
ジャンク箱 (コラム バックナンバー)
8/3 更新
このコーナーは、コラムのバックナンバーです
ワールドカップと日の丸君が代について、
すこし、話は古くなるが、ワールドカップで、日本中が、テレビに釘づけにな
った。地上波だけでも視聴率は、60パーセントを越えた。
これは、オリンピック以上に、皆が見ていた事になる。
私はスポーツ観戦に、全くと言っていい程興味が無いのだが、そんな私でさえ
日本戦は、すべて見ていた。
そして、他人の勝負にあまり、感情移入しないこの私でさえ、テレビに向かっ
て叫んでいた。
私は、そのテレビを見ていて、素朴な疑問を持った。
それは、試合前の国歌斉唱、国旗掲揚についてだった。
相変わらず、誤解のないよう言っておくが、私は、一切の宗教およびイデオロ
ギーの団体とは、関係を持たない。団体で動く事が好きではないからだ。
しかし、このような問題を何らかの意志を持って発信すると、必ず、誰かに
あなたは、右寄りだとか、左寄りだとか言われ、団体との関係まで勘ぐる人が
いるので、付け加えておく。
もう、何を語りたいか、お解りかと思うが、
ワールドカップで、試合前に、そのゲームの出場国の、国歌斉唱、国旗掲揚が
行われる。
日本の試合でも行われ、選手はもちろん、会場の70パーセントを超える日本
人サポーターも当たり前の様に、君が代を口ずさむ。
私は、これは、普通の事と認識しているが、ここに、数ヶ月前ニュースで話題
になった所沢高校で、国歌斉唱と国旗掲揚反対を理由に、入学式を拒んだ学生
やその親達はいったいこの場合どうするのだろう。やっぱり歌わないのだろう
か、
私は、国歌や国旗というものは、その国民のアイデンティティのシンボルだと
考える。確かに君が代の歌詞に、アレルギーを持つ人はいるだろう。しかし、
だとしたら、それを学校教育の中で否定して教えるのではなく、もっとちがう
オープンな形で国民全体に問うてゆき、コンセンサスを得てゆくべきではない
か、
文部省と日教組のはざまで、学生は、もみくちゃにされているのではないか、
私は、権力や権威主義は、大嫌いだ。過日の国語教育審議会の前時代的答申も
「アホか」と思った。なぜ今古い漢字にもどすのか、と思った。
しかし、国歌国旗を掲げる県立高校の入学式には、反対はしない。
政治的背景をぬきにして、日本という国が好きで、この国のシンボルとしての
日の丸君が代があると考えるからだ。まして、県立である。
本気で反対するのなら、大きな運動をおこせばいい。
大きな運動にならないなら、学校教育という場でなく、その意見を発表してゆ
けばいい、
そしてその意見が通らなければ、不甲斐ないと思うなら、(乱暴な意見かもし
れないが)日本を捨てて自分の理想の国にいけばいい。
同じように、学生は、そんな高校にいかなければいいとさえ、思う。
私の出た私立高校は、一切国歌を歌わせず、国旗を掲揚しなかった。
自分で書いていてもこれは、少々乱暴だとは思うが・・・例えば、入社式に、
社歌を歌い社旗をあげる会社に入って「わたしは、認めない」と言ってボイコ
ットしたら、どうなるだろう?
まちがいなくクビになる。入社してすぐは、試用期間だから、そんなことでも
法的に問題無く解雇できるし、そんな理由でボイコットするような、社員は、
協調性がないからいらない、と、言われるだろう。
いま、この国は自由と言う言葉の過大解釈が、まかり通る
本当に自由を得るためには、多くの自己責任が伴う
しかし、自己責任を回避し他人の責任だけをあげつらう
社会的に成熟していない土壌だから、仕方が無いのだろうか、
とはいえ、社会的な成熟=10年後の日本=現在のアメリカだとしたらゾッと
してしまうのだが・・・
まあ、何かの機会に日本と言う国と日本人という私達のことを、改めて考えて
みてはどうだろうか
98/12/29
人間の尊厳(病院では、死なないこと)
私は病院に行くのが好きではない。
こう書くと皆誰しも私もそうだと、言われるかもしれない。
あの、匂い、待合室の憂鬱そうな顔、顔、顔、
元気な人ですら病気になってしまったかの錯覚を覚えるから…
私が病院嫌いなのは、そこではない。
現在の医療は、すべて西洋医学的対処療法から、成り立っている。
ごく最近、やっとメンタルケアに目を向けつつあるが、基本は、薬と外科的
ケアからスタートしているのである。
私は、人間の持っている本質的な力のなかの、自己浄化作用や自然治癒力を
信じている。
そして、その力を発揮できるのは、心の健康だと思う。
このような事を書いている自分自身、自律神経失調症なのだから、えらそう
な事は言えないのだが、ある友人が一晩で胃に穴を空けたとき、医者が言っ
たことは「平気で空きますよ、一晩でも…」
ということは、一晩で胃のあなを塞ぐことも出来ると言うことでは、ないだ
ろうか。
私の父は、胆石で突然入院し、およそ一月後にその病院で他界した。
胆石以外は健康そうに見えた彼は、三週間後には、体中チューブだらけ、そ
の上喉を切開し人工呼吸器をつけて、もはや話す事も出来なかった。
そして、四週間後ほとんど無反応のまま、息を引き取っていった。
病院で、どんどん悪化してゆく父を見たとき、私の病院嫌いは、決定的なも
のになった。
こんな所でいろんな機械で、単に延命だけして、やがてそのまま死ぬ
そんな死に方だけは、したくない。
なにも言い残すこともできず、やりたいこともできず、チューブで繋がれ、
身動きできない、そんな状態で死んで行くのなら、きちんと告知され、残り
の生を自分の思うことに使って、家族に見取られて息を引き取りたい。
人によって、告知は難しいかもしれない。
しかし、私は、残された時間を考えると、告知を行うべきだと思う。
現在告知に対して否定的なのは、心のケアを病院が行うだけの十分な環境が
整っていないからではないだろうか、
自分の死を、突然見つめなければならなくなった時の精神的なフォローに、
誰も責任を取りたくないからではないのか、
自分の死期を知り、その時まで自分の意志を持って精一杯生きる。
それが、人間に与えられた尊厳というものではないか、
また、病院で死なないということは、周囲の死を見つめる見方も変えて行く
のではないだろうか、
今、少年が相手を殺し、平気で死体をすてる。そんな事件が非常に多くなっ
てきた。
これは、自分の経験の中で、人が死んで行く瞬間に遭遇することが、あまり
にも無くなって生と死を考える機会が無いからだと、私は考える。
もし、それまでに、自分の身近な親族の死に立ち会っていたら、人を殺める
瞬間、それが脳裏に浮かび、何らかの抑止力になるのでは、ないだろうか、
私は、自分の死期を知った時、きっと病院を出るだろう。
私は私の生と死に、尊厳を持っていたいから。
98/12/28
この国の行方
今、自民党総裁選挙の、真っ只中である。
昨日候補者3名の意見を生で聞く番組がフジテレビでオンエアーされ、一般代
表50名の質問(選出基準が良く分からないいろんな業界の人ではあった。)
が、三人に均等に行くように、おこなわれた。
その番組(コーナー)の最初と最後に誰を支持するか、のアンケートを取り、
最後に圧倒的多数が、小泉氏に傾いた時、梶山氏が言ったコメント
「いやあ、さっき聞いたらこの人たち、自民党支持者じゃないですから、
選挙の時、自民党に入れなかった人達ですから・・・」
それを見ていて私は、ものすごく腹が立った。
自民党総裁イコール総理大臣である。参議院選挙に大敗したとはいえ、衆議院
で過半数取っている以上、国民が望まなくとも総理になってしまう人が、自民
党支持ではないやつは、関係ない(というニュアンス)と言っていいのか、
政治は、おらがムラと、地元の支持基盤と献金の多い業界団体だけでコントロ
ールするから黙っとけとでも言いたいか、
冗談じゃない!そんな奴等が既得権にしがみつきながら馴れ合いでこの国を治
め、料亭で政策を決めてしまうから、今、日本はどうしようもなくなってしま
っているんだ。
そして、いいように、アメリカの一部の投資家のおもちゃにされて、属国に、
成り下がっているんだ。
私は、日本が好きだ。日本語が好きだ。日本人のあうんが好きだ。
だから、この国の行方に憂いを感じている。
だから、きつい言い方のコメントを書いている。
これでもし、秋に総選挙が行われ自民が過半数を取ったら、おそらくもう日本
は、立ち上がれなくなるだろう。
もし、そうなったとしても、しょうがないのかもしれない。
国民が選んだ道なのだから。
しかし、どうせコケるなら、日本が保有するドルを全部吐き出して、アメリカ
のバブル景気も終焉させてあげよう。それぐらいしか、出来る事は無い。
98/7/22
参議院選挙報道に見るメディアについて、
去る7月12日に行われた参議院選挙での、新聞、テレビ報道は、見ていてと
ても面白かった。この数年間であれほど各社の思惑が露骨に表われたのは、ひ
さしぶりの事。
テレビは、毎回、選挙で当確を出すのにかなり気を遣っている。
それは、数年前あまりにも早い当確を出し(開票率20パーセント台だったと
思う)結果テレビで当確を出されていた候補が、ふたを開けたら落選だったと
いう失態を演じているからである。
で、今回の選挙ではどうだろうと、私は、特別番組に目をやっていた。
すると、面白い事に気がついた。自民、共産各党の当確数が、民放各社で結構
ばらついているのである。
多少のばらつきは、解るのだが、同時刻で3から4議席の差が出ていた。
共産党を例に取るとテレ朝12、TBS9、フジ8議席。自民は、それに反比
例していた。
「そうか、テレ朝は、椿発言で随分自民党と郵政省にいじめられたもんな、
CX(フジ)は、自民にべったりか、で、TBSは・・・オームで屈辱的に、
やられてからは、いい子になろうって寸法か」私の頭の中では、そんな独り
言がまわっていた。
それに追い討ちをかけたのは、フジテレビジョンのインサートビデオ、「もし
自民党が大敗したら」だった。
自民が負けたらこんなに世の中悪くなるよーというシュミレーションで、確か
に、それももっともな事だが、自民が勝ったとしても、お先は真っ暗なのであ
る。せいぜいアメリカの(極一部の富の)ゴリ押しに、こんなに忠実に応えて
いますよということを、世界とアメリカに見せる事ぐらいしか、彼らに残され
た道はない。
なのに、なぜこのビデオを今流すのか、
見ている側は、この後に控えた総選挙で自民に戻さなければ大変だ、と無意識
にすりこまれる。(うーんこれ以上は、書けない)
翌朝の新聞も面白かった。
一般全国紙は、共産の躍進を称えたのに対し日経は、見出しでも小さく扱って
いた。なるほど日経である。
普段私は、日本のメディアは、マスゲームメディアだと思っているが(マスゲ
ーム=どこぞの国で国家主席を前に何千人という人が寸分違わず同じ踊りを踊
るアレです。)今回は、各社の利権や思惑で、番組や記事に差が出たので、
いつもと違う印象を持った。
98/715
正しさについて
きょう、私は、とある宗教の集いに、参加している。
私自身は、私を知る人には以前から言っているように、特定の宗教団体や、
イデオロギーの団体とは、一切の関わりは無く、ポジティブな無宗教者だと、
考えている。
その集いで、感じた事はたくさんあった。良くも悪くも本当に沢山の事を、
感じ、考えた。
別にここで、悪い事を論う気は無い。
むしろ、逆かもしれない。
本当にここにる人にとって、この宗教は、必要なのかもしれない。
戦後、物質文明と日本的社会主義に毒され、道徳的規範を誰からも学ぶ事ので
きなかった我々日本人。
援助交際の名の下で「自分の体をどうしようと勝手でしょ」と、あっけらかん
と売春し、生活レベルにそぐわないバッグを持つ女子高生や、それを真剣に、
論議のテーブルに乗せることができないマスメディア。
この中にあって、何を信じ、何を感じて行けと、言えるのだろう。
一番身近な規範が、こうした宗教のなかには、何重ものオブラートに包まれて
あったりする。そして、疎外感や孤立感を感じ生きる人々にとって、我々は、
仲間だよ。ここには真の家族、友達がいるよ と訴える
信じている者にとっては、その通りだ。皆が同じ方向を向いているのだから、
その共有感は、他の友人関係より強くなるのも、当然だろう。
わたしは、その集いの中で、宗教関係者のカリスマ的な話し方に、不思議な、
感動をも、おぼえた。
それは、以前よく見に行っていた野田秀樹の芝居のそれと、非常に近いものだ
った。比喩、抑揚、感情移入、どれをとっても完璧なロジックの上に成り立っ
ていた(信じる者にとっては、それは計算ではなく、天から降りてきているこ
とばなので、説得力がある。)
また、全体演出もみごとだった。
ある、一人の不遇の市井の人が、この宗教に出会い、自らが変わる事によって
その、不遇な環境を改善し今は幸せに暮らしているという事を、本人をステー
ジ上に呼び、教祖が促し語らせる。
語り手も、聞き手の教祖も涙、涙、ふと周りを見ると5500人入った会場の
5480人は、ハンカチを手にしていた。
少々失礼な言い方をさせてもらうと”おんなののど自慢”というTV番組を、
見ているような・・・
私のようなひねくれものは、職業柄もあって、(演出や構成、話し方にいたるま
で、作り手の立場で見てしまう)涙を流す気にはなれなかったが、この場にい
る大多数の人は、感動的なエンディングを共有しただろう。
私は、それが自分で正しいと感じても、間違っていると感じても、ある一人の
人間の前に、何千、何万の人が集まり、それを信じるということに、嫌悪感を
持つ。
ヒットラーは、非常に優れた演出技法によってドイツ国民を誘導していった。
オウム真理教は、どうだろう
戦前の日本は、
アメリカのレッドパージは、
私の、ポジティブな無宗教感の根底には、多くの人がある方向を向いた時、ち
がう意見を持った者が、抹殺されていった歴史的背景がある。
その、ほとんどが、一人の優秀なプレゼンターによって行われた。(考え方を
優秀と言っているのではない。プレゼンテーションが優秀だという意味。)
今回の集いでも、教祖がカルマの話をしていた。「私達人間には、良い方向へ
向かわせようと願う気持ちと、そのうらがわに、カルマ(業)をもってしまっ
ています。」と とすると、どんなに得の高い人でもあるのでは?
とすると、話している本人にも・・・
ひねくれものの私は、そう考えてしまう。
しかし、ここにいる多くの人は、今、自分の人生のささえを求めて、生きる
指針を必要としている。だれかに支えてもらわないとやりきれない。
仲間がいる。先生がいる。同じような境遇のひとから、学ぶ事ができる。
彼らを私が、否定する事はできない。私は、どんなに想像しても、ひとりひ
とりの、かれらの辛さを全部理解する事など、到底できないから。
正しさの基準は、ひとりひとりの中にあり、私のそれが当てはまるわけでは
ない。でもそれでいいのかもしれない。皆満たされた顔をしている。
私は、この空気にそれほど嫌悪感は、持たなかった。
それは、とても不思議な気分だった。
1998/6/28 加筆6/30
幼稚で意気地なしのすること
最近自分の忙しさもあって、このホームページのこのコーナーにもなかなか
書く事ができなかったが、今日すごく頭に来る事に遭遇したのでその事を。
私は、最近、休みの日の日課で、とある公園によく顔を出す。
そこは、都内ではめずらしく、何かを表現したい人達が休日に現れ、自由に
表現できる場として機能している。
あるひとは歌を あるひとは大道芸を 又あるひとは写真の発表をと、本当
に様々な人が様々な事を行っている。
わたしは、例えばこのホームページを持つ事で、自分の表現の場を得ている
からいいのだが、表現の場を持たない表現者にとって、その公園は唯一と言
っていいほどの場だと思う。
そこに来る表現者の一人に、アコーデオン演奏のひとがいる。
彼女の演奏は本当にうまい。その演奏を聞いていると、自分がこのホームペ
ージで出している音楽の稚拙さに恥ずかしくなる。
私は、職業病なのかもしれないが、興味を持つと、ついインタビューしてし
まう癖があるので、以前質問した事があった。
「なぜ ここで演奏するのですか?」
彼女のこたえは、「この公園の空気になじんで、人の間に流れていれば、い
いと思うからです」ということだった。
本人が言うように、その演奏は静かに決して邪魔になる事はなく、いやむし
ろしっとりと、その空気になじんでいた。
わたしは、その公園にいくと必ずそのそばで、しばし音楽に聞き入る。
きょうも、そうしていた。
すると、演奏をはじめて5曲めぐらいの時、警察官が現れ制止した。
110番通報。騒音の苦情 それも近隣の住民からではなく、通行人らしい
わたしは自分の耳を疑った。
警察官は、威圧的な言い方はせず、「まあ、いろんな人がいるから、適当に
時間を見計らっておしまいにしてね。」といい去っていった。
いろんな人がいる。確かにその通り。
いろんな人がいる。だから面白い。
わたしは、そんないろんな人に会いたくて、その公園にゆく
わたしは、その人たちの、いろんな素晴らしさを、感じたくてそこにいる。
しかし世のいろんな人の中には、音楽を、それもアンプを通さないその音を
騒音と言って110番する人がいる。
悲しいね、音楽を聴く感性もなく、本人に直接言う勇気も無く、警察に言っ
て、権力で排除してもらおうとするその考え方が、
まあそのひとは、このページは見ないだろうけどあえて言いたい
「あなたのような人が、日本人の真の文化を育てる土壌を、踏み潰して
いるのです。あなたのような人が、この公園を殺すのです。」
「公園を殺すだなんて、大袈裟な むしろ静かになっていいじゃないか」
たぶんあなたは、そう思っているでしょう
でも、本当の事です。現に一時増えすぎたパフォーマーや物売り(アマチュ
アの)を、過去ここから排除して、結果人が減り、ホームレスが増え、つい
でにバラバラ死体までここのゴミ箱から出る始末になり、あわてて公園関係
者が今のように認める形になったのです。
何でも自分に邪魔な物は権力的な力でツブしてもらおう という考えは、
幼稚で意気地なしだと思いませんか、通行の妨げになっている訳でもないの
に、30メーター離れればもう聞こえないのに・・・
この件に関して特に皆さんのご意見を伺いたいです。1998/6/27
あいかわらずのメディアについて
最近のメディアの論調で腹が立つ事がとても多くて、もういいかげんにし
たら?という気持ちでいっぱいです。
ダイアナの事故の2報でパパラッチを一斉攻撃したワイドショーの人々、
自分達が日常的に行っている追いかけ報道とパパラッチのそれとどう違う
のか、という基本的なことも棚上げしたとしても、せめてパパラッチを、
本気で批判する気があるなら、”パパラッチの執拗の取材で泣き出すダイ
アナさん”なんていうビデオを流すな。そのビデオだって追いかけで撮っ
ているから存在している訳で、その画が10メートルくらい離れていても
全くの同罪(もし罪だと思うなら)じゃないか。それとパパラッチの写真
を載せるイギリスの大衆紙 という映像。何を考えてるの?否定するなら
その画を映すのは道義に反するんじゃない???
それから今週の(9/21)週間朝日の見出し。
”おタカさんも激怒”ていうのが佐藤問題についてなんだけど、天下の朝
日新聞社が出している週刊誌なら、組閣人事は、発表前におタカさんの耳
にも入っていた事や、それでもメディアが大きな問題にする前(発表後)
黙っていた事は、判っているはず。
おタカさんの激怒はポーズだって考えるのは、自然な事と思うのは私だけ
???どういう意図でそんな見出しを書いたのかが、全く判らない。
最後にもう一つだけ
酒鬼薔薇(こんな字だったか?)事件の解決前、あれだけのローラー取材
や、中継で出てきた”白い車の四十代の男”あれはなんだったんでしょう
事件が解決しなければ 松本サリンと同じ事をしていたのでは???
レクイエムという名の写真集
レクイエムという写真集が発売された。
さきごろその写真展もひらかれた。
これは、ベトナム戦争で死んだ報道カメラマン達の写真を集めたもので、
本屋でそれを手にしたとき、しばらく動く事ができなかった。
その本のコメントの中で、あるカメラマンの様子が書かれていた。「彼は、
そのおびただしい数の死体を見たとき、写真を撮るのも忘れて移送用の袋
に死体を入れる作業を手伝っていた」
同じ本の中の写真は、瀕死の娘を抱きながら助けを求め、泣き叫ぶ母親
を捉えていた。
ジャーナリスト、特に報道カメラマンになりたいと思い、その授業のあ
る大学にいった私は、いろいろな要因でその道を断念したのだが、そんな
私の魂をゆさぶってきた。
報道カメラマンにとって何が一番大切だろう
瀕死の娘を助ける事?それともその写真を撮る事?
私は、後者だと思う。
何故なら、今私は、その写真を見る事でそこで起こっていた事を、知るこ
とが出来たから。
そこのいるカメラマンがその瞬間を捉えなければそれは誰にも伝わらない
から。
レクイエムという写真集の中に在る写真を撮ったカメラマンは、だれも今
生きてはいない。
皆、ベトナムで死んだか、行方不明になっている。
彼らの動機はどうであれ、命を賭けて彼らが撮り続けたベトナムを、機会
があったらぜひ目をそらさず見て欲しい。
彼らの写真は、戦争を終結させる引き金になった。
そして、もう二度と今の戦争では、この様な写真を見ることは無いだろう。
何故なら、今の戦争では、徹底的な報道管制がしかれ、当事者にとって不
利になる写真は殆ど表に出ないシステムになっているから・・・
ご意見、ご感想をぜひメールでお寄せ下さい。hishida@gol.com
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