イエス・キリストの御名によって、11月7日、8日に広島の福山バプティスト教会で歌の奉仕をさせていただいたことを通して、神様から教えられたことを証しさせていただきます。
インターネットで知り合った色々な教派のクリスチャンの中で、神様を讃美するオリジナルの曲を作ったり、詩を書いたりする人達がいました。 そして、音楽好きなクリスチャン仲間の中から自然発生的に、みんなで集まってオリジナルの讃美のCDを作ろうと言う話になりました。それに先立って、私達のグループのリーダーが所属している福山バプティスト教会の牧師先生の提案で、11月7日、8日に伝道讃美集会をすることになりました。
私はよその教会に行くことはあまり気がすすみませんでしたが、S牧師先生に相談してみました。私は先生に、「バプティスト教会は異言を認めていない教会なので、そこに行って歌だけを歌って満たされないで帰ってくるのは嫌なんです。」と言いました。ところが、先生は意外にも、「行ってらしたらいいですよ。讃美を歌っているうちに満たされてくるんじゃないですか?」と言われました。私は、羊飼いの言うことには、何か神様のご計画があるのだろうと思い、行くことにしました。
11月7日(土)に、片道5時間かけて福山に向かいました。牧師先生自ら駅に迎えに来て下さいました。 倉敷から来た御夫妻とリーダー御夫妻と教会で合流しました。福山の教会は信者が20名程の小さな教会で、暖かく迎えて下さいました。 初めて行った教会の人達なのに、全く違和感なく主にあって兄弟姉妹だと感じました。 夜には、牧師先生のアメリカの神学校での親友のアメリカ人で、今は神戸で宣教師をされている方がバンジョーを片手にやってきました。 彼は日本語が上手で、ダジャレを言ってみんなを笑わせながら素晴らしい証しとバンジョーによる讃美を演奏されました。 私は、短い証しとネット仲間が作ったオリジナルの讃美をソロで歌い、他の仲間とも一緒に讃美を歌いました。
土曜の夜には、新しい人が10人来ました。日曜日の礼拝と讃美集会には、新しい人が7人来ました。 20人の教会に新しい人が17人も来たことで、福山の人達はビックリしていました。今まではビラを配っても、この手の集会には殆ど人が来なかったそうです。 この集会の為には、恵みの御座でも祈っていただき、多くのインターネットのクリスチャン達の祈りがありました。 神様が祈りに答えて下さいまして、素晴らしい音楽伝道集会として下さいました。
私は、初めてよその教会の礼拝に出席したわけですが、当たり前のことなのですが、うちの教会と同じように日曜礼拝が捧げられ、同じような歌で讃美していました。異言のお祈りはありませんでしたが、何かとても嬉しくみたされた気持ちでした。私は聖歌隊で長い間歌っていますが、群れを離れて一人で歌うのは初めての経験でした。私の少ないタラントでも、神様に用いられてよその教会で歌わせていただき、私のようなものの歌でもみんなに喜んでもらえたことをとても嬉しく思いました。歌うことで神様の種まきのお手伝いが出来たことを本当に嬉しく思いました。 うちの教会では、キリストが頭で兄弟姉妹はキリストの肢体だというイメージがありましたが、福山に行って福山の兄弟姉妹と触れ合った時に、どこの教会だからとか関係なくキリストが頭で、クリスチャン全体の一人一人が肢体なのだと心から思いました。
私は最近まで、ペンテコステ派のうちの教会は一番だと思っていました。 一番神様から祝福されていて一番素晴らしい牧師先生で一番信仰的な兄弟姉妹だと。 ネットを通じで、渇いているクリスチャンからメールを頂くことが多かったりするので、 なおさらそう感じていました。 聖霊のバプテスマを受けて異言を語るのが普通の私達から見れば、聖霊を受けていない人達は、霊ではなく頭だけの信仰を持ち、聖霊体験がないのだから本当の神様のことを知らないのだと思っていました。でも、これが傲慢につながっていました。
10年前に会社の傍の教会に行った時に、異言のお祈りをしてそこの牧師先生に咎められたことが、自分でも気がつかない心の傷になっていたのかも知れません。 目の前で見て聞いた「事実」を否定し批判した牧師先生が、私には理解出来ませんでした。 聖書に書いてあることなのに何故認めないのかと素朴な疑問を持ちました。 あまりにもショックで悲しく、その後、その牧師先生=よその教会全てはペンテコステ派には批判的なのだと思ってしまったのです。 それが、自分でも気がつかなかったのですが、私達御霊のクリスチャンが差別をされてきたのと同じように、私も逆差別をしていたのかも知れないのです。
でも、ここ10年でずいぶん変わってきたようです。 確かに異言に関しては教派によって色々考え方があるようですが、 世の終わりが近いということもあると思いますが、 カトリックでも他の教派の教会にも聖霊が下り始めています。 そして、リバイバルは聖霊の働きなくしては起り得ないと思っている人達が大勢いるのです。 昔は異言を語る信者を教会の外に放り投げたなどという信じられない話も聞きました。 最近、 日本基督教団の聖霊刷新協議会というホームページを知り、さっそくそこのリーダーである先生にメールを出しました。私は教派を問わず一人でも多くの方が聖霊を受けていただきたいことを切に願っていることを書きました。 先生はそのことを良く理解して下さいました。
福山での讃美会の時、私が歌の前に証しをしている最中に、牧師先生は「アーメン。アーメン。」と言って下さっていました。それがとても嬉しかったです。又、讃美会後の歓談の時も、「姉妹は証しがたくさんあるんですね。」とにこやかにおっしゃいました。 10年前の会社の傍の牧師先生とは違っていました。福山の先生は、私がペンテコステ派だと知っても、変な目で見ることはありませんでした。私はそれが、涙が出るほど嬉しかったのです。
私は、最近色んな教派の人達との交わりが多くなっています。そして、 異言を語らなくてもとても信仰の厚い兄弟姉妹がいることを知りました。 そういう人達から学ぶことがたくさんありました。 異言を語れることが信仰のレベルが高いということではないのです。 日本のリバイバルを願うのはみんな一緒でした。 カルロス・アナコンディア師が著書の中でおっしゃっていましたが、 教派を超えた協力なくしてリバイバルは起らないと。あのアルゼンチンの大リバイバルは、 同じ神様を信じているという一致した心と協力によって起ったのです。 私達は同じクリスチャンなのだから、人間が皆一人一人違う性格を持ってユニークな存在であるように、 聖書を割り引きも割り増しもしないで教えている教会ならば、 色々あっても良いのではないかと思っています。 神様は、 どんな人間も分け隔てなく愛しておられ、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンもそうでないクリスチャンもどの教会も等しく愛しておられるのだと知りました。
私の心の中にあった、10年前の古傷を主が癒して下さり、私の心の中にあった他の教会の人達との壁のようなものが音をたてて崩れていくのを感じています。 とても、心地よく優しい気持ちになっている自分に気がつきました。私はもっと人を愛し、もっと神様のお役に立ちたいと願っています。