たぬきのかあさん
中央高速道で起こった最初の交通死亡事故のことをご存知でしょうか?
それは、開通間も無いころのお話です。一匹のたぬきが死んだのです。
さかのぼる事およそ30年、その森には、沢山の他の動物達とともに、一匹の
メスだぬきが住んでいました。
そのメスだぬきは、人間でいったら、年の頃は18歳ぐらいでしょうか、
ごく普通に恋をして、ごく普通に子供を宿しました。
「なんで、いってしまうの?」
「ごめん、ぼくは、もっともっと、色々なものを見たいんだ。だから、悪いけ
ど、君一人で、子供を育てて、」
なんということでしょう。
結婚したはずのオスだぬきは、そう言うと、さっさと彼女の元を去ってゆきま
した。
メスだぬきは悲しみました。でも、そんなに長い事、悲しんでもいられません
でした。
子供が生まれたからでした。
それは、ちっちゃなちっちゃなオスのたぬきでした。
彼女は、その、ピンク色をしたちっちゃなちっちゃな子供を見たとき、自分が
母親になった事を理解しました。
そして、彼が一人前になるまで一所懸命育てようと思いました。
ちょうどその頃です。彼女の住んでいるところから、食べるものがたくさんあ
る林の間に、良く解らないコンクリートの道が作りはじめられました。
彼女の知っている道は、いばらや、先の尖った草の無い自分がやっと通れるぐ
らいのものでしたから、コンクリートのそれは、もはや道と言うより、歩きに
くい大きな障害物でしかありませんでした。
でも、彼女は、生まれたばかりの子供に、おいしい乳をやるために、せっせと、
その、歩きにくい大きな障害物を越えて、食べるもののたくさんある林に通い
ました。
昼間は、人間が沢山そこに現れて、忙しそうに動き回っていましたが、もとも
とたぬきは、夜行性です。誰もいないコンクリートは、歩きにくい事を除けば、
安全で、一番近い道でした。
息子がちょうど一歳になった頃、そのコンクリートの障害物に、変化がありま
した。
「ジャンジャンジャーン」
朝方、二人のたぬきが寝ている側で、大きな音が、あの障害物の上を通り過ぎ
るのが聞こえました。
「かあさん、何が起こったの?」こだぬきが聞きました。
母だぬきも何が何やら、解りませんでした。
「いま、見てくるから、あなたはここに居なさい。」
そう言うと、彼女は、あの障害物を見にゆきました。
彼女の目の前では、長い人間の列の後ろに、見た事の無い大きな四角い色とり
どりの動物達が連なっていました。
その動物は、歩くとき体を上下にゆさぶらず、まるで滑るように四つの黒い足
で進んでいます。
こがねむしのようにピカピカに光った体の上の方が透明に透けていて、中に人
間が食べられている姿が見えます。
母だぬきは恐くなりました。今まで知っているオオカミや、熊より、不気味な
動物です。
彼女は、すぐに家に帰って息子に言いました。
「いいかい、あの障害物に近ずくんじゃないよ、あそこには、見た事も無い恐
ろしい動物が通っているから。」
その日から、彼女たちの暮らしが変わってきました。
いままで安全だった夜にも、あの、恐ろしい動物が、障害物の上を通るように
なったのです。それも、夜になると二つの目を光らせて物凄い速さで走ってゆ
きました。
彼女は、動物が来ないときを見計らって走り抜けなければならなくなりました。
母だぬきが恐い顔をして林から戻ってくるのを見て、ある時息子が言いました。
「かあさん、もういいよ、僕一人でも食べるものを取りに行けるから、なにも、
そんな恐い思いをして、障害物の向こうの林にいかなくても、こっち側の林の
食べ物でいいから、」
でも、母だぬきは、知っていました。
彼女と同じように、今まで障害物を越えていた多くの動物達が、みんな怖がっ
て、こちら側の食べ物を食べ尽くしている事を。
「だめよ、あなたには、まだ無理なの。それに、こちら側には、もう食べるも
のはないのよ」
雨が降っていました。
今夜も彼女は、あの障害物を越えてゆこうとしています。
「かあさん、今日は雨だよ、寒いしこのままここにいて。」息子が言いました。
「雨はあしたもつづくでしょう、だから、今日取りに行った方が良いわ」
彼女は、元気な声で言いました。
いつものように動物の通らない時を見計らって走り抜けようとしました。
半分を過ぎたとき、いつもなら明るく光っている目で、動物が来るのが解るは
ずなのに、その時に限って、目が光っていないあの動物が、すぐそこまで来て
いました。
「きゃあ!」
どん!という鈍い音と共に、彼女は体の20倍ほど跳ね飛ばされ、障害物の上
に叩き付けられました。
あっという間の出来事でした。彼女は二度と立ち上がりませんでした。
普段なら、彼女の悲鳴も、ぶつかった音も息子のところで聞こえたはずなので
すが、雨の音がすべてを包み込んで聞こえなくしてしまいました。
息子は母を待ちました。
何日も、何日も、待っていました。
でも、二度と帰ってきませんでした。
自分で食べるものを探しに表に出たときには、お腹が減ってふらふらでした。
目の前に広がる林には、もう、彼が食べられるものは、何一つ有りませんでし
た。
彼もまた、地面にうずくまったまま、動かなくなりました。
そういえば、他の動物達も、ほとんど動いている様子がありません。
林は、ひっそりと静まり返りました。
あとがき
彼女の遺体は、剥製にされ、中央道、交通死亡事故第一号として、談合坂サー
ビスエリアに何年かの間展示されました。
2002/5/20 M Hishida
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