきました。神様ありがとう。私は以前よりももっと人を愛することが出来ます。もっと神様のお役に立ちたいです。