二つの椅子
「あっ これかい この椅子かい? これは悪いが売り物じゃないんだ」 僕が初めてその椅子を見たのは、仕事が早く終わり いつもと違う道で駅から家に帰 る途中の事だった。 「でも、他はみんな売り物なんでしょ?」僕は白髪の古道具屋の主人に食ってかかった 。 その古道具屋は、狭い旧街道に面した店構えで、学生相手に家具を売買している と いった風の、決して古美術商などという看板を掲げない煩雑な店だった。 「確かに他は すべて売り物なんだが この椅子は売りたくないんだ。」 「じゃあ何で店の前の 一番目立つ所に置いているんですか 」僕はその椅子が何故 か気に入ったので なおも食い下がった. 「これは 私のための物なんだ。」 主人はそれだけ言うと店の奥に入っていった。 僕はちょっと驚いた(三十才前の若造に食って掛かられて怒ってしまったか) 少しして 古いギターを抱えて 主人が現れた。 彼は黙って その椅子に腰掛けてギターをつまびいた。 それはとても奇妙な光景だった。しかし妙に画になっていた。 僕が見つけたその椅子は、木製で 座る部分にあわいピンクの布がはってあり 背 もたれの板に いかにも後から描かれたと判る、花の模様がついていた。 それは、 絵ごころのある素人の手によるものだ。 主人が手を止め ゆっくりと話し始めた。 「この椅子を持って来たのは 美大生の女の子なんだ・・・いやよく知っていてねえ、 その子の事・・・」彼は遠い目をして話を続けた。 「よく来てくれた この店に いつも二人で仲よさそうにな」 「えっ 彼氏と?」僕は咄嗟に言葉を遮った。 「一緒に暮らしてたんだろうなあ ああ、そういえばこの椅子も 元はうちの店から 二脚買って行った物だった。二人で手ではこんでった 一つづつ持って・・・・」 「その時から この花の模様は付いていたんですか」 「ああ、これはその子が描いたんだ 始めは ただの木の椅子だった」 主人の顔がほんの少しくもったのを僕は見のがさなかった。 「いかんいかん 少し話をしすぎたようだ あんまり油売るとばあさんに怒られるん でな」そう言うと 彼はギターを抱えてゆっくりと立ち上がった。 僕は少しの間 椅子を見ていた。「やっぱり気に入った」 夕方の日ざしがその椅子を黄金色に輝かせていた。 それからと言うもの 僕は毎日 その店の前を通る様になった。 椅子は主人の言う通り、ずっとそこに置かれていた。 「こんにちは」 ある日の夕方 そこを通ると主人がギターを弾いていたので、僕は 挨拶をした。 彼は黙って顔をあげ 僕の顔を見ると「ああ」と小さく言葉を発した。 「この椅子の話 続きを聞かせてくださいよ」僕は椅子に模様を描いた女の子の事が 気になったので聞いてみた。 「椅子の話? ああ そういえばこの前の・・・」彼はやっと僕の事を思い出した様 だった そしておもむろに話し始めた。 「二人は結構長いこと 一緒に暮らしていたんだ あっ この椅子の持ち主の話なん だが・・・」始め僕はびっくりした 椅子の事といいながら女の子の事が聞きたかっ た僕の気持が見透かされているのかと思った。彼は続けた。 「だが ある日から二人で歩く姿をぱったりと見なくなった いや 何があったのか は わたしは知らんが、とにかくいつも別々に見かける様になったんだ。そして 彼 のほうは見なくなった 彼女も店を開けている時間には あまり通らなくなった。ま るでうちの店を避けているかのようにな・・・」 主人は深くため息をつき ギターを置いて立ち上がった。 「この椅子は 君が来た日の三日前にその子が持って来たんだ 一つになったからっ て もういらないからってな。 わたしはなにも聞かずに預かった。 買い取った んじゃないぞ 預かったんだ もう一度あの子が取りに来る日までな だからこの 椅子は誰にも売らないんだ。そしてここにいつも置いておく事で、うまく言えないが 彼女の戻れる場所を作っているつもりなんだが・・・」 「彼女は売るんじゃなくて 預かってくれって言ったんですか?」 「いいや わたしが勝手にやっている事だよ あの子は売ったつもりだろう。 だがね、若い頃はみんな前だけを見て走るもんだが、大事な時は振り返って 後戻り したっていいと思うんだ。 何年も一緒に暮らす程、愛し合っていたなら いつかも う一度やり直す事だって出来ると思うんだ。そしてその時はもっといい関係になるん じゃないかってな・・・」 僕の心の半分は余計なお世話だと思った。残りの半分は、この老いた主人のやさしさ に感激していた。 日はどっぷりと暮れていた。僕は主人に挨拶をして歩きはじめた。 家に着くまでの間 僕はずっとその椅子の事を考えていた。 あの椅子は気に入ってるけど 今は収まりのいい所にあるのだと 自分に言い聞かせ た。 椅子は店の前で 二つの季節を越した。 その間に僕はその店の常連になっていた. そして主人と話をするうちに会った事のない椅子の彼女を好きになってしまった。 これは不思議な感覚だった。 十二月の寒いある日 いつも開いている古道具屋のシャッターが閉まっていた。 僕は少し気になったがそのまま通り過ぎた。 翌日も、その次の日もシャッターは閉まったままだった。そして三日後、その年初め ての雪が東京に降った朝、古道具屋のシャッターにひっそりと喪中と書かれた紙が掲 げられた。 亡くなったのは主人だった。 僕は短い付き合いではあったが葬式に参列した。 初めて見る夫人は涙は流さずただじっと遺影に向かっていた 二人には子供は無かった様で棺の前に座る人も少なく 町内会から届けられた花輪の セロファンが物悲しく鳴っていた。 店が開いたのはそれから十日経った一月六日の朝だった。 僕は店の前に立つと 例の椅子の横に見慣れない革の旅行鞄を見つけた。 それはかなり古い物で握り手の所が壊れかかっていた。 「これは売り物なんですか」僕は店の奥に居る夫人に声をかけた。 この店には売り物でない品があるからだ。 「欲しければ売ってもいいよ」夫人はちらっとこちらの顔をうかがう様にして無愛想 に応えた。 僕はその鞄を手に取り壊れかかった鍵を開けてみた。 するとそこにマッチ箱がひとつ取り残されていた。それは伊豆臨海と書かれていた 。 電話 伊豆局1023 おそらく昭和初期の旅館のものだろう。僕は声をあげた「うわ っ これは古いなあ 伊豆臨海館だって」 その声を聞いて 奥から夫人が現れた。 「なんだって? 伊豆?」 夫人はずりさがった眼鏡を左手で上げながら 僕の手元を のぞき込んだ。 「ああ ここ・・・」夫人の表情が柔らかくなった。「ここはあたしと、死んだじい さんが初めていった旅館だよ。残ってたんだ こんな物がね 」 夫人は懐かしそうにその小さな紙の箱をながめながら さらに続けた。 「結婚して二年はお金が無かったから 新婚旅行じゃ無かったけど、二人で初めて三 年目の結婚記念日に行ったのよ。この鞄はその時の物。 マッチ箱 出し忘れていた んだね 」 「じゃあこの鞄は仕入れて来た物じゃないんですか? でも そんな思い出深い物を 売ってしまっていいんですか」 「思い出深いから 処分するんだよ。 じいさん亡くして まわりに思い出ばっかり 残ったら、見てるだけで辛くなっちまうじゃないか・・・古道具って、どんなもんで も使った人の思い出が詰まってるんだよ。だからね よくじいさんが言っていた こ の店は、みんなの思い出のふきだまりだって・・・」 「みんなの思い出のふきだまりか」僕は解る様な気がした。 「この椅子も きっと置いておきたく無かったんだろうなあ自分の所に・・・ 」僕 はつぶやいた。 「そうだろうよ、二人の思い出、いっぱい詰まってるだろうからね。 あっそうだ、 あんただよね この椅子欲しがっていたのは。」夫人はすぐに気を取り直して聞いて きた。 「そう ぼくです」 「やっぱり売れないねぇ じいさんとの約束だから。 じいさん好きだったんだよ、 あの二人の事が。 じいさんは信じたかったんだよ もう一度やり直して二人でこの 椅子を取りに来るって。 あたしはたぶん来ないと思ってるけど、じいさんが最後ま で気にしてた事だから もう少しここに置いておくから・・・」夫人の意志は堅かっ た。主人への愛情を強く感じた。 「いいですよ。僕はここに通い詰めて毎日眺めますから、」僕はいやみでなくそう思 った。ここまできたら長い目で 見守っていよう 僕はそれから毎日立ち寄る事にした。 あらためて見ると他の物達も みんな いと おしく思えてきた。 僕はやがて暇があれば店の物の修理もするようになった。 冬の、ある日曜日 僕は少し離れた街の友達の家に向かっていた。 古いアパートの続く上り坂を歩いていると おそらく引っ越すのであろう 沢山の道 具を粗大ごみ置場に運ぶ青年を見た。 僕はそこで見覚えのある物を目にし 驚いた。 それは、ばらばらに壊されてはいるものの 紛れもなくあの椅子の背もたれの板だっ た。 僕は走り寄り青年に聞いた。 「あの これ もらっていいですか?」 「えっ これですか この壊れた椅子ですか?」彼は不思議そうに聞き返した。 「そうです これ」 「もちろん、粗大ごみに出すために ばらしたぐらいですから、どうぞ持っていって ください。 でも どうしてこんな物・・・」 「こんなもの ですか」僕は少しムッとして 最後のことばを聞き返した。 「えっ あっ この椅子の事何か知っているんですか?」彼は戸惑いながら答えた。 「あっ すみません つい・・・」僕は、僕自身の事情を話す事にした。 椅子のかたわれを古道具屋で見つけた事、それを気に入って欲しがったが売ってもら えない事、そしてこの椅子のいきさつを知った事。 彼はひとしきり僕の話を聞いた後、ポケットからタバコを出しながら口を開いた。 「そう 確かにこの椅子は二人で使っていた物です。私達二人が一緒に住んでいた二 年半の間、ずっとダイニングに置いて有りました。彼女が模様をかいたので、私は気 に入ってました だから今日まで持っていたんですけどね、」 「でも それを捨てようとしてる・・」 「まあね、ずっと考えていましたよ いや待っていたのかな もう一度彼女がこの椅 子のかたわれを持って、私のもとへ戻ってくるのを・・・」 彼はタバコの煙を大きくはきだしながら続けた 「私は、諦めが悪いですからね、でも彼女はとっくに古道具屋に出してるんでしょ、 まっそれを聞いてぎゃくに少し楽になりましたけど。」 「えっ」僕は聞き返した 「次の恋がはじまったんです 私に」 「あっそうですか」僕には その言葉しか出せなかった。 僕は本来の目的だった友達の用件を早々に切り上げ、ばらばらになったその椅子を 持って家に戻った。 改めて見ると、椅子は見事なほどに壊されていた。木と木の接合部はことごとく折り とられ、ほぞの所にささくれだったものが残っていた。 部品もいくつか足りないので改めて脚の部分は作り直すことにした。 椅子の修理は一から作りだすよりも、手間がかかった。できるだけ元の状態に戻した かったので、図面をひき 何日もかけて一本の部品を削りだした。 休日のほとんどは椅子作り、 そんな暮らしが二か月程続いた。 桜の花が丁度満開に咲くころ 椅子は完成した。 それは、僕の部屋の中での 一番の宝物になった。 僕は椅子に合うダイニングテーブルをあの店で買った。 しかし大きなダイニングテーブルに 椅子が一つ、というのはどうもバランスが悪く 椅子もかわいそうな気がした。 その夜、僕は大きなダイニングテーブルで一人 酒を飲み続けた。 FMラジオから、何かの映画主題歌だったサムウエアー アウト ゼアという曲が流 れていた。「いつか、どこかで、きっとあなたと出会える」たしかそんな歌詞だった と 酔った頭で考えていた。 「出会いに偶然は無い」誰かがそんな事を言っていたが本当に奇跡の様なことが数日 後に起こった。 いつものように店にいると、若い女の子が店の奥に飛び込んできた。それは、まさに 飛び込むという形容があてはまる ばたばたとした感じで現れたのだ。 「あのー すいません、表の椅子なんですけど、どうして、あの、まだ売れてないん ですか、」矢継ぎ早に話す彼女のことばに夫人がびっくりして奥の部屋から顔を出し た。 「ああ ああ あんたかい」夫人はすぐに彼女の顔を思い出して話しはじめた。「あ の後主人が死んだんだけど、主人は最後まで この椅子はあんたがもう一度引き取り に来るからって、売っちゃいけないって言っていたんだよ。 本当にそれが最後の言葉だったからね、 だからあの人がいた時のまま、いつも店の 前に置いて、あんたが見つけやすいようにしていたんだ。」 「あっ あなたが・・・」僕は言葉を発したが二人には聞こえない様だった。 「私は、この椅子は思い出が多過ぎて見ているのが辛いんです。だから どうか早く 処分してくれませんか。」 「いいのかい この椅子はもしかしたら あんたの戻れる唯一の場所なのかもしれな いよ、この椅子が彼とよりを戻すきっかけになるかもしれないんだよ、 もう 思い 出として捨ててしまって本当にいいんだね。」夫人の言葉に彼女は 自分と自分の言 葉を失った。 うつむく彼女のつま先に光るものが落ちた。 「余計なことかもしれないけど」重い空気をおして 僕は彼女に話した。 「この椅子はあなたの作品なんだから、あなたがもう一度引取ったらどうですか」 「でも、一つしか残っていない。この椅子は二つ対で絵をかいたのに・・・」 「もう一つは?」 僕はあえて彼女に聞いた。 「もとの彼が、出てゆく時に持っていった。今はどうなっているか・・・」 「男は思い出を残したがるけど、女は捨ててゆくからね。 でも、時期が来ると男も、 思い出を整理する事が出来るようになるけど」 「いえ、 女だって残したいのかもしれない。だけど残しちゃったら ずっとずっと その思い出の中から出られなくなってしまうって、そんな弱い自分をわかってるから、 だから無理に捨ててゆくんだと思う。」 彼女の言葉で、僕は少しだけ本当の事がわ かったような気がした。 「ほんと、そうだよねえ・・」夫人もためいきまじりにぽつんと言った。 「ところで」僕は椅子に話をもどした。「それじゃあ 僕がこれを譲ってもらってい い?」 「いいですよ 私は、」彼女は答えた。 「ずっと この椅子、欲しい欲しいって言ってたからね。うん 椅子も本望かもしれ ないね。」 夫人がそう言うと、彼女はびっくりして僕に聞いた。 「えっ、この椅子がそんなに気にいったの? 」 「はじめて見た時から ずっと」 「どうして ? 」 「いかにも手作りで、作り手の心が僕にも伝わってきたし、 作り手そのものにも興 味を持ったから 」 「・私の事? 何が? 」 「ここの亡くなった主人から話を聞いていたんだ。二人の事とか、 だから会ってみ たかった。そしてこの椅子、僕はずっと欲しかった。」 彼女は顔を、少し赤らめながらうつむいていた。 「じゃあ、この子の気が変わらない内に早く持っていきなさい。」夫人が言った。 本当は自分の気が変わらない内にと言いたかったのだろう。 僕はもう少し話をしていたかったが、最後に挨拶をしてその場を離れた。 「それじゃあ また、」 そう、また会えたらいいと思いながら 僕はその椅子を持ち帰ると、もう一つの椅子の向かい側に置いた。 二つの椅子は数か月ぶりに 僕の部屋で再会した。 僕はその椅子には座らず、黙って見ている事にした。まるで、若いカップルをそっと 見守る年配者のように。 その日持ち帰った椅子は、かなり色あせていた。長い間あの店の前で、街の埃をあび つづけたからだろう。同じ時に作られた椅子とは思えない程、もう一つの物とはちが って見えた。しかし、それには僕の手を入れたくは無かった。 なぜなら、街の埃と共に何人かの人の想いが、そのまま残っているから・・・ 僕は部屋の入り口で、立ったまま酒を飲んだ。「さあ 語るがいい 思う存分、僕は 邪魔しないから。」そう心の中でつぶやいた。 月日は日常の忙しさのなかで瞬く間に過ぎていった。 僕の暮らしに 二つの椅子は無くてはならない物となっていた。 そんなある日・・・ 喧噪の止まない夜の街で、僕は小さな人だかりを見た。 それは見覚えのある男と 僕は知らない女の子の口げんかだった。 始め僕は、それが誰だか思い出せなかったが、人だかりの輪が何重かになった時、そ の顔を思い出した。 壊れた椅子の元の持ち主だった。 「だったら勝手にすればいい 俺はもう知らないから」吐き捨てるように彼が言うと 「わかったわ」と彼女は何かを歩道に投げつけながら言い、去って行った。 道に落ちた何か は、鍵だった。それを彼は拾いながら立ち去ろうとした時、僕と目 が合った。 「あっ」と彼はつぶやきながら頭の中で検索していた。僕は自分から名乗る事にした。 「以前、壊れた椅子を譲ってもらった者です。」「あっ」もういちど彼はつぶやいた。 人の輪は、あっというまに散っていった。 「ひさしぶりですね、良かったら一杯どうです? あの椅子のお礼に僕が驕りますか ら ・・・」 僕は何となく彼と話がしたかった。 「えっ・・」彼は初め驚いた様子だったが、彼もやはり誰かと話がしたい気分だった のだろう すぐに「いいですね、行きましょう」と、僕の顔をしっかり見ながら答え た。 狭い路地に面した小さな焼き鳥屋は、換気が悪く むせかえる様な煙に包まれていた。 それでもその店を選んだのは、この街には珍しくカップルや、女性客がほとんど来 ない 男の聖域といった感じの所だったからだ。 石川さゆりの演歌が小さな音で鳴っていた。 「あれから あの椅子直したんですよ。」瓶のビールを互いに注ぎ合った後、僕の方 から口を開いた。 「ああ、あれを・・・」彼はさめたそれでいて懐かしそうな目をして、小さい声で答 えた。 僕は椅子の話を続けたかったが、今の彼には聞こえない様だった。 彼がたった今別れた女の子の事を話したがっているのが僕には手にとるように感じら れた。 「女ってどうして ああなんでしょうね、 突然ですよ、怒りだしたの。もう見境な いっていう感じで・・・」彼の話は抽象的過ぎて、僕は答えにこまった。 それでも彼は、話し続けた。 「初めはみんな、こんなじゃ無いって思うのに・・・なれからくるのかなあ、 怒りっぽいですよねえ」 「でもなれって、お互いですよね。男もなれて優しくできなくなったりする。」 「うん そうかもしれない。相手もどんどん怒りっぽくなるし、こっちも冷たくなっ てくるし・・そうやって深みにはまっていっちゃうんだ。」 「そうじゃないパターンってあるんですかね」僕の言葉で彼は何かを思い出した様だ った。 「そういえば、あの椅子の子はちがってた・・・」 「もしかしたら錯覚かもしれないけど、彼女とは最後までそんな風にはならなかった と思う。お互いに思いやっていたんじゃないかって」 僕は不思議に思った「そんな二人なら どうして別れてしまったんですか?」 「思いやって暮らしていても かみあわなくなってしまったんですね、なにかが・・ ・生活のサイクルですかねえ いやあ違うかなあ よく分からないけど いろんな事が、少しづつ ずれていったみたいで、気が付くと思いやりはあるけど、 愛情が見えない そんな日々を過ごしていたんですね」 「それで 二人は話し合って別れたんですか」 「ええ 別々に暮らそうと、彼女から言ってきてね・・・」彼は瓶の底のビールを自 分のグラスに注ぎながら話を続けた。 「でも すぐにふんぎりが着かなかったから、彼女の手がかかってたあの椅子を 一 つだけ持って別れたんです。」 気が付くと店内は、満席になっていた。 「今はどう思っているんですか?」僕はつい気になって、愚問を発してしまった。 「さあ 今 別の女と別れたばかりで、なにも考えられません」 僕たちは互いの連絡先を交換してその店を出た。 「また 飲みましょう」約束ともつかない約束をして二人は別れた。 それからさらに時がたった。 相変わらず 僕はあの店に通っていた。 そして、椅子の女の子とも何度か顔を合わせるようになり、仲よくなるのも自然な事 だった。 彼女は僕をまるで兄のように思い、よく電話をかけてきては相談事を話す様になった。 兄のように思われている僕も恋愛対象として見る事もなく 彼女を妹として扱った。 そして古道具屋では、夫人がまるでおばあちゃんのようで、三人で居ると、はた目 では本当の家族に映っていた。 いろんな話をするうちに、彼女はいま、この街から駅三つばかり離れた所に一人で住 んでいることや、あれ以来 誰とも付き合っていない事など、彼女の生活ぶりが見え る様になってきた。 「どうして彼氏、つくらないの」ある時、僕は彼女に聞いてみた。 どうも僕は余計な事を聞き過ぎる。自分で分かっていながらつい、いつも口から出て しまうこうした質問に、いやになりながら彼女を見た。 「さあ・・・あの人以上の人が現れないから・かなあ」彼女は首を斜め後ろに傾けな がら答えた。 「それじゃあ、元にもどればいいじゃない」 「あたしの家にね ぜんまいの目覚まし時計があるんだ、それがね 8時25分で止 まってるの、最後に巻いたのが別れる前の日 それからずっと止まってるんだ。二人 でいた時 毎日巻いていた時計なんだけどね、」 「えっ 何?」 「止まった時間が長過ぎて、もう一度ぜんまい巻いても もしかしたらもうその時計 動かないんじゃないかなって・・・」 僕はやっと彼女の言いたい事がわかった気がした。そして反論した。 「この腕時計ね デットストック物で20年前のものだけど、買ってぜんまい巻いた らすぐ動きだしたよ。20年ぶりにね.」 彼女は笑いながら「そうじゃない 比喩よ」とまるで僕が何も分かっていないと言い たげな口調で語った。 もちろん、僕もわかっていたが、僕は僕でこの時計の事を話したかった。20年止ま っていても、ぜんまいを巻いたら、何もなかったかの様にちゃんと動きだすんだって 事を・・・しかしそれは、通じていない様だった。 その夜、僕は二つの事を考えていた。 一つは古道具屋の夫人を連れて伊豆に行こうと考えた事。もう一つは、あの二人をも う一度結び付けることができないかという事だった。 一つ目については、意外に早く実現できることになった。古道具屋をお盆休みに閉 めると、夫人が言ってきたからだ。 それまでは、お盆でも何日かは店を開けていたのだが さすがに張りあいが無くなっ たのか「今年は四日間続けて休もうと思う」ともらしたのだ。 僕はその言葉を聞きすぐに言った「じゃあ、温泉でも行きましょう。良かったら一緒 に・・・」 夫人は予想していなかった展開に少したじろぎながらも「いいねえ、温泉も」と想い をはせているようだった。 僕はすぐに伊豆の観光ガイドを買って臨海館という旅館が現存するのかを調べた。 そして その名をみつけた。 ガイドブックに載っている写真は、とても臨海館と言う名にそぐわない近代的な、コ ンクリート造りの建物だった。 それでも僕は見つけた事が嬉しくて、誰かに言いたくなり椅子の彼女に電話をした。 鞄の話を知らない彼女に僕は、一から伊豆の話を説明しながら、ふとひらめいた。「 そうだ、一緒にいかない? どうせ僕とおばあちゃんは、別の寝室にしようと思って るし、二人より三人のほうが楽しいし・・・」 彼女は二つ返事で「いくいく 楽しそう・・・」と答えた。 当日まで僕は夫人に目的地を知らせないまま、事を進めた。 アクセスも列車ではすぐに判ってしまうのでレンタカーを借りる事にした。 晴れた気持のいい朝、僕たちは出発した。 伊豆臨海館は写真以上に大きな姿で そびえ立っていた。 しかし 夫人は周りの風景を見ただけで、そこが臨海館だと気が付いた様だった。は じめ懐かしそうに目をほそめ、建物に目をやると大きく見開いていた。 「これは、もしかして、あの臨海館かね」夫人が僕に聞いた。 「そうですよ 臨海館。どうせ旅行するならと思って探したんですよ」 「あんたもよく覚えていたねえ 人の話を・・・」 「あの日以来、思い出のふきだまりのあの店が、僕の一番好きな場所になった位です からね。忘れませんよ。」僕がそう言うと同行した彼女が口をはさんだ。 「思い出のふきだまり?」 「そう 思い出のふきだまり。」それだけ言うと僕は車を広いエントランスに着けた。 「いらっしゃいませ」はじめ仲居さんに見間違えたその声の主は、若おかみだった。 それは僕にとって、少し残念な事だった。なぜならここで 夫人の足跡を見つけよう としているからだった。しかし若おかみでは、昭和初期の事は判らないだろう。 ぼくは、宿帳に名前を書きながら、若おかみに聞いた。 「この宿帳は、昔の物も残っているんですか?」 「ええ 創業当時から残してあると、先代から聞いております」 僕はそっと耳打ちした。「それじゃあ、お願いがあるんですが・・」 僕たちが部屋で一服していると、若おかみが手にいっぱいの荷物を持って現れた。 それは、昭和初期の宿帳と 古いアルバムだった。 「見つけましたよ、お客さん。」若おかみは、僕の顔を見るなり嬉しそうに言った。 そしてまづ宿帳を広げだした。 「どうしたんだね?」夫人がのぞきこんだ。 昭和八年九月の宿帳に確かに古道具屋の主人の名と夫人の名が連なっていた。 夫人は宿帳をしっかりと握りしめ、それを確かめていた。 若おかみは、しばらく黙って見ていたが、やがて口を開いた。 「それだけじゃ無いんですよ・・・その頃はまだお客様も少なかったので、ほぼ全員 のお客様の写真が残っていたんです。 こちらです。」 「写真?」夫人が顔をあげた。 三冊に別れたアルバムの背には、昭和八年九月と書かれていた。 僕たちは、一枚一枚そのセピア色に変色した写真を見ていった。 「すごいですね、この頃は写真だって高かったでしょうに・・・」僕がそう言うと、 若おかみはうなずきながら「はあ なんでも、先先代が写真好きだったそうで、まめ に撮っていたようです。」と言った。 夫人が声をあげた。 「これ」 僕たちには判らないが、それは二人が写っている写真だった。 他人が面影を探すのが難しいほど、歳月は流れていた。 しかし、夫人には昨日の事の様に、思えているのだろう、 「ああ、これは帰る日の朝だ。それまで雨が降っていたんだが、写真を撮ろうという 話になった時、急に晴れたんだ。 そうそう・・・」懐かしそうに写真を見ながら誰 に話す訳でもなくつぶやいた。 夫人はずっとその写真を眺めていた。 「あなたって いいひとだね」夫人が休んだあと、二人で居ると、彼女が外を見な がら言った。 「いいひとじゃないよ、自分がこうしたかっただけだよ。 余計なお世話が好きなだ け・・・」僕は正直に答えた。 「どうして、ひとの事にそんなに、むきになれるの?」 「さあ どうしてだろう・・・自分にとって大事な人には、悲しんで欲しくない、楽 しそうな顔を見ていたい そう思っているからかもしれない。」 「じゃあ おばあちゃんの事、大事なんだ」 「もちろん でも同じ位大事な人があと二人いるんだけど・・・」 「あと二人って?」彼女が のぞき込むようにしながら聞いてきた。 「君と元の彼氏」 「えっ」 「君と元の彼氏・・・」僕が改めて言うと、彼女はたじろいだ。 「僕は できることなら二人にやり直してほしいと思ってるんだ。」 「・・・」 「もう一度、君の目覚まし時計の ぜんまいを巻いてみない?」 「時間が経ち過ぎて・・・」 「じゃあ せめて、もう一度会ってみたら?」 「会うすべが無いもの」 「会うすべがあれば 会ってみたいの?」僕のしつこい質問に、彼女はへきへきとい う感じで答えた。 「判らない・・・自分の気持だって判らない」 「ごめん ついついこんな風に言っちゃう、悪いくせなんだ」僕はあわてて謝った。 「ううん、気にしないで・・・ねえ 昼間言ってた思い出のふきだまりって何?」今 度は彼女から聞いてきた。 「思い出のふきだまり ? ああ、あの店の事、古道具って使っていた人の思い出が 詰まっているから、さしずめあの店は、みんなの思い出のふきだまりだって言う話」 「みんなの思い出のふきだまりか・・・」彼女も僕が初めて聞いた時と、同じ言い方 をした。 「そう、みんなの思い出のふきだまり。だからあの店が好きになっちゃったんだ。そ して僕は、その思い出の切れた糸を紡いでいる・・・」 「今日みたいに?」 「そう 今日みたいに・・そしてこれからも・・・」 僕はその時決心した。 二人をもう一度会わせることを 一泊二日の小旅行は夫人の感謝の言葉でしめくくられた。 「いやあ ありがとうね、 こんなに嬉しい事はもう死ぬまで無いと思っていたよ」 「そんな まだまだありますよ、これからだって、」 本当は、どうか判らなかったが、これで終わりだなんて 思いたくもなかったし、思 っても欲しくなかった。 旅行が終わって少し経ったところで 僕はもう一つの計画に着手した。 それは、彼に連絡することからだった。 「もしもし、あの、僕、壊れた椅子をいただいた今井と言いますが・・・」 「ああ、この前はどうも・・・ごちそう様でした」彼はすぐに僕の事を思い出した。 「実は また良かったら飲みたいなって思ったんですよ。」 「うん いいですね 」「男二人では、味気ないですか?」 「いえ そのほうが気楽でいいじゃないですか」 彼が快諾してくれたので その電 話ですぐに予定を決めた。 二人が知っている店ということで、二十年も前からある老舗のロック喫茶で待ち合 わせ、そのままそこで飲むことにした。 トム ウエイツのクローズィングタイムが、優しく流れていた。 タバコの煙の向こうで 彼は柔和な目をしていた。 「その後あの人とは、どうなりました?」僕が聞いた. 「あの人って・・ああ、喧嘩した彼女ですか、」彼は少し間を置いた後、話をつづけ た。 「あれっきりですよ。」 「その後、新しい人はできました?」 「いえ でも何か気楽でいいですよ、いつも一緒にいると自分だけの時間がなかなか 取れないけど、今は結構、いろんな事が出来る。」 彼は本心からそう言っているようだった。 「はあ そうですか、私はこの何年もずっと一人だから 分からないですけどね」そ う言えば 僕は、ほんとにずっと一人だった。 改めて考えてみると、どうも世の中には、二通りのタイプが居るようだ。 一つは、別れてもすぐ新しい相手ができるタイプ、もう一つはほとんどいつも、 相手がいないタイプだ。 僕はどう考えても後者だと、自分でも感じた。 僕が一人で考え込んでいるのを見かねて彼が今度は聞いてきた。 「あなたはどうなんですか、彼女とかは・・・」 「いえ、全然、何故かわからないけど、彼女にならずにみんな友達になっちゃうんで すよ。」恥ずかしそうに話しているのが自分でも分かった。 「でも、その方がいい事だってあるんじゃないですか」 「そうですね、女の子の本音が聞けるってとこですかね・・・彼氏には言わない事と かを相談される。」 「うらやましい・・聞いてみたいですよ本音を 」 彼は本心からそう言っていた。話が僕の事ばかりになったので、軌道修正を試みた。 「あの、椅子の子とは、どうなりました? 」 「えっ ああ・・別に何も・・・」彼は困惑した様子だった。 「もう一度戻りたいとかって、思いませんか?」 「さあ、考えた事がないですね、あの子の事は、もしかしたら今でも好きかも知れな いけど、一度壊れた関係をもどすのって、難しいでしょ」 「はあ、」僕はそれだけ答えた。 少しの沈黙が、とても重く感じた。 「ところで、突然で恐縮なんですけど、会ってほしい人がいるんですけど、」 「はあ? だれですか? 」 「僕の妹分・・・なんですけど」 「はあ 本当の妹さんですか」 「いえ 血の繋りの無い妹なんですけど、とってもいいやつで、」 「だったら自分が付き合ったらいいじゃないですか」不思議そうに彼が聞いた。 「初めはちょっとそう思ったんですけど・・・相手が自分じゃないって、分かる事っ てあるじゃないですか、だから僕は、兄のような友達っていうスタンスでいることに したんですよ。」 彼は、うなずきながら聞いていた。 「それで 僕はあなたに一度会ってもらえないかと思ったんですよ。」 「はあ 分かりました。でも別に彼女候補ってことじゃないですよねえ? 」 「もちろん そんなつもりじゃないんですけど、友達 多い方が楽しいでしょ」僕は 少しだましているみたいで、罪の意識を感じた。 「分かりました。じゃあ機会が有ったらということで、」 その後二人は取りとめの無い世間話をして、酔いの回らないうちにその店を出た。 家に帰った僕は、久しぶりに二つの椅子をシリコンオイルで磨いた。 そして、自分で直した方の椅子に座り お気に入りのCDをかけ、酒を飲んだ。 それは、僕にとって別れの酒を意味していた。 日常に忙殺され1週間が、過ぎていった。 9月の風が、さわやかに、街を吹き抜けはじめた。 僕は二人に電話をして、待ち合わせの約束をした。 渋谷の、とある喫茶店で次の木曜日、9時半に・・・ その店は10時閉店なのだが、僕の仕事がどうしても終わりそうもない と言うこと でその時間にした。 二人には、それぞれが来る事は、言わなかった。 僕はその日、そこへは行かなかった。 その夜の事は、僕は知らない。 ただ、僕の留守電に「ずるいー」とだけ楽しげな声が入っていた。 次の日曜日、僕は二つの椅子を持ってあの古道具屋に行った。 そして夫人に、彼らが欲しいと言った時だけ、この椅子を譲って下さい とお願いし た。 僕はマジックでW売約済Wと書いた紙を片方の椅子に貼って、店を出た。 二週間後 彼女の方から電話があった。 彼女は泣いていた。そして「ありがとう・・・」とだけ、やっとの思いで言って電話 を切った。 翌日店の前を通ると 二つの椅子があった所には、真新しい冷蔵庫が置かれていた。 僕の部屋は、また寂しくなったが、心の中には暖かな物が満ちていた。 「又 椅子探さなきゃ」 僕はつぶやいた。 1996, Mご意見、ご感想をぜひメールでお寄せ下さい。hishida@gol.com
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