駅
駅
下山琢己は、昔から几帳面で慎重な男だった。
部下の提出するリポートの送り仮名の間違いも見落とさず、書き直させる、
そんな性格だから、朝は新聞のすべての記事に目を通し、駅では電車が
来る前に、自分の後ろを振り返り、安全を確認していた。
「ちぇ、又自殺かよ、俺が乗った後の電車だから良かったけど、どうして
中央線は、自殺が多いんだ」新聞の小さな記事に目をやりながら、朝食の
支度をする妻の背中に、聞くとも無くつぶやいた。
「さあ、こんな時代だから、みんな仕事で疲れてるんじゃない」
「自殺なんてするやつは、周りの迷惑考えない自分勝手な人間に決まって
る。仕事で疲れてるなんて言うのなら、俺だって、毎日へとへとだよ」
「そうね、でも、あなたは自殺なんかしないものね」
長年連れ添った夫の性格を、妻はよく知っていた。問題が起きても、自分
が死を選ぶというロジックが働かない男だという事を。
駅のホームには、いつに無く、人がごった返していた。
「やられた。」下山は言葉を吐き捨てた。
喧騒の中、かき消されそうなアナウンスが聞こえた「7時50分頃、三鷹駅
で起きました人身事故の影響で、中央線は全線止まっております。お急ぎ
のところ…」
「また、はた迷惑な奴が出た。ったく、なんでこの忙しい通勤時間を狙っ
て、飛び込むんだよ。」彼は苛立った。
彼の乗る武蔵境という駅は、全く振替え輸送の利かない駅。ひとたび中央
線が止まると、再開をただ待つしかなかった。
20分後、ようやく到着した上り電車は、とてもホームを埋め尽くす通勤客
を収容することは出来なかった。
下山も、他の多くの客と共に、そこに取り残された。
「ばかやろう、なんでこんな所で死にやがる。」下山の苛立ちは頂点に達
した。
アナウンスが、何かを伝えているが、彼の耳には伝わらなかった。
次の電車には必ず乗ろうと、列の先頭に立っていた彼の目の前に、列車が
滑り込もうとしていた。
反射的に後ろを振り返った時、先頭車両が目の前を通過した。
「俺が…」
下山の耳に、電車の方から男の声が聞こえた。
彼が電車の方に向き直った瞬間、奇妙な事が起こった。
10両編成の列車の、4両目だけが一両分ぽっかりと消えて進んで来て、
目の前に向かい側のホームが見えた。
その時、はっきりと声が聞こえた。
「俺が、死ぬはずはない。」
下山は5両目が来る前に、何者かに足首を捉まれ、線路の方に
引きずり込まれた。
そして5両目に轢かれた。
かれは、最期の瞬間思った。「俺が、俺が死ぬはずはない。」
山中忠志は、傲慢だが慎重な男だった。
「くそ、又自殺かよ、俺が乗った後だから良かったけど、どうして中央線
は、自殺が多いんだ」新聞の小さな記事に目をやりながら、コーヒーを入
れる妻の背中に、聞くとも無くつぶやいた…
2006/7/24 M
ご意見、ご感想をぜひメールでお寄せ下さい。hishida@gol.com
Back to MainPage